手紙『親愛なるレイシオ教授へ』
『貴方をお慕いしています』
そんな書き出しから始まっていた一枚の手紙は、書類やレポートと一緒に、研究室のポストへ無造作に投げ込まれていた。
飾り気のない真っ白な封筒や同じく装飾のない便箋を読み返しても、差出人の名前はどこにも書かれていない。
自分が受け持っている生徒の誰がだろうか?
しかし、学生たちのレポートなどの筆跡を思い返しても心当たりがない。
まるで教科書の活字の様に画一的に綴られる文字は、本人の几帳面な気質が見えるようで案外好感が持てる。
『貴方を愛しく想う気持ちに身を焦がれ、眠れぬ夜を過ごしています』
概ねそのような事が書かれた手紙は、ラブレターなのだと認識した。
もの好きな人間がいるものだと思った。
まわりから嫌われている、ということは常々認識しているが、好意をこのような形にして手渡されたのは初めてだった。
「ふむ……」
さて、この差出人不明の手紙をどうしたものか。
名前もそうだが、恋文の定型文と思われる『付き合って欲しい』とも『恋人になって欲しい』とも書かれていないあたり、返事を期待しているものではないのだろうと推測する。
少し考えて、デスクの引き出しの中を漁り、ファイルを取り出す。
この件については、一旦保留することにしようと、ファイルに挟んだ手紙をレターボックスへ立てかけた。
***
「へぇ?それで、君は今もその手紙をご丁寧に保管してるわけ?」
研究室のデスクの上に、書類では無いものが乗っているのが珍しかった。
真っ白な何も書かれていない封筒は、クリアファイルに挟まれて、他の書類と混ざらないように置かれている。
「そうだな」
「捨ててしまいなよ、そんな得体の知れない物。差出人がわからない物なんて、気味が悪くないかい?」
「まあ、そうだな…」
しかし、さらさらと書類にサインを記入していくレイシオは、珍しく機嫌が良さそうに見える。
「…あれ?もしかして教授、まんざらでもなかったりする?」
「ああ、そうかもな」
「…そんなに、ラブレターを受け取った事が嬉しい?」
「手紙を受け取ったこと…というよりも、その筆跡や文章に好感が持てると感じた」
「たとえば?」
「印刷物のように画一的に並んでいる文字だが、文字のバランス、形が非常に整っていて美しい。おそらく、文字の構造を見る基礎がきちんと身についている、またはそれだけ定着する程度に文字の反復練習をしていたのではないかと推測できる。あとは、文章についても一見平凡なラブレターに見えるが、ところどころに詩的な表現が見て取れる。かなり本を読んでいるのか、古典作品の引用もあるな。中々にセンスがいい。ただ、あまりにも僕を神聖化•偶像視しているきらいがある。この点については大きく減点、と言ったところか」
「…君、紙切れ一枚見ただけで、そんなこともわかるの?」
「…ふん。君こそ、手書きで記される文章の中に含まれる情報の多さを侮っているな。ほら、終わったぞ」
あれだけペラペラと話していても手元の仕事はしっかりと片付けられていたようで、気づけば目の前に書類の束が入った封筒が差し出された。
「ああ…ありがとう」
中の書類を軽くチェックして再び封筒に戻す。
「君も忙しい身だろう。カンパニーの高級幹部がわざわざこんなところまで足を運ばなくても、部下をうまく使えばいい」
「それはそうなんだけど。この書類はちょっと急ぎで受け取りたくてね。それに、忙しいのは教授もお互い様でしょ?お茶、ごちそうさま」
手にしていたティーカップをソーサーに戻す。
「今度は書類じゃなくて、このお茶に合うお菓子を持ってくるよ」
ひらひらと手を振って、レイシオの研究室をあとにした。
受け取った書類を手にピアポイントへ戻る道すがら、嬉しい気持ち以上に、気分がすごく落ち込んだ。
誰からの手紙かもわからない物で、あのレイシオが嬉しそうにするなんて。
複雑な感情にひたすらモヤモヤする。
結論から言えば、手紙の差出人は自分だ。
自分自身の気持ちに、少しだけ整理をつけたかった。
もちろん、この気持ちを受け入れてほしいとか、新しい関係を築きたいとか、そんなつもりはなかった…いや、ほんの1ミリくらいはあったかもしれない。
けれど、結果として無記名の手紙を「気味が悪い」と破り捨ててもらえればそれでよかった。
今からでも『手紙の差出人は僕でした』と名乗り出てみようか…と思わなくもないが、こんな後出しの状態で名乗り出るのも憚られる。
『からかうな』と怒られるだろうか。
それとも『君だったのか』と幻滅されるだろか。
いずれにしても、素直に喜べない状況なのは確かだった。
とぼとぼ…と普段ではあり得ないくらい重い足取りで執務室へ帰り着いて、はぁ、とあからさまな溜め息と共に自分のデスクへと腰を下ろす。
それなりに厚みを持った封筒の中身を取り出せば、無機質な文字の合間に、流れるような手書きの文字が踊っている。
レイシオの推測した通り、文字は相当練習した。
もちろん学校などは行っていないし、奴隷時代がそこそこ長かったから、文字の読み書きはまともにできなかった。
カンパニーに拾われた時、ジェイドには指に血が滲むほど文字の反復練習をさせられたし、文字の読み書きができるようになってからは教養としてそれなりの数の本を読まされた。
そんな経験がまさか、あのベリタス•レイシオの好感度に直結するなんて思いもしなかった。
彼は僕の文字を美しいと言ったけれど、あれはわざと筆跡をわかりにくくなるように変えていた。
普段はもう少し自分のクセが出ているはずだ。
意外にも線の細い万年筆を好む彼だけれど、反して力強く走るような文字は彼自身のようで、彼の文字こそ美しいと言うのではないだろか。
そんな事を考えながら想い人の直筆の文字を指でなぞっていると、ふいに、書類の隙間から何かが落ちた。
ひらひらと揺れて視界を横切っていったのは、白い封筒。
拾いあげれば、まさに今、自分の憂鬱の原因となっているそれだった。
先程、書類を受け取った時に誤って紛れてしまったのだろうか?
けれど、よくよく見れば封筒は封がされている。
「…うそだろ……」
恐る恐る封を開いて中を見る。
そこでようやく、してやられた、と頭を抱える事になった。
***
大学の講義も全て終わり、そろそろ帰路につこうかと荷物をまとめていると、デスクの端末が着信を告げる。
「随分と遅かったな、ギャンブラー?」
通話をオンにして、少し皮肉を込めて言えば、スピーカー越しに
『やってくれたね、レイシオ』
と恨みがましい声が聞こえてきた。
「だから言っただろう?君は、手書きで記される文章の中に含まれる情報の多さを侮っていると。それに、身についているクセや習慣というのは、どんなに誤魔化そうとしても隠しきれないものだ」
たとえば、文字のちょっとした撥ね方、筆圧、インクの種類や愛用のペンの太さなど。
些細なことがいくつか積み重なれば、個人の特定に繋がり得る。
『アハハ、さすがだよ教授!それで、せっかくだから、その答え合わせと…ついでに君の"返事"も聞きたいのだけど?』
「…いいだろう。ちょうど僕もこのあとの予定は空いている。君の答え合わせに付き合おう」
通話を切れば、すかさず持ち合わせ場所と地図が送られてくる。
それを確認して、僕は研究所をあとにした。
もちろん、あの無記名の白い封筒を持って。
***
『親愛なるギャンブラーへ』
『返事は要らないのか、アベンチュリン?』