Lay Down Your Arms 地鳴りが響く。あちこちから沸き上がるのは、鬨の声か、それとも嘆きの声か。
淀んだ水を蹴立てて、また突進してくる者がいる。ぐずぐずに肉が崩れて、骨もところどころ見えているというのに、力だけは熊みたいに強い。
――うんざりだ。
渾身の力をこめて殴ると、顎が吹っ飛んで、そいつは仰のけに倒れた。しかしものの十も数えぬうちに、また元通りになって襲いかかってくるのだから、始末に負えない。
そもそも、ここはどこなのか。赤黒い虚空を仰ぐと、その果てに岩肌のようなものがぼんやりと見える。だとすれば、おそらく地下なのだろう。
――死後の世界が地下にあるだなんて、あまりにありきたりじゃねェか。
ひきつった笑みが浮かんだ瞬間、首筋に衝撃が走って、視界が回転した。背後から斧でもくらったか。首を落とされ、胴もずたずたに斬られたらしい。
濁った水しぶきの中に呑み込まれる。しばらくするといつものように、胴の傷はふさがり、首も勝手につながったようだ。しかしビョルンはしばらく、浮かぶに任せておくことにした。ここですこしでも安息を願うならば、こうするよりほかにないのだ。起き上がったが最後、まだどこの誰とも知らぬ者に斬りかかられ組みつかれ、果てしない戦いに巻き込まれる。
はらわたに届く重傷を負って、長くは生きられぬと悟り、望みどおり彼に送られて果てたはずだった。しかしふと気づいてみると、こんなところにいた。死後の世界であることは確かだが、ヘルヘイムとは違うようだし、そもそも周囲で蠢いているのはどうみても、戦士のなれの果てばかりだ。だとすれば、ここはやはりヴァルハラなのだろうか。
――……にしても、話が違いすぎるぜ。
虹の橋を越えたおぼえはないし、戦乙女などどこにもいない。戦士の魂は歓待されると聞いていたが、ここにあるのはただ、生前と変わらぬ戦の狂乱だけだ。
――いや、もっとひでェな。
生きている者たちの戦争は、死ねばそれで終わりだ。しかしここでは全員が死人だから、終わりなどあろうはずもない。最終戦争のための戦闘訓練などという誉れからはほど遠く、腐肉をまとったおぞましいけだものが、ただひたすらに喰らいあうだけの、不毛な泥仕合。手足をもがれても頭を真っ二つに割られても、耳障りな甲高い笑い声をあげて、いったいなにが楽しいのか。
最初は襲いかかられるまま、応戦していた。いつしか意識が混濁して、その間は自分もあんな姿になっているのかもしれない。しかしどうしたものか、時折正気に戻るのだ。そしてそのたびに、ここに自分が落とされた意味を考える。情けなくて、涙が出てくる。
――ヘルヘイムだろうがヴァルハラだろうが、どっちでもいいさ、もう。
耳の奥で、懐かしい声が笑う。事実だと証明できない神話なぞ、信じるのは馬鹿らしいと。まったくそのとおりだ。それにもともと、信心など持ち合わせてはいない。フレイ神にどれほど祈っても、神々は故郷の村を冷害から救ってはくれなかったのだから。
――戦乙女だって……俺にはどうでもよかったんだ。
そんな来るかどうかもわからぬ女など、待っているだけ無駄だ。ほしかったのは、ただひとりの心。うっとりするような笑顔を誰にでも振りまくくせに、誰をも信じず、目もとに人知れず孤独の翳を溜めていた男の心。彼に教えられた文字で、彼の名前を綴ってみせたときのことが、ふと脳裏をよぎる。それ以来、満たされぬ想いに胸が疼くとき、彼の名前を指先で綴るのがくせになった。
右手の指先を最初の文字のかたちに動かした、そのときだった。その手をいきなり掴まれ、水の中から強引に引き上げられたのだ。
――やめてくれ。このまま休ませてくれ!
とっさに、足許に落ちていた鉈を拾った。目の前の人影に向けて振り下ろすと、重い手応えとともにくぐもったうめき声が上がった。妙だな、と思った。ここにいる死体どもを刺したところで、いつもはこんな生々しい手応えはない。
「ッ痛ェな、何しやがンだビョルン、だしぬけに!」
――え?
ぎょっとして目を見張り、相手を見定めようとした。しかし例によって崩れた肉が斬りかかってきて、慌てて身を躱す。するとまた、右手を強く掴まれた。翳の中から、こちらをひたと見つめるうすあおの瞳に捉えられ、瞬間呼吸を忘れた。
「……アシェラッド……!」
「やっと気がつきやがったな。まったく、やってくれるじゃアねェか」
腹に刺さった鉈を見やって、アシェラッドがくちびるの片端を吊り上げて笑う。笑いざま、水際だった剣捌きで斬りかかってくる亡者どもを両断し、
「ああもう、これじゃ腹に力が入らねェ。代わりにお前が跳べ!」
「と、跳ぶ?」
「ここじゃ、おちおち話もできねェ。とりあえずオレを抱えて、あの柱の上めがけて力一杯、跳ねろ。跳ねりゃアなんとかなるから」
しかし、指さす石柱はどうみても人の背丈の十倍以上はある。躊躇していると、背中に衝撃を感じた。矢をくらったようだ。
「ビョルン、ぐずぐずすんな! このままじゃ、ふたりとも細切れにされちまう。オレにできて、お前にできねェはずはない」
「で、でも」
「早く!!」
何本もの槍が、こちらめがけて繰り出される。なぎ払い、アシェラッドの両腕が、しがみついてきた。そのからだを横抱きにして、襲い来る剣や槍や斧をかいくぐり、無我夢中でビョルンは跳躍した。自分でも驚くほどに力が漲り、身軽だった。
「はァ、やれやれ。くたばってもなお、あれほど野蛮で能なしとは、恐れ入るぜ」
腹から引き抜いた鉈を虚空に放り投げ、アシェラッドが笑う。しばらく呆然としていたビョルンは、はるか足下で鉈がたてた水音に、ようやくはたと我に返った。
眼下では、亡者どもがあいもかわらず、泥仕合に興じている。離れてみて、そのおぞましさにあらためて戦慄した。あの中に、二度と戻る気にはなれなかった。いったいどれほどの年月、あの場所で淀んでいたのか。
「お前も矢が刺さってるぞ。どれ、こっちに背中を向けてみな」
言われるがままに背を向けると、二カ所で感じていた鈍痛がふっと和らぐ。お互い放っておけば治るはずだが、それでも彼と目を合わせることができない。
「……すまねェ。あんたに斬りかかっちまうだなんて……」
「気にすんなって。仕方ねェよ、この戦の亡者どもの掃き溜めに呑まれちまってたんだから」
「……あんたも死んじまったのか、アシェラッド」
それには答えず、少々ばつが悪そうに、彼は肩を竦める。あの雪原で最期に眼に焼きつけた姿のまま、歳を取っているようにはみえない。どんな事情があったのかはわからないが、おそらくあれからいくらも経たぬうちに、彼も命を落としたのだろう。苦く、やるせないものが、喉奥にこみあげてきた。
「ここのことはよく判らんが、あんたはこんなひでェとこには来ねェと思ってたよ」
「ンな訳あるものか。オレは首領だぜ? お前よりたくさん殺してるし、最期はとりわけ派手に暴れたからなあ」
「じゃあやっぱり、ここは人殺しの堕ちる地獄? キリスト坊主が言うような?」
「ただの殺しじゃねェよ。戦争で人を殺したヤツらが堕ちるところだ。あいつらの好きな地獄かどうかはまア、さて置いて」
それもそうだ、と返して、ビョルンはようやくほほえむことができた。
遠い昔の光景が、また脳裏によみがえってきた。あれはフランクの地を荒らし回ったときか、それともイングランドでのことだったか。戦の後、酒を飲みながら、キリスト教の説教臭い教えをなにかと揶揄したものだ。最後の審判とやらで民を脅しながら富を蓄える教会に、陰謀と密通がなにより好きな破戒坊主ども。フランク人やイングランド人は、なぜあんな欺瞞だらけの教会を信じるのか。理解できなかったのは、ノルド人である自分が単に野蛮で馬鹿だったからではあるまい。
口角泡を飛ばし、酒をくらいながら、仲間たちも笑っていた。アスガルドの神々に優る神などいない。彼らの手勢となるべく、戦で誉れある死を遂げて、ヴァルハラに迎えられるのが望みだと。しかしあのとき、アシェラッドの眼に宿っていた昏い光に気づいていたのは、ビョルンだけだった。そしてもちろん、その意味を知っていたのも。
この期に及んで、キリスト教が正しかったと認めるのは癪だ。しかし、眼下に広がるこの阿鼻叫喚は何だというのだ。アスガルドの神々の神話すら、でたらめだったというなによりの証拠ではないか。
「……あんたは最初から、信じちゃいなかったものな。アシェラッド」
「んー?」
この場に似合わぬのんびりとした返事が、妙に耳にここちよい。慣れ親しんだ声音に、心がほぐれてゆく。
「ラグナロクだよ。ラグナロクもヴァルハラも、あんたは信じちゃいなかったし、望んでもいなかった。そもそもどんな神だって、あんたは信じてなかった。そしてすべては、あんたが考えていたとおりだったって訳だ」
「口では山ほど、オーディン神に誓ってたくせになア。ほんと、たち悪ィよな」
肩を揺すって笑い、そしてこちらにまっすぐ向けられた彼の眼が、静かに凪ぐ。かつてないほどにおだやかで、真摯なまなざしに見つめられ、ビョルンの胸の奥が、ずきりと疼いた。
「だがな、ビョルン。お前だってそうだったんじゃないか」
「……」
「ヴァルハラに行きたいなんて、お前これっぽっちも思ってなかったろ」
――ああ、やはり。
この男には判っていたのだ。彼の凪いだまなざしとは裏腹に、ビョルンの胸の中には、さざ波が立ちはじめていた。
そう、神など信じてはいなかった。信じていたのは、ただひとり。禍々しいこの場所ですら、厳かに光り輝くこの男ただひとりだ。いついかなるときも、彼の信頼に十二分に応えられる者でありたかった。最期に決闘を望んだのも、別にヴァルハラに入るためではなく、ただひとえに彼の手にかかって死にたかっただけだ。
――俺はただ、あんたの傍にいられれば、それで、……。
気がつけば、滂沱の涙が頬を濡らしていた。
堪えたいのに、涙は溢れて止まらない。鼻水も垂れてきて、みっともないことこの上ないが、これこそが真実だ。取り繕うことなどできぬほどに、彼が慕わしい。彼のためならば何度でも、我と我が身をなげうつだろう。
「あーあーもうみっともねェ。デケェ図体して、こんなに泣きやがって……」
眉尻を下げて、アシェラッドが袖で涙を拭ってくれる。それにいささか驚きながらも、ビョルンは拭われるままに任せていた。こんな死臭紛々たる地下でも、彼がいつもつけている月桂樹の香油が、ほのかに香る。鼻をすすりあげて、そのすずやかな香りをもっと嗅ごうとした、そのときだった。
やわらかな、花びらのような感触が、そっと頬に押し当てられた。
黄金に輝く長い睫の輪郭と、わすれなぐさの瞳が、ぼやけながらすぐ近くにあった。やさしい吐息が頬を撫で、次の瞬間にはあまやかな抱擁と、くちびるに蜜の味。何が起こったのかわからず、幾度もまばたきするビョルンに、アシェラッドは困ったようにほほえみ、もう一度くちづけてくれた。ただ触れるだけの清らかな、あまりにも神聖な接吻だった。
耳朶に、羽毛のような囁きが触れる。一度きりしか言わねェぜ。耳かっぽじって、よっく聞きやがれ、と。
「なあビョルン。お前、あのときオレに訊いたよな。何もかも拒んで、淋しくないのかって」
「……」
「オレはね、淋しくなんてなかったよ。お前がいてくれれば、それでよかった。お前がいてくれたから、オレはお袋みたいに心折れることなくいられたんだ。なのにお前ときたら、いつもはあんなに通りがいいのに、自分のことになるとてんで鼻が利かねェたア」
「……当然だろ。あんた何も言ってくれねェし……」
ぺろりと舌を出し、アシェラッドはごめんよ、と片目をつむってみせる。いつもながら、狡い男だ。ビョルンが結局、すべてを赦してしまうことなど、承知の上なのだから。
――けれどもやっぱり、あんたが好きだ。誰よりも。
なんて可憐にほほえむのだろう。なんてやさしく、寄り添ってくれるのだろう。甘えるように凭れかかる、首の重みがいとおしくてならない。満たされることなど諦めていた想いが満ち、溢れてゆく。
と、陶然としていたところで、ぽんと背中を叩かれた。
「さて、じゃあさっさとこんなとこから、ずらかろうや」
「……ずらかるって……そんなことできるのか?」
「おうよ。ここはキリスト坊主が言うような、罪を贖う場所じゃねェんだぜ。気の持ちようひとつで、いつだって出られる。現にオレも、そうしてきた」
「マジかよ……」
あんたやっぱり、ただものじゃねェな。感に堪えずにそう言うと、彼はまんざらでもなさそうに肩をそびやかす。生前はついぞ見ることが叶わなかった、素直な生き生きとした表情につい見とれていると、肘で脇を小突かれた。いつもの不敵な光をその眼に宿らせながら、しかし彼もやはり、あきらかに愉しそうだ。
「ビョルンお前、何か気づかねェか。あそこにいる連中とオレたち、違うところがあるだろう」
言われてまた、眼下に視線を落とした。見たくもない光景だが、問いかけの答えを探るべく、必死に眼を凝らす。そしてほどなくして、ビョルンは合点がいった。決定的に違うところがあるではないか。
「……姿。俺ら、あいつらみてェに死人の姿じゃねェよな?」
「さすがはオレの右腕。あいかわらず、冴えてやがる」
アシェラッドが、にやりと笑う。理由はわかるか、と問われ、ビョルンは頷いた。それは先刻、確認したばかりだ。
「たまにいるんだ。ここに堕ちてきても、ヴァルハラの呪縛から覚めて、戦のむなしさを悟るヤツがな。そういうヤツは、“先”へ進める。向こうの奥のほうに見えるだろう、岩の裂け目が。あのぼーっと光る先に、川が続いている。そこへ向かってゆけば、ここからおさらばできるって寸法だ」
「“先”? “先”ってなんだ、アシェラッド」
「輪廻だよ。人間の魂は何度も生まれ変わる。ノルド人にそういう考え方はねェが、ウェールズ人は昔から信じてきた」
「……」
「お前もオレと一緒に行かねェか、先へ」
頷くそばからまた涙がこぼれそうになって、ビョルンは必死になって堪えた。
アシェラッドが指し示した先には、確かにぼんやりと光を帯びた、岩の裂け目が見える。今ふたりが座っている石柱のたもとからは、かなりの距離がありそうだ。
「だいぶ遠いな。でもまあ、俺らふたりなら、あの連中もなんとか突破できるんじゃねェか?」
「ただ走るのたァ、訳が違うぞ。言い忘れていたが、武器を使うのは御法度だ。あいつらを壊してもいけねェ。戦争に倦んだ者だけが、ここから出られる訳だから」
「つまり、剣を棄てろって?」
「できるか?」
問いながらも、こちらを見つめるアシェラッドのまなざしは、すでに答えを知っている。それに同じ眼で、応えた。
「今の俺らなら、こんなもん使わなくても無敵だろ」
にっこり笑い、彼が頷く。それはすでに、本心を決して語らなかったノルド戦士の首領の笑顔ではなかった。すべてを拒んで生きてきた男も、殺しが好きで戦をするなどとうそぶいていた男も、今となってはもう遠い過去だ。
あらためて固い抱擁を交わし、同時に剣を鞘ぐるみ、眼下に投じた。はるか下で、水音が立て続けに響いたのを確認し、眼を見交わす。戦いの前の高揚とはまったく違う、水鏡のような安寧が胸を占めていることに、ビョルンは静かな驚きを感じていた。
アシェラッドの言う輪廻の先に、何が待ち受けているのかはわからない。しかし、怖れるものは何もない。もっとも求めていたものが、未来永劫この手の中にある。それだけで、じゅうぶんではないか。
「行くぜ、愛しの相棒。正念場だ」
「望むところだ。うるわしの、わが君」
――どこまでも、あんたとふたりで。
白い手を取り、古傷だらけの甲にそっとくちづける。握り返してくるこの手を、二度と離すまいと思った。
了