月下の出会い 強い風が吹いて、咄嗟に目を閉じる。瞼の裏で夜の闇が濃くなったのを感じ、それはすぐに月を隠している人物がいるからだと分かった。
空高く跳び上がり、空を仰ぐ炭治郎と月の間に浮かんでいるのは──月下の美しい剣士だった。
「炭治郎ちゃん、今日はもういいよ。それを片付けたら戻って休みな」
「ありがとう叔母さん。でも、あと少しだから」
目の前に広がる稲穂を抱え、鎌を入れる。今日はもうどれだけの稲を収穫しただろう。こうして稲作を営む縁戚の家に炭治郎が手伝いに来るのは、毎年の恒例だった。
「そうかい?そうしたら、暗くならないうちに戻るんだよ」
「うん、分かってる」
炭治郎の家は、裕福ではない。父の炭焼きの技術は一級品だが、それでもそれだけで家族六人が食べていくにはぎりぎりだった。こうして炭治郎が、知り合いの家や親戚の家に手伝いに行き、小金を稼ぎだしたのは十を過ぎた頃からだろうか。数日間だけだが、泊まっている間はご飯も食べさせてもらえる。農家の繁忙期には猫の手も借りたい。そんなときに炭治郎は猫の手ならぬ虎の手並みの働きを見せ「炭治郎は働き者で素直で良い子だ」と、親戚中でも評判だった。
「よし……これくらいかな」
太陽が翳ってきてしばらく経つ。そろそろ戻らなければ、足元が危なくなってしまう。田園が広がるこの一帯では、民家も少なく灯りもない。水路に足を取られぬよう、慎重に歩かなければならない。
「……あれ、何の灯りだろう」
ふと目を上げた先、山の麓にぼうっと灯りが見えた。人がいるのだろうか、こんな時間に?
「もしかして、何か困っているのかな」
今年十三になる炭治郎は、麓の町の人々が困っていることにすぐ匂いで気づくことができた。そのおかげで、この歳でたくさんの人助けを経験している。「ありがとう炭治郎」そう言われると嬉しくて、もっと人の役に立ちたいと思った。
そしてつい、困っていそうな人を見かけると声をかけてしまうのだ。
「あの、どうされたんですか」
日も落ちて、遠くの山に薄く夕日の名残が残るだけ。薄暗がりで離れた人の姿をはっきり見ることは難しかった。それでも、立っている人の形がこちらを向いた気がして、炭治郎は再度声をかけた。
「何か、お困りですか」
その人は──人のように見える影は、頷いたような気配がした。そして、手に持つ灯りをゆっくりと動かして山の茂みの中へ入っていく。
おかしいな、とは少し思った。しかし、困っている人を、こんな夕暮れに見捨てていくわけにもいかない。炭治郎は一瞬迷ったが、茂みに足を踏み入れた。
「はあ、はあ……」
まずいことになったと、炭治郎は理解していた。歩いても歩いても、どこにも行き着かない。五分ほど歩いて、この暗がりは危ないと頭が警鐘を鳴らした。すぐに引き返そうとしたのだが──どういう訳か、すぐそこにあるはずの、入ってきた入り口が見つからない。
「どうして……」
背の高い木がすっかり空を覆い隠し、もう暗闇と言っていい様子になっていた。こんな暗い中では、もう道もわからない。炭治郎は立ちすくんだ。
「ククッ……」
バッと振り返る。小さな笑い声と共に、何とも言えぬ異様な匂いが漂ってきた。今まで嗅いだことのない、腐ったような──血のような、匂い。
「はあっ、はあっ」
自身の荒い息ばかり聞こえて、この声がどこから聞こえてくるのか分からない。もう匂いはそこら中に漂っていて、取り囲まれているような心地だった。
「なーァ坊主、今夜の飯はァ何だと思う?」
じっとりと舐められるような気持ちの悪い声に、炭治郎は息が詰まった。耳元で声が聞こえる。すぐ後ろにいるのだ。すぐに逃げないといけない。だが──足は一歩も動かない。
「今夜はなァ……馬鹿な餓鬼が一匹だ!」
「んんっんんー!!」
べとついた何かが炭治郎の口を塞いだ。手を掴まれ、足を引き倒され、炭治郎は茂みを引き摺られる。浮き出た木の根が頭にぶつかる。湿った地面がこめかみを強く擦った。
「さァて……ふむ、痩せてはいるが、意気がいい……悪くないな」
「ぐっ、んんー!んー!!」
ぐんと引っ張られ、視界が開けたことから宙に浮いていることを知る。暗闇の中、月明かりに浮かび上がるのは、人ではなかった。あれは──何だ?
「まァ、痛くないように食ってやるよ。一飲みなら、そう苦しむこともないだろう?」
体中に回されているのは、舌だった。赤黒くてべとべとしたものが、舌なめずりするように炭治郎の体を這う。本来の口の位置から下にずれたところにある大きな二つ目の口が、にたりと笑った。
「じゃあまず……頭からかなァ」
「んっ!んんー!!んー!!」
ぎゅっと体を締め付けられ、炭治郎は必死で身を捩った。その拍子にずるりと舌が動いて顔が自由になる。
「助けて……!」
か細い一言が、余計に炭治郎を絶望に落とした。この状況で、一体誰が助けてくれるというのか?
逃がさないと言うようにすぐにまた舌が巻きつく。脳裏に浮かんだのは家族だった。父ちゃん母ちゃん、ごめんなさい──禰豆子、竹雄、花子、茂、六太、不甲斐ない兄ちゃんでごめん、置いていってごめん──
醜悪な臭いが迫り、生温かい息がかかる。ああ、
「雷の呼吸 壱ノ型」
足音、物凄い勢いだ、ドンッと大きな音がした。次の瞬間、炭治郎は宙に浮いていた。
「──霹靂一閃」
地面に転がって、強い風に一瞬、目を瞑る。瞼の裏で月の明かりが消えた。薄目を開けて、彼が月の前に跳び上がっているのを見た。キン、鍔の音が鳴る。背中に金の色を背負う彼は、美しかった。
ドザザザ、と枯葉の上に落ちる音から、体に巻き付いていた舌や何やらが全て刻まれて落ちたのだと分かる。遅れて、彼が落ちてくる。難なく着地して、そして──何か様子がおかしい。
「あ、あの……」
炭治郎はどうにか身を起こすと声をかけた。しかし、彼は座り込んだまま動こうとしない。なんとか這いながら近付くと、がくんと彼の体が倒れた。
「おわっ!?」
慌てて手を差し伸べてその体を支える。黄色い羽織の中には、軍服のような詰襟を着込んでいた。しかしそれよりも目を引くのは、月よりも綺麗な金の髪だ。
「だ、大丈夫ですか……?」
声をかけるとふるりと瞼が揺れた。……まつ毛まで金色だ。
「う、うん……?」
開いた眼に炭治郎は息を呑んだ。まるで、月がそこにあるかのような瞳だった。金色で輝いていて──
「綺麗だ……」
「んん……?ん?えっ?」
彼はぱっと目が覚めたのか体を起こすと、まじまじと炭治郎を見詰めた。
「えっ鬼は?えっ?」
「ええと……」
「鬼、鬼の音……もうしない、ということは倒したの?えっ君が?」
「い、いや……」
「一体どこへ……ってギャーッ!!転がってるッ!首転がってるーッ!!」
立ち上がった彼は、辺りを見回すとすぐに先程の化け物の首を見つけた。怖いなら見なければいいのに、うろうろと回っては舌の切れ端を見つけて「ヒィーッ!!」と叫んでいる。
「何なのこいつ、舌何本あるのさ!?」
「多分、六本くらいだったと思う……」
「何それッ何それぇー!?怖すぎでしょ!二本でも多いのに六本って!?」
ひとしきり騒いだ彼は、すとんと炭治郎の前に腰を下ろすと、炭治郎の手を握りしめた。
「あ、ありがとうぅ……君は命の恩人だよぉ……」
「え?いや、違……」
「助かったよぉ……!!」
おんおん泣く金色の彼に呆然としながら、炭治郎はとりあえず、そっとその背中に手を回したのだった。