あなたの願いを知りたくて「…………はぁ、」
魔法がなければ身を切られるような鋭く冷たい北の夜を、ひとり箒で駆けながら、もう何度めかの溜め息をついた──どうしてこうなった。
──だいたい最初から不自然だった。
何の前触れもなく呼び出された教師役の揃う会議で、『南の先生はしばらく不在じゃ、その間、南の授業は残りの先生で持ち回りね☆』と、問答無用で双子に言い渡されてから、もう三週間になる。
その間、生死を彷徨うような怪我人が出ていないことは幸いだったが、訓練はいつも通り行うし依頼は待ってはくれない。引きこもり即ち魔法舎にいる確率が高いが故に、授業だけでなく、医者の代わりに治癒魔法を請われることもままあり、そのたびに不在を思い知らされる羽目になった。
いい加減、何か特別な依頼でもあったのかと思って賢者に問えばそうではなく、不在の理由も知らないんです、と申し訳なさそうに言われてしまった。
では南で何事かあったのかと、レノや南の子供たちにそれとなく尋ねれば、こちらも何も聞かされていないという。レノに至っては「まさかファウスト様もご存知ないとは…」とそこで初めて心配そうな表情をした。心外だ。
ならば私用か?…だとしても、魔法舎を空けるなら、あいつにだってせめて賢者に理由を伝えるくらいの誠意はあるはずだ、それが嘘か本当かは別としても。そうなると、最終的に──女がらみか?という可能性も一瞬脳裏をよぎったが(それなら自業自得、考えて損した、この話は終いだ)、それは脇に置いておく。
あの男がいくら嘘つきで軽薄で女好きでいい加減で胡散臭い(以下略)とはいえ、単独で、理由も期間も判然としない中、こうも長いこと不在となるのは、どう考えてもおかしい。
他の誰に相談するまでもない。急ぎの依頼が来ていないことを確かめ、今日の授業も明日の準備も終えた後、夕食にはまだ早い午後の遅い時刻。
事情を知っているとすれば彼らしかいない──いざ双子の部屋を訪えば、そこにオズも居合わせていて、僕の不躾な来訪は咎められなかった。それで確信する──やはりあの男に何かあったのだ、と。それも、あまり歓迎できない事態が。
「──単刀直入に聞く。フィガロはどうした」
あなたの願いを知りたくて
「いい加減、他の者たちのように誤魔化されてやるつもりはない」
「…………」
オズの無言は想定内。……とはいえ、さすがに堪忍袋の尾が切れそうな頃、双子は顔を見合わせて、揃って口を開いた。
「……そろそろかと思うておった」「来るならおぬしじゃと思うておった」
「なら話は早い。それでいったい、フィガロは何をしている」
「──死んだ、とは」「思わぬのじゃな」
「──ッ!!」
ばちん!と一瞬、目の前で火花が散った。
言うまでもなく己の魔力の発露だった。それはただ、双子の前髪をかすかに揺らしたのみで、オズに至っては微動だにしていないけれど。
我知らず、掌を握り締めていた。やっていいことと悪いことがある。相手は先達、ましてや恐るべき北の魔法使い。彼らが先ほどのそれを宣戦布告と受け取っていれば、僕はもう息をしていない。
だが同時に──言っていいことと悪いこともあるだろう。どんなに嘘つきで軽薄で女好きでいい加減で胡散臭い(以下略)奴だとしても、今は同じ賢者の魔法使いで、欠けてもいいなんて思っていないし、その腕は(人柄は別だ)十分信用に値する。それは今魔法舎にいる者なら誰だって同じ思いだろう、北の魔法使いたちは…まぁ、思うところはあるだろうが、とにかく。
そう、たとえ僕が本当に、全く「その」可能性に思い至っていなくて、まさに図星と言うほかない状態だったとしても──あの男がすでに石になっていて、この僕が気づいてもいない、なんて、そんなことが。
四百年前にどれほどのことがあったとしても、引きこもりがこんな殴り込みみたいな真似をするくらいには忘れられなくて、だってあれはかつてあらゆることを学んだ敬愛する師匠で、その教えのおかげで僕がいま息をしているのは否定しようもない、それなのに「俺は近いうちに死ぬんだ」なんて打ち明けられていて、僕は、僕は──。
「すまぬすまぬ、ファウストや、言葉が過ぎた」「どうか機嫌を直しておくれ、あやつを案ずるそなたの心を嬉しく思っただけじゃ」
双子はまた顔を見合わせてから、くりくりとした眼で見上げてきた。その振りだけは本当に幼子に見えて、こちらが悪いような気にさせられるから、手に負えない。
「……、冗談だとしても、タチが悪すぎる。…それで、あいつは?」
深く溜め息をつき、気を取り直して尋ねれば。
「フィガロちゃんはのう、家出してしまったんじゃ」
「──は?」
「『賢者の魔法使いになった覚えはないんですが仕方ない、厄災の日だけは戻りますよ』と言って、次の瞬間には、姿を消してしまったんじゃ」
「──は??」
青天の霹靂。ちょっと待て、突っ込みが追いつかない、どういうことだ。
ついさっきまでの至極真剣真面目な、一歩間違えば涙のひとつでも零してしまっていたかもしれない雰囲気がぶち壊しだ。もう僕の口からは「は」以外の言葉が出てこない。無駄に心配した僕の心臓に謝れ。言うに事欠いて「賢者の魔法使いになった覚えはない」だって?それで、いい歳して家出だと?深酒してついに頭がイかれたのか、あいつは!
「──その通りだ」
混乱の最中に完璧なタイミングで口を開いたのは。
「……オズ、」
「私もその場に居合わせた。確かにあの男はそう言って、転移魔法でここを去った」
「夜じゃったからのう」「我らも止められなんだ」
「それは…仕方ないにしても、ならあいつは今どこに…」
「おそらく、北じゃ」「北には自分の城があるからの」
「だったら!さっさと連れ戻せば、」
「じゃが、我らでは駄目なのじゃ」「オズでも駄目なのじゃ」
「……なぜ、」
「あの男は、呪いを受けている。力尽くで連れ戻しても意味はない」
──まさか。あのフィガロが?呪いを?
嘘だろう、と即否定する言葉が喉元まで出かかるくらいには、僕だってあいつの腕を(繰り返すが、人柄ではない)信用している。だが告げたのはオズだ。こういった類の冗談を口にするような人物ではないことは、こちらも重々承知している。だとすれば。
「それは…、あいつの記憶がおかしいことと、関係があるのか」
「やはりおぬしは賢い子じゃ」「我ら自慢の孫弟子じゃ」
だから孫弟子なんかじゃないと言うのに。
「……茶化さないでくれ。
だが、あいつに、しかも記憶に関わる呪いをかけることができるなんて、そんな奴がいるのか」
「本人だ」
──いや、まさか。あのフィガロが?自分で?
馬鹿な、とこちらも喉元まで出かかった。魔法と呪いとは表裏一体、とはいえ変身魔法を自分にかけるのとは訳が違う。負の影響をもたらす呪いを自らに、というのは、極めて緻密な魔力の制御と、それを望んで受け入れる心の力を要求される。僕だって実際に試したことはない。
だが重ねて言おう、オズの言葉なのだ。どこぞの誰かとは違って、嘘も冗談も疑う余地はない。
「あの男は、自分で自分に呪いをかけたのだろう。そのような効果をもたらす呪具があると、昔、教わったことがある。
──特定の時点まで記憶を戻して、やり直したい時からやり直せる、というものだ」
『──面白いよねぇ、この呪い。愛の告白を失敗した時のために捧ぐ、だって。西の連中の考えることは実に酔狂だよ』
覚えているさ。
かつて教わった、僕も。そうやって笑っていたあの男に。
「……やり直したい時、から…」
「そうだ。最後に会った時、あの男は、私たちと共に北にいた頃のような言動をしていた」
「そうじゃな、黒衣を着て、髪も伸ばしてたし」「態度も生意気で、冷たーい感じじゃったし」
「ああいうフィガロちゃん、昔はよくお仕置きしたよねー」「ほんと手がかかって、かわいかったよねー」
「……」
しれっと、双子は想像するだに恐ろしいことを言い合っているが、それはさておき。
「……昔、あの男が、私の城に押しかけて来たことがある。
弟子の話をするだけして帰って行ったが、その時は、もっと…柔らかい雰囲気だった」
オズの言葉はいつも端的だ。度を超して足りない場合も多々あるが、それでもその意味するところを悟って、遥か昔に燃え尽きたはずの複雑な感情が込み上げる。
──フィガロは「賢者の魔法使いになった覚えはない」と言って、北に戻った。南ではなく。そして、オズの言を突き合わせるならば。
「それなら、あいつは…」
「おそらく、四百年前──おまえと出会う前のフィガロだろう」
***
一応は、夜が明けてから、双子もオズもフィガロの城を訪ねたらしい。が、取りつく島もなかったという。彼の言を信じるなら、「厄災の日だけは戻ってくる」のだ。であれば、最低限、賢者の魔法使いとしての務めは果たすということだから、こちらとしても無理強いはできないのは理解できる。
だいたいオズも、そして双子をもってしても「力尽くでは意味がない」と言わしめるのであれば、フィガロを自ら魔法舎へ戻る気にさせるほかはなく、そのためには、あいつが自らかけたという呪いを解くしかない。となれば、打てる手は自ずと限られてくる。
だが、だからといって──どうして、こうなる。
「我らも、どうすべきかいろいろと考えてはいたんじゃがのう」「フィガロちゃんはなんだかんだ頼りになるから、魔法舎におってほしいしのう」
それは否定しないが。
「まずはそれなりに魔力がある子じゃないとねー」「門前払いになっちゃうからねー」
それも否定しないが。
「それに、怖ーい北の魔法使いだって知ってる子じゃないとねー」「今は南の優しいお医者さんじゃないもんねー」
それはそうだろう。
「それから、かわいいフィガロちゃんに優しくしてくれてー」「呪いに詳しくて解呪もしてあげられたら、万事解決だよねー」
それもまぁ、そう…は?──そんなのひとりもいないだろうが!!
嫌だけど、と跳ね除ける暇もなかった。結局は最初から、双子の掌の上だったのかもしれないが。
双子からは、事情を話して誰かを同行させるか問われたが、断った。確かにレノあたりなら引き受けてくれるだろうが、元のフィガロはきっと、この状況を、できれば他の面子にはあまり知られたくないんじゃないか、という気がしたから。
それに、オズや双子ならまだしも、それ以外の魔法使いがいたところで、「北の」フィガロがその気になれば、命はない。僕も含めて。
何よりも──今回の件に関しては、何となく、予感があった。
呪いを解くには、ここ四百年の記憶が鍵になる。ならば、僕がやるしかないだろう。そして、僕で駄目なら他の誰にも無理だろう、と。それは、かつて確かにあいつの弟子であったという、ただの、なけなしの自負かもしれなかったけど。
三人には、ひとつだけ頼んだ。自室にあるアミュレット──蝋燭を、時々でいい、見に来てほしい、と。僕が死ねば、その炎は消えるから。──その時には我らが始末をつけようと、躊躇うことなく双子は言った。オズもただ黙って頷いた。どうするつもりか、までは聞かなかった。
だから、まぁ、なるようになるだろう──なぁ、フィガロ。
記憶と寸分違わぬ場所に、四百年前と変わらぬ姿で、その城はそこにあった。音を立てることなくしろい雪面に降り立ち、箒をしまって改めて空を見上げれば、流星が雨のように夜空を彩っている。
そう──つい昨日のことのように覚えている。同行すると言って聞かなかった生真面目な従者と二人、初めて体感する極北の風に芯まで凍えながら、この門を叩いた夜のことを。
『開門!開門願う!私は──』
人生を変える出来事をそうと呼んでいいのなら、あれはまさしく──僕の運命だった。
***
「……こんなかたちで、戻ってくることになるとはな」
誰に聞かせるまでもなく、呟きが零れた。当時と同じく、門はかたく閉ざされている。けれど、声を張り上げる必要はないことを、僕はすでに知っている。ふう、と溜め息とも深呼吸ともつかぬ息を吐いて、それから、ただ、目の前の門に語りかけた。
「──フィガロ、いるんだろう。僕だ。開けてくれ」
反応はなかった。まぁ、そうだろうな。想定内だ、仕方ない。
さて、門の鍵、今はどれが使われているのか。記憶から素早くいくつもの選択肢を思い浮かべつつ一歩踏み出し、門に触れた瞬間、ぐにゃりと風景が歪んだ──精神操作の魔法だ。
気づいた時には闇の中にひとりきり。何も見えず、聞こえず、触れられず、上下の感覚すら危うい。常人なら確かに気が狂うだろう。けれど、この程度、修行よりも手ぬるい。笑わせる──あなたに去られた、四百年前の絶望に比べれば。
とはいえ気持ちのいいものでもない。悪寒が走り、嘔吐感が込み上げ、額に脂汗が滲む。それでも膝なぞついてやるものか、と歯を食い縛って耐えていると、ふと圧が消えて──顔を上げれば、二階のテラスに、先ほどまでは無かったはずの人影が見える。
聞いていた通りの、黒の長衣。腰まで伸ばして一つに纏められた後ろ髪。男は、まるで今の今まで晩酌でもしていたかのように寛いだ様子のまま、箒に腰掛けて「浮いて」いた。北の極寒を微塵も感じさせない、そこだけ切り取られた神聖な絵画のように。
「こんな刻限に、何の用かな」
変わらぬ、耳慣れた低声。
けれど、そこに温度はない。相手の喉元に刃を突きつけるかのように研ぎ澄まされた魔力が、男を覆っている。殺気なんて生温いものじゃない。彼ならば、瞬きのうちに、一切の所作なく空気を無味無臭の毒に作り変えることができるだろう。この息を吐いて、次に吸った時、己はもう死んでいるのではなかろうか。男は確かに北の大魔法使いだった。その縄張りに足を踏み入れて、僕はまだ石になっていない、それだけでも僥倖なんだろう。
──信じるしかない。今はただ、向けられた刃が、決して、この身を傷つけないことを。
「…あなたに、会いに、」
しかし男はわずかに首を傾げるだけ。
「きみは俺を知っているようだけど、俺はきみを知らないな」
「……そう、」
本当は──フィガロがこんな子供騙しみたいな呪いに手を出した、その理由に、ほんの少し、少しだけだ──心当たりがあった。それには当然僕自身が関わっていて、そうだとしても非常に不本意この上ないことに変わりはないのだが、そうでもなければ、あいつがこんな馬鹿なことをするはずがない、という確信めいた気持ちもあった。
だから、これはある意味、自分自身との戦いでもあった。四百年分の思いと、向き合うための。
「それで、来訪の目的は?」
「──あなたの願いを、知りたくて」
今度こそ、男は美しい双眸を瞬かせた。
「…願い?俺の?──知って、どうする?」
「できることなら、叶えたい」
「へえ。世界征服だって言ったら?」
「それがあなたの願いなら。力を尽くすよ」
すると、何かを見定めるように目を眇めた後──男は、ふと相貌を崩した。
「ずいぶんと変わったお客人だ。流星雨の使いか…まぁいい、寒かったろう、入りなさい」
ぎし、と重い音を立てながら、ひとりでに門が開かれてゆく。そうして僕は、この城に足を踏み入れることを許された──四百年前と同じように。
***
変わらぬ内装の応接室は、外とは別世界のように、ほどよく暖められていた。
コーヒー豆と挽き具を魔法で出しながら、男に目線だけで「いい?」と問われた気がしたので、頷くと、それぞれの道具が自らの意思でもって踊るように動き回り、どこからか現れた湯気の上がるケトルも合流して、あっという間に一杯のコーヒーが差し出された。
「……ありがとう」
礼を言ってから口をつける。じわりと身体に沁み入る温かさに、知らず知らずのうちに詰めていた息をほっと吐き出した。舌にほんのりと慣れたシュガーの甘さが残る。いつの間に、それに──どうして?
疑問そのままに顔を上げると、こちらを眺めていたらしい男と目が合った。
「警戒しないんだね」
「……必要だと判断したらそうする。でも、あなたに対してその必要はない。それだけだ」
「俺のこと、怖くないの?」
「……、今は」
男はかすかに眦を下げただけで、それ以上問うてはこなかった。
ぱち、と暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。
「……あなたは、ここで、ひとりなのか」
「そうだよ」
「…なぜ?」
「面白いことを聞くね。北ではそれが普通だ、そのくらいはきみも知っているだろう」
「……」
──でも、あなたは、見ず知らずの僕を弟子にしてくれたんだ。
そう告げたところで、どうしようもないのだろうけど。
「今日はもう遅い、ここに泊まって、帰るのは明日にするといい」
「……、何も、しないのか?」
「なぜ?」
「それは、……」
男はなぜ、と問うたけれど。
北の魔法使いは力が全て。弱いものは石にされ、強いものに喰われる。ゆえに群れず、信じず、ひとりを選ぶ。実に単純明快な理屈だ。だからこそ、わからないのだ。少なくとも目の前の男にとっては何の縁もゆかりもない僕を、どうして、こんなふうに受け入れてくれるのか。四百年前とは違う、僕だっていま石になれば、この男にとっても多少魔力の足しにはなるだろうに。
答えあぐねていると、男は、軽く肩を竦めて、笑った。
「願われたことは数多あれど、願いを問われたことは初めてだ。
──まぁ、俺の無聊を慰めてくれた礼とでも思って」
──無聊、か。
暇つぶしか、気まぐれか、やっぱりおまえにとってのあの一年は、そういうことだったんだろうか。その疑問は、心臓に刺さった棘みたいに消えることがなかった。ならば、もし、それで──飽きたら?
「……なら、お言葉に甘えるよ」
ただ、現実問題、僕には厄介な傷がある。実体化する夢。それをこの男は知らないはずだ。正直、僕の結界だけでは心もとない。何らかの(しかも上質の)媒介はここにあるだろうが、頼むには長い説明をしなければならない。魔法舎から一直線に箒を飛ばし、北の空気にあてられて、相当に疲れてはいたが、不用意に眠る気にはなれなかった。幸いこの部屋なら暖炉の炎がある。それを眺めていれば、何とかなるだろう。
「……ここにいても、いいか?」
「構わないけど、眠らないの?」
「……」
「──眠るのが怖い?」
心臓が跳ねた。
知らないはずなんだ、この男は。なのに、見透かしたようなことを言う。
「……は?ちょ、え?」
よいしょ、と男が隣に来る。ぽん、と魔法で呼び出された毛布ごと抱き込まれた。見知らぬ者に対する距離感じゃない。
「あ…、あなたこそ、無用心じゃないのか」
「うーん、きみの言葉を借りるなら、必要ないから、かな?
というか、この状況なら、きみこそ自分の心配をするところじゃないの?
……まさかとは思うけど、誘ってる?」
「……?」
「……うーん、まぁいいや」
何やら勝手にくすくす笑って、それでいて腕は緩めてくれない。
「──大丈夫。きみが恐れる何者も、きみに触れさせはしないから。
安心してお休み」
抗議の機を逸したまま、頭の上で耳慣れた呪文が優しく響いて──まもなく、意識は温かな水底に沈んでいった。
***
「おはよう、よく眠れたかい?」
「……おはよう。おかげさまで、……早いんだな」
夢を見た覚えはなかった。
おそらくいつもとさほど変わらない時間だとは思うが、目を覚ますと、男はすでに起きていて、窓際の椅子に腰掛けて何か本を読んでいたようだった。普段、ぐずぐずと寝汚い姿を「演じて」いるのとは大違いだ。いや、そもそも眠っていないのかもしれなかった。
力のある魔法使いにとっては、食事も睡眠もさして重要ではない。眠いと感じるなら寝ればいいし、そうでなければ起きていて、適当にマナ石でもつまんでいれば、生きるのに不都合はないのだと、僕は弟子となってからそれを知った。自分も倣うことができたかはまた別の話だが。
実際、男は、特に食事らしいものもしていないようだった。コーヒーか茶か、酒を嗜む程度。あとは、透き通った、虹色に輝く欠片が少しだけ。ここには調理台もあれば食材も多少はある、腹が減ったら好きに使えばいいとは言われたものの、人の家に上がりこんで自分だけ食べるというのは、どうにも気が引けた。
なので、結局、自分でシュガーを入れたコーヒーを飲んでいる。すると、男は笑って、戸棚からチョコレートやらクッキーやらを持ち出してきた。僕は子供じゃない。……まぁ、無下にするのも勿体無いので、素直に頂くけれども。
「──きみの目的は、これ?」
男がテーブルに持ち出してきたのは古い書物だ。開かれたページを一瞥して、確信する。オズの話から見当をつけていた呪具の情報だ。
呪具といっても──その正体は、寒冷地の夏に咲く野草のひとつ。それ自体は珍しいものではない。葉と茎は煎じて薬になり、花の蜜はその甘み付けに使えるので、あれば広く役に立つ。医者なら常備していても不思議はない類のものだ。
問題は扱い方だった。青紫色の小さな花を摘んで、輪の形に編み、一定期間厄災の光に晒すと、やがて花の色が白へと変わる。呪いへと変質した合図だ。それを指に嵌め、呪文を唱えて輪が消えれば、呪いが発動した証となる。ちょうど、愛の告白において指輪を贈るように。
「俺はここ四百年の記憶を失ってる、…だろう?」
「……、気づいていたのか?」
改めて男の長い指先に視線を移す。もちろん花輪など跡形もない。
だがそこに──ちょうど左手の薬指の付け根に「何か」があることには、会った時から気づいていた。魔力の流れに違和感がある──淀みと呼べるほどのものでもない、「普段」を知っているからこそ分かる、その程度の差異だけれど。
「記憶が抜け落ちている、とは双子様に言われていてね。お二人は気まぐれで悪い冗談も多いが、現にこの身体には俺の覚えのない、賢者の魔法使いの紋章もあるわけだし。考えてはみた。双子に拾われて、オズに、世界征服…まぁいろいろあって、その後ここに居を構えた。俺の記憶はそこまで。
今が四百年後というのが事実なら、ここにいる間に何かきっかけがあったってことだろう──この時点に戻りたいと思わせる、何かが」
「……それは、」
「もしかして──きみ絡み?」
「……、そう…かもしれない、」
──フィガロが姿を消す前、まあまあ派手な喧嘩をした。
特別な理由はない、いつも通り酒を片手に自室に押し入られて、売り言葉に買い言葉。別にあいつが声を荒らげたわけじゃない、僕ばかりが感情的になって、それで柄にもなく──泣いてしまった。情けなくて、悔しくて。自分でもどうしようもなくなって、挙句「おまえに出会わなければ」と、そういう類の言葉をぶつけた。
珍しく言葉に詰まったフィガロを、魔法で自室から叩き出して、それから顔を合わせないまま。思い返せば、双子の話から推察するに、フィガロが姿を消したのはその翌日の夜だった。
やっぱり、それで、だったのだろうか。
特定の時点まで記憶を戻して、やり直したい時からやり直せる呪い──呪いというほどの害意はない、解呪の方法もちゃんとある──そんな花輪に手を出して。きっと、一晩分をやり直そうとしたんだろう。けど自分だけ、なんて。馬鹿じゃないのか。
とはいえ、あいつ自身も想定外だったに違いない。まさか四百年前に遡るなんて──。
「口論になって──僕は、たぶん、あなたを傷つけた」
「その感じだと、俺も相当、きみを傷つけてるみたいだね」
「……おかしな話だ。今の方が、素直に話せている気がする」
「なら俺は、思い出さない方が、いいのかな」
「──え、」
「きみにとっては、その方が幸せ?俺だけ忘れて卑怯な気もするけれど、──いや、きみが望むなら、俺は、きみから俺の記憶を消すこともできるし」
「……ッ、あなたは、どうしたいんだ。記憶を取り戻したいとは、思わないのか?」
「今の俺にとっては、最初から『無い』ものだ。取り戻したい、っていう感覚はないかな」
「──」
頭をはたかれたみたいな衝撃だった。
男の言うことは理に適っている、なのに心臓が軋む。どこかで、彼は、記憶を取り戻したがっている、そのはずだと。そう信じていたのに。
至極あっさりと、酷薄なほどに、男は、無いものだと言った。僕とのことを。その後の四百年を。本当に?そんなにも簡単に、躊躇いなく、手離してしまえるものだったのか、おまえにとっては。──僕とは違って。
「──曰く、解呪の方法は二通り、」
男は淡々とページを捲る。
「ひとつは、遡ったのと同じだけの時間が経過すること」
「……非現実的だ、四百年待つなんて」
「あるいは、愛の告白──かどうかは別として、失敗した原因が解決すること」
「原因…、」
「こちらに関しては、悪いけど、記憶のない俺にはどうしようもない。
その、喧嘩になった理由、なのかな?きみに心当たりがあるのなら、それに頼るしかないな」
用は済んだとばかりに、男はぱたりと本を閉じた。
「まぁ、方法はわかってるわけだし、あとはきみ次第だ。気が済むようにするといい」
「…え?」
「さっきも言ったけれど、俺にとっては無くても別に構わないものだ。
でも、きみは現状をどうにかしたくてここへ来たんだろう?このまま帰れと言われて帰る?」
「……」
「きみがここにいるうちは、俺の記憶を戻そうとしてる──そう、思うことにするよ。俺にできることがあるのなら、協力する」
男の声音は真摯だった。
嘘だとか冗談だとか、揶揄うような表情でもない。
「……、どうして、」
「きみが、笑ってくれる方を選びたいから」
「…でも。あなたは僕を知らないと言った」
「わかることもある。昨夜、世界征服でも力を尽くすってきみは言ったけど、笑っちゃうよ。むしろ…そうだな、世界を良くしたい、って言いそうな顔をしてるのに、似合わないことしてさ」
「……残念ながら、半分はずれだ。今の僕は呪い屋だから」
「なら、その四百年で、俺を呪った?」
「……」
「ほらね。そういうきみだから、俺は、……?、いや、何でもない」
***
──協力する、とは言われたものの。
あの夜、フィガロが来訪してから喧嘩に至った一言一句を、やり直せというのか?記憶ならあるし、やれと言われればできる、男も黙って聞きはするだろう。だが、それだけだ。何の解決にもならない。だいたい、原因が解決すれば呪いは解けるというが、喧嘩の理由だって──それこそ、どうしようもないことなのだから。
「──昨日、あなたの願いについて、聞いたけど、」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたね」
「本当に、何か、ないのか…?」
「うん?特にないよ」
そうなると、特段他に何かやれることがあるわけでもない。
一応、本人の許可を得てから、昔のように書庫に入らせてもらった。かつて隅から隅まで読み漁った書物も、魔法舎に届く数々の依頼や、人に教えなければならないという立場、そして大いなる厄災の影響を経験した今、改めて目を通すと新しい気づきがある。今後の参考にと、男と意見を交わしていれば、一日などすぐに終わってしまう。
一息つこうと、コーヒーや茶、時には酒に付き合い、他愛のない話もした。さすがにマナ石を口にするのは憚られて、あり合わせの食材で適当に軽くつまめるものを作ったら、随分と気に入られた。あるいは、交替でリュートを手に、歌い、踊ったりもした。知らない曲、知らない歌詞を耳にすれば、その場で請うて覚えた。
夜はといえば、一応できる範囲で結界を張れば、何も聞かずとも男は興味津々といった様子で、「なるほど、じゃあこういうのはどう?」としれっと重ねがけしながらも、僕の隣に来るのは止めるつもりがないらしく、「まぁいいじゃない、減るもんじゃなし」などとよくわからない理屈を持ち出して、毎度僕を抱き枕にしている。少なくとも、僕が眠るまでは。
男ははじめの言葉通り、何かを特に急かすようなこともなく、ただ、ひとりが普通だと言った北の地で、ふたりの時間を受け入れているようだった。
師弟というほどの強い結びつきではない。食事も掃除も当時ほど世話をすることもない。
けれど確かに心穏やかな日々だった。魔法舎での日々のように、顔を合わせれば言い争いになって、周囲の者たちに不審がられたり心配されたり気遣われたり、なんならミチルあたりには「仲良くしてください!」などと叱られたりして、自ら古傷を抉るような羽目になることもない。
書棚に本を戻そうとして、ふと手が止まった。
──なのに、どうして、記憶を取り戻さなければいけないんだ?
喧嘩になってしまった日のことを口にしたら、この時間が失われてしまうんじゃないか。そして、それで記憶が確実に戻るとも限らない。元に戻ったところで、フィガロは、本当は、それを望んでいなかったとしたら?僕の行動を知って、「そんなことしなくてよかったのに」って、あいつはいつものようにへらりと笑うんじゃないか?
腹が立つ。嫌だ。怖かった──僕との記憶を「そんなこと」で片付けられるのが。そうして、何事もなかったかのように、また元の日々に戻るのが。
──だって、このままでいて、何の問題がある?
男は賢者の魔法使いとしての自覚はあるのだから、普段は北にいるとしても、難しい依頼には頼めば同行してくれるだろうし、重傷の者が出れば助けてくれるだろう。厄災との戦いも然り。普段の授業は…まぁ、残る教師役の持ち回りで、おそらく今も何とかなっているわけで。
──これが、僕の願いだったんじゃないか?
四百年前。
僕さえもっと優秀であれば。
師が僕を見限ることもなく。
友が片腕を失うこともなく。
革命は正しく成功して。
目指した世界の繁栄を見守りながら、長寿の運命を、このひとと共に。
──そう、まさに、今。
この時が留まれば、全てが美しいままに。
「…馬鹿な、」
諦めたはずだった。燃え尽きて、塵となったはずだった、そんな望みは。とうの昔、四百年前に。もう二度と、そんな幸福は、訪れないのだと。否、己に、そんな資格はないのだと。
だからこそ、その囁きは衝撃だった。そして一度自覚してしまうと、もう駄目だった。それは瞬時に、荊となって心臓を締め上げ、甘い毒が心を冒す。悪魔の声ならばまだマシだったろう、その囁きの主は紛れもなく自分自身だったのだから。
「──うそ、だ、……」
息ができない。目の前のこれは、果たして本当に現実なのか。
あるいは夢なのか。忌まわしい傷が見せる、己の願望の。
これが呪いでなくて何だというのだろう。呪われるべきは、己自身か。
ああ、己はなんと愚かなことか。四百年を経てなお、かくも容易く心を乱される。偉大な師には遠く及ばぬ、不出来な弟子。見限られて当然だ。
──僕では、この呪いを、解けない。
***
雪深い北の地においては、そもそも雲のない日が少ない。加えて年中風が強く波が立ちやすいので、凪の夜と満月が重なるのは、極めて難しい条件だった。そして、その風景こそ、フィガロのマナエリアだった。
一度だけ。彼に師事していた一年の間に、連れて来られたことがあった。魔力を回復させる手段について学んでいた時だ。これが俺のマナエリアだよと教えられて、美しいけれど不安にもなる、不思議な感覚になったことを覚えている。自らのマナエリア──深い森の中での焚火──で感じる安堵とは、こうも違うものなのか、と。
文字通り弱肉強食の世界、ひときわ敵の多い北の魔法使いが、自身のマナエリアを──ましてや実際の場所を他人に明かすのが、どれほど危険なことなのか。当時は何もわかっていなかった。いや、今だってわからない。なぜ、あの時、あいつが僕にそんなことをしたのか。
果たして今、深い青を湛えた水面には、銀色とも金色ともつかぬ光の道が出現していた。辿ればそれは、真っ直ぐに円い月へと至る。
汀に足を踏み入れる。岩場はすぐに深さを増し、あっという間に腰の高さを越えた。刺すような冷たさに、手足が痺れる。波をかぶって、頭から濡れた。海水を飲んで咳き込みながら、無意識のうちに手を伸ばす。
「──何もないよ、その先には」
平坦な声が、背中を打った。はたと足が止まる。
城を出たことには気づかれるだろう、とは思っていた。こちらも特別気配を消していたわけでもない。
けれど、呼んでもいない。それなのに、来るのか、今は。ひたすらに希った四百年前とは違って。
「……どうして、」
「どうしてこんなところまで似るんだろうね…」
「……なんの、話、」
自嘲めいた呟きへの答えはなくて。
ざぶざぶと波を掻き分ける音に慌てて振り返れば、男がこちらへ歩み寄って来ていた。こんな、冷たい水の中を。
「──魔法舎とは逆方向だったから。そんな状態で北を彷徨うのは、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものだ」
真向かいに立たれて、けれど目を合わせる勇気はなかった。
男の指摘はその通りで、確かに馬鹿だ、しかも北の海で入水まがいのことをするなんて、本気で死ぬつもりならまだしも。それで叱ってもらえるのならまだいいが。
「……頭を、冷やそうと、思って、」
「目的は果たせた?」
「……、手を、煩わせたなら、…悪かった…」
「……」
無言。男は呆れただろう。ああ、また失望させた。だから見限られるんだ。また、置いて、行かれる。身体が震えた。それは決して寒さの所為だけではなかったけれど。
ふいに腕を掴まれた。それだけで、痺れるような冷たさが消えてゆく。寒さ除けの魔法も何もしていなかったことに、今更気がついた。
そのまま岸へと引っ張っていかれ、すぐに温かい魔法が二人分の身体を乾かして、今度はからからと木切れが集まってきたかと思えば、ぽんと小さな火が起こされた。ついで男はおもむろに外套を脱ぐと、僕へ羽織らせて、そのまま座るように促してきた。捨て置かれるんじゃないか、そう危惧した時に限ってこんな。覚えのある黒衣から、覚えのある匂いがかすかに香る。これが当たり前に傍にあった時間が脳裏に蘇って、目の奥が熱くなる。
「──シュガー。出してごらん」
唐突に、男は言った。まるで師弟の頃に戻ったみたいに。
なんで。頭で考える前に、身体が従う。
「《サティルクナート・ムルクリード》、……あ、」
けれど、掌に現れたものは、歪な欠片が二つばかり。
ひどいな、我ながら。こんな不恰好なものは、初めて──彼に師事して初めて作った時よりもずっと下手くそで、自分でも呆気にとられているうちに横からひとつを掻っ攫われて、気づいた時には男の口の中に放り込まれていた。そのまま、こくん、と控えめに嚥下する音だけが耳に届く。
言葉はなかった。
仕方なく残りのひとつを自分でも口にして、思わず顔をしかめた。さらにひどい。外見からして美味くもないだろうとは思ったが──何の味もしない。
シュガーは、心のあらわれ。何かを成したいという意志さえあれば、それが善であれ悪であれ、星の形と、甘さをもたらすものなのに。
心が力を失っている。迷子だ。確かにそう。
試験ならば間違いなく0点だ。嫌だな、と思った。この男の前で、魔法使いとしてあるまじき、こんな根本的な醜態を晒すのは。正直、城からここまで箒で飛ぶのも辛かった、なんて。
でも僕の師匠はこういうひとだった。緑の星の眼は全てを見通し、最も効率的かつ効果的な手段を選ぶ。一見遊びに思える事象も、このひとの前では目的を果たすための透徹の一部に過ぎない。どこまでも残酷で、そして──やさしいひとだった。
「……ここのところ、ずっと、泣きそうな表情してる。
根を詰めすぎるのは、よくないよ。それもきみの癖?」
「……僕が泣いたところなんて、あなたは知らないだろう」
「そうだけど、でも、嬉し涙じゃないことくらいはわかる」
そうだけど。
でも、もう自分でもどうしようもなくて。膝を抱えた。
「……今のままでいいんじゃないか、一瞬でもそう思った、最低だ。そんなことを自覚するために来たんじゃないのに」
「──迷ってるの?俺の記憶を戻すかどうか」
「……あなたにとっては、どちらでもいいことなんだろう」
「だからって、きみにそんな表情をさせたいわけじゃないよ」
気づいた時には、後ろから抱き竦められていた。
ぐりぐりと、猫のように肩口に額を押し付けられて、擽ったい。
「…な、に?」
「……あったかいなぁ」
「……?」
「ねえ、出会った時から不思議だったんだけど──きみの魔力。
色も匂いも違うのに、構造は、俺のとそっくりだ。制御の仕方も。
だから容易く溶け合うっていうのは理に適うんだけど…どうしてだろう。双子じゃあるまいし、生き別れの家族でも、そんなに似るなんて話は聞いたことがない。あ、もしかして、恋人同士だったとか?」
「──はぁ!?違う!!」
「残念、即答かぁ。
まぁそうだよね、たとえ俺の石を食べたって、こうはならない」
「──ッ」
ほら、やっぱり。だから嫌なんだ。
『嘘じゃない、本当なんだ。信じてはくれないかもしれないけど』
『──』
『……だから、さ。俺の石はきみに食べてほしい。書物も道具も好きに使って。北の城も、南の診療所も。
俺が遺せるものは、もうそれくらいしかないけど、きみに』
『……ッ、おまえは、どうしてそうなんだ。まだ生きてる、おまえも、僕も、手の届くところにいる。声だって、呼べば来る距離に。なのにどうして、いまの幸せを考えないんだ』
『きみに言われたくはないなあ。でもきみが幸せであってほしいのは本当だし、そうしたら俺も幸せだから。
確かにいろいろあったけど、最後は──いい人だったなって、君に覚えていてほしい』
『──ふざけるな!勝手に決めるな!勝手なんだ、おまえは昔から!勝手に捨てて、今度は拾って。それでまた勝手にいなくなる、残される者の気持ちも考えないで。
さぞ滑稽だろうな、若造が掌の上で踊る様は!僕ばかり振り回されて、馬鹿みたいだ!おまえの思い通りになるのはもううんざりなんだよ!』
『違うよ、そうじゃない、きみは俺の、』
『何が違う!四百年前、おまえは僕を捨てた!ああ、確かに不出来な弟子だったろう、たかが革命も満足に成し遂げられなくて!生ぬるい理想ばかり叫んで、たくさん死んだ、裏切られて燃やされた挙句に聖人扱い、そのくせ厄災戦で死ぬことも叶わなくて!
嗤えばいい、わかってる、おまえにとってあの一年はただの気まぐれ、飽いたからやめる、昔も今も!それだけだ!』
『待って、ああ、泣かないで、聞いてよ、あれは俺が、』
『うるさい、触るな!黙って出て行ったくせに!今更師匠面をするな!四百年、僕がどんな気持ちで…ッ、
いっそ──おまえに出会わなければ!』
「……、あなたは、未熟な僕の師匠になってくれたんだ。短い間だったけど。僕の魔法は、あなたの教えが根幹にある。似ているのは、そのせいじゃないか」
「ふうん…、それだけとも思えないけど…、ああ、だったら、」
「?」
「どこまでしたの?」
「どこまで…?」
「──魔力の回復手段について。
主要なものは、マナエリアでの休息、アミュレットの所持。マナ石を食べることは回復と同時に底上げにも繋がる。シュガーのほか、微量ではあるが、十分な食事や睡眠も有効。加えて、外部からの供給」
流れるような説明はかつての授業そのままだ。
覚えているさ、一言一句。促されずとも口は動いた。
「──すなわち、強化魔法と、意図的な相互接触による交換。さらに、他の魔法使いの血液、唾液をはじめとする体液を、経口摂取する方法。それ自体が呪術に悪用されうる媒介であることに加えて、相性によっては拒絶反応を起こす可能性もあるため、相応の危険も伴うが、」
「うん、優秀優秀。で、そのうち最も効果的かつ効率的なのはセッ」
「──してない!!」
思わず馬鹿みたいな大声が出た。ただの事実なのに。
「なら、キスは?」
「──ッ、するわけないだろう、あなたの教えなんだから。
媒介のやり取りに繋がる行為はくれぐれも慎重にって、」
「……それって、」
「…なに?」
「俺だけじゃなくて、他の誰とも、っていう意味?」
「──!?あ、あなたには!関係ない!!」
「……それほどに、本気だったってことか、俺は…」
「……?」
「…こっちの話だよ」
ぎゅ、と回された腕に力が込もった。
「──後悔してる?」
「…え、」
「俺に出会わなければよかったって思うくらい」
「……それは、」
そうすれば──きっと、知らずに済んだのだろう、こんな思いは。
嬉しかった。幸せだった。決して楽な日々ではなかったけれど、このために生きてきた、そう思えた。
そして同じくらい、つらかった。痛くて、苦しくて、寂しかった。枯れるほどに泣いた、どうして、と。
「──はじめに言ったよね、俺。きみが望むなら、」
「……僕から、あなたの記憶を、消せるって?」
「そうすることで、きみが四百年の軛から解放されるなら。俺は、やるよ?」
おもむろに後ろから帽子を取られ、サングラスも外されて、露わになった目元を、温かい、大きな掌に覆われる。何を、と問う必要はなかった。男が得意とする精神を操る魔法、その矛先が己に向けられたのは短い修行の間だけだったけれど、僕へ教えるためにそれを行使する時、呪文ひとつで済むものを、師はいつもわざわざこの手順を踏んでいた。
『目を閉じて、深く息をして──大丈夫、俺を信じて』
訓練を目的とするがゆえに、その魔法がもたらすものは昂揚だけとは限らなかったが、たとえ与えられたのが絶望であった場合でも、その触れ合いは、いつも僕に安堵をくれた。
このひとにすべてを委ねることに、迷いなどなかった。それが、心で魔法を使う者として、ある意味──致命的なことだったとしても。
いま、僕が抗うことなく。
いま、男がただ一言を唱えれば。
「……、そう、だな、」
そう、このひとはそれを選ぶことができる。大樹を生かすためなら枝葉も折る、それは確かに強さなのだろう。望むと望まざるとに関わらず身に備わった、北の地を生き抜くうえでのひとつの術。
同じことを、僕はかつて何度も説かれた。人を率いるなら必要だと。
それでも、それが全てじゃなかった、僕にとっては。ひとつの命も諦めることはできない、そのために革命を志したのだから。軍に戻ってからは、意見がぶつかり合ったことも少なくなかった。けれど、あなたは最後には僕の頭を撫でて言ってくれた、「それがきみの願いなら、力を尽くすよ」と。
だから、たとえその結果が敗北でも、裏切りでも、火刑でも、孤独でも。
それでよかった。後悔などしていない、自分の意志で選んだ道なのだから。そして──その先に、今がある。
あなたに出会って、僕の生は命を得た。それまではきっと、息をしながらも眠っていただけだった。あなたの導きが、僕を、仲間を生かした、全てを救えたわけではなかったとしても。そして呪いを生業にしてからも、賢者の魔法使いとなってからも、厄災戦で文字通り死にかけた時も。授業の合間にも、依頼で向かった戦闘の最中にも。いつだって、あなたの声が、手の温もりが、あなたの教えが。その全てが、僕を生に繋ぎ止めている。
あなただってそうだ。かつて世界で恐れられていたあなたが、僕と共にいてくれたこと。離れた後に、あなたが南で成したこと。それは、あなたが、その長久の生の中で、ほんの僅かでも、僕と出会って何かが変わったから、そうじゃないのか。
「……嫌だ、」
あなたという存在を忘れることは、これまで己が歩んできた道をも否定することなんだって言ったら、あなたは驚くだろうか。決して幸福なだけの時間ではなかったとしても、軛だなんて。むしろ導標だった。もう駄目だと思った時にこそ、もう一度、立ち上がるための。
──だから。あなたに出会わなければ、なんて。そんなの考えたくもない。
「嫌だよ、忘れるのも、忘れられるのも」
「なら、どうすればいい?どうすれば、きみは、笑っていられる?」
「……僕は、」
このひとはきっと、その生のはじめから、多くを捧げられて、願われて、当たり前のように叶えてきたのだろう。偉大な神様、北の大魔法使い、南の優しい医者、その時々に、いろいろな姿となって。
では、あなたの願いは?願ったことは、あるのだろうか?
あなたに成し得ぬことを、誰が叶えてくれるのだろう?
あなたの幸せは、どこにあるのだろう?
──そうして全てに疲れた時、あなたはどこへ行くのだろう?
「……あなたの言葉が、欲しかったんだ」
ぐ、と腕に力を込めて向き直る。
向かい合った男は、たぶん初めて見る表情をしていた。ただひたすらに、どうすればいいの、って、その答えだけを探している、それが少しだけおかしい。僕よりも千年以上を長く生きているあなたの方が、よほど迷子みたいじゃないか。
「あなたはいつも、口を開けば僕の幸せだとか、望みだとか、そればかり。
そうじゃなくて。僕が知りたいのは、あなたはどうしたいのか──あなたの言葉で、あなたの願いを、」
そうすれば──俺はひとりぼっちだ、そう呟いたあなたの孤独に、少しでも寄り添えるんじゃないか、って。
分かってるんだ、本当は。僕がまだまだ未熟なことも、あなたに遠く及ばないことも。でも努力はする、強くなるために。少なくともこうして今、諦めずに手を繋ぐことはできるから。
だから、何も言わずに、手を離さないで。一緒に生きることを、諦めないで。どうか。
「……でもさ、これも、俺の言葉なんだよ。
きみには笑っていてほしい。きみの幸せを願ってるって」
──嘘じゃない。本当だよ。信じて。
再会してから、ことあるごとに、あいつは言った。そうやって言葉を重ねられるほど、あいつの本意は帳の奥に隠れてゆく、そんな気がして心底嫌だった。
それでも。今、四百年の記憶を抜きにしても、それが答えだというのなら。
いいだろう。それで結構。こちらも受けて立とうじゃないか。
──な、に、が!!
「きみの幸せ」だ!他人事みたいに!クソ食らえだ!!
「だったら、あなたが、僕をそうさせたらいい」
「けど、俺はきみに取り返しのつかないことをしたんだろう?」
「あなたが言ってくれたんだ、一緒に生きよう、って。嬉しかったんだ、本当に。それなのに…、」
記憶のない男に言ったって仕方がないのは分かってる。
僕だって、本当は口にしたくもなかった、こんな思いを。
──僕が見限られたのは、不出来な弟子だったからじゃないか。
それは、心の一番奥の、一番柔らかいところに、一番深い傷となって残っていて、今も刃は突き立てられたまま。この身体と共に燃え尽きたはずなのに熾火となって燻り続けて、思い出すたびに自ら抉る羽目になって、四百年経ってもまるで消えやしない。そんなの誰だって、目を背けていたいに決まってる。
でもしょうがないじゃないか、いつもいつも、こいつにばかり、伝えたいことばかりが全然伝わらない。全部こいつのくるくる回りすぎる舌の所為だと言ってやりたいところだが、記憶のない今だけは、どうやらそれが大人しくしているようなので。
「──今はもう、捨てたのか?飽きたから?
僕が、力不足だったから?生きる場所が違うと、言ったからか?」
「…きみは、まだ…」
「願っているのは、僕だけなのか?あなたは?願ってはくれないのか?
もう一度、僕と、一緒に──」
言いしな、後頭部に手が添えられて引き寄せられて。
ふに、と唇にぬるく柔らかいものが触れた。驚いて、反射的に口を引き結んで、それなのに相手のそれはやさしく啄むように動き続ける、なにが、なんで。息が続かない、それをいかにも見越したように、男は囁いた。
「鼻で息するんだよ」
「は、」
話は終わってない──その最初の音を発するために唇が緩んだ一瞬に、ぬるりと入り込んできたものに、息を呑んだ。それが何か、ってそれはさすがに分かるけれど。つまり、これは。
──いま。いま、キスをされている?この男に?なんで、どうして。
僕の混乱を他所に、男の舌は僕のそれに絡んで、きゅうと吸って、それから歯の回り、舌の裏側、上顎の奥と、好き勝手に撫でて擽ってくる。聞くに耐えない濡れた音を立てながら。口の端から溢れそうになる唾液を思わず飲み込んで、結果的に今度は自分の舌を男のそれに絡めることになって、そうしたら褒めるみたいに頸を撫でられた。
「ん、っく、…は、っう…」
思うように息もできない、頭がぼうっとして──いい加減にしろ、と、力の抜けた腕でそれでも男の胸を叩くと、ようやく唇が解放された。新鮮な空気を吸えて、軽く咳き込んだ。
肩を上下させながら、抗議を込めて男を睨み付ければ、相手の唇も濡れて艶めいている、それを男が自分で舐めとるさまは、ひどく鮮烈だった。──敬愛するかつての師と己は今なにをしたのか、その事実は背徳的な響きでもって身体の芯を震わせた。けれど背に回された腕は緩まず、逃げることもかなわない。美しい、緑の星の眼が、至近距離で、僕を捕らえたまま。
「……もう、俺にしなよ」
「──は?」
「話を聞けば聞くほど、俺、きみにひどいことをした気がするよ。このまま記憶が戻っても、たぶん、俺はまた、きみを傷つけてしまうだろう?辛い記憶なんて放っておいて、今の俺のままにしておいたら?」
「……」
「今度はちゃんと、きみのこと、大事にする。約束したっていい」
「……それが、あなたの願いなのか?」
「え?…ええと、そう…なるのかな?」
「……あなた、は、」
──最、悪、だ!!思わず両頬を引っ張ってやった。
相手は恐ろしい北の大魔法使いだって?知ったことか!!
「──へ?ちょ、いひゃいよ、ひゃめて」
仮にも二千年を生きた叡智の人が、だ!
たったひとつ、初めて願うことが、それなのか。
忘れるのも忘れられるのも嫌だと言った、僕の言葉をもう忘れたか!僕がようやく心を決めたっていうのに、今度はあなたが逃げるようなことを口にする。すれ違いもここに極まれりだ!
「……っ、くくっ」
「え、いま、笑った?うそ、笑うところ?」
「だって、本当に、あなたは、ふふっ…、もう、そういうあなただから、僕は、」
──だから放っておけないんだ。
僕も忘れていたよ。いや、見ないようにしていたのかも。あなたはいつだって呆れるくらいやさしくて、ときどき恐ろしく不器用だってことを。
だから今度こそ。離れないように両手を両手で包み込んで、この温もりを離さないように。
「──誤解があるようだから、言っておくけど」
「は、はい」
「それは、あなたの願いにも、約束にもならない。
あなたは、僕を、大切にしてくれていた。昔も、今も。
それくらいわかってる」
「……え、」
「だから──帰ってこい。話はそれからだ、フィガロ」
──俺の願いはね、いつだって、きみの形をしてるんだ、ファウスト。
「……う、ぐ」
「──!?な、どうした、フィガロ、おい!?」
「…ちょ、ちょっと待って、ファウスト、違…、いや違わないけど、揺らさないで!さすがに記憶四百年分は、俺でも頭の中が、う、気持ちわる……」
急にえずくように身体を丸めた男を、慌てて抱き寄せて、背をさすって、額の汗を拭ってやって。それでもさすがと言うべきか、それほど時間をかけず、男の呼吸は静かなものに変わっていった。
そういえば、さっき、名を呼ばれた気がする。この男が忘れていたはずの、僕の名を。──ということは。
落ち着いたらしいのを見計らって、じっと顔を覗き込めば、そこには、大層バツの悪そうな表情して頬を掻きながら明後日の方向へ眼を逸らす男がいた。これは、もしかして。
「記憶…、戻った、のか…?」
「……、はい…」
「──嘘つき!嘘つき!また勝手にいなくなって!忘れないでって言うくせに、勝手に忘れて!この馬鹿!馬鹿だ!おまえは!全然!何もわかってない!!」
「いたた…、ごめん、ごめんよ、ファウスト、ああ、泣かないで。きみに泣かれると、どうしたらいいのかわからなくなる、きみとのことばかりが、どうしてか上手くいかないんだよ」
ばしばしと加減せずこいつの胸を叩いていた手を取られて、その左手の薬指が目に入る。そこを常のように正しく魔力が流れているのがわかって、余計に涙が溢れた。
──戻ってきた、今度はちゃんと、僕のところに。よかった、本当に。
ちょうどその時だった。
とうに厄災は水平線の彼方へと身を隠していて、代わりに暗い暁闇から薄紫色に染まりつつあった空に、一筋の陽の光が差し込んだ。
「……あ、」
「……夜明け、か」
***
「……本当に、よかったの?」
「…なにが」
「俺の記憶を戻しちゃって」
「……そうじゃなきゃ意味がないだろう」
無事に記憶が戻ったとはいえ、さっきの様子からして、横になっていた方がいいんじゃないかと言ったら、「きみの膝枕なら」などとほざいたので即却下した。あれからぽろぽろと涙の止まらない僕を、落ち着くまでずっと、腕の中で宥めてくれていた…のだとしても、それはそれ、これはこれだ。調子に乗るな。
箒に乗るくらいは問題ないというから、すぐに魔法舎へ出発してもよかったのだが、それはお互い何となく口に出さずに、結局、こうしてふたり並んで岸辺に座って、明るくなりつつある空と海をぼんやりと眺めている。
「…というか、呪いが発動していた間の記憶もあるのか?」
「うん、そうみたい」
「おまえ、記憶がなくても、全然変わらないな…」
「そう?例えばどんな?」
「同じ言葉で僕を怒らせるところ」
「はは…、じゃあ逆に、きみだったら、どうしてた?
記憶をなくして、四百年前に戻ったとしたら」
「なんだそれは…、まぁ、そうだな…」
言われて脳裏に蘇るのは、やはり北の、流星雨の夜だ。
「……たとえ結末がわかっていても、あの時の僕なら、同じ選択をするだろう。自分の意志で選んだ結果だ、悔いてはいない」
「俺のところへも来てくれる?」
「それこそ愚問だ。……でも、今なら、」
「……違う方を選ぶ?」
「そうだな。魔法使いと人間とが疑心暗鬼になった時には、アレクも取り巻きの奴らも正座させて説教してやるし、」
「それもう脅してるでしょ。きみって怒ると怖いタイプだよね…」
「おまえが黙っていなくなるのなら、縛り上げてでも捕まえるし、」
「どうあってもきみは俺に弟子入りしてくれるってことか、師匠冥利に尽きるね、俺もそれなりに長く生きたけど、さすがに縛られた経験はないなぁ、でもきみにならいいよ、特別に、なんなら俺のこと食べても」
「だまれ変態」
「変態って。そうだなぁ、俺なら…最初から、俺だけを見てってきみに迫って、手を出してぐずぐずにして、俺から離れられないようにするかな」
「おまえな…今だって、僕にそんなこと出来ないくせに…」
「え、いいの?だったら遠慮なく、」
「馬鹿!そういう意味じゃない!とにかく──だから、いいんだ。
今の僕たちなら、違う選択をしただろう、って言えるなら。
この四百年には、意味があったんだ」
隣り合った手を繋ぐ。
今はこんなに近くにある。触れられる。確かな温もりが、傍に。
「だから、僕は忘れない。忘れたくない。
四百年前に戻りたいわけでも、やり直したいわけでもない。
おまえにだって、覚えていてほしいよ。僕が用があるのは、今のおまえなんだから」
「…ファウスト、」
「……生きる場所が違う、と。確かに僕は言った。
今のおまえは南の医者で、僕は東の呪い屋だから。…だとしても、」
最初は、本当に、変わってしまったんだ、と思った。
南の若くて弱い魔法使いの医者。嘘つきで軽薄で女好きでいい加減で胡散臭い(以下略)男。かつて己が敬愛した、厳しくて威厳があって誠実だった、偉大な師はもはやいないのだ、と。
でも、全然変わっていない、そう感じる瞬間も確かにあって。それは戦闘の最中であったり、日頃の授業の相談であったり、大小いろいろだけれど──それこそ記憶のない間だって。
結局のところ、あなたが僕に注いでくれるものは、いつだって、めいっぱいの愛だったんだよ。
「偉大な神様も、北の大魔法使いも、南の医者も、おまえの姿なんだろう。
僕だって、呪い屋だ、引きこもりだと言いながら、それらしくない時もあると自分でも思うよ。──それでいいんだ、」
今はただ、違う国の、賢者の魔法使い。
かつてのような、師匠と弟子ではない。
──それでも。
生徒を抱えて、教え方に悩んだ時。厄災の影響を前に、戦術に迷った時。
南の鮮やかな花が咲いた朝にきみを。新顔の猫に触れた午後におまえを。
あるいは、こうして今、穏やかに寄せては返す夜明けの汀を眺めながら。
ふと互いを思う瞬間があるだろう、顔を見て、声を聞いて、触れたい──と。
「だから…そう、なんでもない、ただ疲れた日の、夜でもいい。
酒を飲むとか、ただ話をするとか、あるいは傍にいて、何もせずに眠るだけでも。
あなたにとっての、そういう居場所に、なりたいんだ」
そうやって、なんでもない日が、特別になっていく。
その積み重ねは、きっと、幸せと呼んでもいいものだから。
「それは──おまえにとっては、意味のないことか?」
けれど、しばし待てども返事はなくて。
さすがに不安になって隣を見上げたら、フィガロは──これまたあまり見たことのない、本当に狐につままれたみたいな表情をしていて、そのあと、今度は長い冬の終わりに蕾が綻ぶみたいな笑顔を見せた。
「……ふふ。そっか、そうだったのか。ここにあったのか……」
「……なにが?」
「俺の探し物。…ねえ、ファウスト、気づいてる?」
「…だから、なに、」
「きみが今言ったこと。俺はもう、してるよね」
「は?……晩酌の話か?いや、あんなの、いつもおまえが勝手に押しかけて来てるだけで…」
「きみだから、そうしたくて、そうしてる」
「……、それは…」
「じゃあ、これからは手ぶらでも、部屋に入れてくれる?」
「…べつに」
「たまには、昔のことを、話しても?」
「…いいよ」
「寂しいときは、一緒に寝てくれる?」
「……時と場所と頻度による」
「そういう気分にさせてあげるから」
「いかがわしい言い方をするな」
「……でもさ、きみは?」
気づけばフィガロの腕の中へ引っ張り込まれていた。体勢を整える暇もないまま胸に押しつけるように抱きしめられて、ちょっと苦しい。羽織った外套が纏っているのと同じ、北の夜の海辺を渡る風そのものの匂いが、ひときわ濃く香って、胸が詰まりそう。
「きみは、ただの、眠れない夜に、俺のところへ来てくれる?
厄災の傷があるから駄目だとか、そういう意味じゃなくて。
きみにとって、それは──俺で、いいの?」
そう遠くない未来に石になる存在だとしても──。
フィガロはそう言いたいんだろう。魔法使いが本能で悟るという寿命の終わり、それは等しく抗いようのない自然の摂理だ。こうして互いの居場所を得たとして、僕たちの間には、絶対的な命の差が横たわっている。
だからこそ──余計に、つらくなるだけじゃないのか、と。
「……おまえの、命のこと、」
ひとり長い時を歩き、多くの願いを叶えてきたが故に、幸福の儚さも、失う痛みも知っている。いつまた失われてもいいように、そうして己の心を痛めることがないように。魔法使いとして、強く在れるように。それもひとつの受け入れ方なのだろう。
──だとすれば。
一緒に、少しずつ、なんでもない日を「特別」にしながら──手を繋いで歩くこともできるはずだ。共に過ごした幸福を腕いっぱいに集めて、そうして出来た想い出があれば、どんなにつらくても、もう一度立ち上がれる。そうやって僕は生きてきた。おまえだって、一度は願ってくれたことなんだから。
「……いつかはそういう日も来るだろう。
でも、今は、まだ…なんでもないことみたいに、言わないでくれ。石になることも、石になってからのことも。いつか、その時までには、受け止められるように、強く、なるから、……」
だから、それまでは。この手を離さないで。
共にいられる幸福を、ひとつずつ、一緒に。
「……きみの幸せに、俺が、一緒にいていいの」
まだ少しだけ震えている声音に、答える代わりに、背に腕を回した。
今だけでいい、魔法がかかりますように。
この、強くてやさしい、それゆえに臆病な魔法使いに。
──目を閉じて、深く息をして。
「大丈夫、僕を信じて──願って、フィガロ」
あなたの願いを、あなたの言葉で、僕に教えて。
それがあなたの願いなら──何だって、力を尽くすよ。
「……もっと、生きたいよ、きみの傍で」
そのまま唇を塞がれていた。
大丈夫だ、息はできる、そう、鼻ですればいいんだ、さっき教わった。
──じゃなくて!なんで!また?またキスされているのか、僕は?
柔らかなそれが、飽きることなく甘えるみたいに啄んで舐めてくる、ここを開けて、俺を受け入れて、もっと深くに、って。
──ふざけるな!だからまだ話は終わってない、僕には返事すらさせてくれないのか、さすがにこの流れで嫌と言うつもりもないけれど、誤魔化すな、狡いんだ、そういうところが!
「ん、う、んむ…、──っぷは、フィガロ!!」
「なに」
「なに、じゃない!な、なんで、」
「こっちの台詞だよ。なんで黙ってキスされてるの、さっきは舌まで入れられちゃって。ハグは百歩譲ったとしても、ソファとはいえ夜一緒に寝てるとかあり得ない」
「は…?」
「あの頃、俺がどれだけ我慢してたと思ってるの。きみに格好悪いところ見せたくないし嫌われたくなかったし。再会してからだってそう。それをさあ、ぽっと出の奴にまるっと横取りされたんだよ?許せない、っていうかきみもちょろすぎ」
「知るか!なんで僕が悪いんだ、どっちにしろおまえじゃないか!」
「俺だったらいいって意味だよ、それ」
「うるさい!!」
「……きみは、本当に、」
「…なに、」
「俺の北の格好、好きだよね」
「呪われろ!!!」
羽織らされていた外套を叩き返してやったら、むぐ、と潰れた声がした。
自覚はあるので図星でしかない。が、当の本人に面と向かって指摘されるほど癪に障ることはない。だから調子に乗るな!
「帰るぞ──魔法舎に」
もういい、話は終わったとばかりに宣告してやれば、もそもそとフィガロが再び顔を覗かせる。彼が一言唱えると、腰まであった髪はさらりと頸まで短く、北の長衣はお馴染みの白衣へと姿を変えた。
うーん、と座ったまま気持ちよさそうに伸びをする呑気な姿に、すっかり見慣れてしまったな、と思う。魔法舎で暮らす、南の医者。ふたりで過ごした時間の長さも濃さも、北での一年間には到底及ばない気がするのに──不思議なものだ。
それに、ほら。今みたいな、とっておきの宝物を見つけた子供みたいな笑顔を向けられることも。
「ね、帰ったら、俺の部屋に、きみと飲みたい酒があるんだけど…」
「……」
「…ファウスト?まだ、怒ってる…?」
「おまえ…、今回の件で、皆にどれだけ迷惑をかけたと思ってる」
「う…」
「双子もオズも事実を伏せてくれていたし、教師役を代行してくれた者もいる。僕だってすっかり医者代わりだ。それに、心配していたぞ、子供たちも、賢者も」
「……、うん…」
「僕が一緒に謝る。それが先だ」
「きみは…、いや、わかってるよ。それは俺の役目」
「そう言ってだいたい分かってないからこういう羽目になるんだ」
「ごめん、ごめんって…、あー、でもなぁ、」
けれどフィガロは大袈裟に溜め息をついて、肩を落とした。
「やだなぁ、オズはともかく、双子先生がなぁ」
「どうしたんだ?」
「バレてるんだよね、間違いなく」
「何の話だ」
「いや、だからさ、きみとのこと。俺は、とりあえず一晩分やり直したくて、試してみたんだけど」
「やっぱりか」
「だからメモを残しておいたわけ。『ファウストに昨日のことをちゃんと謝る』って、酒と一緒に」
「…適当だな…」
「で、いざ蓋を開けてみたら、四百年前に戻ってるでしょ。だからメモの意味もわからない。それで、」
「……双子に聞いたのか」
「そうなるよね」
「双子の反応が目に浮かぶな…」
「絵の中で泣いて爆笑してたよ、こっちの気も知らないでさ」
「…おまえが言うか…」
つまり、僕が双子の部屋に突撃した時点で──いや、そもそも教師役の会議でフィガロの不在が告げられた時すでに、全部が全部わかっていたわけだ、彼らは。何食わぬ顔をしておいて、全く、これだから長寿の魔法使いは。今から溜め息が出る。戻ったら早々に遊ばれる予感しかない。
「ファウスト、……それでね、だめ?」
「なにが」
「お酒」
「……おまえにしては素直な誘いだと思うけど。
だがここに来てから、おまえ、ろくに食べてないだろう。空きっ腹に酒は良くない。おじやにしろ」
「──ええ、この流れでそれ?情緒ってものがあるでしょ、情緒」
「それは申し訳ないな、教わったことがなくて」
「わかった、今から特別授業をしてあげよう」
「お断りだ。誰かさんのせいで寒い、疲れた、眠い。引きこもりなのに馬車馬のように働かされた」
「──ファウスト」
「なに」
「…ごめんね」
「20点」
「えええ!?」
ありがとう、だけでいいんだ、こういう時は。
それなのに、こいつは。情緒なんて、どの口が言うんだか。
「文句があるなら追試をしてやってもいいけど」
「──いいよ絶対満点とるからさ、そうしたら、俺だけを見てってきみに迫って、手を出してぐずぐずにして、俺から離れられないようにしてもいい?」
「……っ、酒が先だ」
「ふふ、はいはい」
馬鹿!馬鹿馬鹿!!子供みたいな笑顔でとても子供とは思えないことを口にして。さあっと頬も耳も首筋も一瞬で赤く染まったのが自分でもわかった。見られたくなくて帽子のつばを押さえて、さっさと立ち上がってぽんと箒を手にすれば、よいしょ、とフィガロもそれに倣った。
一応横目で窺えば、ふらつく様子もないし、顔色も悪くない、魔力の流れも。くだらない冗談も言えるくらいだから大丈夫なのだろうが、それでも内心安堵した、ところで。
「ファウスト」
「…まだ何かあるのか」
「きみのシュガーがほしい」
「……」
は?嫌だけど、なんで僕が、ふざけるな、いい加減にしろ、殺すぞ。
──と断固拒否していただろう、それがいつものこいつだったなら。
けれど振り返って、フィガロの表情を見て、やめた。
溜め息をつくふりをして、ひとつ、深呼吸する。まぁ、こちらとしても、あんな──自分史上最低最悪の出来栄えを無様に晒したまま終わるのは、仮にも「元」弟子として沽券に関わる、なけなしの自負が泣く、非常に不本意この上ないところだったので。
つかつかと歩み寄って、ひとまわり高い位置にある(腹の立つ)顔を睨み上げて、そして。
「──屈め」
「え?…こう?」
「目を閉じろ」
「は、はい…?」
「口」
「くち?なに……あいたっ」
それは互いの舌のあわいですぐにほろりと崩れてしまったけれど。
確かに、とろけるように甘い、美しい星のかけらを形作っていた。
つまるところ僕だって、たまには、こいつの花丸が欲しくなる時もあるんだ、ということ──勢い余って先に歯がぶつかったのは…大目にみてくれないか。
おもむろに背に腕が回されて、温かな掌に愛おしげに撫でられる。
──魔法舎へ発つのは、もう少しだけ後になりそうだ。
あなたの願いを知りたくて/完