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    harunoyuki

    20↑腐 フィガファウ/ブラネロ いつもありがとうございます

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    harunoyuki

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    フィガファウ/フィを追う呪いを、ファが討伐しようとする話/両片想いだけど身体の関係はある

    #フィガファウ
    Figafau

    おまえが月の道を歩くならおまえが月の道を歩くなら『凍らずの湖のほとり、地脈の交わる針葉樹の森。──危急の折には、頼るといい』

    ──いつもそうだった。
    危機的状況に陥れば陥るほど、冷静に最適解を導き出すのは、あいつの声。
    悔しいけれど──この身体は、あいつの教えで出来ている。

    「真の姿を現せ、《サティルクナート・ムルクリード》」

    封印を解いた呪いの手鏡からぞろりと這い出てきたものに、息を呑んだ。
    仕事柄、おぞましいモノはそれなりに見慣れているが──これは、異常だ。
    そも本体が何だったのかすら、辿れない。人間も、魔法使いも、虫、魚、蛇、鳥、狼、──生前はおそらく「そう」であったろうものの、数え切れないほどの異形が蠢く集合体。ゆうに僕の上背を越すそれが、人の言葉を話す。

    「ヤッと、ミツケた、ふぃがろのデシ」

    おまえが月の道を歩くなら
    ──たまたまだった。
    久しぶりに買い出しに来た中央の市場で、その時は普通の老人の姿をしていた呪いに、「魔法使いか?」と声をかけられたのが、そもそもの発端。
    知った気配ではなかった。沈黙を是と捉えたのか、老人は続けた──「フィガロはどこだ?弟子でもいい」と。
    ああもう!無視してさっさと立ち去ればよかった、だがあいつの名を聞いて、足が止まった。それが運の尽き。……というか、弟子「でも」いい、ってなんだ!あいつ何をやらかしたんだ、どうせ覚えていないなどとぬかすんだろうけど!こっちの身にもなれ、はた迷惑な!せっかくの休みだったのに!引きこもりが珍しく外出したらこれだ!
    気になっていた新刊を買って、試したい薬草や媒介を吟味して、お気に入りのインクとコーヒー豆も補充して、ああ、東の頑張り屋の生徒たちに何かお土産も探そうと思ってた。帰ってからのネロの食事だって楽しみにしてたし、猫も撫でる予定だった、昨日初めて触らせてくれた新顔の子猫が、今日はお腹を見せてくれないかな、なんて──全部パーだ!
    後で相応の埋め合わせをさせてやる、ちょっとやそっとの酒なんかじゃ騙されないぞ!あいつめ!!

    「アあ…ウツクしイ、ホシのヒト…」
    「なぜ僕に、いや、あいつに用があるのかは知りたくもないが。
     ──そのような呪いを振りまくのを、見過ごすわけにはいかない」

    ──話を戻そう。そう、呪いだ。
    あの後、老人はぱたりと動きを止めたかと思えば、急に消えてしまって、後には手鏡が残された。何の変哲も無い品だったが、間違いなく呪われていた。小さくとも、あんな街中の道端に放っておくわけにもいかない。だから浄化するつもりで、念には念を、大地の助けを借りたくて、ここを──東の自分の家ではなく、かつて教えられた北の地を選んだ。
    ちょうど市場に買い出しに来たというネロと、不承不承荷物持ちをやらされているらしいブラッドリーに行き会って、伝言を残すことができたのは幸いだった。これから解呪のために北へ行ってくる、残念だけど夕食はまた今度、と。
    魔法舎に──あいつがいる場所には持ち込みたくなかった、とにかく呪いの目的があいつなら。いや、戻ればあいつはしたり顔で、さも当然のように手を貸しに来る、それも嫌だった。今更師匠面をするな、何年経ったと思ってる。僕はもう、不出来なままの弟子じゃない。

    「ソラをアルいテ、ウたッテ、オドろウ」

    しかし、これは──無理だ。
    先ほどの老人の比ではない、凄まじい邪気だ。悲嘆、悔恨、憤怒、怨嗟、絶望──無数の怨念が絡み合った混沌そのもの。たとえ地脈の助けを借りられたとしても、ひとりで攻撃をかわしながらの浄化は、とてもじゃないが手に余る。
    判断は素早く冷静に。かつての師の声が思考を叱咤する。
    ──倒すしかない。よしんば倒せても瘴気が長くこの地を侵すだろうが、こうなった以上、後には退けない。

    「サあ、サビシくナイよ、イッショにイきヨウ」

    子供が歌を乞うように。呪いが、動いた。同時に、こちらも鏡を展開させる。
    己の魔導具である鏡。ブラッドリーの長銃やシノの大鎌などと違い、道具そのものに敵を倒す力は期待できない。つまり攻めるにも守るにも魔法が必須──そしてそれは、オーブを魔導具とする師もまた同じだった。
    だからこそ、その指導は熾烈を極めた。たった一年の修行の間、死ぬかもしれない、と思った回数は、両手ではとても足りない。
    その厳しさはいつも、ともすれば柔らかな物腰に隠されてはいたけれど。今ならわかるのだが──あれは存分に、愛でもって(当人に自覚はなくとも)甘やかされていたのだ、と。

    『いつか、自分より強い奴を相手にしなきゃならない時が来るかもしれない』

    ──この軍で、フィガロ様もついていてくださるのに、ですか…?何だか想像がつきません。
    ──おや、嬉しいことを言ってくれるね。じゃあ、ちょっと俺でやってみようか?加減はするから。
    ──そ、そういう冗談は止めてくださいフィガロ様!

    『最低限の動きで、最大限の効果を出すこと。そのためには、まず魔力の制御をもっと精密にしないとね』

    ──うう…、フィガロ様は、息をするみたいに、これを為しておられるのですね。僕には、とても…
    ──大丈夫、きみならできるよ。慣れればほら、箒の立ち乗りでダンスをするのも気持ちいいものさ。
    ──わ、わ、フィガロ様!お、落ち──ひゃっ、ちか、近いです!

    『ひとつより、ふたつ。ふたつより、みっつ。異なる魔法を同時に発動させられること』

    ──これは日々心がけているね?
    ──はい!ええと…まず朝フィガロ様を起こしながら、お部屋のカーテンを開けて御髪を整えてお着替えを用意する、とか…
    ──そうだね…君は優秀すぎてときどき困っちゃうな…

    『隙をつくこと。こちらの意図を悟らせず、油断を誘い、急所を狙って…っぷは!?』

    ──やった!こういうことですね!
    ──きみね…、水浴び中に俺に水鉄砲なんて、いい度胸してるじゃない。
    ──ふふっ、フィガロ様の弟子ですから…わぷっ!わわっ!?魔法は反則ですよフィガロ様!

    蛇の道は蛇、という諺が、賢者の世界にはあるらしい。
    五つの呪いの魔方陣、それぞれを己の五体と対応させ、自らの血で描いて鏡に隠す。つまりは自らの命を天秤に、求めるのは対象の死。
    今、こちらの鏡は四つまで砕かれて、すでに呪いの手鏡に取り込まれている。手元に残るは、あとひとつ。
    ──まだだ。まだ、気づかれてはいない。
    それぞれの魔方陣は、単体では効果を発揮しない。五つを同時に発動させて、初めて呪いとして完成する。

    『最後にひとつ、教えておこう──それは、自分より強い魔法使いの呪文を「借りる」こと。ただし、』

    ──魔力の相似、言葉の力、互いの理解。どれが欠けても、否、万全でも命に関わる。だから、これは知識だけに留めておきなさい。
    ──それは…例えば、僕がフィガロ様の呪文を唱えたら、ということ…ですよね?
    ──何でもない時なら、何も起こらないさ。でもきみが真に望んで詠唱したなら…いや、それより俺を呼んでよね、すぐに行くから。

    いい加減息が上がって、ふらついた瞬間、地面に叩きつけられて、帽子もサングラスも飛ばされた。くそ、僕は肉体派じゃないんだが!
    だらりと血が目から頬へと伝う。額を切ったか。拭えばグローブが鮮やかな赤に染まった。治癒は後だ、この血を五つめの呪いに。そう気を取られていたところに、続けざまに呪いから火球のようなものが飛んできた──まずい!
    ──その刹那。
    どぉん、というほとんど轟音と同時に、湖から水飛沫が上がって、滝のように降り注いだ。一瞬、火球の勢いが弱まった──何が起こった、と思うより先に、指先は動いた。今だ!
    なお溢れ落ちる血を掬い、最後の魔方陣をしたためるだけの時間はあった。けれど直後に火球が次々に爆発して、今度は樹にしたたかに背を打ち付ける羽目になった。咳き込んで吐いた血が、地を染める。黒衣の端が焦げていて、皮膚が焼ける匂いが鼻についた、…全く、僕は悉く火に縁がある。
    視界の端で最後の鏡が砕けて、呪いに吸い込まれていくのが見えた。そろそろ魔力も限界だ。
    ──それでも。

    「…ふ。僕を、誰の弟子だと、思ってる」

    たとえ燃え尽きて、腐っても。ここで膝をつくなんて、できるものか。
    あとは一言、呪文を唱えるのみ。そうすれば呪いの本体は砕かれて、力を使い果たした僕は死ぬだろう。その石を拾うのは──あいつだろうか。
    いつだって薄い笑みに本音を隠して、それなのに気づいてほしいと零す、どこまでも不器用な、迷子の大人。その男が、僕だけに、近いうちに逝くと明かした。それが呪いだというのなら、これは。

    「──呪い返しだ、ざまあみろ」

    僕の石を見つけて、あいつはどんな表情をするだろう。
    僕が先に死ぬなんて、きっと思ってもいないだろうから。血相のひとつでも変えるだろうか。いつもいつも、いつまでも、何だって結局自分の思い描いた通りにしかならないと諦めている、その傍観者面を引っぺがせるなら。
    想像したら、馬鹿みたいに胸がすいた。いっそ笑えてくる。この目で見られないことだけは、心残りだが。
    さあ、僕の悔恨も執念もすべて、あいつの呪文で──滅せよ。

    「──《ポッ…」
    「──待った。それはきみには、まだちょっと早いからね」

    ぴと、と指先ひとつで詠唱を、つまり唇を封じられた。目の前に、見慣れた白衣が翻る。

    「荒療治になるけど、我慢して──《ポッシデオ》」
    「──っぐ、あ、かは…ッ」

    ──なんで。それすら口にする暇も与えられなかった。
    一瞬だった。一瞬で──発動寸前だった五つの呪いの魔方陣が、鮮やかに反転した。
    馬鹿な!フィガロは知らないはずだ、この呪いの原理は僕が嵐の谷で、試行錯誤して組み上げたものだから。とはいえ実戦で使うのは初めてで、なら命を賭けてまで誰を呪うつもりだったのか、って?いやそんな話は後でいいだろう、とにかくそれを──この男、空間を切り裂いて現れたや否や、一瞥しただけで、すべて真逆に書き換えて発動させた──祝福に!そう、祝福になって返ってきた、僕自身に。そのために捧げた鏡も魔力も血も、すべて。
    同時に全身の傷という傷、切り裂かれた肉も溢れる血も砕けた骨まで、五体の痛みをねじ伏せて治癒魔法が叩き込まれる。ついていけない、頭も身体も悲鳴を上げた。目眩、頭痛、吐き気。ひどい荒療治だ!思わず歯を喰い縛って──今度は口の中にシュガーが放り込まれていることに気づいた。いつの間に?
    ようよう顔を上げれば、呪いの塊はフィガロの面前ですでに絞め上げられていた。この男は!呪文ひとつで!どこまでやらかすつもりだ!時の流れすら、この男の前に跪くのか?

    「小賢しい亡霊どもが…、全く、弱い狗ほど群れたがる」

    そして──戦慄する。わかっていた。わかってはいたが、このひとは。
    叡智の真髄、偉大な神様、魔王の右腕、──北の魔法使い、その象徴のような男。

    「誰に歯向かったのか、身の程を知れ」

    駄目だ、止めなければ。考えるより先に身体が動いて、腕に追い縋っていた。英雄にも聖人にもなれなかった、たかが四百年前の死に損ないに何ができるか、なんて。──神様だったら分かるのだろうか。

    「──フィガロ!待って、待ってくれ!あれは呪いだ、僕が浄化する」
    「そんなこと分かってる。でもきみだって倒そうとしていたろう?」
    「それは──、僕ひとりだったから、そうするしかなかった、でも、おまえがいれば、」
    「必要ない。消滅させる方が早い」
    「だが!そうしたら、この一帯は不毛の大地に…っ」
    「瘴気が広がったところで、こんな北の僻地にどれほどの影響が出る?
     それに、それならそれで、何らかの手を打てばいいだけの話だ」
    「フィガロ、おまえ…何を、そんなに…」
    怒っている?
    「──きみを傷つけた。それ以外に、理由なんてない」
    たった、それだけのことで?
    「……ッ、あれは!呪いに呑まれていても、言葉を話した!意識があるんだ!元は人間か、魔法使いか…、この世界に等しく生きる生命だったはずなんだ!
     おまえは、あれが僕だったとしても、同じ選択をするのか!?」
    「──きみは、ああは、ならないよ」
    「……ッ、」
    馬鹿だ。呪うということは、逆に返され取り込まれる危険と常に隣り合わせだ、他でもないおまえが僕にそう説いた。
    それなのに。なんで、こんな時に限って、そんなふうに言い切るんだ。僕の四百年を、何も知らないくせに。──まるで、今なお、全幅の信頼を寄せているみたいに。
    「俺に何の用があるのか身に覚えは…ありすぎて覚えていないけれど。
     俺の弟子をダシにした、目の付け所は悪くない。
     だが、北に生きた者ならわかっていよう──人のものに手を出すのがどういうことか」
    すらりと長い腕が、美しい星のオーブを掲げる。いつもは夜の海の青を湛える円球が、今は煌々と照り映える月のよう。
    ああ、炎とは、熱いほど、真白くなるのだった。この憤怒を鎮める術が、果たして僕に残されているか。もはや頼れるのは物理の力しかない、ただひたすらに、縋る腕に渾身の力を込めて叫んだ。
    「──フィガロ!!」
    「……、ファウスト、」
    煩しげに溜め息をつかれ、ようやく視線が交わったと思えばそれは──北の眼差しだった。
    心臓が凍りついた。初めて直に向けられたかもしれない。こんな、あからさまに邪険にされたことなんて一度たりとてなかった、昔も今も。甘えていたのだ、結局は。どこまでも北の魔法使いであるこの男が、ただの若造にすぎない僕を、石にしない保証なんてどこにもない。
    きっと、あの頃なら、動けなかった。千年を越えて北の地を生きる、敬愛する師の言葉だ。反駁もできなかっただろう。
    でも──今は違う。たったの、それでも四百年。
    確かに断絶だった。けれど、それが全てじゃない。たとえ目に見えなくたって、繋がっているものがある。それはこの男も同じはず。こいつが本気なら、僕はもう黙らされていて、次の瞬間には、この男が思い描いた通りに、全てが終わっていただろうから。
    「──フィガロ。
     同じ賢者の魔法使いであるあなたを信じて、助力を請う。あの呪いを、僕は浄化したい。それが今の僕の為すべきことで、それにはあなたが必要なんだ」
    「…これは魔法舎への依頼でも何でもない。結果どうなろうと、誰も頓着しないよ」
    「──それでも。
     救えるものがあるのなら、僕は手を伸ばしたい、たとえ握り返されなくても」
    「……それで、きみ自身が傷つくことになっても?」
    「そうだ」
    「……、それが、きみの戦い?」
    緑の星の眼を見上げて、はっきりと頷く。

    「……、あーあ。これじゃあ、俺が格好悪いだけになっちゃうな」
    「……フィガロ?」
    大袈裟に肩を竦めておいて、フィガロは、けれどなぜか嬉しそうに笑っていた。
    「──誰に向かって言ってるの、ファウスト」

    とん、と。
    あらゆるものを滅ぼし時に癒す、そして実際にそうしてきたのだろう指先が、今は僕の心臓の真上を差す。

    「きみの望むようにしたらいい。言っただろう、きみのことは、俺が守る。
     この程度の邪気、ただの一欠片も、きみに触れさせはしない」

    それだけ言うとフィガロは、呪いに向き直り、魔導具を掲げた。

    「ファウスト、きみなら大丈夫だ」

    ──ああ、あなたはきっと、知らないだろうけど。
    導標だった。進むべき道を見失った時の、極北の一等星。
    挫けそうになった時にはいつだって、あなたのその言葉が、もう一度、僕を奮い立たせてくれたんだ。──あなたが姿を消した後でさえも。

    「……ありがとう、ございます。…フィガロさま、」
    「──」

    だから、額をそっとその背中に預けて、それだけ。その言葉だけは、自然に零れた。
    白衣を隔てた向こう側で、一瞬、ふるりと肩が震えた気がしたけれど。ささやかな体温はすり抜けるように離れていった──フィガロが、一歩前に踏み出したことによって。

    「さて、光栄にもご指名のようだから。お望み通り、遊んであげよう」

    星のオーブがひときわ煌めく。それを合図に、長身が地を蹴った。はためく白衣は翼のよう。
    彼の魔力は、水のごとく流麗、氷のごとく峻烈。ときに風となって空を裂き、炎となって牙を剥く。深い青の魔方陣が、呪いの邪気とぶつかり合うたび、空に星屑が散った。

    「ダンスがいい?それともリュートを弾いて歌おうか?
     ああ、空中散歩も悪くない──ご覧、今夜は月が綺麗だ」

    ──見よ、北の叡智は、かくも美しい。
    極限まで研ぎ澄まされた魔力。目的を果たすその一点において、一切の無駄のない所作。いま、彼の為す全てに意味があり、因果の流れのもとに帰結するのだ。

    (相変わらず、見惚れるよ──悔しいけれど)

    かつて確かに弟子と認めてくれたこのひとの傍にあって、恥じぬ者でありたい。
    深く、呼吸をひとつ。己の果たすべき役目のために。

    「──青き星の涙より生まれ落ちたるものよ」

    極北の湖の水を用いて描いた魔方陣が、祝詞を受けて紫に輝く。
    それは地脈の流れと重なり、やがて穏やかな炎となって足元に広がった。ぱちぱちと焚火のように音を立ててもそれは、そこにある草木も人も傷つけることはない。かつてはこの身を焼いたもの。それでも僕の魔力は、この形をとって具現化する──因果なものだ。
    今はただ、これが迷い子たちの悲しみを癒す光となって、彼らの道行きを照らしてくれるように。

    「水は血に、血は火に、火は灰に、灰は雪に──あるべき姿へと還らん」

    浄化の炎が翼を広げた。暁を思わせる紫の。
    言葉も視線も交わすまでもない。心得たとばかりに、ひときわ大きく跳躍したフィガロが、僕の後ろに降り立った。すでに彼によって尽く邪気を祓われ、丸裸にされたに等しい呪いの塊、それが正面に迫る。
    ──ああ、見える、綻びが。

    「祝福あれ!長き悲嘆の夜は明けて──事は、果たされぬ」

    目前で、狂ったように呪いがその巨躯のまま襲いかかってきた、けれどそれはフィガロの結界によってあえなく弾かれ、反動で大きく仰け反る。その間隙を矢の如く紫炎が走り、あっという間に呪いを包み込んだ。時が止まる。静寂。
    ──終わりだ。

    はらり、ほろり。絡み合う怨念を、ほどいてゆく。
    ひとつ、またひとつ。彷徨う魂を掬い上げ、祈る。

    「《サティルクナート・ムルクリード》──憩え、安らけく」

    ***

    ちゃぷん、と。目の前に、水の情景が広がった。
    水面を跳ぶ。飛沫に貴重な北の陽光が反射する。思い切り伸びをしたら水の中へ。お気に入りの洞で、心ゆくまで眠る。目覚めれば、闇の先に青が見える。茫漠たる海。舞い踊る、小さな生命たち。数多の生と死を見届けた幾星霜。見上げた光。北では珍しく波のない、夜のしじま。満月が水面に道を作る。ああ、この風景は知っている。あの先に──

    「──ファウスト、ファウスト。そっちじゃないよ、戻っておいで」
    「……う、っぐ、」
    「息を吐いて、ゆっくり、そう。手を握っているから、それを辿って。俺がわかる?」
    「は…ッ、……、ふぃ、がろ…?」
    「うん。おかえり──よく頑張ったね、ファウスト」
    重い瞼をこじ開けると、声の主が、気遣わしげに覗き込んでいた。
    「……呪い、は…」
    「消えたよ。塵ひとつ残らなかった」
    「…おまえ、は?」
    「ん?」
    「…怪我は、ないのか」
    「ああ、俺?平気だよ、このくらい」
    「……本当か?...さ、てぃ…」
    「──待って待って。きみ、自分の魔力の状況、わかってる?
     浄化した魂と一緒くたになって、もってかれそうになってたんだよ?
     というか俺、そこまで信用ない?」
    は?自分の胸に手を当てて聞いてみろ、消えてしまいそうなのはおまえの方じゃないか。言いたいことは山ほどあったが、さすがに疲労がそうはさせてくれなくて。
    黙りこくると、苦笑とともに、シュガーを差し出された。仕方ない、大人しく口を開ける。相変わらず綺麗な星の形をした、甘くて苦い塊だ。
    「いい子だ。──起きられそう?」
    褒めるように頭を撫でられて初めて、膝枕で──膝枕!本調子であったなら絶対に願い下げだ!──しかも手を繋いだままであることに気づいた。掌が熱い、いや、僕の方がひどく冷えていた。ついさっきまで水底にいたみたいに。
    とはいえ、振り払う体力も、悪態をつく気力も、まだない。支えに従ってひとまず身体を起こし、木の幹に背中を預けた。身体の傷はすっかり癒えていた。
    「寒くはない?」
    フィガロの寒さ除けの魔法とシュガーのおかげだろう、だんだんと血の巡りが戻ってくるのがわかる。大丈夫だという意味で頷いたつもりだったが、ふぁさ、と白衣を掛けられた。消毒液と、それから、北でもない、東のものとも違う、南で育つ薬草やハーブの乾いた緑の匂いが、ささやかに香る。突き返す気にはならなかった。……別に、嫌なわけでは、なかったから。それだけだ。

    目の前には、何事もなかったかのように、静かな湖畔の風景が広がっている。
    「呪いは…、元は結局、何だったんだろうか…」
    「実体のない怨念ばかりが集まって、たまたま手鏡に取り憑いたのかな。そこに、俺を探している奴や、きみを知ってる奴が混じってたのかも。
     いずれにせよ、こうして浄化は成功している。さすがは俺の弟子だ」
    「……ふん、何が、弟子だ」
    「……あれ?もしかして、詠唱を止めたの、根に持ってる?」
    「……」
    「ファーウースートー」
    「──うるさい。どうせ僕は、どう足掻いたって、あなたに、全然、届かない…」
    「……そんなことないよ。
     あんな状態で俺の呪文を唱えてたら、呪いは倒せても、きみは確実に石になってた。それで?弟子のマナ石を、師匠に片付けさせるわけ?ざまあみろって?──俺への呪い返しのつもり?」
    「…………」
    寸分違わずその通り。ぐうの音も出ない。さすが僕の師匠だな、なんて天地がひっくり返っても言わないが。
    「そんな無茶をしていいって教えた覚えはないけどね。
     でも、あれほどの呪いを相手に、たったひとりで、よく堪えた。──間に合って、よかったよ」
    「……別に、」
    ひとりでは、なかったけど──あなたの教えが、あったから。
    「…うん?ファウスト?」
    「……いや、何でもない」
    その時だった。
    ぴゅーい。不思議な鳴き声が、かすかに空気を震わせた。

    湖面から、器用に頭を覗かせてきたそれに、フィガロはさして驚いた様子もなく、歩み寄った。
    「……久しぶりだね」
    ぴゅーい。
    「縮んだ?はは、違うよ、きみが大きくなったんだ」
    「──な、フィガロ、それ、…精霊、なのか?」
    頭部だけでもフィガロの上背をゆうに越えている、魚というにはずいぶんと大きな生き物。曰く、鯨、という古代種族らしい。僕も本でしか見たことはない──そう、フィガロの城の書庫で。
    「うーん、どうだろう。最初に会った時は、もう少し小さくて、普通の生き物だったと思うけど…、四百年くらい経つから、確かに、もう精霊に近い存在かもしれないね」
    「四百年…」
    「そう。俺がきみを置いていった後」
    「……」
    「南に落ち着く前、少しだけ、ここにいた時期がある」
    ふたりで一年間だけを共にした城。それはまさに、この湖のほとりにあった。
    「水辺を歩いている時に、たまたま、水面に出てきたのを見かけて。この子も人に興味があったのか、逃げる様子もなくて。何となく、話すようになったんだ。俺が一方的に、だけどね。言葉は分からなくても、楽しいとか、悲しいとか…、そういうのは伝わるよ」
    嵐の谷に住む精霊も似たようなものだから、きっと、そういう存在なんだろう。
    「魔法使いほどではないけど、彼らも人間よりはるかに長い寿命を持っている。たぶん、仲間同士、会話する術が発達しているんだろうね。
     そういえば、あの頃は…他にもいたような気がするけれど…今は、ひとりかい?」
    ぴゅーい。
    その時の声は、何となく、寂しげに響いた気がした。

    「フィガロ、僕も…その、近づいてもいいだろうか。
     その、おまえが特別に加護を受けているとかなら、無理は言えないけど…」
    「そんなことないよ、どうしたの?」
    「礼を、言いたい。僕を、助けてくれたんだ、たぶん。おまえが来る前に」
    「……ほら。この子も、きみに興味があるみたいだ」
    立ち上がるのを手助けしてくれたフィガロにそのまま手を引かれて、水際に立つと、鯨、だったか──それは、先ほどよりも少しだけ体躯を水面に沈めたようだった。僕の背丈に合わせるみたいに。やさしい目をしているのがわかる。猫とは全然違うけど、なんだかかわいい。
    「──感謝する。あなたがあの時、火球の動きを逸らしてくれたおかげで、助かった……え?わ、フィガロ、これは?」
    それが、ふいにふるふると身体を揺らすので、思わず隣の男に助けを求めてしまった。不覚だ。
    「ははっ、撫でて、だって」
    「…本当に?いいのか?」
    「もちろん」
    「……、意外と固いな、つぶつぶしてる。それに、あたたかい──」
    ──ふと、何かが繋がった。
    凍らない水面。光の差さない水底。海。月。憧れ。孤独。湖畔を歩き、奏で、空を舞う、魔法使いがいた。美しい緑の星。ずっと見ていた。待っていた。もういない。どこへ。寂しいよ。探しに行けば、また会える?
    ──ああ、あれは、この子の仲間だったのか。陸と空に焦がれて、呪いに呑まれてしまった、憐れな魂。フィガロは ──気づいているのだろうか?
    「──ファウスト?」
    「……いや、何でもないよ。ありがとう」
    「ね、昔話したっけ。この子、俺の自慢の弟子なんだ。かわいいでしょう」
    「おい、やめろ、精霊相手に変なことを、」
    ぴゅーい。ぴゅーい。
    「本当のことでしょ?ほら、かわいいって言ってる」
    「そんなわけあるか!馬鹿!──うわ!?」
    「──!!」
    ばっしゃん!!と盛大に水を跳ねさせて、それは尾びれを翻し、ゆっくりと水中へ姿を消した。雫が祝福のように降り注ぐ。めちゃくちゃ冷たい。ずぶ濡れなんだけど。魔法でそれを二人分乾かしながら、けれどフィガロは笑っていた。
    「……やられたな。そうだった、最後はいつもこれだった」
    「北でおまえにこんなことができるって、すごいな…」
    「えー、そこ?…っていうかきみが言う?」
    「は?」
    「昔さぁ、水浴びの時に、隙あらば俺に水かけてきたよね?」
    「…………」
    「おや、思い出させてあげようか?そういうのは得意なんだ」
    「やめろ!!分かってる!分かってるから!!」
    「そう?ならまぁいいけど──ね、今日はもう俺の城で休んでいこう。ほら」
    「うわ!?お、下ろせ、僕は自分で歩く!」
    「何言ってるの、魔力すっからかんで立ってるのもやっとのくせに。こういう時は大人しく頼りなさい」
    「……ッ、くそ…」
    指摘は事実であり正論。悪態をついたところで魔力が回復するわけでなし。──詰みだ。

    軽々と僕を抱えたまま、フィガロがカーテンでも開けるように反対の手を動かすと、音もなく空間が切り取られて──四百年前と何ひとつ変わらない、懐かしい城が姿を現した。

    ***

    「はい、お水。フィガロ先生特製シュガー入りだよ」
    「……ああ、すまない」
    「うん──今のところ体調は問題なさそうだけど、一応、何かあったらすぐ呼んで。あとはしっかり休むこと。魔力も数日すれば元に戻るよ。賢者さまには連絡してある。そうそう、結界の心配もいらないから。いいね?」

    ──ほんの、かすかな違和感だった。
    今回のやりように関しては、真面目な話、それなりに説教されるだろうと覚悟していた。けれど、フィガロは何も言わなかった。
    僕の体調を慮っているのか、あるいは、こいつだって、消耗していないことはないだろうけど。腰を落ち着けてから改めて診察はされたものの、それだけ。日頃うるさい軽口も、今は鳴りを潜めている。
    こんなに──この男の纏う空気が、訳もなく張り詰めているなんて、あまり記憶にない。だとしても、綺麗に隠してみせるはずなんだ、こいつなら。…ただの気のせいだろうか。疲れているから変に勘繰ってしまうだけで。

    「……、ありがとう。…あの、フィガロ、」
    「──ゆっくり、お休み」

    用は済んだとばかりに寝台の傍の椅子から立ち上がると、フィガロは背を向けてしまって、ただ、少しの間──珍しい、逡巡だろうか──の後、ぽつりと呟いた。

    「今日は、頼ってくれて、ありがとう。
     ……昔みたいに呼んでくれて、嬉しかった」

    その声音はいつになくひたむきで、嘘も誤魔化しも介在しない、偽らざる心のように思えて、ひどく真っ直ぐに響いた。
    どうしてだろう、この目で見てはいないはずなのに。彼の後ろ姿が、四百年前の夜──敬愛する師が何も言わずに己の前から姿を消した、まさにその瞬間と重なった。
    待って、行かないで。自分でそうと気づく前に、寝台の上からフィガロの袖を引いていた。

    「……っ、どこへ、」
    「どうしたの、どこにも行かないよ。俺は向こうで休むから、」

    とはいえ、そんなこと思いもよらないだろうフィガロは、ただならぬ様子の僕に純粋に驚いたようで、幼子を宥めるみたいに僕の手を取るものだから。
    そうじゃない。そうじゃないのに。どうすれば、伝わるのだろう。焦燥ばかりが先走る。でも、だって。今、この機を逸したら?
    我知らず、男の手をぎゅっと握り締めていた。

    ──ここは互いの思い出の部屋だった。変わらぬ風景、懐かしい匂いに包まれて、ふたりきり。本能が、この場所なら大丈夫だと告げていて、いつものように意地を張る必要もない、その気力もなくて。
    ならば、これからこの場で起こる全てを、今の、安堵と疲労のあわいで揺れる思考の所為にしておいて、自分ではもはやどうしようもない、四百年前に焦げ付いたままの心の内を、ほんの少しだけ晒け出して、そうすれば、大海の波濤に垣間見せられるものを、この小さな掌でも、掬い上げることができるんじゃないか。

    ややあって──困ったように笑う気配がして、踵を返したフィガロが、ぎし、と寝台に腰かけてきた。顔にかかる癖っ毛をさらり、さらりと梳いてくれる。多少熱があるのか、男の少し冷えた指先が心地いい。──昔もそうだった。過酷な修行で倒れると、いつもこうして傍にいてくれた。僕が眠るまで、ずっと。
    互いに、言葉はなかった。
    いつもなら、かわいい、甘えただね、添い寝してあげようか、子守唄は要る?などと、ここぞとばかりにくるくると回るだろう舌も、今は役目を放棄してしまったかのように大人しい。

    北の夜は、静謐に閉ざされている。
    飽きずに撫でてくれる掌に頬をすり寄せて、見上げたそこには、かつて愛した、変わらぬ緑の星がある。それが、ふいに瞬いて──囁きが、降ってきた。

    「ねぇ、ファウスト…」
    「……?」
    「…俺にも、手を伸ばしてくれる?」

    『──救えるものがあるのなら、僕は手を伸ばしたい、たとえ握り返されなくても』

    そうは言っても──さすがに二千歳は対象外だ、そう跳ね除けてやってもよかった。命がいくつあっても足りない、こと、こいつに関しては。けれど、他ならぬ自分の言葉だ。この男の心を動かすために口にした、自らの信念。二言はない、おまえじゃあるまいし。それを、こいつは──いつもは何かと格好つけたがりの癖に、こういうところが狡いんだ。

    「……全く、仕方がないな」
    「…ふふ、きみはやっぱり、やさしいね」
    「おまえは別だ。握り返されなくたって、知ったことか。
     こっちから首根っこ捕まえておいてやるから、覚悟していろ」
    「ええ?…それって、俺だけ?」
    「そうだ」
    「特別?」
    「…そうだ」
    「そっか、俺だけ特別かぁ、嬉しいな」
    「……、だから、フィガロ、」
    「うん?」

    ──だとしても、これだけは言っておかなければならなかった。きっともう、次はないだろうから。場所も、時間も、己の心持ちも。四百年という歳月を経ても結局、伝えたいことはひとつだけ、なんて。そんなことあるんだな。僕は知らなかった──フィガロ、おまえは?

    「おまえが月の道を歩くなら、僕も行く」
    「──」
    「だからもう、……何も言わずに、僕を、置いていかないで……」

    つよく、つよく掻き抱かれた。苦しくて、息が詰まりそう。
    匂いも、熱さも、吐息も。全部知っているのに、知らない切実さに満ちていた。魔法舎で再会してから、身体を重ねたことはあったけど、それも片手で足りるほど。

    最初の夜だって、どうしてそうなったのか、よくわからない。記憶はある、ふたりで酒を飲んでいた。
    別に、晩酌に応じたのは初めてではなかった。依頼での戦闘などで気が昂ぶっていたわけではなく、ましてや愛の言葉を囁かれたわけでもない。
    フィガロが手土産にしてきた酒を飲んで、僕はほどよく酔っていて(こいつはいつだって酔った「ふり」だ、本当は酒精に耐性があることを僕は知ってる)、互いに今のことも昔のこともぽつぽつと話をして、それほど険悪になることもなくて、何杯めかのグラスが空いて、ああ、よかった、今日は嫌な夢を見ずに済むかもしれないな、と思いながら──何となく。
    目が合って、相変わらず綺麗な色だな、そうだ、酒が入ると、目尻が少しだけ紅を差したように染まるんだ、ちょうど今みたいに、おまえはそれを知っているんだろうか、なんて思っているうちに、気づけばサングラスを取り上げられて、久しぶりに間近で遮るものなく見た彼の眼が、長い睫毛に縁取られた瞼に隠れるのをつぶさに見て、吐息を感じた時には、唇が重なっていて──このかたちのよい唇が、僕の名をかたどるのが好きだったことを思い出した。
    不思議と違和感も嫌悪感もなくて、そうなることが当然の流れみたいだった。こいつでなければ想像できない、いや、しないけど。

    そもそも北で彼に師事した一年の間も、革命軍に合流してからも、フィガロとそういった関係になったことはなかった。
    というか、この男はどちらかと言わずとも女を好んでいたはずだ。共に暮らしていた頃、たまに街へ同行すれば、あちこちで秋波を送られるのを慣れた様子であしらっていた。あるいは、彼を夕刻に見送り、明け方に帰ってきていたらしいのを、昼を過ぎて起こしに行ったことも別段珍しくない。
    だから、こんなふうに触れ合って、背に腕を回され、流れるように寝台へ誘われて、次にどうなるか想像できないほど初心ではなかったけれど。
    ただ、知識はともかく、身体は初めてだった。
    革命に心血を注いでいた頃はそんな気にもならなくて、嵐の谷に引きこもってからは、なおさらのこと。作業的に抜いていただけだ。だいたい初めての相手が面倒なことくらい知っている。そういうのが趣味なら別として、ただしそれも女の場合だろう。
    僕は男で、初めてで、一応は変身魔法も不得手ではないから、せめて女になった方がいいのか。さすがに言葉にするのは憚られたが、そういう諸々を含めて。
    ──おまえ僕で勃つのか、と、顔には書いてあっただろう。けれどフィガロは手を止めなかった。僕は抗わなかった。

    結論から言えば、僕は自分の心配をした方がよかったくらいにはフィガロのは元気だったし、僕は結局、男のまま抱かれた。
    別に恋人同士でもなし、それなりに適当にされるのかと思えば、いい加減にしてくれとこちらが根を上げるくらいには、丁寧だった。痛みがなかったわけじゃない、でもちゃんと気持ちよくて、フィガロも満更でもなさそうだったから、まぁ、こいつが上手かったんだろう。──魔法みたいだな、と言ったら、フィガロは、使ってないし使わないよ、と苦笑していた。香油はお手製だけど、とも。
    その時、額に張り付いていた前髪をかき上げてやってから、ああ、こいつの汗を初めて見たかもしれない、と思い至った。北生まれらしくほとんど上気しない頬をかすかに朱に染め、戦闘でもそうはならないくらいに息を乱して、僕の中で快感を堪える姿は、あまりに鮮烈だった。
    ──そうして繋がっている時だけは。
    あの、いつの間にか消えてしまいそうな後姿が。この幸福に自分の居場所はない、みたいな表情が。少しでも、変わるんじゃないかと思って。
    だからまた別の日、晩酌の席でそういう流れになっても、抵抗はなかった。ただ、その繰り返し。

    とはいえ、馬鹿だな、とは思った。だって──何ひとつ解決してない。
    なんで黙って出て行った。四百年放っておいて、なんで今更また僕に構う。僕はあの時見限られたのか。ならどうすればよかったんだ。あなたは僕に何を望んでいるんだ。他の誰も知らないという、己の死期なんかを教えて、呪いのようなものだと言いながら。
    未だどこにも答えはないのに、たったの、今日という日が、四百年の鬱屈を押し流してゆく。

    ──魔法みたいに息が合った。
    フィガロの意図も動きも手に取るように分かって、呪いに何の迷いも不安もなく立ち向かうことができた。二人だけで対処するには、おそらく今までで一、二を争うほどには手強い相手だったのに。

    思い返せば、きっと──何も見えていなかったんだろう。
    師と仰ぎ、修行を続け、ともに軍に身を投じても、むしろ共にいればいるほど、このひとはあまりにも偉大で、茫漠たる大海をも俯瞰する、叡智の化身のように思っていた。その孤独を理解するには、僕はあまりにも未熟だった。
    それでもこのひとは寄り添ってくれた。理由はわからない。わからないけれど、それでも。
    信じていたし、信じてくれていた。愛していたし、愛されていた。
    手探りで、手を繋いで、歩いた。唯一無二。宝物のような一年間が、確かにそこにあった。

    だからこの手に残っているのは、ひとつだけ。
    ──離れたくない、もう二度と。
    たった、それだけなんだ。祈るように抱き締め返して、触れたその背は──かすかに、震えていた。

    「……本当に、手を、繋いでてくれるの」
    「違う。首根っこだ」
    「…うん。……でも、俺は、臆病だからさ、」
    臆病なのは、大切なものがあるから。
    「知ってる」
    「…もし、また、怖くなったら、」
    怖いのは、失う痛みを知っているから。
    「いい。手は離されてないんだって、思い知らせてやる、何度でも」
    「……うん」
    「凍えても、溺れても、一緒に行くよ」
    「……、うん…」
    「……フィガロ?」
    ──もしかして。
    泣いてるのか、と背をぽんぽんと撫でてやったら、泣いてない、と拗ねたように頭をぐりぐりと押し付けられた。いい大人が何してるんだか。擽ったくて、笑ってしまう。つられたように、フィガロからもくぐもった笑い声がした。
    「……ああもう。だから、早くこの部屋を出たかったのに」
    「は?なんで」
    「言ったらきみは絶対怒る、それか呆れる、俺だって自分でちょっと引いてるし」
    「なんだそれは。そうやって勝手に決めつけるのはやめろ、おまえの悪い癖だ」
    「首根っこ掴んでるのも嫌になっちゃうかも」
    「──しつこい。その程度で手放せるのなら、今こんなことになってない」

    いや、でも、だってさぁ…、とそれでも食い下がり、顔を伏せたままぽそぽそと呟く様子は、まるきり子供のよう。そうさせる相手は自分だけだと気づいてしまえば、張り合う気も削がれてしまうから、僕も大概だ。
    それに今は、四百年燻らせていた思いを吐き出せて、ある意味すっきりしていたし、いつも霞のようなこの男が、心の奥底に秘めたものに、ほんの少しだけ、触れさせてくれた気がしていたので。
    大人しく、言葉の続きを待ってやることにした。

    「……きみは、疲れてる。休ませるべきだって、わかってる。
     それなのに、きみを、めちゃくちゃにしたくてたまらない」
    「……いいよ」
    「ファウスト?」
    「いいよ、して。あなたの、好きに」
    「──」

    あとはもう──この熱に身を委ねてしまうだけ。

    ***

    確かに言った。好きにしていい、と。覚悟はしていた。していたけれど。
    ──ひどかった。それはもう。本当にめちゃくちゃされた。
    魔法舎での情交なんて、こいつにとっては、ただの準備運動だったんじゃないか、と思えるくらいには。
    執拗な愛撫に根を上げて、いったい何度イかされたことか。手を替え品を替え、前から後ろから、知らない奥の奥まで暴かれた。意識が飛びかけるたびにシュガーを口に突っ込まれ、息つく間もなく揺さぶられたことは、しばらく根に持ってやる。
    なんだかもう身体の感覚がおかしい。出ていったのか、まだ挿入っているのか。どこまでが自分なのか。実は全部溶けて混じり合っていて、もう人のかたちをしていないんじゃないか。
    あれだけヤってまだ「生きてるのか…」と声にならない声で呟けば、その元凶は、しれっと口移しで水とシュガーを寄越しながら、いけしゃあしゃあと「きみも、俺もね」と宣った。それはもう憎たらしいほどの笑顔で。間違いなく寝台から蹴り落としてやってた──身体さえ動けば。
    この体力馬鹿!魔力お化け!絶倫!……けろりとしている、そこの二千歳。頼むからその力の一欠片でも寿命に振ってくれ。

    まぁとにかく──何をとは言わない──ひたすら中に注がれたことによって、体力はともかく、魔力は相当回復していた。だからか、一糸纏わずふたりで横になったまま、まだ互いの熱を熾火のように抱えながらも、眠りの波に足先だけ遊ばせている時、ふとした疑問が、口をついて出た。

    「……どうして、来てくれたんだ」
    「うん?」
    「ネロか、ブラッドリーに、何か言われたのか」
    「きみが困ってるのを、俺が助けないわけが…って、そうじゃないって顔だね。どうしてここがわかったのか、っていう意味なら──きみ、俺が昔あげたピアス、まだ持ってる?」
    「──え?」
    「一年間の修行が終わったお祝いに、俺の祝福をかけて君に渡したやつ」
    「……それで、おまえが軍を出て行く時に、寝ている僕から片方奪ったものか」
    「えっうそ、なんでバレてるの」
    「──やっぱり!おまえか!失くしたのかと思って、めちゃくちゃ探したのに!!魔法でも見つからなくて…、おまえもそれっきり、戻って、こないし……」
    「……ごめんね」
    「…その、それが?どうしたんだ?」
    「だから、その片方。まだ持ってるね?どこ?」
    「……」
    まさかこんなところで暴かれるとは思っていなかった。
    観念して、指先だけでふわりと出現させた、箒の柄の先。蔓飾りを外した中に、それは、密やかに繋いであった。フィガロの魔導具を模したピアス。それはもう、青い宝玉も金の輪も痛んでひび割れ、傷だらけになっているけれど。
    贈られた時は嬉しくて、肌身離さず身に着けて。片方がないと気づいた朝は、それまでの人生で一番落ち込んだ。牢に捕われている間は、身の潔白のために魔法は断固使わなかったけれど、ただひとつ、耳のピアスを見えないように隠す魔法だけは怠らずに、そして──この身体と共に、炎に焼かれた。
    ひとり落ち延びて、泣いて、怒って、悔しくて、恨んで、呪っても。厄災戦で無力さを晒し、魂に傷を負ってなお、石にもなれなくて。それでも、手放すことはできなかった。だから、ここにある。

    「鳴ったんだ、それが」
    「鳴った…?」
    「ネロとブラッドリーからは、昼間きみにそういうことがあった、とは言われたよ。もちろん心配した。けれどきみは、助けが必要だと判断したらちゃんとそうする子だ。求める先が俺じゃなくてもね。だから待とう、と思って──ただ、」
    「……?」
    「きみは二人に『北へ行く』と言い残しただろう?
     魔法舎か、そうでなくとも、東のきみの家でも浄化はできるのに──わざわざ、慣れていないはずの北へ。それがふと気になって、思い出した」
    「……凍らずの湖のほとり、地脈の交わる針葉樹の森」
    「そう。もしかして、まずい案件なんじゃないかって思った時に、それが鳴った」
    「鳴った、って…まさか、おまえも、ピアスを…」
    「当たり前でしょ。持ってるよ。何のためにきみからこっそり奪ったと思ってるの」
    「そんなの僕が知るか!
     ……でもどうして、いや、どうやって…僕は、何もしていないのに、」
    「その時、俺は自分の部屋にいて、ルチルとミチルと、今日の授業の復習を終えたところだったけど、あの子たちには、聞こえていないみたいだった。
     棚の奥に置いていたピアスから、こう、鳥の声みたいな、ちょっと高めの、ぴー、いや、ぴゅー、かなぁ、そんな音がして、」
    「……それ、もしかして…」
    「……、そうか。あの子の声か…」
    「……僕は全く気づかなかった。目の前の戦いで精一杯だった。
     きっと…懸命に、呼んでくれたんだろうな…」
    あの、人懐っこい、精霊の鯨。今頃は、どこを旅しているのか。
    「また、会えるだろうか」
    「さぁ、どうだろう。日を置かず顔を合わせたこともあるけれど、一度潜ってしまえば数年上がってこないとも聞いた。あの湖は深く、底は海と繋がっているなんて話もあるから、ひろく回遊しているのかもね」

    ふいに、ちゃり、と金属音がして、そちらを見遣れば──フィガロの掌に、片割れのピアスが現れていた。彼の魔導具をそのまま小さくしたような、美しい青と金。僕の耳で揺れていた、あの頃と寸分違わない祝福の煌き。
    「──はい、これ」
    「…は?」
    「返すよ。元はきみのものだし。勝手に持って行ってごめんね」
    「……、いらない」
    「え、」
    「僕には、これがある。だから、いらない。それは、おまえの好きにしたらいい」
    「……ふふ。じゃあ、お言葉に甘えて、貰っておくよ。これからも」
    「…そう」
    たったそれだけのことに、嬉しいと思ってしまう自分も浅ましいし、こいつも、そんなあからさまに喜ぶことでもないだろうに。
    そういえば──ピアスは自室の、棚に置いていたというようなことを言っていたけれど。フィガロの部屋に入ったことは何度かあるが、気づかなかった。今度行ったら見てみるか。いや、用もないのに行かないけど。

    「……ねぇ、ファウスト、怒らないで聞いてくれる?」
    ひらりと掌を返して、ピアスを魔法で仕舞ってから──今度はフィガロが、思いついたように口を開いた。
    自分でも躊躇いを捨てきれないふうにしながら、こういう言い方をする、この男は重ね重ね狡い。こんな時は本当に碌なことにならない、分かってる、分かっているのだが。
    「……、聞かないと分からないな」
    「…ふふ。正直言うとね、あの呪いが、ちょっと羨ましくなっちゃった」
    「……は?」
    「──俺も、いつか、あんなふうにきみに弔われたらなって、」
    「…おまえは…」
    「ごめん、ごめんって、ファウスト、怒らないで」
    ──ほら、やっぱりだ。どうしてこう、こいつは悉く僕の地雷を踏むんだ。しかも無自覚なのだからタチが悪い。おまけになんで僕が怒ってるかも理解してない、口では謝ってるくせに、全然何もわかってない。二千年の叡智はどこいった。そんなだからこちらも、それなりの手段を取るしかないわけで。
    「……、忘れたのか」
    「え?」
    「僕は、呪い屋だ。聖職者じゃない。そんなに浄化されたいんなら、まず自分が呪われることを考えるんだな」
    「ええー、参ったな、そこ?」
    「呪いでおまえを瀕死にできる奴が、そのへんに転がっているとも思えないが。まだ僕の方が有望だろう。それに、万一そんな奴がいたら、…うん、同業者として興味深い。まず僕が相手をする、おまえは引っ込んでいろ」
    「ちょっとちょっと、なんでそんな展開になるの、ファウスト?」
    「──人のものに手を出すのがどういうことか。それは、北に限った話じゃない。喧嘩の売り方も買い方も、昔、喧嘩っ早い師匠に散々教わったからな」
    「……はい。すみませんでした」
    「……っふふ、」
    「……っ、もう、」
    直後、どちらからともなく噴き出した。久しぶりに、腹から笑った。
    「物騒だなぁ、せっかくの雰囲気が台無し」
    「珍しいな、僕も同感だ。誰の所為なんだか」
    「両方だね」
    「そうだな」
    こんなふうに笑い合える日が来るなんて、思ってもみなかった。
    ふたりきりで過ごした一年と、革命軍での数ヶ月。離れていた四百年。それから、再会してからの日々。出会う以前に──このひとが経験した、千六百年という長久の生。僕の想像の及ぶべくもない孤独。
    きっと、どれが欠けても、今、この瞬間はなかっただろう。

    心地よい体温に包まれているうちに、さすがに心身が限界に達したのか、瞼が重くなってきた。それを察したのか、フィガロはよいしょ、と僕を抱き寄せて、楽しそうに囁いた。
    「ね、ファウスト。明日は、一緒に帰ろうね」
    「……、話がある、」
    「え、なになに改まって、どうしたの?」
    「今回の呪い…、僕はどう戦うべきだったか、見直したい」
    「…相変わらず真面目だなぁ」
    「……帰る道すがら、おまえの意見も聞かせてくれないか」
    「──もちろん、いつでも。俺は、酒の席でも大歓迎だけど」
    「まだ夜も明けきらないうちから、酒の話か…、全く、おまえは……ふぁ、」
    途中、堪えきれずに欠伸が漏れた。穏やかな眠りの波がすぐそこまで寄せて来ている。
    「……、僕は寝る…」
    「ふふ。おやすみ、ファウスト」
    「ん…、…おやすみ…ふぃがろ……」

    言いしな、繋いだ手にきゅ、と力を込めた。迷子にならないように。別に、あれは「約束」ではないけれど。その確かな温かさに安堵して、微睡みの海に漕ぎ出すのにさほど時間はかからなかった。だから。

    「……きみは、本当に、」

    そう呟いた彼が一粒の涙を零したことを、僕は知らない。


    おまえが月の道を歩くなら/完
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    harunoyuki

    DOODLEフィガファウ/魔法舎のフィが、二千歳のファが暮らす未来に迷い込む話/魔法舎では付き合いたてで、まだ何もしていないふたり
    きみが幸せだなって思うとき「…………あれ?」

    ふと気付くと、鬱蒼とした森の中、赤い屋根の一軒家の前にいた。
    見知った場所ではあった。東の果て、呪い屋…というには些か清廉にすぎる魔法使いがひっそりと居を構える、嵐の谷。だが珍しく雷雨でも暴風でもないらしい。穏やかな夕陽で、家の壁も傍の木々も、茜色に染め上げられている。素朴な絵画にでもありそうな、いたってのどかな情景だ──平時ならば呑気に感嘆していられるのだが。

    (おかしいな、俺、診療所にいたはずなんだけど……)

    今回の帰省は常よりも多忙を極めた。
    夕刻に任務から戻って来たかと思えば今度は深夜、南で経過観察をしていた妊婦が予定より早く産気づいたとの一報を受け、取るものも取り敢えず箒を飛ばし、明け方無事に元気な赤子を取り上げたのはよかったものの、そこから休む間もなく、やれ子供が転んで膝を擦りむいたとか、老婆が散歩から帰って来ないとか、しまいには機嫌を損ねた飼い牛が牛舎に入ってくれないとか云々、我ながら引く手あまたの人気者だった。ああ、あと川沿いの土手が大雨で崩れていたのを、応急処置もしたんだったか。
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