まずは、お付き合いから――ズズッ、グスッ
「あーあ、お前。もう顔ぐしゃぐしゃじゃん、ほら」
そういって差し出されたハンカチを顔に当てると、さらさらとした肌を滑る心地よい感触と共に、上質な生地は私の目に溜まった涙を綺麗に拭った。
今日は大安吉日、連日の雨予報を覆すような気持ちのいい晴天に恵まれた日曜日。長く補助監督として勤めてきた子の結婚式に招待されていた。見知った顔ばかりの会場後方から、幸せそうな顔をした彼と新婦の門出を祝福する。私と悟は一般的に言うと所謂上司や先輩枠にあたるのだろうが、職業柄急遽中座しなければならない事態に備え後方の席を当てがってもらったのだ。
紋付きの羽織袴を着た彼は、いつもとは少し違う緊張した面持ちで式に臨んでいた。神前式ならではの厳かな雰囲気と華麗な神楽はなんとも美しく、そこだけくっきりと世界から切り取られたような凛とした空気が心地良かった。
披露宴では緊張が幾分取れたのか、彼はほんのり顔を赤く染めながら高砂に訪れる招待客の相手をしている。横に座る新婦も彼を心配しながらもなんだか楽しそうだ。
「なんかこう言う祝事って僕久々かも」
「そうだね、私も随分と機会がなかったからなんだか新鮮だな」
たぶん世間的にはちょうど結婚式などのイベントが多くある歳なのだろうが、生憎と慶事よりも忌事の方が多く声がかかる環境の為、手放しで喜べる機会は随分と少ないのだ。
「……あの子たちも、きっとすぐにああして旅立ってしまうんだろうね」
煌びやかな打掛を羽織った新婦を見ながら、私の脳内では美しく着飾った彼女たちの姿に重なり、一度引っ込んだ筈の涙がまたじわりと目頭に滲んだ。
「あーまた……まだあいつら成人式だってまだでしょーが」
「でも、年齢的にはいつそうなっても、ッおかしくはないだろう」
悟がまたぐちゃぐちゃになりかける私の顔をせっせと整えながら宥めてくれる。
「あんだけ傑に懐いてるんだから絶対大丈夫だよ。夏油様より強くて素敵な人なんていないーとかそのうち言い出すから。いや、もう言ってるか」
「彼女たちが選んだ相手なら尊重はしたいけど……まぁ私より弱いのはちょっと嫌かな、いざって時に彼女たちを守ってくれるような、奴じゃないと」
「そんなこと言ってると本当に誰とも結婚できなくなっちゃうよアイツら」
「その時は私がきちんと養うし資産も残すから大丈夫だ。無理に結婚なんてしなくていいんだから」
「こらこら、ちゃんと子離れしなさいね?」
呆れたように笑う悟にムッとして「君のところだって女の子がいるじゃないか、心配じゃないのか?」と言い返した。拗ねたような口調になったのはたまたまだ。
「津美紀が選んできた人なら大丈夫でしょ。それにうちはさ、僕より怖い小姑がいるから」
「……確かに、恵のガードが固そうだな君のところは」
「でしょー? アイツもさ、自分の姉なんだからもうちょっと信用してあげればいいのに」
披露宴会場では、良く通る声の司会者が「これから鏡開きを行います! 皆様どうぞ前方にお集まり下さい」と促した。皆それぞれ楽しそうに話しながら手にはカメラを構えて集まっていく。私たちも邪魔にならないよう後ろから静かについていく。
「和装の披露宴だと鏡開きするんだねぇ」
運ばれてきた大きな酒樽を見て悟が感心するような声を上げる。多くの披露宴では洋装でウエディングケーキをカットする行事が多いが、今回は別の催しにしたらしい。会場の雰囲気にも合っているし、何より祝い事、という空気が強く私は好きだ。
「傑はああいう豪快な感じ、好きそうね」
当たってるでしょと言わんばかりの顔で悟が横に立つ私を覗き込む。
「ああいうの分かりやすくていいじゃないか。ベタなのがいいよね」
「それもまぁ分かるけど、でも僕は無理だなぁ。だってあれ割ったら飲まなきゃでしょ?」
「そりゃそうだろうね」
「そのあとなーんにも使い物にならなくていいならいいけどねぇ」
そんな話をしているうちに、人だかりの中心からわっと声と拍手が上がる。何度か叩き直していた酒樽がようやく割れたようだ。私と悟も彼らの未来に拍手を送る。
席に着くと、先ほどの酒樽の中身が順繰りに振る舞われていく。悟が「この後仕事があって、すみません」と愛想よく返すと応対したスタッフがサッと頬を染めた。まったく君は、本当に老若男女問わずたぶらかすな。まぁ、こういう場での振る舞いに気を配れるようになったのは私の指導の賜物なのだけど。
頂いたお酒を楽しんでいると一升瓶を手に主役の二人が挨拶に来てくれた。
「五条さん、夏油さん、今日はお忙しい中ご出席いただきありがとございます。お二人そろって参列頂けるとは思っていなかったので嬉しいです!」
「こちらこそお招きいただきありがとう、君にはいつもお世話になっているからお祝いさせてもらえて嬉しいよ」
「素敵な式だね、こういう御祝事なら大歓迎だ」
「ありがとうございます!」
そこへ他の席から主役二人を呼ぶ声がかかる。こんなところに長く引き留めては悪いからと告げると、恐縮しながら二人は移動していった。
新婦の打掛を会場のスタッフが支えながら移動するのを見て、つい「大変そうだな」といつものおせっかいが口を突いて出た。
「あれだけでも相当な重さだと思うよ、着物って重いし暑いから」
「五条家でもああいうのあったりするのかい?」
「んーそれこそ昔は十二単みたいなんもあった気がするけど……今はウエディングドレス着たいんじゃない? みんな」
「そんなものかな」
「そんなものだよ、あ、でも写真だけとかならいいかもね、動かなくていいしさ」
ふーんそんなものなのか。頭の中では自然とあの子たちの衣装を想像してしまう。うーん、美々子は着物で、菜々子はウエディングドレスがいいとか言いそうだなぁ。二人が着たいなら好きなだけ着たらいい。
「……なんならパレードもありか?」
「え、パレード?」
「いや、こっちの話」
そんな話をしている間にも私達の前には豪華な料理が運ばれてくる。美味しそうな香りを立ち上らせる魚料理を見た悟が「あ!」と何かにひらめいた。
「マグロの解体ショーとかやったら面白そうじゃない?」
「解体ショー? 厳かな雰囲気ぶち壊しじゃないか?」
「でも絶対面白くない? 恵が結婚するときにでもやらせようかなぁ」
不穏なことを言い出す悟を諫める。
「恵の式なんだから彼の好きなようにやらせてあげなよ、そういう事言ってると、君、呼ばれなくなるぞ彼の式に」
「えぇ そんなことある? 育ての親みたいなもんよ僕、一応」
大袈裟に驚いてみせる悟に、ふむ、と想像してみる。
「……それに、解体した後どうするんだ? すごい量だぞきっと」
「えーそりゃなんか、料理として出してもらうんでしょ、刺し盛り? みたいな?」
「それだけじゃあ飽きちゃうじゃないか、寿司とか山掛けとかバリエーションもたせないと。折角だから焼いたりせず生で食べたいしなぁ」
他に鮮度を活かしたメニューはないかと頭を捻っている私に「なんだ、僕より乗り気じゃん」と悟が言った。
「もしどうせやるなら美味しい方がいいじゃないか」
「相変わらず傑は食い意地張ってて良いよね、僕傑のそういうとこ好きよ、生きてる!って感じして」
「おい、それは馬鹿にしてるだろ」
周りに気づかれない程度に悟を小突くとヘラヘラ笑いながら「確かにいいかもねぇ」なんて笑っていた。
そろそろ披露宴も終盤、新郎新婦のお世話になった方や両親へ感謝の手紙が送られる。笑顔で拍手を送りながら、ふと自分はこの機会を得ることは難しいだろうなと考えていた。
この世界に足を踏み入れてから今日まで、文字通り必死で歩いてきたと言っていい。たった三人の学友達が今では同僚となり、仲間や両親とは違う家族と呼べる子達もできた。順風満帆とは程遠いが、中々に得難い大切なものを抱えてこれた。
だか、ふと一息ついた時、頭の隅に追いやった十七歳の私が顔を出す。大切に抱えてきた淡い情など打ち消してしまうような、キラキラと輝くときめきや庇護欲や羨望がないまぜになった、手のつけようもない酷く醜い執着が『親友なんて嘘っぱちだろ』と耳元で囁くのだ。
そんな声を幾度となく振り切り厳重に蓋をして、私はこの平穏を守ってきた。私の軽はずみな言動でこの関係性を終わらせることのないよう細心の注意を払ってきた。
……はずなのに、娘達の晴れ姿を想像して涙腺が弛んだからか、ぽろりと言葉が溢れた。
「いいなぁ」
万雷の拍手が新郎新婦の背中に送られる中、口の中で転がすように呟いた私の言葉は、一番拾われたく無い相手にだけ届いてしまった。
「傑も結婚したくなった?」
隣に座る悟が目線は前を向いたまま私にだけ聞こえるように口にする。薄暗い会場の雰囲気に呑まれたのか、普段ならかわす筈の指摘に真正面から答えていた。
「うん、したくなった……でも一人では無理だろう? 私には縁の無い話だよ」
私も彼と同じように視線を動かさず告げた。
するとその時、組んだ脚に乗せていた手に体温の低い手が触れる。内心どきりとしたが、ぶつかっただけだと解釈し期待するなと自分に言い聞かせる。自分の正面に置いた手に偶然彼の手が触れる訳がないのに。
反応を返さない私に、触れた指先が焦れたように動く。指先だけで触れていた手が、ゆっくりと私の手を包み込む。
グッと握られた手に観念し横を向くと、そこには先ほどみた新郎の緊張した面持ちに似た強張った顔の彼があった。
「……僕と二人でも、できないかな?」
その真剣な顔を見た途端、ぶわりと私達二人が大切な人たちに祝福される姿が脳内を駆け巡り、緩みきった私の涙腺を刺激した。
ぽろぽろと流れる涙を慌てた様子で拭いながら「僕ならマグロも酒樽も用意できるよ」と焦ったようにアピールする悟に、涙でぐずぐずな顔を綻ばせ告げた。
「まずは、お付き合いからだろう」
end.