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    minamidori71

    @minamidori71

    昭和生まれの古のshipper。今はヴィンランド・サガのビョルン×アシェラッドに夢中。

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    minamidori71

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    現パロビョルアシェ第六話。このシリーズ(馴れ初め編)は、これが最終話です。
    ルカの公開講座の最終日、打ち上げから帰宅したルカに、ビョルンはある質問をぶつける。『アシェラッドのバラッド』の本質に迫る彼らの問答は、思わぬ方向に向かい……。
    後半、ふたりが論争している場面で、ほんとうは傍点を使いたかった部分がいくつかあります。ポイピクではhtmlのタグも使えないので、斜体や太字にすることもできませんでした。このシリーズは年末あたりをめどに、一冊の本にしようと思っているので、そのときは傍点をつけます。

    #ヴィンランド・サガ
    vinlandSaga
    #腐向け
    Rot
    #アシェラッド
    asheraad
    #ビョルン
    bjorn
    #ビョルアシェ
    byelorussia

    Unknown Legend(6) 復活祭の後にはじまったロンドン博物館でのルカの公開講座は、八月最後の週の金曜日、無事に最終回を迎えた。
     終了後は、企画担当のルカの教え子ニコールと、最近彼女が同棲をはじめたという保存科学の専門家であるダミアンを交えて、いつもルカとビョルンが講義の後に寄るパブで打ち上げをした。ニコールの学生時代の話や、博物館のバックヤードでのこぼれ話に花が咲き、二人と別れたのは九時過ぎ。いつもながら混雑しているセントラル・ラインに乗って帰宅すると、ルカはさすがに疲れたようで、リビングに入るなりタイを解いてジャケットを脱ぎ、定位置のひとり掛けソファに身を投げ出した。
    「……こりゃア、嬉しいねェ」
     ミルクと蜂蜜をたっぷり足したアールグレイのマグを差し出すと、彼は眼を細める。いつも贔屓にしているコヴェント・ガーデンの茶葉専門店で買った、レモンとオレンジの皮がたっぷり入った特別なアールグレイである。疲れが溜まったときに、これを飲むのが好きなのだ。十ヶ月も一緒にいれば、彼がどんなときに何を望むのかくらい、すっかり頭に入っている。
     そのままビョルンも脇のロングソファに腰を下ろし、自分のマグを両の掌で挟むと、視線を上げた先にルカのうすあおの瞳がきらめいていた。先ほどまでの疲れた様子はすっかり払拭され、いつもの好奇心に満ちた光が戻っている。
    「で、質問は?」
    「え?」
    「え、じゃねェよビョルン。だってお前、そのために茶ァ淹れてきたんだろう? パブで呑んでる間もずっと、ツラに書いてあったぜ。早く終わんねェかな、って」
    「……参ったな」
     お茶を淹れたのはもちろん彼を労うためだが、あわよくば今晩のうちに訊いておきたい、という気持ちをわずかばかりひそませていたのは、事実である。なにしろ最終回の今日の題目は、満を持しての『アシェラッドのバラッド』だった。受講者の興味を引きつけ、よどみなく話すルカの姿は、ほんとうに伝説の英雄アシェラッドがよみがえったかのようで、ビョルンは至福を味わったものだ。
     ところが講義が進むにつれて、飲み込めない棘のようなものを、話の端々に感じはじめた。終盤に至っては、もう無視できなくなった。無知な素人の思い過ごしかもしれないが、どうしても問うておきたい。それを問わずに、『アシェラッドのバラッド』に触れ続けてはいけない気がする。
     ――ま、当たって砕けろだ。
     居住まいを正して、ビョルンはマグをテーブルに置く。そのさまも、ルカはつぶさに観察していた。人の考えを見抜き、何手も先を読む策士アシェラッドそのままだ。
    「とても基本的な質問なんだが……それでもいいか?」
    「もちろん」
    「じゃあ訊くが……『アシェラッドのバラッド』は、なんでバラッドなんだ?」
     その瞬間、ルカは大きく眼を見開いた。
     実のところ、ビョルンも少々驚いた。これほどあきらかに虚を突かれた、という彼の表情を目にするのは、はじめてのことだったのだから。しかしそれはほんの一瞬で、ルカは灯りを落とすように眼を細める。人の話を聞くときの、落ち着いた半眼になった。
    「というと?」
    「だってバラッドてェのは、愛の歌だろ?」
     ああ、なるほどと彼は破顔する。そして紅茶をひと口含み、片方のくちびるの端だけ、きゅっと吊り上げてみせた。
    「逆に訊くが、ボブ・ディランの『やせっぽちのバラッド』は愛の歌か?」
    「……あの、訳のわかンねェ歌? おもしろいし、好きだけど」
     違うな、と即答すると、ルカは眉を上げ、両腕を広げてみせた。そらみろ、と言わんばかりだ。
    「お前の言うバラッドは、ポップスのバラードのことだな。確かに愛を主題とした叙情的なものは多い。しかしもともと、バラッドてェのは形式名なんだ。四行詩で、二行めと四行めの末尾で韻を踏む。『やせっぽちのバラッド』の韻の踏み方はすこし違うが、『アシェラッドのバラッド』の四行の定型句なんてェのは、まさにバラッドの典型例だね」
    「……なるほど」
    「今日も話したように、『アシェラッドのバラッド』はウェールズで受け継がれてきたものだが、今のかたちにしたのは北ウェールズ出身の十七世紀の詩人、オワイン・アプ=ウィリアムだ。しかし、完全に彼のオリジナルという訳でもねェ。清教徒革命でイングランドが荒廃していた期間、アプ=ウィリアムは諸国を放浪して、ノルマンディーの修道院にも二年ばかし世話になっていた。そのとき修道院の書庫で見つけた十一世紀の手記をもとに、『アシェラッドのバラッド』を書いたンだ」
    「その、手記ってのが引っかかる。さっきの講義でも聴いたけどさ、つまりアシェラッドの物語はもとは個人的な覚え書きみたいなモンで、それを編集してバラッドに仕立てたのは、その詩人ってことか?」
    「そのとおり。アプ=ウィリアムは、当時流行していた“ブロードサイド・バラッド”の形式を借りたのさ。実はここには、重要な仕掛けがある。ブロードサイド・バラッドは、字の読めねェ庶民向けに、今のタブロイド紙に載るようなどぎつい出来事を詠った、教訓的娯楽詩だ。たとえば街道を縄張りにする盗賊の栄枯盛衰や、収監された娼婦の懺悔録。庶民の溜飲を下げるため、彼らはもれなく、むごたらしい最期を迎える。アシェラッドのようにね」
    「……」
    「『アシェラッドのバラッド』が、アシェラッドを手放しに讃える作品じゃねェのは、わかるだろ。彼は暴君を弑逆してウェールズを救ったが、イングランドやノルウェーの集落を襲って、村人を皆殺しにする極悪人でもある。アプ=ウィリアムは梟雄のおぞましい一面をあえて強く印象づけて描いて、野望を果たせぬまま、悪行の報いとして死を迎えさせることで、戦に明け暮れる人生のむなしさを伝えようとしたのさ。戦乱の時代を生きた詩人らしい着眼点だ」
    「……だとしても……」
     続けようとして、ビョルンは一旦、ことばを途切った。講義のときに感じたのと同じ、小さな、しかし無視できない引っかかりを、ルカの話に感じていた。
    「だとしても、何だ」
     紅茶を啜りながら、マグの向こうから彼がこちらを見ている。ところがそのまなざしからは、いつもの愛嬌は消え失せていて、ビョルンは慄然とした。
     腹の底が重く冷えるような威圧。昏い眼の奥底で、青い鬼火がちらちらと燃えている。それは憎しみの焔ではないか。しかし、
     ――大丈夫。俺に向けられたものじゃない。
     それだけを頼りに、ビョルンは唾を飲み込み、ことばを継いだ。
    「だとしても……やっぱりアシェラッドは、英雄なんじゃねェかな。それにやっぱり、『アシェラッドのバラッド』は、愛の歌だ」
    「おいおいビョルン、オレの説明聞いてたか?」
     皮肉にゆがんだくちびるから、苦笑がこぼれる。口調は軽かったが、声には静かな怒気が籠もっていた。口元に、はっきり浮かんだ嫌悪の色を見て取って、ビョルンは確信する。やはりそうだ。ルカはアシェラッドを、憎んでいる。
    「お前ね、いくら子どものころから愛読してるからって、アシェラッドを美化しすぎだよ。それとも何か? 同じ名前だからって、アシェラッドの手下のビョルンに影響受けすぎたか」
    「そうかもしれねェ。でもアプ=ウィリアムは確かに、美しい英雄としてアシェラッドを描写してる。でなけりゃ、あの四行の讃歌を何度も繰り返したりはしねェよ」
     それには理由があるって話したろ、とルカが言う。確かにそれも、今日の講義で聴いたばかりだ。
     ――アプ=ウィリアムは、この手記を出納簿の間から見つけたそうです。今はブリティッシュ・ライブラリーに所蔵されていますから、展示される機会があったら、ぜひ見てみてください。ビールの樽を抱えた呑んべえの修道僧の落書きが、秀逸ですよ。作者は文才だけではなく、なかなか絵心もある人物だったようです。
     ルカの目配せとともにビョルンがエンターキーを押すと、羊皮紙に書き記された手記の写真が、スクリーン上に大写しになった。ページの端には、確かに酒をあおる修道僧の姿が妙に写実的なタッチで描かれていて、会場のあちこちからくすくす笑いがこぼれる。ラテン語の中に古ノルド語が大量に混じっていたせいで、解読に時間がかかったと、ルカは述べた。その成果をまとめた論文で、彼は有名な学術賞を受賞したのだった。
     手記の書き手は、ギョームという名の十一世紀中葉の修道僧である。出納簿をつける傍ら、修道院で余生を送るノルド人の同僚に聞いた話をまとめたものが、偶然後世に残された。前後がところどころ散逸しているため、どのような経緯かはわからないが、このノルド人修道僧が重傷を負った戦士の看病を任された話が出てくる。傷の痛みと高熱に耐えるため、ビョルンという名のその戦士は、戦場で過ごした自分の半生を物語る。彼はアシェラッドという、ノルド人でありながらウェールズの血をひく首領に忠誠を誓い、彼に欺かれながらも彼のために働き、死ぬことを誇りとしていた。
     ――手記によれば、このノルド人修道僧は、戦士ビョルンの生きざまにはあまり感心しなかったようです。しかしアプ=ウィリアムの琴線には、大いに触れるものがあったのでしょう。敬愛するシェイクスピアの『ヘンリー四世』に登場する、自分と同名の故郷の英雄を、アシェラッドに重ねた痕跡も見られます。そうして彼はギョームの手記を換骨奪胎し、梟雄アシェラッドと戦士ビョルンの物語として、『アシェラッドのバラッド』を書き上げました。デンマーク・ヴァイキングのイングランド侵攻を物語る史劇に仕立て、シェイクスピアに匹敵する手腕を発揮したと言っても過言ではありません。
    「手記はところどころ欠損してるんだろ。アプ=ウィリアムが創作した部分だって、それなりにある。アシェラッドの悪行を客観的に見ていたとしても、それでも高潔さがにじみ出るような人物に描いたのならば、……それはもう、敬意だけじゃない。愛だ。手記に書かれたビョルンの語りを通して、アプ=ウィリアムもアシェラッドに魅せられたんだ。だから『アシェラッドのバラッド』は、やっぱり愛の歌だと……俺は思うよ」
    「……」
    「その最たる証拠が、あの四行のアシェラッドの讃歌だ。あんたの解釈のとおりならば、あれはビョルンの視点で書かれたものなんじゃねェか? もっとも近くでアシェラッドを見ていなければ、あんな描写はできねェ。尊敬、憧れ、賞賛、崇拝……でも最も強いのは、愛だ。あの讃歌こそ、アプ=ウィリアムの……ビョルンの、アシェラッドへのラブレターだ」
    「くだらねェ」
     低く押し殺すような、腹の底に響く怒りのこもった声を発し、ルカはマグをテーブルに置き、立ち上がる。こんなに激しい感情を、彼があらわにするのもはじめてのことであった。もはや眼の中の焔は鬼火どころか業火となっていたが、ビョルンは怯まなかった。立ち上がり、彼に向かい合った。
    「なぜだ。なぜ判らない? アプ=ウィリアムも、お前も! オレは血まみれの極悪人だ。憧れや賞賛の対象になど、なっちゃいけねェ存在なんだ!」
    「だったらルカ、なぜあんたはアシェラッドを研究対象に選んだんだよ! 親近感を抱いたからって、俺には言ったよな? あれは嘘なのか?」
    「ああ、嘘だよ。オレは否定したかったんだ。いっそのこと、『アシェラッドのバラッド』なんて闇に葬られてしまえばよかったと、幾度思ったか! だが今さら、そんなことは出来ねェ。だからあの詩の背景をあえて調べることで、あんな人でなしを讃える人間の心理を追究したかった。お前らみたいな、馬鹿どものな!」
    「あんたは矛盾だらけだ、アシェラッド! あんたがみごとな論文を発表して、本を書けば書くほど、あんたの物語は注目を浴びて、詠い継がれてるじゃねェか。今日だってそうだろ! あんたの物語を語るあんたの話に、どれだけの人間が耳を傾け、心を奪われて、眼を輝かせていたことか」
    「……」
    「戦争を戒めるメッセージに心を打たれた、それは確かに、あんたの本心だろう。でも本当は、あんたの名を冠した物語を、あんたの生きざまを……誰かにあるがまま、認めてほしかったんじゃねェか? 歴史上の偉人と讃えられる連中が、あんたよりも泥をかぶっていないなんて誰も証明できねェ。自分を責めながら生き続けるなんて、あんまりに辛すぎるし、哀しすぎるじゃねェか」
     ルカは押し黙っている。あれほど多弁で、いつもはビョルンの話を混ぜっ返して愉しんでいる男が、裂けるほどにまなじりを決し、くちびるを噛んだまま、こちらを睨んでいる。誰の情けも要らないと突っぱねながら、誰かに触れられればもろく崩れてしまうほどに張りつめて、かろうじて立っている。あまりに痛ましくも美しい、千年の孤高。
     ――ああ、なぜ。
     あの手を取ってしまわなかったのだろう。拒まれても掴んで離さず、彼を攫ってふたりきり、逃げてしまえばよかった。山を越え海を渡り、彼を縛める宿命も、戦火も、なにも及ばぬこの世の涯まで、逃げてしまえばよかった。纏うものすべてをかなぐり棄てて、ただひとりの人間として、この哀しい、淋しいひとを愛で満たしたかった。ほんとうに望んでいたのは、ただそれだけだったのだ。
    「あんた……判ってンのか? 他人の心を掻き乱すくせに、自分は殻に閉じこもって、なにもかも独りで背負い込んで、差し伸べる手をすべて拒んで! ずっとずっとそうやって、千年もそのままで、淋しく……ないのか?」
    「……」
    「俺は……俺は、アシェラッド、そんなあんたを独りにしたくなくて……!!」
     絞り出すように叫んだそのとき、ルカの眼から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
     はたと我に返り、ビョルンは呆然とした。今しがた、自分が叫んでいたことばを反芻し、頭を抱える。ひどく混乱していた。口が勝手に動いてわめき続けていたのか、それとも。
    「……すまねェ。俺、取り乱して、物語と現実をごっちゃに……」
    「……」
    「ああ、なんで、こんな……」
    「お前のせいだ」
     くぐもった声で言い、ルカが両手で顔を覆う。細い肩が、小刻みにふるえていた。
    「お前のせいだ、ビョルン。なんだってお前は、こんな、……こんなオレなんかに、いつもそうやって、ずっと……」
    「……ルカ?」
    「なんでオレみたいな面倒くさいヤツに、何度も懲りずに手を差しのべて、命を預けて、とことんまで尽くして。オレはお前をずっと欺いていたのに、恨み言のひとつも言わず……友達になりたかっただなんて……馬鹿野郎! 大馬鹿野郎……!」
     その途端、眼も眩むほどのまばゆい光芒に呑まれ、すべての感覚が一瞬、消し飛んだ。
     無音の世界の彼方から、寄する波のように、奔流のように、遠い記憶が逆回しのフィルムを観るように押し寄せてくる。暁暗、雪原、鮮血、断崖の荒野、霧の艀。燃える松明に、竜頭のついた船、頬を叩く潮風。いつも見つめていた後ろ姿と、振り向くそのひとのあでやかなまなざし。うっとりするようなほほえみに、笑顔を返したのはまぎれもなく、ビョルン自身だった。
     そして最後に目に焼き付いたのは、はじめて出逢った戦場の、遠い残照。あかあかと燃える空を背に、おごそかに佇むのは、知られざる伝説の英雄の真の姿。白金の髪を朝日のように輝かせ、天空の高みの色を宿した瞳に、誇り高き志を宿し、……
    「……あんたなのか。やっぱり、あんただったのか」
     アシェラッド。
     そう呼ぶと、ルカは顔を覆っていた手を下ろし、ビョルンをまっすぐに見つめた。
     泣き腫らした眼は、静かに凪いでいた。しかしまた、涙が頬を伝う。ゆっくりと差しのべられた手を、今度こそビョルンはしっかりと取った。そのまま腕の中に、泣きじゃくるルカを抱きとめ、包み込む。無我夢中で交わしたくちづけは互いの涙と鼻水にまみれてひどいありさまだったのに、あまく、やさしく、それだけで満ち足りる。魂が共鳴する。
    「……あんたの泣き顔、はじめてみた」
    「……」
    「きれいだ、誰よりも。それにすごく……可愛い」
     拗ねたようにくちびるを尖らせて、ルカは半分泣きながら、笑っていた。甘えるように額をビョルンの肩に擦り寄せるさまが、目眩がするほどいじらしい。
    「お前もほんと、物好きなヤツだよ、ビョルン。でもそのおかげで、ようやく言える」
     頬を染めて、囁く。背中にしがみつくルカの手に、力が籠もった。
    「愛してる。オレの身も心も、全部あるがまま……お前にくれてやる。お前のほうがずっと上手に、オレを大事にしてくれるもの」
    「……ルカ……」
    「千年経っても、オレはこんなヤツだ。それでも、いいと言ってくれるなら」
     ほろりとこぼれた涙をそっとくちびるで受け止め、ビョルンはルカの背と膝裏に腕を回し、そっと抱き上げる。千年前よりも軽いのは、もう戦場に出る必要もないせいだろう。
    「嫌だなんて言うはずがないって、判ってるくせに」
    「……」
    「でも、そんなあんたがやっぱり、誰よりも好きだ」
     キッチンやリビングの灯りを消し、戸締まりを確認して、ゆっくりと二階への階段を昇る。いとしいひとの高鳴る胸の鼓動をすぐ近くに感じながら、ビョルンはそっと、ルカの額に頬を寄せた。



     焼き上がったスコーンを皿に山盛りにし、紅茶のポットとブロンテのカップを二客載せて、ビョルンはベッドトレイを慎重に持ち上げる。躓かないよう、細心の注意を払って階段を昇り、扉を開けると、ルカの寝室は晩夏の夕刻らしい黄金の光に満ちていた。
     しわくちゃのシーツにくるまって、ルカは真珠のように、まどろんでいる。傷ひとつないしなやかな白い腕の片方が、ビョルンの姿を探すように、もうひとつの枕に置かれていた。その手を取り、そっと甲にくちづけると、長い睫がふるえてうすあおの瞳がこちらを見つめる。水仙がほころびるようなほほえみに、また虜にされてしまう。
    「腹、減ったろ。スコーン焼いたから、食おう」
    「……紅茶は?」
    「もちろん、ラプサン・スーチョン。スコーンはセイボリーといつものカランツ入りのやつと、両方ある。セイボリーは、あんたの好きなリーキとチーズ。最高だろう?」
    「最高」
     差しのべられた両手をたぐって、しっかりと抱擁を交わす。身を起こしたルカは、ベッドトレイをうやうやしく捧げ持つビョルンをあらためて見やり、小さく噴き出した。
    「あんがい古風だな、お前は」
    「……憧れだったんだ。昔、たぶん映画かなんかで観たんだと思う。いつか恋をして、想いが実ったら、こうするって決めてた。はじめて愛しあった次の日の朝、朝食と紅茶をベッドトレイで運んで、大事なひとの枕元に持ってゆくって」
    「朝どころか、もう夕方近いけどな。おまけに寝癖がひでェのなんの」
    「お互いさまだろ。それにどうせもう、今日は外に出ねェんだし」
     ルカの目もとが、にわかに羞じらいを滲ませてほんのりと染まる。釣られてビョルンも赤面し、しばらくは無言でひたすら飲み食いしてしまった。
     やがてひと心地つき、ヘッドボードに凭れて肩を並べ、紅茶を啜る。陽はすこし翳り、触れあう素肌のぬくもりが、ここちよい。
    「ようやく……合点がいったよ」
    「ん?」
    「前にあんた、俺に言ったろ。『お前がオレにくれたものが十だとしたら、オレが返せてるのはせいぜい一か二に過ぎねェ』って。ずっと意味がわからなかったけど、ようやくわかった。あれは、……今のことじゃなかったのか」
     ああ、と喉奥で返して、ルカは肩を竦める。少々ばつがわるそうだった。
    「だって、本当のことだろ。オレはいつも、お前から受け取るばかりだった」
    「俺がそうしたかっただけだ。別にあんたからの見返りを求めてた訳じゃねェ」
    「そうだとしても、もうそういうのは、御免被るよ。これからはお前と、対等な関係でいたい」
    「対等……」
     机の引き出しの中にある、大学入学資格試験の過去問を思い浮かべて、ビョルンは苦く笑った。この前取り寄せてみたばかりだが、まだとても歯が立ちそうにない。
     小首をかしげてこちらを見つめていたルカが、にっと笑う。どうせ今考えていたことも、お見通しなのだろう。
    「そんなに心配するこたァねェ。オレもできる限りバックアップするし、千年前と違って、人生は長い。それに昔と変わらず、お前は人並みはずれて勤勉だし、こうと決めたら、どこまでも食い下がる根性がある。昨日の食いつきっぷりには、まったく恐れ入ったぜ。まさかこのオレが、ド素人のお前に言い負かされされちまうとは」
    「……お恥ずかしい限りで」
    「ま、それくらい歯ごたえのあるヤツが伴侶なら、この人生も退屈しねェで済みそうだ」
     そうだな、と返しかけて、ビョルンはあっ、と大声を上げてしまった。
     次の瞬間には、逆に声が出なくなった。金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、ルカが優雅な手つきでからになっていたカップを取り上げにかかってくる。しなやかに絡め取られ、愛らしい天使の祝福のようなキス。甘い吐息を分け与えられて、ようやくビョルンは声を取り戻すことができた。
    「伴侶って、そんないきなり……」
    「いきなりって訳でもねェだろ。もう十ヶ月同居したし、その前は十数年、一緒にいた」
    「それは……千年前の話じゃねェか」
    「じゃア何だ、今さらもっとお試し期間がほしいってか? それとも反故にする?」
     それはない、と慌ててかぶりを振ると、彼は当然といった表情でビョルンの肩に顎を乗せ、にっこり笑ってみせる。反則だ、と思った。こんなときの彼はほんとうに愛らしくて、とびきり輝いている。
    「せっかく去年、同性同士でも結婚できるようになったンだ。いい制度はせいぜい利用してやらんとな。イングランドとウェールズ、どっちでも結婚できるんだぜ? ビョルン、お前はどっちで登記したい?」
    「……どっちでも……」
    「やることはいろいろあるぜ。まずは登記所で、結婚の手続きをするだろ。あっその前に、一応婚約期間ももうけとくか? 揃いの指輪欲しいしな、今度一緒に、ジュエリーショップに注文しにゆこう。この際だから、ウェルシュ・ゴールドのやつにするか。ちと値は張るが」
    「……」
    「結婚登記と一緒に、忘れずに遺産相続権の手続きもしとかねェと。それすげえ大事。まァまだまだ先の話だろうが、年齢からすりゃオレの方が先にくたばるだろうからな。そのときのために、やっぱり結婚はしとくもんだ。だろ?」
    「くたばる、って、縁起でもねェ……」
    「気はすすまねェが、男爵家の連中にも、一応報告しとかねェとなあ。あの馬鹿ども、まーた大騒ぎしやがるだろうなァ。でもブレナヴォンの屋敷も見せておきてェし、ウェールズにはどっちみち、近々一緒に行こう。カナダにいるお袋にも会わせてェし、あとそれから」
    「ちょ、ちょっと待った、ルカ」
     混乱した頭で、今しがたルカが口にしたことを、ひとつひとつ整理してみる。以前すこし聞いた母親のこと以外は、どれも初耳の話ばかりだ。たわいもないことをぺらぺらと喋り続け、なんでも話してくれ、なんて言ったくせに、どうもこの男の秘密主義は、まだ完全に治った訳ではないらしい。
    「男爵家って……あんたまさか、貴族だったのか?」
    「まァ、もとは一応? いろいろややこしいから、爵位譲っちまったけど」
     呆れて絶句していると、さすがに悪いと思ったのか、ルカは口をつぐむ。しかし、小声でごめん、などと言われるとついほだされて、ビョルンは彼を包み込むように抱きしめた。
     もう昨日から、何度めか忘れてしまうほどのくちづけを交わし、彼のからだをそっとベッドの上に横たえさせる。首筋から、やわらかく肌を食みながらくちびるを滑らせてゆくと、耳元に熱い吐息が触れて、深くゆらめく彼の囁きが吹き込まれた。来てくれ、と。
    「はじめちまうとさ、俺夢中になってまともに喋れねェから、その前に確認させてくれるか?」
     光の泡のような髪に指をくぐらせ、やさしく撫でて、ビョルンも囁く。同じように、彼もしなやかな指で髪を梳いてくれるのが、たまらなく嬉しい。
    「あんたのこと、今までどおり……ルカって呼びたい。それでいいか?」
     うすあおに黄金の滲んだ、清澄な光が揺れてさざめく。遠い昔に彼とふたりで見た、夕凪の海のようだ。
    「ずっと……そう呼んでもらいたかったんだ、ビョルン。オレの、ほんとうの名前を……お前に」
     彼の眼からまたひとすじ、透明な涙がこぼれ落ちる。けれども、彼は笑っていた。あのときビョルンが狂おしいほどに願った心からの笑みを、ビョルンのためだけに浮かべ、彼は笑っていた。
    「ルカ……いとしいルカ」
     溢れる想いとともに、ビョルンの眼からも涙がこぼれる。ビョルンがそうしたように、ルカも珊瑚のくちびるを寄せて、そっと舐め取ってくれた。



       了
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