死ぬ時に思い出すなら、あの日のことかもしれないと思っている光景がある。
子供の頃、ぼんやりと晴れた日の午後、生まれてからずっと変わらない小さな田舎の探検なんてとうにやり尽くして暇を持て余した俺たちは、農園の柵の中で働く無口な少女に、からかい半分声をかけた。
学校に来ることもなく、表情に乏しく、自分達よりは、むしろ飼われている羊や牛と同類に見えた少女。いつも小汚い格好をして、鼻水を垂らしていることも多かった。
何て声をかけたのかは覚えていないが、全く相手にされず、つまらないなと思っているうち、一人が石を投げ始めた。少女は驚いて持っていた桶を地面に落とし、腕で頭を庇った。
俺は面白くなかった。
石を投げ始めたそいつなんかと違って、俺はその少女がちょっとかわいいことに気が付いていた。話をして、柵から出て一緒に遊ぼうと誘って、そうして笑いかけてくれでもしたら、きっとうんとかわいいだろうってことにも。
石を投げられて驚いた彼女の顔。見開かれた目、歪んだ眉、声は出ないのに少し開かれたカサカサの唇。初めて見る顔だった。
俺ではなく、石を投げたそいつが、彼女の初めての反応を引き出したことが、猛烈に腹立たしく、面白くなかった。
それで、俺も石を拾って投げた。ボール投げなら俺の方が得意だと、どこかムキになっていた。馬鹿なガキだったから。
俺が投げた小石は頭を庇う少女の手をすり抜けて、その額の上辺りにゴツんと当たった。
まずい、と思ったときには、パサついた金色の前髪の奥、少女の白い額にたらりと赤い血が流れていた。俺の周りの悪ガキどもは、キャアキャア喜びながら走って逃げた。
その時の、彼女の目。
密かに可憐だと思っていた猫のような彼女の目は、驚きも怯えも忘れたように、全く無表情に俺を見据えていた。その眼力には自分を傷付けた人間を忘れない猛獣のような迫力があって、俺は怯んだ。鮮やかに蒼い、それでいて氷に閉ざされた水面みたいに、澄んでいるのに見通せない瞳。
あの日からきっと、ずっとあの目に囚われている。
「あの……」
カラカラに乾いた喉からようやく出た声は掠れていて、情けないほどに小さかった。しなやかな指が紅茶のカップを静かに皿に戻す、その小さなカチャンという音の方が、俺の声よりもよほど堂々と部屋に響いた。
「引き受けてほしいの。時間が無い話だから。」
背筋を伸ばして真っ直ぐにこちらを見据える彼女、クリスタ、いや、ヒストリア。民衆の頭上で巨人を討ち取って見せた真の女王。貧しい者、孤独な子供に手を差し伸べ続ける牛飼いの女神様。この農園の主人にして、孤児院の院長。
近くで見ると驚くほど小柄な彼女だが、相対するとそんなことは忘れてしまう威圧感がある。それは、俺が勝手に抱いている罪悪感だけのせいではないだろう。
壁外を駆け、巨人を屠り、貴族連中や兵団幹部を率いて"外"から来た人間とも渡り合う。小さな田舎で、小さな罪悪感すら持て余して生きてきた俺とは、住んでいる世界どころか次元が違う。
無理です。できない。相応しくない。
一瞬、そんな言葉が脳裏をよぎるが、冷や汗と一緒に背中を流れてどこかに消えていく。
相応しくないことなんて、みんな、彼女自身だってわかっているだろう。承知の上での頼みを断ることが俺に許されるだろうか。
ごくりと唾を飲み込んで、彼女の目を見る。あの日と同じ、可憐で猛々しい、猛獣の瞳だ。
農園の牛舎で汚れた干し草を片付けていて初めて彼女に声をかけられた時、しまった、バレたと思った。名前も顔も伏せて、誰がこなしてもいいような農園の下働きを買って出たのは、俺にできる僅かな罪滅ぼしのつもりだった。けれども、かつて石を投げつけ血を流させた者が密かに女王の身近に潜んでいるなんて、改めて考えてみれば贖罪どころか恐怖だろう。いくら伏せたって、その内身元だって洗われてバレないはずがないのに、歳だけ重ねても俺はやはり馬鹿のままだったということだ。
いや、本当は見つけてほしかったのかもしれない。そうして断罪してほしかったのかも。うじうじモヤモヤと抱え切れない罪悪感を、他ならぬ彼女自身に裁いてもらいたかったのではないだろうか。
だとすれば、馬鹿な上に図々しいとしか言いようがなかった。
しばらく経って院長室に呼び出されたとき、ああ、俺はクビになるのだと思った。どこか安堵したのは一瞬で、クビで済むのだろうか?家族はどうなる?きょうだいの縁談にも響いたら、とも心配し始めた。そんなことは最初に考えて、そうして覚悟しておくべきだっただろうと、自分で自分に舌打ちしたくなる。
流されて生きてきたことを悔いて、初めて自分で選んだ結果がこれなんだから、俺みたいな人間は、身の丈に合わないことはしないに限るのかもしれない。院長室への廊下を一歩進むごとに心のどこかが冷たく重く沈んでいった。
「待て」
と声をかけられ、慌てて帽子を取って振り向くと、調査兵団のコートを着た若い男が立っていた。鍛えられた体躯に、美少年と言って良さそうな整った顔が乗っていた。
院長室に呼ばれていることを告げて名乗ると、彼は薄い眉を僅かに顰めて「お前が?」
と小さく呟いてから俺の顔をまじまじと眺めた。大きくて鋭いその目は、どこかヒストリアを思い出させた。壁の外へ行こうという調査兵というのは、みんなこんな目をしているのだろうか。
「案内する。」
彼は短くそう言うと、院長室へと俺を先導して歩き始めた。
俺の幼少期の所業が皆に、少なくともこの男には知られているのだろうかと、ますます心が沈む。
石を投げたのは俺だけじゃない。俺が最初でもない。罪滅ぼしをしているのは俺だけなのに。
そんな手前勝手な不満も頭をもたげ始めた頃に、廊下は行き止まりとなり、彼が院長室のドアをノックした。その奥に女王がいるとはとても思えない、他の部屋と同じ質素な扉が、乾いた音を響かせた。