鉄血/ガエリオとジュリエッタ 永遠ではなく、けれど不変の。
寒さは嫌いではない。互いの身を寄せ合うための格好の口実になるから。
別に訳もなく引っ付いても許されるだろうけれど。
温かさを保証する柔らかな寝具に包まれながら窓の外を見遣る。ほとんど白に近いような薄い青の空と、鈍い色の常緑樹や裸木の木立に目を遣る。温暖な海域を漂うことが多いヴィーンゴールヴにある自宅から見える景色と、色も空気も何もかもが違う。すべての景色の彩度は低く、太陽光は薄い雲の向こうから射していてどこか遠く感じる。慣れ親しんだ潮の匂いを多く含んだ大気はここにはなく、湿った土や木々を感じさせるものが取り巻いている。馴染みのないはずのそれらは、けれど決して不快ではなかった。たとえ自立が叶わない身ではあっても、大地に足を下ろしているのだと実感するからだろうか。宇宙空間とは明らかに違う圧倒的な安定感。それでいて絶えず変化する景色。薄い雲が流れて太陽がさっきよりもやや強い光を地上に落とす。一瞬たりとも同じ風景は無い。移ろう時間を感じられるのは大地の上で生きているからこそだ。あれほどに長く星の海に身を置いていても、結局自分が帰る場所はこの惑星の大地だった。
これは人類共通の郷愁だろうか。それともコロニーや火星で生まれた人間はやはりそこに帰りたいと思うのだろうか。
アインはどう思うのだろうか。
かつて隣に立っていた青年から、その答えを聞くことはもう叶わないが。
とりとめのない思考が漫然と垂れ流されていく。徹底的に甘やかしてくるようなふわふわの布団の温かさがもたらす多幸感と、目が覚めたのなら速やかに起床すべきであるという体に染みついたルーチンがせめぎ合っている。
あーもうちょっとこうしていたい。
寝起きの頭でぼんやりとそんなことを思っていたら、少し離れた場所から声がかけられた。
「起きていらっしゃいます?」
ベッドに寝転がるガエリオと視線を合わせるようにジュリエッタがしゃがみ込む。
「こんなにベッドを出たくないと思ったのは久しぶりだ」
今とてもだらしない顔をしているに違いないと思ったが、ジュリエッタしか見る者はいないし、彼女には今更取り繕うだけ無駄だった(共同生活も長くなれば互いにだらしない表情の一つや二つ、それ以上無数のみっともない部分だって晒すしかない)
「あなたいつも寝起きは良い方ですものね」
めずらしく起床を渋るガエリオにジュリエッタが小さく笑う。極力肌の露出を控えた暖かそうな服装だった。防寒目的のニットはあの都市ではほとんど見ることはない。
「ヴィーンゴールヴよりずっと気温が低いですし。温かいところから出たくない気持ちはわかりますよ」
「君は寒いところには慣れているのか」
「慣れているというほどではありませんが。ただあなたよりは耐性があるのではないのかと」
幼い頃から様々な地域を転々としてきたジュリエッタの方が気候的な変化に強い。対してガエリオはヴィーンゴールヴで生まれた文字通りの温室育ちで、あまり寒冷地の気候に慣れていない。出発時の服装にしても「北アーブラウの寒さ舐めてます?」と本気でダメ出しをされた。
「風邪を引きたくなければ、多少荷物になろうがもう少し防寒具を持っていった方がいいですよ」
果たしてそのジュリエッタの言葉は事実だったのだが。滅多に着ることのなかった防寒着は、ここ数日の生活で大活躍している。
アーブラウの北部地方。真冬ともなれば白い雪で埋め尽くされる地域だが、今は紅葉の時期の最後だった。それでも気温は低く、この地に降り立った瞬間の風の冷たさに驚いた。
普段の暮らしとはまるで違う――言ってみれば、別世界に来たようだった。
「上が休みを取らないと他の奴らが取りにくくなるだろう。有給と金を持て余している新婚夫婦は、たまにはリフレッシュして経済でも回してこい」
わざわざ呼び立てるものだから何事かと思えば、ラスタルが勤務表のデータを表示しながらそんなことを言う。
「もう新婚でもないと思うがな」
「そうだったか?」
どこか楽し気にラスタルはジュリエッタの個人データを呼び出す。履歴事項の変更欄には二年前の日付で彼女にボードウィンの姓が付け加えられたことが記載されていた。
「というか、それ人事の仕事だろ」
組織の頂点に立つ人間が、一個人の労働状況をわざわざチェックしてあまつさえ休みを取れなどと言うことはない。
「たまたま時間が空いていたからな、暇つぶしに見ていたら、お前達二人とも今年度の有給消化率が低い」
暇つぶしに部下の勤怠チェックとか、この人こそワーカーホリックなんじゃないのか、とガエリオは声には出さずひっそりと心中で呟いた。
「規定の休日は取得しているし、休む理由もなかったので」
「理由など何でもいい。しばらく長期休み取ってないだろう。どうせ年が変われば消えていく年休だ。使ってしまえ」
そういうわけで半ば無理矢理一週間の休暇を押しつけられた。監査も終わり予算作成シーズンが終わったばかりなのも幸いし、部署での調整も、どうぞどうぞと二つ返事で終わってしまった。まとまった休日など久しぶりだったので、その使い道を考えあぐねていたら、「そーゆー時って旅行でも行くんじゃないの。いいじゃん、たまには非日常体験ってヤツでもしてくれば」と整備主任。
「ここに住んでるとあんま季節感ないしね。今北半球は秋って忘れそう」
一つ所に留まらず、世界各地をまわり続けるヴィーンゴールヴに四季などというものは存在しない。
「旅行ねえ……」
車椅子での移動を考えると、観光地でのアクティビティにも限りがある。かと言って、人で溢れかえる都会にわざわざ休暇で行くほどの興味もさほどない。
「家のことやって買い出しに行ってうまい店で食事するくらいしか休みの過ごし方が思いつかない」
「ちょっとー、それリフレッシュ休暇じゃなくて単発の休みでもできるでしょー」
休み下手かっつーの、と半ば憤慨しながらヤマジンは私用端末に手を伸ばす。
「どこがいい? アフリカンユニオンだと欧州が人気だけど、あーでもやっぱアーブラウかな」
仕事をそっちのけで旅行案内のページをスクロールするヤマジンを見ながら、技術屋って凝り性多いよな、と独断と偏見の感想をガエリオは脳内だけで収める。
「この辺りどうよ? 北アーブラウ紅葉見納めプラン」
「それ君が行きたいやつ?」
「そうとも言うね」
適当に表示させた会員制リゾートのページでは、貸し切りのヴィラでの連泊プランを推し出している。
「あ、ここ利用権うち持ってるかも」
「うっそ、やだこれだからハイソは」
数年前にだいぶ財務整理は進めたが、この権利は手放してはいない、はずだ。
「系列のホテルには何度か泊まったことがある。確かに感じが良いところだったな」
「いやー相当高いレベルなんだけどさ、ここ……」
羨望と呆れが入り混じった複雑な表情でヤマジンが見遣るが
「家でジュリエッタとも相談してみるか」
その言葉を聞いた瞬間、口角を上げる。
「何か?」
「んー? いやね、あんたと初めて会った時はまさかこういう感じになるとは思っていなかったからさ」
訝るガエリオと目線を合わせる。
「あー生きてる人間なんだなーって」
「幽霊かと思ったか」
あながち間違いでもなかった。ヴィダールは本来存在しない人物だ。ガエリオ・ボードウィンは確かに一度死んだ身だった。
「良い意味で生活感が出てきたってこと。結婚してからは特に」
ヤマジンは端末を手放し、コーヒーが淹れてあるタンブラーに手を伸ばす。
「例のシステムについては、一応私も片棒担いでるからさ」
彼女がいわゆるマッドサイエンティストの類に分類されるであろうことは、ガエリオも否定しない。そうでなければいくらラスタルの管理下とは言え、禁忌の技術に手を出そうとはしないだろう。後ろ暗さを嫌う真っ当な精神構造の人間であればそんなこととは無縁に生きていくはずだ。技術者としての好奇心、探求心が人としての倫理を上回った結果が疑似阿頼耶識システムの実用化だ。もっともその恩恵に与った身からすれば、感謝はあっても恨むことはない。その結果どうなろうが、選択したのは結局自分だからだ。
「被験者が同意した以上、どうなろうと正直私には関係のないことだけど。ただまあ目の前をサンプルがうろうろしているんだったら、元気にしてもらってた方が寝覚めが良いわけよ」
まあ技術者のプライド? みたいなのもあるしさ、とヤマジンはまだ高い温度を保つコーヒーをちびちび飲みながら付け加える。
「ちゃんと人間生活してるってわかると安心なわけ」
ジュリーとよく話しなよ、と彼女は私用端末から仕事用の端末に持ち替えて作業途中だった機体の整備に戻る。
「人間生活ねえ……」
ふむ、と残されたガエリオは思案を巡らせる。
大して変わり映えの無い、ありふれた日常。それを享受することのできる自分は、きっとたぶん人間として生きている。それだけはたしかなことだった。
そして何だかんだとしている内に月日は過ぎ、今こうして北アーブラウの晩秋を漫喫しているわけだった。
「そういえば今日は流星群の極大日なんだそうですよ」
「へえ肉眼でもよく見えるのかな」
湿った土の匂いを吸い込む度に、冷気が鼻孔を通って肺に送り込まれる。吐く息は白く、直接大気にさらされる頬が冷たくなっていることを覚える。
「野外演習を思い出します」
ジュリエッタはそう言ってコーヒーのカップを持ち上げる。急に口を付けても火傷しない程度の温度になっているが、まだ十分温かさは残っている。
「わかる。森の中だからかな」
ウッドテーブルを挟んで椅子に座るガエリオは、気候に相応しく相当に着込んでいる。もっとも演習中はこんな呑気に話などしないが。
「寝てる間にもよくわけのわからない生き物が出たりするから、ろくに眠れやしない」
「あなたもそのような訓練していたのですね」
「これでも軍事教練は一通り受けてる。教官は容赦無かったからな。別に優遇はしてくれなかった」
出自はどうあれ、ギャラルホルンに属する者として、最低限の知識と技術は叩き込まれている。自分自身はもちろん、配下の人間の命を預かる責任を求められるからだ。彼が生まれついたのは人々の上に立つことを予め定められた家だった。幸か不幸かその絶対性は今や揺らいでいるが。
ぼうっと上空を見上げていれば、星が流れていく。
「……あれ、北極星か」
カシオペア座の特徴的な星の配置からほどなく、天頂に座す小さな光。
「おおぐま座のしっぽから5倍、でしたか」
「そう、それ」
星の配置にある程度理解があるのは大自然のロマンを感じるためではなく、GPSも方位磁石すらないような状況でも方角を知るための手段だった。
「あの星だっていつか北極星ではなくなる」
ぽつりとガエリオが呟く。
道標のはずのそれも、絶対のものではない。数千、数万年の後にはその座は違う星のものになる。
たしかなことなど、この世には存在しない。
それでも、変わらないものが欲しいと思うのだろう。
たとえば、人のこころ。うつりゆくその最たるもの。不変のそれなどありはしないのに。
ひとつだけでいい。永遠には遠い人の寿命の長さだけでいい。たしかなものに触れることができたなら。
「永遠ではなくても、あなたが生きて死んでいくまでの間、たかだか数十年、それまで一緒にいてさしあげますよ」
こちらの方をちらりと見もせず、程よく熱が冷めたコーヒーをすすりながらジュリエッタはそんなことを言う。
「……俺、何か口に出していたか?」
内心の動揺を無理矢理押し込めて、おそるおそる顔を向ける。
「いいえ。でもまあ、何か感傷的なことでも考えていたのでは?」
「お見通し?」
「あなた、顔に全部出るタイプですから」
それをわかってあげられるのは、たぶん、アルミリア様か私くらいですよ、と妙に得意気な表情をされた。
「さすが、よくわかってるじゃないか」
必要以上に笑ってみせたのも、目元に滲むものを誤魔化すためと、きっと君は知っているのだろう。