彫刻と白鳥――パシンッ
頬を打つ乾いた音がスタジオに響く。張りつめた空気に触れないよう周囲に控えたダンサーたちは固唾を飲んでその行方を見守った。
水を打ったように静まり返る中、良く通る深い響きを持った声が鼓膜を震わせる。
「君、その程度で本当にプリンシパルなの?」
その台詞に周囲は息をのんだ。かの有名なサトル・ゴジョウにあそこまで言われたら並みのダンサーなら誰もが逃亡しただろう。しかし、彼は静かに立ち上がるとスッと背筋を伸ばしてその視線を受け止めた。
「はい、私がここのプリンシパルです」
あの鋭い視線を受け止めてもなお、一歩も引くことなく堂々と返すその背中には、静かな怒りが佇んでいた。
日本人離れしたすらりと長い手足と儚く煌びやかなその容姿から『踊る彫刻』の異名で知られるトップダンサーがサトル・ゴジョウその人だった。今回の公演では不慮の事故による怪我で主役の座を明け渡すことになり、代役として白羽の矢がたったのが新進気鋭のダンサー、スグル・ゲトーである。黒々とした艶やかな黒髪と大きく身体を使ったダイナミックなパフォーマンスから『アジアのブラックスワン』と呼ばれる彼もまた、近年トップダンサーの仲間入りを果たした若きスターである。
その二人が今まさに、大切な場面に対する解釈の違いで対立を起こしていた。
「このシーンはクララが王子と金平糖の精が繰り広げる高潔なパ・ド・ドゥに魅了される最も重要なシーンだ。だが君の踊りは魅了ではなく魅惑している。無遠慮なその色気が非常に不快だよ」
「クララだけでなく観客も含めてこの夢のような世界観に引きずりこんでいるんですよ、魅惑で何が悪い。私は貴方の真似事がしたいわけじゃないんだ」
「この僕にそこまで言うなんてね。……いいだろう、その勇気を称えて正々堂々勝負しようじゃないか」
ばさり、とサトルが肩にかけていた外套を脱ぎ捨てる。
「貴方は怪我をしているのでしょう? 何で勝負するというんですか」
一歩ずつ近づいてくるサトルから目を反らさずに、スグルが問いただした。
「そんなもの、男同士が勝負すると言ったら……これ以外無いだろう!」
ゴッ、という鈍い音と痛みで目が覚める。
「あ、れ。主役……の座、は?」
頬に当たっていた腕を退かすと、隣には朝の柔らかい光を浴びながら、ぐーぐーと寝息を立てる『踊る彫刻』が。
「ふっ、バレリーナのくせに、最後は拳って……何でだよ……」
ふふっ、と突拍子もない夢を嚙みしめながら『アジアのブラックスワン』は幸せな惰眠の続きを貪った。
end.