星のあなたへ「東の空から、月が昇ってきました……満月を少し過ぎて、今日は十三夜です」
ゆったりとした曲が流れて、見上げた空が夕暮れから夜に移り変わる。ちょうど向かいになるのは南の空、炭治郎が座っているのは少し東寄りの北側だった。右手側へ頭を傾けると、空が赤く染まり、太陽が沈んでいく様子が見える。
「ここ、きらっと光るこの星が金星です。宵の明星なんて呼ばれて、夕方と明け方に見ることができますね」
天井から染み出すように群青色が広がり、丸い空間が夜空へと変わっていった。街にいるときは見ることができない星が、一つ、二つ、増えていく。
「さあ……そして、真夜中。綺麗な夜空ですね、でももう少し、山奥へ移動してみましょう」
わあ、と広いドームの中に歓声がさざめきのように広がった。隣に座る人も見えないような暗闇、そして頭上には無数の星。炭治郎も思わず声を漏らした。黒いビロードに針で穴を開けたような白い星々は、一粒ずつ、ふるふると震えるように光っていた。
つ、と流れる星が軌跡を残し、一秒もしない内に消える。左手の方で子どもの嬉しそうな声が上がった。
「さて、まず見えてくるのは夏の夜空を代表する天の川、それを挟んでいるのが──」
解説の話に皆、じっと聞き入る。その声は、不思議な魅力を孕んでいた。落ち着いた男性の声なのにどこか掠れたような、少年らしさも感じられる声。抑揚がある話し方は、少し専門的な話も分かりやすく頭に入ってくる。
心地よい声に耳を傾けながら、炭治郎は夏の星座を堪能した。
科学館に足を運ぶのは小学生ぶりで、久しぶりにプラネタリウムを見ようと思ったのも偶然だった。七月末にレポートも出し終わり、前期の試験も先々週に終わった。大学生の長い夏休みだ。
バイトにせっせと通いながらも、どこか持て余す休日、せっかくだからいつもと違うところへ行きたいなと考えていた時に目に入ったのが、電車の中吊り広告だった。
夏休み真っ最中の小中学生向けの広告だったかもしれない。それでも、「最近星を見てないなあ」という考えは炭治郎の中でふつふつと大きくなった。一回乗り換えれば、科学館などすぐに着く。もうすぐ夕方だというのにそのまま衝動的にハブ駅で降りたのは、生真面目で計画的な炭治郎にしては珍しい行動だった。
運良く、十六時からの最後の公演のチケットが余っていた。星空の展示を見て夢中になっていると、あっという間に時間だ。さすが夏休み、家族連れが多い。あとは恋人や、友達同士か。炭治郎のように一人であろう人も、数少ないがちらほらいた。
ゆったりと椅子に座って、リクライニングのフラットさに驚く。夜行バスよりずっと快適だなと先月行った広島弾丸旅行を思い出した。あれは、伊之助が突然「尾道ラーメンってやつが食いてえ」とテレビを見て言い出したのに付き合ったときだ。伊之助は一人でもさっさと行ってこられそうな勢いだったが、そう言われると何だか炭治郎も食べたくなってしまったのだ。
ぼうと白いドームの天辺を眺めていると、BGMが切り替わった。「皆さん、こんにちは」静かな、だが耳によく馴染む男の声が響き渡った。
BGMのボリュームをゆっくり下げながら、退出していくお客さんたちを頭上から眺める。やはり夏休みなので子どもたちが多い。子どもたちが多いと、反応が大きくてやりやすかった。今回も何度か笑いを取れたと、ついつい満足げな笑みが浮かぶ。
学芸員になって四年、善逸のプラネタリウム解説も慣れたものだ。いや、まだまだ若輩者だし諸先輩方には学ぶことばかりだが、それでも初めの頃と比べたら随分上達した、と思う。内容はもちろんのこと、話し方や声の出し方、間の取り方なんかも勉強した。おかげ様で、評判も悪くない。
初めてコンソールを触ったのは学芸員になって一年目、ここを調節すると月が上がるよと言われて興奮した。小さい頃からずっと好きで憧れていた、あのプラネタリウムを自分が動かしているのだという事実は感動的だった。もうすっかり慣れた解説だが、こうしてこの席に座ると今でも静かに心が震える。
「あ、我妻くん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
関係者出入り口からゲートを抜ける。受付の人とは顔見知りだ。頭を下げると「そういえば」と話し掛けてきた。
「今日の最後のプラネタリウムって我妻くんが担当だったよね?」
「え、そうですよ。何でですか?」
「若い男の子に聞かれて。十六時の回の解説の方ってどなたですかって。ファンが付いちゃったね」
「え、ハハ……どうですかね……」
男かあ、と内心落胆する。何故可愛い女の子じゃないんだ。
時折、こうして名前を気にしてくれる人がいるらしい。まあ特に意味はないかもしれないが、きっと自分の解説を気に入ってくれたのだろう……と、勝手に思い込んでいる。始めた頃はそれこそクレームのような、「分かりにくかった」「話がつまらない」「プロじゃないみたい」という耳が痛いご意見ももらったものだが……次こそはと努力して、今があるとも言える。
「あ、もしかして……あの子かも」
「え、」
振り返ると、こちらをじっと見る、大学生くらいの男と目があった。あの子かも、どころではない。あまりに熱量のこもった視線を向けられて若干たじろぐ。え、危ないやつじゃないだろうな。
すたすた、足取り軽く近寄ってくる彼から目を外すこともできず、固まったまま接近を待つ。ぴたりと止まったのはちょうど一メートル先というところだった。初対面にしては、少し近い。
「あのっ!」
腹から出た良い声が入場ホールに響く。わん、と反響が返ってきて、彼自身も声が大きすぎたと気付いたのか「あ、えと、すみません」と慌てて頭を掻いた。
「ごめんなさい、大声出して、えっと」
「や、大丈夫……」
顔を赤くする年下であろう彼が可哀想になり、善逸は気遣うように声をかけた。
「何か用だった?」
「あっその!我妻さん、ですよね?」
「あっはい、我妻は俺ですが……」
「あの!我妻さん!」
カッカと赤くなった頬の艶やかさから、彼の若さを感じる。ボディバッグをぎゅっと握りしめて、彼はまた大声を出した。
「俺!あなたのプラネタリウムが好きです!すごく素敵でした!」
「お、おお……?ありがとう?」
「そっそれで!」
彼は息を吐くと、善逸を真っ直ぐ見た。赫い、眼だ。たじろぐ程にきれいな眼だった。
「俺、我妻さんのことが気になります!」
「うん……うん?」
「あなたのことを、教えてください!」
「……へ?」
呆然としながら家路に着いた善逸は、ベッドに寝転がりながら見上げたロック画面に「竈門炭治郎:よろしくお願いします!」というメッセージが浮かぶのを見ながら「あれは現実だったのか……」と呟いた。