一週間の信者 午前の授業が終わると、お弁当を手に第二音楽室を目指す。吹奏楽部の部室である第一音楽室からあふれた楽譜が倉庫代わりに仕舞われていて、あとは古いピアノが一台置かれているだけのほとんど使われていない空き教室。
一週間前から、私はそこでお昼を過ごしている。
いつも昼食を囲う友人が欠席した一週間前、偶然にもその日、私は出会ってしまったのだ。
教室の前まで来ると、柔らかいピアノの音が漏れ聞こえてくる。音はそこにすでに人がいることを否応なく示しているのに、誰かを拒む気配は一切無い。むしろ招いているみたいに優しく鳴り響くから、私も吸い寄せられるみたいに扉を開く。
「こんにちは」
「こんにちは。ごめんね、煩いかな?」
「いいえ、お構いなく!」
煩いなんて、そんなこと全く無いのに。むしろ貴方のピアノを聞きに来てるんです、なんて言ったら驚かせてしまうだろうか。
適当な席にお弁当を広げて、ピアノ椅子に腰掛ける優雅な姿を盗み見る。ペダルを踏む上履きは、上級生の色をしている。数センチ開いた窓から吹き込む風に色素の薄い髪がふわふわと揺れ、すみれ色の瞳がゆっくりと瞬きを繰り返す。
逢坂先輩。見た目の特徴を頼りに友人に訊ねれば、彼がその人であると知ることができた。「二年の進学クラスの先輩だよ。密かにファンも多いの、知らなかった?」と、やけに詳しかった友人はすぐに私の事情を察して、悩ましげな顔で「まぁ頑張りな」と私の背を叩いた。
釣り合わないのはわかっている。わかっているけれど。
あの日、どうせなら一人で過ごせる場所を見つけようと校内を彷徨っているとき、こうしてピアノを奏でる逢坂先輩に出会ってしまったのだ。
『一年生? 僕も最近使うようになったけど、静かでいいよね。君さえ良ければ、ピアノを弾いていてもいいかな』
物腰の柔らかい口調に、私はこくこくと頷くことしかできなかった。
本当は話しかけてみたい。ピアノお上手ですね。昼食はどうされてるんですか? 部活は入っていますか? よければ、お友達になってもらえませんか。
だけど私にはそんな勇気がなくて、いつも静かに先輩の奏でるピアノへ耳を傾け、ただお弁当を食べてぼぅっとして終わる。不思議と、それがいちばん心地がい。
ここはまるで教会だ。来るものを拒まず、どんな罪を侵した者でも等しく受け入れてくれる。先輩の奏でる音楽は聖歌のように人の心を清らかにする。先輩は本当は神様に仕える人なんじゃないか。そんなことすら頭に浮かんで。
だから、会話なんて必要ない。心地の良い音楽を聞いているだけでこの気持ちを理解してもらえているように感じる。これがどれほど素晴らしいことか、クラスの誰も知らないの。
「……——いいかな?」
甘い声がすぐ近くで聞こえた。気がつくと、端正な顔が目の前にある。
「きゃぁぁあ?!」
「わわわごめんなさい!」
悲鳴を上げた私に驚き、逢坂先輩も大きな声で謝罪をする。先輩の大声ってこんな感じなんだ。
「ごめんね、もうすぐ予鈴がなるから声をかけた方がいいかと思って」
一級品の細筆のように整った眉が、それはそれは申し訳なさそうに下がる。満腹になった私はピアノの音に酔いしれ夢うつつになっていたらしい。
「こちらこそ、すみません!」
恥ずかしい。失礼にも程がある。
真っ赤になりながら慌てて片付けをする私を、逢坂先輩は穏やかな瞳で見てくれていた。落ち着いて、慌てなくていいよ。そんな声が聞こえた気がして。
予鈴のチャイムが鳴り響いた。
明日こそ、先輩に話しかけよう。
密かにファンがいるとは聞いたけど、彼女がいるとは誰も言っていない。それに、毎日ああして使われていない音楽室に来ているのなら、可能性はなおさら低い。
向こうも自分に興味があるのかも、なんて図々しいことは願わないけど、悪くは思われていないはず。
上機嫌で決心して早々、話しかけるきっかけにお菓子を作ろうと図書室でレシピ本を借り、さて下校しようとしたところで忘れ物に気がついた。
第二音楽室に水筒のボトルを置いたままだ。午後に飲む用事がなくて気が付かなかったのだ。
第二音楽室の並ぶ校舎は、昼以上に静まり返っていた。日も傾いてきた時間に訪れるのは初めてだったが、第二というだけあって使われていない教室ばかりなのだろう。
だからこそ、その音ははっきりと響く。
「ピアノの音……このメロディ……」
逢坂先輩——……?
鼓動が早くなるのがわかった。放課後も先輩がいたなんて知らなかった! どうしよう、どうしよう、どうしよう。このまま、いっそのこと突撃してしまおうか。もしかしてこれは、私と先輩を見守ってくれていた神様がくれたチャンスなのかもしれない。明日とは言わずに、決意を固めた今すぐに行きなさいという、神様からの思し召し!
興奮を抑えながら教室の前まで来る。ピアノの音はまだ鳴っていた。息を整え、前髪も整え、震える手で扉に手をかける。
「やっと来てくれた」
愛しい先輩の、甘い、甘い、声。
扉の向こうで、ピアノの音が止む。
「あんた、本当にしつこい。まじで一週間ここでピアノ弾いてたの」
知らない声が扉をすり抜けて届く。
「弾いてたよ。君が来るまで、ここで待ってるって言っただろう」
「暇かよ。進学クラスじゃねーの」
「関係ないよ。成績なら問題はない。君と関わることで僕に影響があるとしたら、それは全部いい影響だよ。だから、怯えなくていいんだ」
傷ついた動物に寄り添うみたいに、先輩が優しい言葉を紡ぐ。それとは対象的に、私の目の前はどんどん暗くなる。扉にかけたままの指先が硬直したまま動かない。
「……バチが当たったり、しない?」
「しないよ。そんなことする神様がいるなら、僕も一緒に罰を受けるよ」
「信じていい?」
「もちろん。もちろんだよ……だから、僕の素直な気持ちを聞いて?」
翌日の昼休み、第二音楽室には誰の姿もなかった。机の上に置いてけぼりの水筒ボトルには、薄紫の付箋が貼り付いている。
『昨日、忘れていたみたいなので勝手ながら持ち帰って洗わせてもらいました。気持ち悪かったらごめんね』
気にし過ぎなほどの配慮が添えられたメッセージはくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
使われていない楽譜が並んで、古びたピアノが置かれているだけの教室。何の音もしなければ、誰かを待っていることもない。
ここが懺悔室だと知った私は、それから二度とこの教室へ足を踏み入れることはなかった。