鉄血/ガエリオと馬 その馬を見た瞬間、脳裏を過ったのはとうの昔にこの世を去った男の姿だった。
栗毛の牡の仔馬、衆人環視に晒されようが大して気にも留めないのか歩様に乱れはなく、幼さの中に気概を感じさせた。
古希を迎えたボードウィン卿がサラブレッドの競り市に臨んだのは、単なる偶然だった。若い頃ひどい大怪我を負ったという彼は、人生の大半車椅子での移動を余儀なくされたが、生来の屈強な体躯は老いてなお衰えることなかった。
生まれた牧場でも同年の仔馬たちと遊ぶわけでもなく、一頭だけぽつんと立っていることが多かったという。
ガエリオ・ボードウィン卿が亡くなった。
最後の星が落ちたのだと、かつてのセブンスターズの威光を知る人々は一つの時代がいよいよ終わりを迎えたことを理解した。
その死は唐突に訪れた。自身の所有馬が出走するレースの直後に起こった心臓発作で、数時間も経たない内にその人生に幕を閉じた。シーズンの最後に行われるグランプリレース。影さえ踏ませぬ孤高の疾走。そのゴール板を駆け抜けた瞬間、ぷつりと糸が切れたかのようにその歩様を乱した。異変に気付いた騎手が下馬し、その脚を見れば無残にも力無く揺れていた。その頃には関係者や観客のなかにもただならぬ状況を察して不穏なざわめきと、あるいはすすり泣くような声が広がりつつあった。誰が見ても、予後が芳しくない状態だった。
「誰にも見せない心の内を、あの馬にだけは見せていたようでしたから」
淡々とボードウィン夫人はそう語る。嫉妬でも悔しさでもなく、ただそう感じたのだという彼女の中の事実だけを述べた言葉だった。
「足が不自由でしたから、あの子に会いに行くときは誰かと必ず一緒でしたけれど。別に何を話すわけでもないんです。仮に話していたとしても、馬も人の言葉は理解できないでしょうから、会話が成立しているわけではないんです。けれど、それでも種を超えた何かが、彼らにはあったのだと思います」
色素の薄い、金のたてがみをなびかせてゆっくりと牧草地を闊歩する尾花栗毛のサラブレッド。馬主としてのボードウィン卿の生涯最後の、そして彼の所有馬随一の傑作。
「あのひとは逝き、あの子は命を繋ぎました。……不思議なものですね、人の、生き物の生死とは」
その婦人の視線の先で、父譲りの眩いたてがみを靡かせて若駒が駆けていた。