伝言 道は乾いていた。
道と同じ色をした岩山も、その裾に小さく並んでいる家々も、同じように乾いている。
ざり、ざりと地面を踏む音までも、潤いの一滴も無さそうな極度乾燥だ。
こめかみから顎に流れ落ちた汗は、地面に滴るや、即座に、手品のように消え失せた。吸い込まれたのか蒸発したのかもよくわからない。
空を仰いで水筒の底のぬるい水を含む。
空は、底が抜けたような群青をしていた。
***
小さな砂煙を伴って近付いてくる荷車に知った顔を見とめて、ハンジは口元を緩めた。
「先生、迎えにきた。」
砂埃よけの頭巾の奥に人懐こい瞳を輝かせた青年が、荷車を止めながら声をかける。会うのは半年ぶりで、ロバを御す姿は少し大人びたように見えた。
「元気そうだね、ありがとう。でもこの子達がいるし、歩いて行くよ。」
ハンジは連れているロバとヤギを指した。前の前の村で診察の礼に譲ってもらった家畜だ。ロバは荷運びをしてくれて、いざとなれば乗れるし、ヤギは……乳が出るわけでもないので今のところ特に役に立ってはいない。それでも、どこかの村で何かと交換してもらえるかもしれないし、頑丈で粗食なので、連れ歩くのに負担ではなかった。まあまあ可愛くもある。
ハンジは青年ののんびりとした顔を眺めながら、念の為尋ねた。
「それとも急患かな?」
青年は首を振ると、ギクシャクと荷車をUターンさせ始める。村までハンジと並んで歩くつもりだろう。
荷車が横に来て初めて、ハンジは荷台に青年の弟が乗っていることに気が付いた。
「やあ!こんにちは。大きくなったねぇ。」
歳はたしか十歳になるのだったと思うその少年は、溢れそうに目が大きくて、とてもシャイだった。ハンジの仕事に興味があるようなのに、いつも遠くからモジモジと見つめていて、目が合ったり手招きされたりすると、脱兎の如く消えてしまうのだ。
だから、迎えに来てくれて、こんなに近くで顔を見せてくれるなんて珍しい。ハンジはしげしげと彼の顔を覗き込んで、そして、おや、と思った。
声をかけようと口を開いた時、青年が「そうだ。」と声を出した。
「お腹の大きいアイシャが、今朝破水したって叔母さんが言ってた。先生に伝えてほしいって。」
「なんだって?それは急いだ方がいいな。」
ハンジの医者としてのスイッチが入る。アイシャの出産予定はもう少し先のはずだったが、早めに来てよかった。村には産婆もおらず、ハンジが来ないなら、出産経験のある女性達が手助けする以外に無いのだ。
ハンジは、この辺りの無医村を旅して回る医者だった。もっと若い頃は紛争地帯の医療支援に当たっていたが、戦闘に巻き込まれ負傷して左目の視力を失ってからは、今のスタイルに落ち着いている。左目に眼帯をして眼鏡をかけたハンジ先生は、厳(いかめ)しい見た目に反して気さくで腕が確かなので、どこへ行っても歓迎された。笑顔もかわいい。
ロバに載せていた荷物から取り急ぎ要る物だけ背負うと、残りの荷物とヤギを荷車に乗せてもらい、ハンジ自身がロバに乗って村へ急ぐことになった。ロバで進めばもう三十分ほどで着くだろう。
ハンジは時計を確認した。昼過ぎだ。
「さあ、急ごうか。」
とロバに声を掛けながら、ハンジは着いてからやることに忙しく頭を巡らせた。急患とはどういうことか、村の男連中にももう少し教育した方がいいかもなと、チラリと考えながら。
アイシャのお産は、初産だったにもかかわらず、その日の夜には無事に終わった。赤ん坊も母親も大事なく、母乳の出も十分のようで、一安心だ。今村には他に授乳期の女性がおらず、もらい乳もできないので、アイシャにはよく食べさせよく休ませるよう、家族に念を押すのもハンジの仕事だった。
村の人たちの診察や健診は翌日に回すことにして、ハンジは、迎えに来てくれた青年の家の離れ──ここが滞在時の簡易診察所代わりでもある──で休むところだった。
なんとなく人の気配がして、ハンジは護身用のナイフに手を伸ばしかけて、やめた。
「やあ、昼は迎えに来てくれてありがとう。」
窓から覗いていたのは、荷車に乗っていたあの少年だった。いつもならこんな風に声をかければ、あっという間に走り去ってしまうのだけれど、今日の彼は何か言いたげに、モジモジと留まっている。
ハンジは手招きして離れに入るよう促したが、それにも応じない。
ただ大きな目を少し潤ませて、昼間に荷台で見せたのと同じ、訴えかけるような顔をするだけだ。
「ふむ。」
ハンジは顎に手を当てて一瞬考えてから、往診バッグに手を伸ばした。少年が少しホッとした顔をするのが見えて、ハンジはそっと離れを出た。
「案内してくれるかい?」
ハンジの問いかけに少年はこくりと頷いて、家の裏の岩山の方にパタパタと駆け出した。この辺りの治安はあまり良いとは言えない。山をいくつか越えると紛争地帯であり、争いが生む貧しさから盗賊も珍しくない。特に今は夜だ。
ハンジは、自分の身よりも少年の安全が気掛かりで、急ぎ後を追った。
「なんってことだ……。」
足元に不穏な血痕が残る岩山の、洞窟とも呼び難いちょっとした窪みの奥に、男が一人横たわっていた。
顔は血塗れでピクリとも動かない、死んでいると言われればそう見えるような身体の傍に、少年は困ったような顔をして突っ立っていた。
ランタンの灯りを向けてよく見れば、男の顔の周りにはコップや水筒が転がっていて、血を拭ったと見える布が髪に絡まっていた。
「知っている人?」
ハンジが問うと、少年は首を横に振った。
「助けてあげたのかい?」
今度は小さく頷く。ハンジは微笑んで少年の頭を撫でると、倒れている男の手首に触れた。それから首筋に。弱々しいが、脈はまだある。
「おい、聞こえるか。私は医者だ。」
ハンジが耳元で二度ほど呼びかけると、男の手がぴくりと動いた。
「よし、頑張ってくれ、上着をずらすよ。」
そう声を掛けながら、砂ぼこりと血に塗れた衣服をめくると、男の口から弱い呻き声が上がり、ハンジは反対に口を閉ざした。用意していた注射を、黙ってカバンに戻す。
上着を整えてやってから、出血箇所を確認する。手足にも無数に傷があるが、額の上がぱっくり割れているから、血塗れの元は大体ここだろう。
カバンから手早く消毒液とガーゼ、鑷子を出して、顔と傷口を拭っていく。
外見からして、地元の人間ではなさそうだった。地味なマントを羽織っている下の服装は、地元の人間に〝紛争を運ぶ疫病神〟と嫌われている国の人間に見えるし、顔立ちはもっと遠い異国を思わせた。どこから来たのだろうか。
傷口を縫合する手元を、少年が心配そうに覗き込んでいて、ハンジは心が痛んだ。この男にしてやれることは、あまり多くはなさそうだったから。
その時、男が震えながら腕を持ち上げ、ハンジは反射的にその手を取った。ガッシリと手のひらを握ってやると、まぶたが徐々に開き、緑がかった青い瞳が、必死に焦点を定めようとする。
「無理に動かない方がいい、ここは安全だ。安心して。」
ハンジが声をかけると、男の唇が僅かに震えた。男の口元に耳を寄せると、異国の言葉で二言、三言、言葉が溢れる。ハンジは大きく頷きながら、わかった、という意味の異国語を返した。
「なんて言ったの?」
今日初めて声を発した少年の問いには答えず、ハンジは男の瞳を覗き込んで、
「もう、旅立ったよ。」
と言い、まぶたをそっと閉じてやった。
男の体を持参した薄い毛布で覆ってから、手に付いた血液を拭って、ハンジは少年を振り返った。痛みに耐えるような顔で唇をギュッと結んでいる。肩に腕を回し、抱き寄せながら、
「もっと早くに来てやれなくて、悪かったね。でも、君が水を運んであげたり、心配して付き添ってあげたりしたから、彼はずいぶん安らいだと思う。」
と、ハンジは慰めた。
ポロポロと涙が溢れる大きな瞳を服の袖で拭いながら、少年は俯いている。
「知らない人も精一杯助けようとする君には、医者の素質がある。たくさん勉強して、この村の医者におなり。もちろん私も手助けしよう。」
そう言いながら、ハンジとしては、現実的な、目の前の心配もせざるを得なかった。服の裾を握りしめる少年の手に手を重ねながら、ハンジは慎重に質問した。
「ねえ、君、この人を匿ったこと、お家の人や村の人には言ったの?」
少年は首を横に振る。
「お兄さんにも、友達にも、誰にも言ってないのかい?」
少年は頷いた。
ハンジは内心ホッとしながら、彼の頭をなで、しっかりと目を合わせて言った。
「この人のことは、私が責任を持つから、村の人には言わないでおきなさい。人の命には違いがないけれど、悲しいことに、世界には戦争があって、君の村も無関係ではいられない。」
少年は神妙な顔で聞いている。ハンジは、少しの罪悪感を見ないふりして、
「だからこのことは、君と私だけの秘密だ。守れるかな?」
と聞いた。少年はこくりと頷いた。
少年を家に送り、無事に寝室に入るのを見届けてから、ハンジはまたひっそりと岩山の窪みに戻ってきた。
今や遺体となってしまった男に黙礼して、その上着の内側を探る。内ポケットに手を入れると、ズキッと指先に痛みが走った。
「痛ったぁ……」
思わずこぼしながら見ると、人差し指にガラス片のようなものが刺さっている。取り除き、消毒液をかけて手早くガーゼで止血してから、ハンジは手袋を着けて、改めて内ポケットの中身を慎重に取り出した。
バラバラに砕けた手鏡が、男が受けた衝撃の強さを物語っている。至近距離で何らかの爆風を受けたのだろう。彼の腹部は内臓損傷によると思われる内出血で、手の施しようがなくなっていた。
鏡の破片をふるい落とすと、一枚の便箋が現れた。
ハンジは、もう何も語らない男の顔を、それでも一度許しを請うように見やってから、隣に座り込み、便箋を開いて目を走らせた。書かれている言葉は読めるが、意味はよくわからない。
「……さて、どうしたものか。」
「どうしたもこうしたもあるか。」
全く予想外に頭の上から男の声がして、ハンジは絶望で全身を硬直させた。
と同時に、声に聞き覚えがある気がして、一縷の希望に賭けチラリと声の主を見上げる。鋭い双眼と目が合った。
「はぁ、なんだ君か!ビックリさせないでくれよ、怖いなぁもう!」
一気に脱力するハンジに、声の主は容赦なく舌打ちを浴びせた。
「あんた、医者は辞めたのか?死体の懐を漁るなんざ。」
「ちょっと!人聞きが悪いな。私はこの人に頼まれたんだよ。君こそ何でこんなところにいるんだ。」
リヴァイ、と呼ばれた小柄な男は、ランタンの明かりの範囲に踏み入り、無遠慮に死体の顔を覗き込んで、眉間のシワを深くした。
「おい、こいつは誰だ?」
「わからない。どこかで負傷して、ここに辿り着いて、力尽きたってこと以外は。」
ハンジは再び手元の便箋に目を落とし、裏表くまなく検分した。やはり身元を表すようなことは書かれていないようだ。
「……フェリックス財団の人間か。」
え、とハンジが見上げると、リヴァイが便箋の上部を指差した。メガネをずらして目を凝らすと、鳥と蜥蜴の紋章が、透かしで入っているのが見えた。
ハンジは、ひゅー、と息を吸うと、
「これは……」
と小さく呟いた。
「……おい、まさか関わり合いになる気じゃねぇだろうな。」
リヴァイが釘を刺すように言うのを、ハンジは肩をすくめてやり過ごした。リヴァイはそれを許さず、低い声で改めて言う。
「奴らは死の商人だ。」
知っているさ、と呟きながら、ハンジは便箋を丁寧に畳んで、自分の手帳に挟んだ。再び、舌打ちが降ってくる。
「あんたを待ってる人間は大勢いるんだ。先生。」
「ああ。そしてこの人も、私を待っていた患者の一人だよ。助けることはできなかったけれど。」
上着を整え、もう一度毛布を被せ直してやりながら、ハンジはきっぱりとした口調でそう言った。
そうして膝を抱えて座り直してから、リヴァイの顔を見上げた。
「君は、傭兵をやっていると聞いたけど、今は仕事中じゃないのかい?」
ああ、と答える男の頬には薄い傷跡が残っている。ハンジが縫ってやった跡だ。かつて、盗賊をしていたリヴァイが重傷を負った時、どんな者でも患者には違いないと治療に当たったのがハンジだった。病床にあったリヴァイの母の最期を穏やかにしてくれたのもまたそうだ。
母の死を機に、リヴァイは盗賊をやめて、傭兵として何度か戦地に赴いたとハンジは聞いていた。
「ねえ、これは相談なんだけど、」
「断る。」
「まだ何も言ってないだろう!?」
ハンジが素っ頓狂な声を上げるのを、リヴァイは無表情に受け流した。それが、碌でもない予感へのせめてもの抵抗だった。
案の定、ハンジはめげずに言った。
「今仕事が無いなら、私に雇われてくれないか?ちょっときな臭い地域を横切らなきゃならないんだ。」
「俺一人雇ったところで、ドンパチやってる野っ原を無事に通れる保証にはならねぇだろうが。」
「君で無理なら誰でも無理だろう?傭兵に何度も出て、怪我無く無事に帰ってくるだけで伝説級だ。」
リヴァイは呆れた顔で目の前の医者を見下ろした。
「あんたを待ってる患者達を放り出して、得体の知れない死体の伝言役になってやるってのか。どうかしてる。」
「ちゃんと後任は育てているさ。私だって、いつ右目も悪くなるかわからないんだからね。」
飄々と言ってから、「それに」とハンジはリヴァイの顔を覗き込んだ。
「君も、探している人間がいるんだろう?」
リヴァイが一瞬目を瞠る。ハンジはすかさず追い討ちをかけた。
「だから、私のことも探していた。医者には情報が集まるからね。違うかい?」
「……クソメガネが。」
酷い言い草だなぁ、と笑いながら、ハンジは右手を差し出した。リヴァイがグイッと引き起こす。
「違うよ、契約成立の握手だ。」
立ち上がったハンジが、しれっと手を握り直してくるのを、リヴァイはもう振り解こうとはしなかった。