フラワーパニック!(後編)「あ、大和くん! ごめんね!」
電話で告げられた楽屋へ急げば、「IDOLiSH7 和泉三月 様」のプレートの前で万理さんが待っていた。
「収録中は頑張ってたんだけどね。フリートークで大和くんの話題が出て、なんというか……寂しくなっちゃったみたいで」
苦笑いしながら、万理さんが扉を叩く。「三月くーん? 大和くん来てくれたよー」と声をかければ、中からどたばたと賑やかな音がした。
「お疲れ、ミツぅぅ?!」
僅かに覗いた杏頭に声をかけてやれば、ドアの隙間から伸びた腕が、俺の胸倉を掴んで中へと引きずり込んだ。これ今日の衣装なんですけど?! 抵抗する間もなく楽屋に吸い込まれる俺。扉が閉ざされる直前、万理さんが「次に呼ばれるまで誰も入れないからねー!」とにこやかに告げるのが聞こえた。
ドアの向こうからは薄く人の声がする。歩いていくスタッフに、万理さんが挨拶を返す声。多くの人間が滞在するはずのテレビ局から、この楽屋と、俺とミツだけが切り離されたみたいだ。
「……ミツ?」
「遅いっ」
「えっ、あ、ごめんなさい」
咄嗟に謝れば、俺の胸元にぴったりとくっついたミツがむすーっとした様子でこちらを見上げていた。わざとらしく膨らませた頬。今どき子役だってやんねぇぞと言ってやりたいのに、ミツに惚れてる俺はかわい~~~と思うことしか出来ず。そうこうしてる間にぐいぐいと手を引かれて、小上がりになっている畳に座らされる。
「やまとさん」
「はいはい」
「好き!」
「っ、ありがとう」
「ちゅーしよ!」
「しっ……ません」
「なんで」
「なんでも」
あ、拗ねてる。ぷくっと膨らませた頬でミツが顔を近づけるのを直視しないように、テーブルに置かれた弁当を眺める。そういえばお腹空いてたんだっけ。
「ミツ、とりあえず弁当食べない? おまえさんもお腹空いてるでしょ」
「大和さん、お腹空いてんの?」
「もうペッコペコ」
「オレのこと食べる?」
「た?! 食べませんよ!?!? さっきから何?! まじでおまえ俺のこと襲う気だろ!」
「だって大和さんのこと好きだもん!」
「う……うれしいけどぉ。嬉しいけどあんまり言わないで……」
昨夜から何度繰り返したかわからないやりとりを再放送させていると、ミツが「本気だよ」と呟いた。甘く溶けていた瞳が、いつの間にかミツ本来の琥珀の光を宿している。
「わかってるよ。今のオレが、いつもと違うってこと。でも、今までの大和さんのことだって、ちゃんと覚えてるし想ってる。その上で、今のオレはあんたが本気で、心の底から好きなんだよ……なのに、言っちゃだめなの?」
「ミツ……」
俺の衣装を掴むミツの手に、一層力が入る。わからなくなりそうだった。このミツは、本当に、いつも俺たちと過ごしている和泉三月のままなのではないか。錯乱だか催淫だかは解けていて、ミツが本当に愛の言葉を囁いているのではと、こちらが錯覚しそうだ。
だとすれば、確かめなくてはいけない。彼は本当に、俺が惚れたあいつなのか。
「ミツ、こっち向いて」
「へ? ……んっ、」
俯いていたミツが顔を上げる。それと同時に、ミツのすっきりとした顎先に指を添えるとさらにこちらに寄せるように誘導した。そのまま、小さな口元に触れるだけのキスをする。
あーあ、こんなつもりじゃなかったのに。
レンズ越しに、ミツが視界いっぱいに映る。大人しく目を閉じて受け入れたミツは、顔を離すと「やっとしてくれた!」と嬉しそうに笑う。そのボディから、固い拳や回し蹴りが飛んでくることはない。
「ミツ、俺のこと好き?」
「好きだよ! 大好き!」
「いちばん?」
「当然! 大和さんが、オレのいちばん!」
躊躇いなく紡がれる言葉は胃もたれをしそうなほど甘いのに、静かに心を冷やしていく俺がいる。
「じゃあさ」
ミツが、大きな瞳を瞬かせる。次の言葉をそわそわと待ち望む姿はライブ前を思わせてどこか懐かしくなった。
「アイドル、辞めれる?」
ファンよりも俺がいちばんだと言うなら。俺のために、アイドルを、IDOLiSH7を辞められる?
先ほど触れた唇が、ゆっくりと弧を描く。
「うん! オレ、アイドル辞めてもいいよ!」
だってオレのいちばんは大和さんだもん! と、ミツが無邪気に笑った。
「……は、ははは、っははは!」
腹を抱えて笑い始めた俺を、ミツが不思議そうに見る。俺は涙さえも浮かべて笑っていた。
そっか、そうだよな。
やっぱり、俺が好きになったのは、こいつになら人生を狂わされてもいいと赦した相手は、ひとりしかいないよな。
「俺も、ミツが好きだよ。ずっと、多分この先も、ミツがいちばんだよ」
「大和さ」
「でも俺が惚れたのは、アイドルって夢を何があっても諦めずにここまで走ってきた和泉三月だ」
笑みを浮かべていたミツが固まる。
「おまえさんじゃない」
「なん、で」
今にも泣き出しそうに歪む顔に、確かにミツは感動しやすい泣き虫だけど、こんなことで泣くやつではないだろ? と、心の中で語りかける。
「俺とミツから『アイドル』を取ったら、俺達の関係には何も残らないからだよ」
なあ、思い出してくれよ和泉三月。
「あのときオーディションを受けていなかったら俺はそれ以上ミツと関わることはなかったし、ミツが夢に向かって努力してる姿を見なかったら、俺はミツに惚れなかった。……もしも本当に親父のことを暴露してIDOLiSH7を滅茶苦茶にしていたら、ミツは例えまやかしでも俺を好きになんてならなかった」
犯罪者だとしても嫌いにはならないと言ってくれたけど。嫌いにならないだけで、そこから進むことはきっとない。
「ミツからの『好き』って言葉はさ、俺が心の底から欲しかった言葉だけど……でも永遠に聞くはずのない言葉だったんだ」
「だから、ごめん」
ミツの瞳が光を失っていく。
この楽屋に辿り着く前、電話越しに万理さんから聞いた話を思い出す。
花の作用を消す方法。
それは、「強いショックを与えること」。物理的でも、精神的でもいい。とにかく強い衝撃、ダメージを与えて脳を正常な状態へ戻す。そんな、壊れたブラウン管を叩いて直すみたいなやり方で? と半信半疑だったが、目の前のミツの反応を見るに成功だったらしい。
「や、まと、さん」
衣装を掴んでいた手から力が抜けていく。ぐらりと傾いた上半身を俺は胸元で受け止めた。
気を失ったミツは、すぐに規則正しい寝息を立てている。そのことにほっとして、苦笑した。
「俺にフラレることが解除方法なんて、どんだけ試されてたんだよ」
俺がミツに流されていれば、いつまでも花の作用は消えなかったわけだ。神様、流石に厳しすぎない?
いっそ俺もミツに玉砕すれば、この気持ちはすっかり消えるのだろうか。
「……なわけないよなぁ」
頭の悪い考えはすぐに自分で打ち消す。花なんてなくても、残念ながら俺はミツにベタ惚れなんだよ。この一件についてはミツはもちろん、俺も被害者だけど、どさくさ紛れに奪ってやった唇だけで、釣りが来るとさえ思うくらいには美味しい思いをさせてもらった。
でもこれ以上は何もできないなと、さらりと流れる杏の髪をただ静かに撫でていれば腕の中でミツが身動いだ。
「ん……」
「おっ、起きたか?」
「……やまと、さん、?」
ぼうっと半分だけ瞳を開けたミツが、俺の顔を見て、周囲を見回して、ミツの肩を支える俺の腕を見つめて、それから、もう一度俺の顔に戻る。
甘く蕩けてハートを浮かべた瞳もかわいらしかったが、溶けかけのべっこう飴のようにとろりとして、覚醒しきっていない瞳も悪くないのでは。そんなことを思いながら声をかけてやる。
「大丈夫か? 気分悪かったりしない? えーっと、どこから話そうかな。あー、まずミツは覚えてないかもしれないんだけど実はおまえさんは俺が育てていた花を食って大変な目にアッ?!?!」
ッゥーー……と、か細い息が痛みを逃がすように歯の隙間から漏れていく。鈍い音を立ててキマったのは懐かしささえ感じるボディブロー。横っ腹に一発。
「……このエロジジイ。人の寝込みに何してたんだよ……」
じんじんと痛む腹を押さえる俺の前に、ゆら、と起き上がったミツが立ちふさがる。飴玉の瞳はいつの間にやら鋭い目付きへ。
もしかして。もしかしてだけど。
「み、ミツ? 三月さん? とりあえず落ち着こ? おまえさんは今とんでもない勘違いをしている」
「この体勢のどこが勘違いだって? 聞かせてみろよ」
「いやいや、だからそれは気を失ったおまえを介抱してやってただけで…、」
「へー。大和さんの介抱は気を失った相手の肩を抱くことなんだ。そういうの誰にでもやってんの?」
「やってねぇよ! なんなのおまえさん! もとに戻ったと思ったら寝起きから元気良すぎだろ!」
「問答無用! くらえっ!」
「ッデェ!! マジ蹴りはアウトだろ!」
靴を脱ぎ捨てて畳の上へ逃げる俺の背に、ミツが容赦なく膝蹴りを食らわす。と同時に、軽いノックに「ごめん入るねー」とのんびりした声が聞こえたかと思えば、ドアが開いて万理さんが顔を覗かせた。
「賑やかだと思ったらやっぱり! 三月くん復活したんだね」
「復活?」
きょとん、と首をひねるミツと、その足元でぺしゃんこになった俺を眺めながら万理さんは嬉しそうに笑った。
「たっだいまー!」
「ただいま戻りました」
「いぇーい! 俺ら帰還!」
「懐かしいスウィートホームの香りデス!」
数日分の荷を抱え、ぞろぞろと玄関に入ってきた年下メンバーたちを笑顔で出迎える。
「おかえり!」
「おかえり。みんなお疲れ様」
「お疲れー。元気そうだな」
「全ッ然疲れた! そーちゃん王様プリン!」
「冷蔵庫にあるよ」
「俺もアイス食べたい!」
「ワタシはマイルームのここなたちに帰宅の報告をしマス!」
帰宅早々、いつも通りな連中に自然と頬が緩む。大人だけの静かな夜も悪くなかったが、やっぱり小鳥遊寮はこうでなくちゃウチじゃない。
賑やかにそれぞれがリビングや自室へ進む中、イチが手にしていた紙袋をミツに差し出す。
「お土産です。名産の漬物だそうで」
「おっ、さんきゅー一織! ちょうど付け合わせが一品欲しかったんだよ。あ、夕飯作ってたとこなんだけどさ」
「久しぶりの兄さんの手料理、楽しみにしてました。……それより兄さん、体調を崩していたと聞きましたが大丈夫ですか」
ギクッ、と俺が露骨な反応をしたことにイチは気が付かなかったようで、ただ心配そうに目の前の兄を見つめていた。
例の錯乱状態になっていた間、下手な返しをさせないようにとミツはスマホさえ取り上げられていた。その間にやりとりをする可能性のあったメンバーには、俺とソウから、ミツは体調を崩しているので連絡は控えるようにと伝えていたのだ。
あー、と声を溢したミツが一瞬だけこちらを見る。ミツ本人も、あの状態でいた時間についての記憶は曖昧らしく、現場の収録をした覚えはあるがそれ以外の……主に俺に関わる記憶についてはすっぽりと抜けているらしかった。
花を食べてからあと、ぺったりと俺にくっついて愛の言葉を囁き続けていたことも、恋人みたいに手を繋いだことも、触れ合うだけのキスをしたことも。
それでいい。
白昼夢みたいなものだったんだ。
「ちょっとバテちまっただけだよ! 仕事に穴も開けてないし、もうピンピンしてる!」
「そうですか? それならよかったです」
「おう! 心配かけてごめんな。すぐ夕飯仕上げるから、一織も荷物片付けておいで」
「はい」
ミツにしては上手く誤魔化したじゃん。今回の一件がイチにバレれば俺の明日はおそらく無いので、こちらとしても一安心。さて、お兄さんもリビングに戻りますか、とミツの横を通り抜けると、後ろから「大和さん」と呼び止められた。
「今、ちょっといい」
「え……いい、けど」
了承すれば、料理途中でエプロン姿のミツがそのまま各自の部屋がある廊下へと走っていく。ついて来い、ってわけではなさそうだなと大人しく玄関の前で待っていれば、一分も経たぬ間にミツが戻ってきた。
ぱたぱたとスリッパの音を立てて駆けてくるミツの顔は険しい。正気に戻ってから、ミツの俺への風当たりはやたらと強く、ろくに口を聞いてもらえていなかった。まだなんか言われんのかな。またあの状態になってほしいわけでは決してないけど、せめていつも通り、落ち込んだときには優しく甘やかしてくれればそれだけで十分なんですけど……。
「はい、これ」
「ああはい、えっ?」
差し出されていたのは植木鉢だった。土から伸びる緑にはまだ蕾はついておらず、ソウの頭みたいな双葉が揺れている。
「えっこれ……アレじゃないよな……?」
「ちげーよ! 普通に、マリーゴールド。部屋で育てられるやつ」
復讐か仕返しかと身構えていた俺に、ミツがぼそぼそと呟く。
「あんたが大事にしてた花、オレがだめにしちゃったんだろ。……あんま覚えてないけど」
「えっ、ああ……お詫び的なこと?」
「……まぁ、そう」
「そう……そっか」
差し出された鉢を受け取ろうと手を出せば、一瞬だけ指先が触れた。ミツが慌てたように手を離すので、落とさぬようにしっかりと受け止める。
「あ、ごめん……」
「はは、セーフセーフ」
受け取った鉢は、あのオレンジの花の鉢より一周りほど大きかった。それでも室内用というだけあって、十分、窓際で育てられそうだ。
「これ、何色が咲くの?」
「何色だろ。咲いてからのお楽しみかな……どれがいいとかあった?」
「いや? 何色でもいいよ、大事に育てる」
ありがとう、と返せばミツが僅かに耳を赤く染めて頷く。『あのミツ』には見られなかった恥じらいにぐっと心を奪われかけ、いやいやと打ち消した。
封じ込めておくと決めたというのに、やっぱりどこか、ひとときの夢を忘れられずにいるらしい。
こりゃお互い元に戻るにはもうしばらくかかるかな。
「じゃあオレ、夕飯の仕度に戻るから」
「おう」
「……枯らすなよ」
「枯らさないよ」
絶対に咲かせてやるよ、と、いつかと同じやり取りにミツがやわらかい笑みを残して去っていく。
なんとなく、手の中のマリーゴールドはオレンジ色の蕾をつける予感がした。
ひとまず部屋に持っていこうか、いっそリビングで育てようかと迷っていれば、不意に玄関のチャイムが鳴る。
「すいません、小鳥遊です」
「マネージャー?」
扉越しに聞こえた声に慌てて鍵を開けてやれば、数日ぶりのマネージャーが薄く額に汗を浮かべて立っていた。
「みなさんを降ろして事務所に戻ろうとしてたんですけど、後ろの席からアラームが聞こえて」
ふふ、と笑って彼女が見せたのは赤いケースに包まれたスマホだった。言わずもがな、我らがセンターの私物である。
「ったく、リクは治んないなぁ」
「ロケ先じゃなく、移動車だったのでまだ救いかなと」
「それはそうだけど……そうだ、ついでにマネージャーも夕飯食べていきなよ。ミツとソウとも久しぶりだろ」
「ごめんなさい、今夜は久しぶりに社長と夕飯を食べる約束をしていて」
「はは、それもそうか。出張明けだもんな」
マネージャーが年相応の笑みを浮かべて嬉しそうに頷く。かと思えば「そういえば、大神さんから伝言が」と思い出したように声を潜めた。
「プライベートなこともあるので詳細は控えるとは伺いましたけど、大変だったみたいですね」
「あ、あーうん、まあね」
ミツを体調不良と偽ったために、せめて彼女にだけは事のあらましを伝えておこうと決めたのは、騒動の後、更に話し合った結果からだった。流石に俺からは言いにくく万理さんにお願いしたが、適度にボヤして伝えてくれたらしい。
「三月さんが食べてしまった花については、然るべき機関で検査も行って、一度作用が落ち着いたなら、今後もそれ以上の人体への影響はないそうです」
「そっか。それならまあ安心だわ」
よかった、と改めて息をついた俺は完全に油断をしていた。最後の一撃のように、何も知らない紡マネージャーが続ける。
「それで、花の正式な作用も判明したとのことで」
「正式な?」
錯乱状態と幻覚と、催淫とかいうちょっとスケベな作用じゃなくて?
「はい。過去の事例とも照らし合わせたところ、どうやら、普段抑制されている理性や感情が溢れて興奮状態を引き起こす作用が最も強く……海外では自白剤にも使われることもある花だったみたいです」
「……自白剤?」
「自白剤です」
キリッとした顔つきで返すマネージャーの声が、だんだん遠くに聞こえていく。鉢を抱える腕が震えて、鼓動がうるさくなってきて。
「だから本当に心配だったんですけど、収録もいつも通り……って大和さん大丈夫ですか?! 顔真っ赤ですよ!」
「え? ああ、うん、へーき、お兄さんは平気だから」
どくどくと、力強く脈を打つ血液が体温を上げていく。秘めていたはずの思いが、これ以上は隠しきれないぞと"お互いに"囁く。
思い出すのは、知ってしまった二つの音。永遠に聞くはずがないと思っていた言葉たち。何度も触れたことがある手のひらの、絡めたことはなかった指先の温度。それから。
全てが本音というわけではないだろう。興奮状態に引っ張られ、勢いづいて出たものもいくつもあるはずた。
あるはずだけど。
でも。
だけど。
とりあえず、今夜はあいつを晩酌に誘ってみようかな。いいことがあったら飲むと宣言していた、とっときの酒を開けてしまおう。
窓際に鉢を飾って、あいつが、俺の好きな子が、「何かいいことでもあったの」と聞いてきたとして、ひとまず。
花が開く前祝いだと誤魔化すくらいは許してくれよ。