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    harunoyuki

    20↑腐 フィガファウ/ブラネロ いつもありがとうございます

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    harunoyuki

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    フィガファウ/魔法舎のフィが、二千歳のファが暮らす未来に迷い込む話/魔法舎では付き合いたてで、まだ何もしていないふたり

    #フィガファウ
    Figafau

    きみが幸せだなって思うとききみが幸せだなって思うとき「…………あれ?」

    ふと気付くと、鬱蒼とした森の中、赤い屋根の一軒家の前にいた。
    見知った場所ではあった。東の果て、呪い屋…というには些か清廉にすぎる魔法使いがひっそりと居を構える、嵐の谷。だが珍しく雷雨でも暴風でもないらしい。穏やかな夕陽で、家の壁も傍の木々も、茜色に染め上げられている。素朴な絵画にでもありそうな、いたってのどかな情景だ──平時ならば呑気に感嘆していられるのだが。

    (おかしいな、俺、診療所にいたはずなんだけど……)

    今回の帰省は常よりも多忙を極めた。
    夕刻に任務から戻って来たかと思えば今度は深夜、南で経過観察をしていた妊婦が予定より早く産気づいたとの一報を受け、取るものも取り敢えず箒を飛ばし、明け方無事に元気な赤子を取り上げたのはよかったものの、そこから休む間もなく、やれ子供が転んで膝を擦りむいたとか、老婆が散歩から帰って来ないとか、しまいには機嫌を損ねた飼い牛が牛舎に入ってくれないとか云々、我ながら引く手あまたの人気者だった。ああ、あと川沿いの土手が大雨で崩れていたのを、応急処置もしたんだったか。

    (さすがに、疲れは感じてたけど、)

    夜明け前から一日中てんてこ舞いで走り回ってようやく一息つき、すとん、と診療所の椅子に腰を下ろしたのは、ちょうど今くらいの夕方だった気がする。

    (その後、この子の家に向かったってことか……?)

    全く記憶にない。一切合切、きれいさっぱり、飛んでいる。
    念のため頬を抓った。うん、痛いな。夢ではないということか。

    ──少し、東の家に戻ってくる。
    数日前に魔法舎の廊下で、そう、本人から告げられていた。呪い屋の仕事が入ったらしい。とりあえずは依頼人から話を聞くだけで、受けるかどうかは内容次第だけど、と。律儀に伝えてくれるところがあの子らしい。元より力量は疑っていないし、「気をつけてね」とだけ返した。気付かれない程度の祝福とともに(あくまで自己満足だ)。
    俺の方はといえば、そもそもの発端が急患──不測の事態だったわけで、当然、ふたりで会おうなんて話もしていない。

    ……箒で来たのか?それにしては時間が経っていなさすぎる。だがさすがに空間転移ではないだろう、もしそうならここの精霊たちが黙ってはいないはずだ。むしろ今は、時が止まったかのような、奇妙な静寂が満ちている。

    (あーあ、嫌だな、歳かなぁ……)

    とはいえ、来てしまったからにはどうしようもない。
    まぁなんだ、ここであっさり踵を返すほど、人格者でもない。確かに来訪を知らせてはいないが、だからと言って叩き出すほど、あの子も冷酷ではない……たぶん。それに、もしも今まさに「仕事」中であるならば少しくらい待てばいいし、求められれば助言もできる、なんなら手伝って早く終わるならそれもよかろう。
    一応、世に言う恋人同士というやつだし──といっても、まだ軽くハグをした程度。それ以上のことはまだ、何もできてはいないのだけれど。

    (さて、あの子は…、うん、いるね)

    ここぞとばかりに咲き誇るエルダーフラワーの樹を横目に、年季の入った扉の前に立つ。室内に、気配はひとつ。こちらも別に敢えて気配を消してもいない。
    不意打ちの訪問だ、今度はどんな罵詈雑言が飛んでくるだろうか、あるいは無視か。魔法舎ならいざ知らず、さすがにここで居留守を使われるのはフィガロ先生ちょっぴり寂しい。というわけで一応、小指の爪先ほどの遠慮を残しつつも、握った手を扉の前に翳した、瞬間。

    「全く、こうも早く帰って来られるのなら、連絡のひとつくらい寄越せといつも──」
    「……へ?」

    ぐわっと、向こうから(俺の前ではいつも石棺の封印のごとき)扉が勢いよく開け放たれて、(俺なりに熟考に熟考を重ねたつもりの)ノックはものの見事に空振った。
    ──現れたのは、ファウストだ。
    身に纏う魔力がその証左。色も匂いも、俺が見紛うはずもない。なのに、違うのだ。己の知るあの子とは、明らかに。
    それは、背中まである癖っ毛を頸でひとつに纏めているところだとか、普段の黒衣ではなく生成色の素朴な上下を身につけているところだとか、まぁでも、この子の部屋着はそういうものかもと思ったり、サングラスを外しているのも自分の家にいるからかな、等々。それに何より、なんだろう、うまく言えないが、なんというか……。
    けれどこちらの混乱を他所に、この子は呆れた表情をして言葉を続ける。

    「……なんだ、また新しい遊びか?
     まぁ、懐かしいけど。千年以上前の格好じゃないか。まだ魔法舎にいた頃の、」
    「──待って、ファウスト、」

    いま!いま、何て言った、この子は?
    他ならぬファウストのことだ、この状況下、嘘でも冗談でもなかろう、どこぞの誰かとは違って──ならば、そこから導き出される可能性は。

    「きみ……、今、いくつ?」
    「は?、なんだ今更。
     ……二千歳を少し超えたくらいだけど?」

    きみが幸せだなって思うとき
    「……つまり。ここは、千六百年後の世界ってこと?」
    「あなたにとっては、そうなるな」

    兎にも角にも。
    お互いの認識をすり合わせた結果、どうもそういうことになるらしい。
    考えられる原因は、やはり厄災の影響だろうか。だが特段、月の満ちる日ではなかった。戦いとなるであろう時期も、まだ先の話なのに。
    それにしても、まさか診療所──己の足元といえる場所にいながら、何の予兆も察知できず、こんな事態に巻き込まれるとは。

    「下手を打ったかな…、俺としたことが」
    「……悪いものは、感じないよ」
    「本当に?」
    「ああ」

    どうぞ、と差し出されたのは、温かい薬草茶だ。気分が落ち着く、控えめな香りがする。きっと庭先のエルダーフラワーだろう。
    素直に礼を言い、口を付けかけて、けれどふとした疑念が浮かんだ。

    「飲んだら帰れなくなる、なんてことは……」
    「まさか」

    向かいに腰掛けたこの子は、同じものを口にしながら、くすりと笑みを零した。

    「帰りたいとは、思ってるんだな」
    「え?、それは、まぁ…」
    「よかった」

    ……いや、よくない、気がする。
    何故って──ファウストが!やさしい!!俺に!!!
    態度も言葉も表情も、全てが俺の願望のファウストすぎて大変よろしくない。普段の無視文句悪態に慣れ親しんだ心には、即死効果ばりの破壊力で染み入ってくる。万が一にもこれが厄災に飲み込まれた結果の夢か幻だったりしたら、俺の人生、もう終わってるわけで。やっぱり死期の直感は当たりだったんだなーと、一抹の虚しさを感じなくもない。何より、かつての師匠もこの程度かって、あの子に嘲笑されそうだけど。

    けど、だ。その当の本人(未来の当人と言うべきか?)に、先ほどから──見つめられている。隠しもせずに、じっと。
    この子には珍しく、肘をついて、気のおけないくだけた仕草で、それがまた、眦を緩めて、少しだけ口角を上げた、ふんわりやさしい笑顔なのがいけない。この子のお気に入りの、猫たちにだってここまでじゃないだろうに。

    (くすぐったいなぁ……)

    とくり、と心臓が跳ねて体温が上がる。
    少なくとも記憶の限り、目にしたことのない表情だった。俺のところにいた頃だって……当時はむしろ、尊敬というか敬慕というか、そういう意味では距離があったし。再会してからは言わずもがな、しかめっ面がほぼ十割。まぁ晴れて思いが通じ合ったこれからは、眉間の皺だとか、尖った唇とかが、多少なりともマシになるといいんだけど。

    そう、これからは……いやいや待った、俺の人生終わったって話じゃなかったか?
    けどまぁ、いいか。最後にきみの、こんな表情を拝めただけで、僥倖とすべきだろう。厄災からの餞別か、だとしたら気が利くじゃないか。
    というわけで──判断は素早く冷静に、だ。二千年の叡智はさくっと開き直った。ならば有難く、心ゆくまで堪能しておくことにする。

    「……ねぇ、穴が開きそうだよ」
    「ふふ。あなたが百面相してるから、つい」
    「いや、だってさ……」
    「うん。あなたと僕が同い年だなんて、変な感じだ」

    北の大魔法使いが、南の若輩の医者だと嘯いて、完璧に擬態してみせる──なまじ、その力があるものだから。こんな、摩訶不思議な状況ではあるけれど、すぐに気づけなかったのは、少し、悔しいな。そう、この子は苦笑した。が、ふいにその笑みが消える。

    「……けど、」
    「?」
    「……あの頃のあなたに、追いついているのか。
     そう考えると…、僕は到底、及ばない。力も、知識も、何もかも。
     やはり、あなたは、偉大だよ」
    「それは……」

    それはただ、歩いてきた道が──そこへ捨て置いてきたものが、そうして踏み越えてきたものが、違うだけだ。どちらがいいとか悪いとかではなくて。
    きみが、俺になる必要はない。むしろ、こんなぐちゃぐちゃな経験なんてしてほしくはないし。逆も然りだ。俺だって、きみみたいに真っ直ぐには生きられない。

    「──あなたの目には、どう映る?」
    「……え?」
    「四百歳の僕と、今の僕と。違いはあるか?」
    「ファウスト……」
    「僕は……、ちゃんと、成長している?」

    ああ、これは。これだけは。
    出逢った頃から変わらない、ひたむきな眼差しが、こちらを射抜く。
    極北の流星雨の夜、己のもとへと流れ落ちてきた、ちいさなひかり。
    その双眸は、夕暮れと、夜明けの空の色をしていた。

    「そうだなぁ……、」

    例えるなら、鳥だろうか。
    弟子に迎えた頃は、雛鳥そのものだった。身体の年齢は成人の一歩手前といったところでも、魔法使いとしては、まだ親の羽にくるまれて眠るような段階。何よりもまず、死なない術を教えるのが俺の役目。それがあっという間に、ひとりで飛ぶことを覚えた。真っ直ぐに、前ばかりを見て、傷つくことも恐れずに。

    「……きみは真面目で、頑張り屋さんで、少し頑固で。力の限り全てを守ろうとして、自分ひとりが傷ついて済むのならって、いつも無理をするから。
     無謀、とまでは言わないけど、それでも、思いもよらないところで無茶が祟って、帰って来られなくなってるんじゃないかって、今でも心配してる」

    もとより革命を目指して軍を率いていた子だし、魔法舎へ召喚されてからは、教師役という立場の所為もあるだろう。

    「けど、今のきみからは、そういう危うさは、感じない。
     広い視野、鋭い知覚、しなやかな翼──全てに、淀みなく、魔力が通っている。緻密に、無駄なく、正確に。これなら、安定して、柔軟に空を飛べるだろう。いろんな可能性を考慮して、それでも不測の嵐に遭遇しても。きっと、ちゃんと、帰って来る」

    立派になった──ううん、今だってきみは、人の何倍も努力家だけれど。

    「さすが──」

    俺の弟子、と喉元まで出かけて、飲み込んだ。
    魔法使いとしてこれほどまでに成熟した。それが誰の助力によるものなのか、俺は知らない。ただ、少なくともこの子が相当、地道に研鑽を重ねたであろうことだけ。

    「……、ここに至るまで、大変だったろう。よく頑張ったね」
    「……そうか。……ありがとう」
    「うん……?」

    贔屓目で見ている自覚はあるが、それはさておいての、掛け値なしの所感だ。そんな、改まって礼を言われるようなことじゃない。なのにこの子は、ほんのりと頬を染めて、はにかむように笑った。修行の最中──たとえば俺の予想を超えた出来を褒めたときほどあからさまではないにしろ、傍目には同じくらい嬉しそうに。
    むしろ不思議に思ったが、まぁいい。笑顔が戻ってきたのなら、悪い方向でないことは確かなので。
    ともあれ、こちらとしても、確かめたいことがあった。

    「ね、さっきの話。魔法舎では、もう、暮らしていないの?」
    「ああ──もう、賢者の魔法使いは存在しない」
    「……え?」

    特に何の躊躇いもなく、するりと胸元の編み紐を緩めると、この子は左肩をはだけさせて背中を向けた。露わになったのは、滑らかなしろい肌──ただそれのみ。

    「紋章。ないだろう」
    「──ッ!!」

    思わず椅子を蹴るように立ち上がった。
    だって、そんな、馬鹿な!あれは、自らの命に関わる何事かがない限り、逃れることのできない運命なのに──この子が、まさか!

    「……そんな表情をするな。
     別に、致命傷を受けたとか、死期が近いとか、そういうのじゃない。
     ──終わったんだ」
    「終わった……?」
    「ああ。大いなる厄災との戦いは、終わった。もうずっと前に。
     だから賢者も、賢者の魔法使いも、役割を終えた。
     皆、帰るべき場所へ、帰ったよ」
    「……そう、なんだ、……そっか、」
    「……」
    「それなら…、よかった……」

    よかった。本当に。
    だって、こんなにも先の未来に、きみが、こうして、無事でいる。恐ろしい何かに命を脅かされることなく、心穏やかに暮らしているのなら。
    決して楽なことばかりではないけれど、賢者の魔法使いに選ばれたのも悪くない。胸を撫で下ろしかけて、しかし、はたと気づく。だとしたら。

    「……厄災の、傷は?」

    この時ばかりは、この子は目を伏せて、かぶりを振った。

    (癒えてはいない、のか……)

    ならば、媒介で囲い、結界で閉ざされた夜に、この子はずっと囚われたままなのか。自らの意思に関わらず、現実世界へと溢れ出てしまう夢。時も場所も選ばねば、おいそれと眠ることもできぬ日々が、今までも、これから先も。いつか石となる瞬間まで、永久に……?
    ──だからだろうか。ふと、目についた。

    「……ファウスト、疲れてるんじゃない?」
    「え?」
    「なんだか怠そうだよ。
     夢のこともあるけど、また、なにか無理をしてる?」

    傍に歩み寄り、額に掌を添えると同時に、不調がないかを確かめる。ほんの少し体温が高いようにも感じるが、微熱にも及ばない程度だ。目の下に隈ができているわけでもない。身体にも魔力にも、異常らしい異常は見当たらなかったのだが。
    実のところ、治癒系の魔法でもっとも難しいのが、疲労の回復だ。魔法は心で使う──それ自体、大なり小なり疲労を伴うもの。疲れそのものを癒す魔法は、厳密には存在しない。シュガーはあくまで応急処置だ。それよりも、ゆっくりとした休息が、結局は、根本的な解決になることの方が多い。

    「……俺が言うのも何だけど。
     俺のことはいいから、少し休んだら?」
    「それは、……」

    何だか物言いたげな視線を向けられた気がしたものの、すぐにすっと逸らされてしまった。が、その拍子に目に留まったものに、息を呑む。

    「──ッ」
    「なんだ?、……っ!」

    自分でそうと認識するよりも先に、指先で、それをなぞっていた。ちょうど耳朶の影になる肌の下、爪先ほどの大きさの、鬱血の痕。こんな場所にこんな傷、まず自然にはあり得ない、それこそ虫に刺されでもしなければ。魔法使いにとっての血肉、体液の重要性を十二分に承知しているこの子に限って、虫などという、初歩的なミスを犯すはずもない。
    最初は怪訝そうにしていたこの子も、触れられて即座に、思い当たることがあったらしい。苦々しい呟きが、否が応にも耳に届いた。

    「あいつ…、わざと、ここだけ……」

    千六百年も先の世界だ。
    そう告げられてから、ずっと、胸の内にわだかまる問いがあった。

    「……ファウスト、」
    「……」
    「……俺は、いま、……」

    きみの中で、きみの一部になっている?
    それとも、宝物のように、しまい込まれている?
    ──俺の石は、どこにある?

    そのどれもが、ひとつとして言葉にはならなかったのに、すべてを察したかのように、紫が穏やかに瞬いた。

    「──確かめてみればいい。
     言葉で言っても、あなたは信じないだろうから」
    「……え?うわ、ちょ、ファ…」

    目の前で、立ち上がったこの子が潔く下衣を落とすのを、止める間もなかった。上衣はゆったりした、腰まわりも覆う丈のものだから、その、下肢の、肝心の部分はぎりぎり隠れているのだけれど……、そうではなくて、いや、それはそうなんだけど、それよりも。

    「それ、どうして……」

    すらりとした足先から太腿に至る、古い火傷の痕。それが、明らかに──薄くなっている。
    それがそこにあることは知っていた。再会して間もない頃、向けられる数々の悪態を茶化し誤魔化し受け流し、苦労して得たふたりきりの僅かな時間に、傷痕を見せる、見せないで一悶着したのだ。
    いま思えば完全に悪手だったが──この子もムキになって嫌がるものだから、不本意ながら魔法で自由を奪った。寝台に腰掛けさせておいて、自らは跪き、露出させた無残な脚に触れたときの、筆舌に尽くしがたい感情の渦──こんな、この程度の傷、俺の力ならば!
    けれどこの子は、拘束の影響下にありながら、弱々しくも俺の手を掴み、絞り出すような声で懇願した──「やめてください」と。怯えて、震えて、たぶん少し泣いていて、それでも決意に揺らぎはなかった。戒めだから癒さないのだと、今なお、頑として譲らないというのに。

    「……あのひとと、触れ合うたびに残される、ほんの僅かの、魔力の欠片」

    ──瞠目した。この子の掌が、自らの腹を、下から上へとゆっくりと辿る。
    その意味するところは、ひとつしかない。

    「それが、少しずつ、この痕を、癒してる。
     もとより意図したものかどうかは、わからないけど」
    「……、」
    「けど、何も言わない。あのひとも、僕も。それでいい」
    「でも、だって…、きみは、」
    「──確かに、戒めだった。一生、背負っていくし、忘れるつもりもない。
     でも……いいんだ。自然の、流れのままに委ねよう、と。傍をともに歩いてくれるひとが、そう、思わせてくれた」
    「きみの、あの頑なな意志を、変えさせるなんて、……妬けちゃうな」
    「……」

    ああ、だめだ。
    俺は近いうちに死ぬだろうが、この子には幸せになってほしい。それは本心だ。
    ファウストはまだまだ先のある身だ。思いを通わせた仲とはいえ、己の死後の、長い人生、独り身を強いるほど狭量ではないつもりだった。いずれ伴侶ができるなら、それもいい、と。
    けれど。
    ──嫌だな。何者であれ、この子に触れられるのは。ましてやこんな痕を残されて。今はもう、俺のものではないのだと。どうしたって己の手は届かないのだと、思い知らされる。予想はしていたし、覚悟もしていた、なのに。いざ、目の前にすると、

    (思った以上に、キツいな……)

    己の唱える最後の魔法は、この子への祝福にしたい──死期を悟った頃から、そんな願いが胸の内に芽生えていた。きみが元気で、幸福で、穏やかな日々が、俺の力の限り、いつまでも続きますように。この子がつらい思いをせずに済むのなら、その最期の瞬間に、この子から俺との記憶をなくしたっていいとすら、考えていた。

    (その結果が……、これ、か)

    どうか幸せに、笑っていて──なんて。
    そこに、俺はもう、いないのに。

    (……ほかの、男の、ために?)

    どんな表情をして呪文を口にすればいい。
    こんな心で、祝福なぞ贈れるものか。その言葉こそ、永遠の呪詛となるだろう。

    (……いや、大丈夫。大丈夫だ。
     ゆっくり息を吐いて、俺の役割を思い出せ、いつものように……)

    いい加減で、軽薄で、胡散臭い、若造の、南の弱い魔法使い。ならば、そんな大それたこと、起こりうるはずがないのだから。
    だが取り繕うまでの僅かな間に、辛うじて顔を覆っていた片手を、すい、と外されてしまう。なに、と視線を上げた時にはそれが、ちいさな口の中に招き入れられていた。

    「っふぁ、ファウスト!?、なに、して…」
    「ん……、っは、ふ…、んぐ、」

    指二本をやっと、だ。唇を窄めて慎み深く出し入れしながら、息を乱して吸い付いて、ぬるりと舌を絡ませる。そのたびに漏れる吐息が艶めかしい。溢れそうになる唾液を飲み込み、猥雑な音を立てるさまは、いっそ健気なほど。その姿は言うまでもなく、口での奉仕を彷彿とさせた。
    いったい何が起こっているのか──己の知るファウストと、目の前の状況が、まるっきり噛み合わない。千六百年の乖離が存在するのだとしても、あまりにも。
    とにかく、大した力じゃない、止めさせなければ。なけなしの理性で決意するや否や、咎めるように、強い視線に射抜かれた。

    (……この子は、)

    これが、何を意味するのか。その先に続くであろう、行為のことも。

    (わかってるんだ…、最後まで)

    結局、制止の機を逸したところを、無言で促されて椅子に腰掛けさせられる。すると今度はこの子が膝の上へ乗りかかってくるから、また面食らった。必然的に足を開いた状態で。畢竟、上衣の裾から見え隠れするものに、否応なく目線が釘付けになる。その奥に、唾液で濡れそぼった指先を導かれれば、なおさら。

    「──触って」
    「っへ?、ちょ、待っ…」
    「ふ、ここで怖気づくのか?あなたが?」
    「いや、ファウスト、きみ、」
    「ほら、まだ、やわらかい…っん、だろう」

    やわらかい、も何も!濡れてこそいないものの、そこはすでに熱く綻んでいた。

    (俺の指が、この子の中に……っ)

    なんてことだ!そもそも──どうしてこうなった???
    いよいよ二千年の叡智も命運尽きたか、もはや全くもって事態についていけない。呆気にとられたままの俺に焦れたように、この子の方が、こちらの肩を支えに、ゆるりと腰を揺らめかせ始めた。濡れた音がささやかに漏れる。

    「ん……、どこまで、してるんだ、いま」
    「っえ、ど、どこまで、って…」
    「その調子だと、セックスはまだ、か」
    「セ…ッ!?」
    「はは、図星か、なら……キスは?」
    「っふ、ファウスト…っ」
    「ふふ…、それも、まだ、か。……そんな、頃も、あったな」
    「ま、待って、あの、さ、」
    「──して、くれないのか?」

    ああ、もう!言わねばならぬこと、聞かねばならぬことがある気がするのに。熱のこもった囁きに請われれば、太刀打ちなぞできようはずもない。恐る恐る抱き寄せると、この子にしては大きめの衣に誤魔化された、相変わらずの痩身がよく分かる。……安堵と心配が半々だ。
    どこか現実味のないまま、慎重に、浅いところから探り始める。

    「……大丈夫?痛くない?」
    「ん…、へいき、だ、……それで、気持ちは、伝えたのか?」
    「え?…う、うん…、少し前に、…と、思うけど……」
    「なんだ、思うけど、って」
    「い、いや、実は…、正直、あんまり覚えてなくて、」
    「……ふふ、確かに。あの時の、あなたは、見ものだった」
    「そんな…、もう、言わないでよ……」

    他愛もない会話のうらで、ほとんど全神経を指先に集中させていた。
    きゅうきゅうと蠢く内側は、そこを掻き分けるものを、既に知っている。中を弄る、俺の指の方が初めてだなんて!
    だからこの子がふと漏らした、祈るような声に、反応するのが一拍遅れた。

    「……見せて」
    「……、え?」
    「まだ、あるんだろう、ここに……」

    ぺたり。シャツの上から手のひらを添えられて、じわりと熱が伝播してくる。ちょうど、右胸の少し下あたりだ。
    何を、なんて無粋な問いはしない。が、こちらは今、片手が塞がっているという大義名分があるので。

    「……じゃあ、きみが、脱がせて?」
    「…ん」

    俺の知るあの子なら冷ややかに一蹴しそうな要望にも、悪態ひとつ無かった。
    骨ばった繊細な指先が、ひとつひとつ、白いシャツのボタンを外してゆく。辿々しくはない、が、胎の内を拓かんとするものを感じているのか、動作はひどく遅々としていてもどかしい。ようやく前を外し終わって、ぐいとシャツの裾をボトムから引っ張り出す。黒のインナーに手をかけたところで視線が交わって、この子は蠱惑的に微笑んだ。それで確信する──わざと、だ。

    (……ッ、俺を、焦らしてる、)

    しかも、大人しく「待て」をしてるだなんて、この俺が!
    ここでさっさと寝台に転移してこの子を──組み敷かなかった、俺の強靭な精神を褒めてほしい。他ならぬこの子からの、可愛いおねだりなんだから。
    たくし上げられたインナーから覗く肌には、小ぶりの黒百合の花が、しかと刻まれている。それをこの子は懐かしそうに、指先でつうとなぞった。

    「……ちいさいな、やっぱり」
    「まぁ…、きみのと比べればね」
    「っふふ。それって──どっちの話?」
    「……っ、きみねぇ、」

    つい一言前まで慎ましく胸の紋章に触れていた手で、しれっと思わせぶりにベルトの下あたりを撫でてくるのだからタチが悪い。きみだから真面目に答えたのに、あんまりじゃないか!そんな煽り方、一体いつ、どこの誰に学んできたのやら。
    しかし直後、思いがけずぎゅうと抱きつかれて、反撃を封じられた。ひどく切実な囁きが耳朶をかすめる。

    「気をつけて。大事にして。……あなた自身のことも」
    「……、う、ん」

    紋章の話だという前提だが──そう、当然、経験しているのだろう。これまでの数々の依頼、任務、そして、厄災との戦いも。それなりの危難に直面することもあったに違いない。俺が、たとえば何らかの厄災の傷を負う可能性だとか、あるいは──この命の、終焉の時について。
    さすがにこの場でそれを問うのは、憚られたけれど。

    「ひとりで全部背負わないで。僕がいるってこと、思い出して」
    「……きみがそれを言う?」
    「……」
    「……、わかった。きみを信じる。然るべき時には、そうするよ」
    「……」

    俺は約束したっていい、けれどこの子はそれを望まないだろう。なので出来る限り誠実に返したつもりだというのに、この子は納得した様子を見せなかった。さては俺、何かやらかすのかもしれないな。随分ぼやかされてはいるが、生死を彷徨うような出来事があったのか。あるいは彷徨ったきり、帰って来られなくなったか。

    (……相変わらず、やさしいね、きみは)

    そう口にしようものなら、きみはまた、臍を曲げてしまいそうだけど。
    ああ──石になるまでに、俺はきみの、どこまで深くに触れられたのだろう。
    全く物足りない、こんな程度では。そろそろいいか。中指に薬指も添えて、目星をつけていた少し奥の膨らみを弄れば、すぐに思った通りの手応えがあった。

    「っあ、……ッ、ん…っ」
    「ん、ここ…?」
    「っくそ…、したことないくせに、なんで、わかるんだ、」
    「きみの、好きなところ?」
    「っや、あ、……嫌になるな、ったく、」
    「……嫌なの?」
    「──っんん!、は…ッ、……っ、ふ、う…」
    「うん…ちから抜くの、上手だね…、いい子……」
    「……っ、……」

    いつもと逆の、少しだけ高い位置から見下ろされているのが新鮮だ。眦を薄紅色に染め、とろりと潤んだ眼差しが、もどかしげに細められる。
    はぁ、と熱い吐息を零すその唇に、触れたいと思った。それはきっと、この子も同じで。互いに言葉もなく見つめ合って、引き寄せられるように吐息が重なる距離に至った瞬間、脳裏に、見慣れた──いとけない、ぷりぷりとした表情がよぎって、思わず顔を逸らしてしまった。

    「……どうして。嫌なのか?」
    「ううん、ごめん、でもきっと、……拗ねちゃうよ、四百歳のきみが」
    「っふふ…、なら、初めての唇は、譲ろうか。だったら、」

    これならいいだろう、なんて。甘い囁きと共に、耳朶の後ろにぴりりとした感覚が走る。間違いなく、痕がついたろう。絶妙な力加減じゃないか。もちろん分かってやっているんだろう、これは己のものだという印。こんなこと、今まで抱いたどんな女にだって許したことはないというのに──いや、この例えは情緒に欠けるが──ああ、けれど、あのファウストが!ぐ、と下肢にひときわ熱が集まるのも必然だろう。

    「ファウスト…っ、」
    「仕返しだ。……ふふ、ちゃんと反応してる。いい子」
    「──ッ」

    それでもって、あからさまに不埒な手付きが布地の上から慰めてくるから、咄嗟に息を呑んだ。
    これだ、全く!そんな才能どこから来た?それとも、これまた努力の賜物とでも?
    撫でられて、焦らされて。反応もするだろう。好きな子に、きみに──こんなふうに煽られたら。これで勃たない奴がいるのなら、聖堂でも建てて末永く祀ってやればいい。そんな不名誉、俺は願い下げだが。

    「指、増やすよ──つかまってて」
    「あっ…、こら、ん…ッ!」

    やられてばかりではいられない。言いしなに、この子の身体を支えていた左手を、衣の裾から内側へ侵入させる。反射的に逃げ腰になる背中を捕らえれば、肌が粟立つのが如実に伝わってきた。そのまま脇腹から胸を撫でさすり、汗ばんで、しっとりと吸い付いてくるような肌触りを堪能する。すでに存在を主張している二つの突起を探り当てるのは容易だった。粒立ったそれを順にこりこりと捏ねてやりながら、同時に耳朶を半ば喰みながら囁けば、中が素直に、三本もの指を食い締める。

    「きみだって反応してる……、ここも?好き?」
    「っひ、あ、あぁ…、うん…、きもちいい……」

    手先だけでこれほどぐずぐずに蕩けてしまうのだ。上の衣が、ああ、煩わしい。脱ぎ捨てさせて、口で嬲ろうものなら、一体どうなるのか。こんなに敏感に、感じるように育てられて。気持ちいいって、ちゃんと言葉にするように躾けられている。どこの誰だか知らないが、ずいぶんな慧眼をお持ちじゃないか!

    「ふふ…、さっき…、僕は、あなたに、及ばないと、言ったけど、」
    「……?」
    「ひとつだけ、ある、……っん、
     僕は、よく、わかってるけど…、今のあなたには、決して、知り得ないことが」
    「……なあに?教えて?」

    淫靡としか言いようのない湿った空気の中で。
    男の指を、そこに在ることが必然であるかのように、後孔で咥え込んで。
    自らの胎を、その内で脈打つものを愛おしむように、ゆるゆると撫でながら。

    「──ここ、」

    なお清らかに通る声がしずかに、雷鳴のごとく俺を撃ち抜いた。

    「なかに、収めた、熱を。
     奥の奥まで誘い込んで、どんなふうに締め上げれば、あなたが息を詰めるのか」

    俺が?──それは、俺なの?

    「──っうぁ…ッ」

    狂おしいほどの衝動のまま、しなやかな痩躯を掻き抱いた。内側に我が物顔で居座る指先がちょうどしこりを抉るように動いて、堪えきれないとばかりに、あえかな声が上がるが構うものか。無防備に晒されたしろい首筋に鼻先を埋めて、深く息を吸った。
    ──馴染み深い匂いがかすかに香る。
    ああ、これだ。最初に会ったときの、ちいさな違和感。
    色も匂いも、確かにこの子の魔力だった。ただ、そのいちばん奥の、いちばん熱くて柔らかい場所に、異なるものが、ひとしずく。絡み付き、溶け合って、根を張った、「生きた」魔力のちいさな萌芽。
    これほどの深奥に瑞々しく息づくもの、それこそセックスでなければ──それも余程の交わりでなければ、こうはならない。注がれてからまだ、半日と経っていないだろう。
    このしるしの、色が、匂いが。いったい誰のものなのか、など。愚問にも程がある!
    ──戦慄した。

    「……そう。確かに、その通りだ」

    流星雨と共に降ってきた、己の天命。
    一度は手離しながらも、再び繋がった縁。
    あまつさえ、今なお、その奥深くに証を残すことを許されるとは。
    ああ、なんという奇跡!この歓喜を表現しうる歌なぞ、この地上に存在すまい!

    「きみのここに、俺のが挿入る。
     その至福を、俺はまだ知らない」

    この子の温かな手の上に、そっと己のそれを添わせる。
    熱い粘膜の奥にひそませた指先、そしてその先に根付く魔力を感じながら。

    「けど……、すこし、補足をしておこうか。
     俺はね、ファウスト、」
    「……っ、う、ん…?」

    はっきりと思い知らせておかなければなるまい、この愛おしい生き物に。
    きみにとって、今の俺は、同い年。本来の差を思えば、一矢報いる好機とでも思えたのかもしれない。
    だが、どれほど道化を演じ、牙を抜かれたように装っても、結局は──北の男。そんな相手に、慎ましやかなきみにしては少しだけ、浅慮が過ぎたということを。

    「きみの中のことなら、今のきみより分かってる」

    急所を押さえられた小鳥は、あとはもう、縊り殺されるのをただ待つか、求められるがままに甘く囀り続けるしかない。

    「──ッあ!?、は…っ、んん!、っひ、や、あぁ…ッ!」

    浅い入口から奥の膨らみまでを抉るように、勢いのまま執拗に抜き差しを繰り返した。すでに内側はとろとろに熟して、不随意に収縮しながら、三本の指を喰い締めてくる。猥雑な水音とともに、唾液と体液の混ざりものが伝い落ちてきて、いよいよ服を濡らした。
    そう、わかっているさ──この粘膜、血も肉も内蔵も、骨に髪、眼や唇、声だろうが息だろうが、そしてこの子を形づくる魔力まで、なにひとつ余す所なく。たとえばこの子がばらばらの部品になって、ゼロから組み上げろと言われても、寸分違わず再現出来る、そのくらいの自負がある。

    「っう、や…、そこ、だめ…っ!」
    「だめ?、なんで、きもちいいでしょう?
     ──だって、ねぇ。ずっと、考えてきたんだよ」
    「ひぁ…っ、は…、ふぇ…?」
    「きみと出逢ってから、離れても、今もずっと……、
     ね、聞いてる?」
    「や…っ、あ…、う、ん…?」

    ああ、もう、わからなくなってきたらしい。
    潤んで焦点のぼやけた眼から、透明な雫が零れ落ちんばかりになっている。
    成長を褒めたのは確かだが、まだまだ修行の余地があるということか。……否、いつまでもそのままでいてほしい、とも思ってしまう矛盾よ。

    「──ここ、」

    とんとん、きっとここまで挿入る、それくらいの位置を狙いすまして指先で触れる。それだけで、膝の上で痩躯がびくびくと跳ねるのを、力尽くで押さえ込んだ。

    「なかに、突き入れた、熱で。
     奥の奥まで暴いて、どんなふうに責め立てたら、清廉なきみが泣いて善がるのか──四百年、ずうっとね」

    紫の眼が零れ落ちそうなほどに見開かれる。信じられない、と言わんばかりの表情が、少し可笑しい。
    確かに、少なくとも俺は話したことは無かったし、ということは、今後の俺も、この子に明かしてはいないと思われる。そもそも人に口外して回るようなことでもなし。だがまぁ、もう時効ってことでいいだろう。

    「……、ずっと…、考えてた…?」
    「そう。勤勉でしょ?」
    「修行中も…、軍にいたときも?」
    「そうだよ」
    「…南でも?」
    「うん」
    「……魔法舎に、来てからも?」
    「もちろん。ずっと、きみで抜いてるし」
    「…………」

    目の前のしろい首筋から頬へと、鮮やかな朱が走った。さぁっと、うつくしい魔法のように。

    「……そんなそぶり、全然、」
    「いや、見せたら変態でしょ」
    「見せなくても変態だよ……」

    ひどい言い草だ。好きな子のことだもの、普通じゃない?
    だいたい何もかも全部きみの所為なんだから、本人にそこまで言われるのは納得いかないんだけど。仕返しとばかりに、涙声の制止も無視を決め込み、中の動きに注力する。

    「──っあ、だめ、待って、だめだってば、」
    「んー?」
    「……っ、い、いく、いっちゃう、から、ほんと、に、」
    「いいよ。達ってみせて」

    俺の手で──その瞬間、この子は、どんなふうに啼くのだろう。

    「っだめ、おねがい、……ここまでに、して」
    「どうして、嫌なの…?」

    今さら意地を張ったところで無駄だろうに、快楽の波から逃げるようにこの子が身体を捩る。その拍子に、わざと消さないでおかれたらしい鬱血痕が、これ見よがしに目についた。

    「僕が、他人に達かされたって知ったら、」

    他人も何も、ああ、そうだとも。谷が地図上から消えるくらいのことはやりかねない。齢三千も超えれば、多少なりとも魔力の衰えもあろう。加えてここは東の地、精霊との相性はおそらく最悪。だが彼らをねじ伏せてでも目的を果たすに違いない。たとえ、己のものに手を出したのが──己自身だったとしても。

    「……拗ねるだろう、あなたが」
    「……、うん…」
    「ほらな…、全く、もう、手のかかる、……ッ」

    それでいて、千六百も年下の魔法使いに窘められるのだから、ざまぁない。
    縋るようにこちらの肩を掴む、両手に力が込められて、この子がおもむろに少し腰を浮かせる。濡れた音を立てて指が抜けた。そこをとろりと、名残惜しげに雫が伝った。

    (……しかし、どう処理したものかな)

    自らのボトムの布地を窮屈そうに押し上げるものを、どうにかせねば。魔法か、……そういう魔法はあるにはあるし、別に使いこなせはするが、それを、この子の目の前で?虚無感が半端ないな、気持ちの問題だが。あとは、気合いか。気合いだな。それしかない。まずは深呼吸。

    (つらいのは、この子の方だろうし……)

    俺の膝の上にへたり込んで、ふうふうと、まだ肩で息をしている。寸止めされたも同然だろうから、致し方あるまい。少しでも楽になるよう、こちらに身体を預けさせる。ときどき、けほ、と乾いた咳をするから、背中をさすってやった。上気した肌から微かに、深い森を思わせる、この子自身の香りが匂い立つ。また勃ちそうになるのを堪えつつ、落ち着くのを待ちながら、抱き寄せた頭の、後ろ髪を梳いてやる。すると心地よさげに頬を寄せてくるから、なるほど、この子によく撫でられている猫というのは、こんな様子なのかもしれない。

    そういえば、この髪。魔法ではなく、自然に伸ばしてあるものだ──俺のところにいた頃と同じように。細い髪紐は落ち着いた紫色に、ところどころ光を反射する糸が織り込まれている繊細なもので、この子に合わせて誂えてあることは明らかだ。
    そう、光。若木の緑のような、祝福の光だ。ささやかで、切なる願い。誰の手によるものか、なんて言うまでもない。今の今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。

    「……、本当に、僕で抜いてたのか、ずっと」
    「……う、そこ蒸し返す?
     いいよもう、自慰の話は…、なんか恥ずかしくなってきた……」
    「自分で言ったくせに」
    「それは、そうだけどさ……」
    「──四百年ずっと、と言ったな」
    「……は、はい…」

    なんだこの、公開処刑みたいな展開は。
    確かに俺もちょっと調子に乗りすぎたけど……、などと若干の反省をしかけたそばから、また衝撃的な言葉が投げかけられる。

    「……まぁ、ひとりで悠長にシていられるのも今だけだ。
     もうすぐ嫌でも出来なくなる。今のうちに別れを惜しんでおくといい」
    「……え。うそ、なにそれ、俺、まさか……枯れちゃうの???」
    「っふ、あはは!」

    いやいや笑い事じゃないんですけど!?
    俺の狼狽をよそに、珍しく破顔したこの子は、けれど瞬きのうちに鮮やかに、態度を豹変させた。

    「毎度毎度ぜんぶ搾り取られるから、だそうだ──ここで、な」

    低く抑えた声で、つい先ほど俺が指差した胎の奥のあたりをなぞるように、とんとん、今度は自らの手で同じようにしてみせる、嫣然と、微笑みながら。

    「…………」

    ああ──なんて、殺し文句だ。
    絶句した俺を尻目に、してやったりと満足げなこの子は身体を起こそうとしたので、立ち上がるのを支えてやった(絶句していても行動した俺を褒めてほしい)……のだが、そうしようとして、二人もろともに床へ転がり落ちた。

    「──っわ、ちょ、ファウスト、大丈夫?」
    「…はは、もう、むり……」

    ギリギリこの子を受け止めるのには成功したけれど、この子はそのままぺたりと座り込んでしまったので、さすがに慌てた。腰が、立たないのだ。拳でも飛んでくるかと思ったが、危惧したほどには怒ってはいないようで、それは救いだったのだけれど、──指だけで?本当に?

    「ごめん、やりすぎた、俺の所為だよね、ごめんね、」
    「……いや、これは、」
    「いま、魔法を──」

    しかし続く言葉は声にならなかった。
    差し伸べた手が、ふいと空を切ったのだ。

    「え……?」
    「……」

    目を疑った。動揺を押し隠して、もう一度、二度。
    ──触れられない。なぜ、どうして!
    俺の手は、この子の肩も、背も、ことごとくすり抜けていった。ほんのついさっきまで、熱く柔い肌も内側も、思うままに蹂躙していたというのに。まるでこの子が、あるいは俺が、最早そこには存在していないみたいに。
    そのさまを、紫の双眸が、驚くほど静かに見つめている。

    「大丈夫」
    「──っ、ファウスト!」

    ざわり、と風が鳴った。この子は天井を仰いで、眦を下げる。

    「……だから連絡を寄越せと言ってるだろう、」

    さっきようやく立ち上がれたところだったのに、と。
    誰へともなく呟かれた不満はしかし、そうとは思えぬ、愛惜に満ちていた。

    「身体が保たないよ……、ばか」
    「……ファウスト、」

    自分でも驚くほど、ひどく情けない声が漏れた。
    俺はここにいる、なのに届かない、ねぇ俺を見て。もう一度、縋るように震える手を伸ばす。この子はそれを見遣ると、やはりすべて分かっているかのように、俺の手を取って頬を寄せる──触れた感覚はない、けれどそこに、温もりは確かにあった。

    「大丈夫だよ」
    「ファウスト……」
    「たくさん怒って、たくさん泣いた。──それでも、」

    その瞬間のこの子の表情を、俺はきっと、石になっても忘れない。

    「僕は今、幸せだよ、フィガロ」
    「……っ、」

    俺も、俺だって──とは、もう、言葉にならないうちに。
    なにかものすごい力で引き離され、星空のど真ん中みたいな空間に放り出されて──ファウストの姿は、あっという間に爪先ほどの大きさになっていた。

    あの子は遠く、もうこちらに目を向けることはなくて、自身の視線の先のものに、声をかけたように思える──きっと「おかえり」って、そんな感じの。
    気遣わしげに腰を支えられて立ち上がる姿は、広い背中に隠れて見えなくなった。そこに、北の海の色を湛えた髪が翻る。伸ばした癖っ毛を、同じように、頸でひとつに結んで。

    ***

    「…………あれ?」

    見慣れた天井が視界に映る。

    「ったたた……、夢…?」

    ここはどこだと自問するまでもなく、毎度おなじみ診療所の床に、仰向けに転がっていた。どうも腰が鈍く痛む。傍には、使い慣れた木の椅子が無造作に倒れている。大方、うたた寝をしていて椅子から落ちた、そんなところか。これが平時ならば「あはは、フィガロ先生恥ずかしいな〜」、それで終いでよかったのだが。

    ──勃っている。
    疑いようもなく、我ながら、それはそれはご立派に。

    (嘘だろ…、格好わる……)

    やけにリアルな夢だった。
    少なくともこの椅子に座った時までは、着るものはきちんと着ていた。間違いない。
    それが今はどうだ。シャツは引っ張り出され、インナーは胸のあたりまでたくし上げられて、小ぶりの紋章がちらりと覗いている。まるであの子に触れられた時そのままだ。まさか自慰をしていたわけではないと信じたい。一応、ベルトもチャックも無事だし、指先もさらりと乾いている。……あの子のくちの中の感触も、掻き分けた内側の潤みも、まざまざと思い出せるのに。

    (あれから、ふたりきりになれてないしな……)

    思い当たる節があるとすれば、それしかない。
    なんでもない日の晩酌の席だった。最近は少しだけ、晩酌にまで持ち込める確率が上がったかな、その程度の。
    なんでもないことにあの子が笑うのを見て、俺は何かを──詳らかにするつもりはなかった言葉を──口にした、らしい。正直なところ記憶は朧げなのだが……(自分で自分にポッシデオ☆するのも憚られるし)。とにかくそんなこんなで、どうしてか、あの子も頷いてくれて、俺たちは晴れて恋人同士になった。
    ──それからひと月以上経つ。
    互いに任務やら授業やらですれ違いが続き、食堂や談話室で姿を見かけることはあっても、何となく、ふたりきりになるタイミングを逸していた。ファウストから今回、東の家へ戻ると知らされたのも、こちらが任務に発つ前、廊下でようやく一言かわしたくらいで。……その時は、あの子がまだ何か言いたげにしているように思えたのだけれど、南の子供たちが俺を呼んだから、あの子の方から「早く行け」と急かされたのだった。

    (……いや、それもこれも建前か。本当は……)

    はやく、もっと──ふかく触れたい。
    けれど、大事にしたい。嫌われたくない。二度はないのだから。気持ちばかりが先走る、なのに先に進む勇気が出ない、自覚はあった。
    だからといって、さすがにあんな夢を見てしまうなんて。

    (いやぁ、ものすごく、そそられたな……)

    ──最低だ。この歳で肉欲に流されるとは。
    さくっと呪文を唱えた。しゅん…と勢いを失う己のものを眺める時の虚無感といったら……、あーあ、胸の内で大きな溜め息をついた。
    だらしなく大の字に寝転んだまま、窓の外、茜色の夕焼けを見遣る。遠く、チチチ…と啼く鳥たちの声が穏やかだ。もう少ししたら、あの子の眼と同じ色が空を染めるに違いない。

    「会いたい、なぁ……」

    仮に今から全速で箒を飛ばしたとて、到着は真夜中を過ぎるだろう。
    その頃にはもう寝ているに違いない。東に戻るのは久々だったはずだ。自分の家で、気兼ねなく、ゆっくり過ごしているだろうから。休息の邪魔をするのは本意ではない、特に、眠りに関しては。
    ああ、でも、それでも。

    (……顔を、見るだけでも、いいか)

    がばりと起き上がって、次の瞬間には、着衣を整え箒に腰掛け診療所を飛び立っていた。

    ***

    「ああ…、綺麗だな……」

    目当ての場所の上空、思わず嘆息が漏れた。珍しく雲がなく、瞬く星屑が降り注ぐように感じられる。風もない、穏やかな夜のしじまだ。南でも、これほどの星空はなかなかお目にかかれない、雪雲ばかりの北では言うに及ばず。
    案の定、時は真夜中を過ぎた頃か。常識的に考えれば、火急の用件でもない限り、人を訪うような時間帯ではないが。

    (妙だな、静かすぎないか……?)

    努めて精霊を無為に刺激しないよう、目的の家からは少し距離を置いて箒を降り、徒歩であの子の結界をすり抜けた。とはいえ、多少は反発があってもよさそうなものだが、ざわめきさえも聞こえてこない。この地の精霊たちの関心は、今、ただひとつに向けられているようで、無礼な闖入者なんぞにかかずらってはいられないということだろうか。
    不思議に思いながらも石段を下り、辿り着いた赤屋根の家の前、──はっとした。

    (──ちがう、)

    庭先の、狂い咲きとばかりに存在を主張していたはずのエルダーフラワーが、ない。いや、正確には、樹自体はそこにあるものの、まだずっと細くて、白い花もちらほらと付いているのみだ。そういえば、家の扉も壁も、なんとなく、記憶の中のものほど古びてはいない気がする。

    そして、扉の前には、猫がいた。
    白色と、黒色の、二匹──あの子によく懐いている精霊たちだ。以前ここを訪れた時には、俺は近づくことも許されず、すぐに姿を消してしまったのだが。
    けれど今は、二匹とも、こちらを一瞥しただけで、また扉の方へと向き直った。どうしたのだろう、ファウストが中にいるだろうに。寄り添う二匹は大人しく、背筋をしゃんと伸ばして座っている。あの子のことは気にかかる、しかし必要以上に踏み込もうとはしない、東の性らしい。

    (……悪いものは、感じないが、)

    室内に、気配はひとつ。さすがにこの時間だ、依頼人とやらはいないらしい。魔法や呪いの動きも感じられないから、「仕事」中というわけでもなさそうだ。
    窓から漏れる光は見えないし、夢が漏れている様子もない、結界と媒介が正しく作用しているのか、深く眠っているのか──いずれにせよ。

    (声をかけて、扉を叩くべきか……、どうしようか)

    文字通り、顔を見るだけなら、一切を気づかれずに実行することもできる。
    けれど、許されるなら、少しだけでも話をしたい。時間が時間だ、晩酌とまでは望まないから。ただ、抱きしめて──おつかれ、おやすみ、また明日、って。

    (もう、間違えたくないしな……)

    ふと、足元の毛玉たちと目が合った。が、威嚇されることも、逃げられることも、にゃあと鳴かれることもなく、静かに見つめ返されるだけだ。
    そうやって、──どのくらい逡巡した時だったか。

    一瞬だ。ほんの一瞬、中の気配が揺れた。
    すすり泣きのような、微かな声とともに。
    迷いは瞬時に霧散した。

    「──ごめん、ファウスト、入るよ」

    灯りひとつ付けられていない、星月夜のもとで。
    寝室にいるのかと思えば、この子は、すぐ目の前に──なぜか玄関先に座り込んでいた。
    ただ、しずかに、声を殺して。
    はらはらと、溢れるものを、堪えようともせずに。
    透き通った雫が、なすすべなく、落ちて散る。

    (こんな、涙が、存在するなんて……)

    どうしたの。どこが痛いの。何がつらいの。
    俺に言って。全部に大丈夫って答えてあげる。
    そうなるように、してあげるから。
    たったひとりの弟子だ。己の天命だった。唯一無二。
    出来ることは何でもしてやりたかった。

    それなのに今、言葉も魔法も、何の役にも立たない。
    何が大魔法使いだ。何が叡智だ。
    愛した者ひとり、笑顔にできない。

    (無力だな、俺は……)

    いま、己に出来るのは、この子を抱きしめることくらいだ。
    たくさん泣いたその後に、また、笑ってくれるよう祈りながら。

    敬虔な信者のように傍らに膝をつき、抱き寄せた身体はされるがままで、抗う素振りは見せなかった。触れた身体は、ちゃんと温かい。亜麻色の癖っ毛が、頬を擽る。
    こうして、己の腕の中で、守ってやりたかった。襲い来る炎から。投げられる石から。あの時も、今も、これからだって、ずっと……。

    「……っ、ふふ…」
    「……ファウスト?」

    ややあって、けれどこの子は、ふいに肩を震わせた。
    しゃくり上げたのとは、少し違う。首を傾げつつ顔を覗き込むと、錯覚でなければ、この子は泣きながらも、相好を崩しているように見えた。

    「……、だって、」
    「?」
    「おまえ…、同じこと、するから、……はは、」
    「……どういうこと?」

    ──とりあえず、お茶でも淹れるよ。
    少し落ち着いたのか、この子は涙を拭ってキッチンへと立った。意外にも、真夜中の突然の来訪にはついぞ文句をぶつけられないまま、ソファへと場所を変えて、渡された温かい薬草茶──やはり同じ花の香りがする──をひとくち。
    隣に並んで腰を下ろしたこの子も、同じようにカップの中味を口にして、互いに言葉なく、しばらくそうしていた。

    「……未来の、おまえに、会った」

    沈黙を終わらせたのは、ぽつりとした呟き。

    「三千六百歳だって、言ってた」
    「……うん」
    「賢者の魔法使いの紋章は、もうないけど、」
    「……、うん」
    「元気だって。酒には弱くなったけど、って」

    もしかして──とは思ったが。
    未来のあの子と離れ離れになった、最後の光景が脳裏に蘇る。
    俺と入れ替わるように現れた、同じ髪色をした男の後ろ姿が。

    「三千歳超えの俺かぁ……、ね、どんな感じだった?格好よかった?」
    「はぁ!?、っべ、別に、変わらないだろう、外見は…、魔法使いなんだから」
    「えー、渋みとか凄みとか、増してるものがあるでしょ?
     あ、あと色気かな?惚れ直した?」
    「〜〜〜うるさい!それどころじゃなかったんだ!!」

    そもそも摩訶不思議な依頼だった……否、依頼かどうかも怪しかった、らしい。
    曰く、発端は、奇妙な鳥が魔法舎の自室を訪れたこと(察するに、どうも南に生息する種のようだが)。日付と、時間と、東にて──ただそれだけの情報を残して、その鳥は霧のように消えてしまった。そうしていざ、その日、その時間に現れたのが、その男だった、……との由。

    「……それで、どんな話をしたの?変なことされなかった?」
    「…………」
    「え。待ってよ、なにその沈黙。
     自分から白状するのと、頭の中覗かれるの、どっちにする?」
    「だから茶化すな!おまえじゃあるまいし…いや、おまえだったんだけど……」
    「はは、それはそうだね」
    「……歳を聞かされて、びっくりして、」
    「未来から来たって、信じたの?」
    「信じるも何も…、まさか厄災かと思って挑んだが、全く歯が立たなかった」
    「うわ…」

    もしかしなくても──ガチでやり合ったのか、この子は!年の差三千を超える北の魔法使い、ましてや手の内をよくよく知られた(元)師匠と!どっちから吹っかけたのかは定かじゃないが……、というか俺、大人げなさすぎじゃないか?きっと嬉々として応戦したに違いない、浮かれた様子が目に浮かぶ。
    しかし、この子もこの子だ。いつもきちんと慎重なのに、好奇心やら探究心やらが勝ったか。そういうところは出自なのか何なのか、ああもう、だからまだまだ目が離せない。
    これでこの子に怪我のひとつでもさせていたなら、どうにかもう一度あっちの世界へ行って、何発か自分をぶん殴ってやらねばならないが。さすがに傷は無いようで、胸を撫で下ろした。

    「まぁ、おまえが本気で擬態したなら、おそらく僕には判別できない。
     少なくとも、魔力は…おまえのものに思えたし……、確証はなかったが、これ以上は疑っても仕方がない、と」
    「実力行使はともかく、妥当な判断だね」
    「……生活のことも、聞いた。不自由はしていない、って……」

    南の精霊は相も変わらず、賑やかしにお節介で世話好きなのはいいとして、東の精霊も時々、力を貸してくれるという。正直これには驚いた。

    (ここの子たちが俺に、ねぇ…、そんなことあるんだ……)

    今現在の、彼らの塩対応(賢者さま曰く、相手がつれないことをそう表現するらしい)からは、想像がつかないけれど。
    そして、北へは、しばらく戻っていないとのこと。まぁ、本当に厄災との戦いが終わって、その影響も落ち着いたのだとすれば、例えば山ひとつ吹っ飛ばすような、大仰な魔法の出番は最早ないのだろう。マナエリアの世話にならねばならぬような状況も、同様に。
    それにしても──

    「……俺の話ばかりしてるね」
    「──ッ、当たり前だろう!!」

    勢いよく胸ぐらを掴まれた。
    行き場を失ったカップがふたつ、ふわりとテーブルに行儀よく着地する。

    「なにが、近いうちに、だ!
     なにが、五年、五十年、だ!」
    「……」
    「近いうちにと言いながら、千六百年経つなんて、」
    「……」
    「千六百年が、近いうちに入るのか、おまえには……っ」

    尻すぼみに声が沈んでゆく。

    「覚悟した、……しようとした、僕が、馬鹿みたいじゃないか……」
    「ファウスト……」

    もしかして、それで?それで、泣いちゃったの、きみは?玄関先なんかで、へたり込んで?
    そのうえ、俺は──三千六百歳にもなって、それでも、掛けられる言葉もなく、ただ、きみを抱き寄せることしかできなかった、っていうこと?

    「……ごめん。嘘じゃ、ないんだけど、……ごめん」
    「だったら、謝るな」
    「うん…、ごめんね、もう泣かないで」
    「ないてない」
    「うん……」

    一緒に、いてくれたんだ。
    この子は、ずっと、俺の傍に。
    かくもやさしい心に、覚悟を秘めて。

    「……俺もね、会ったんだ。二千歳の、きみに」
    「──っ!!」

    弾かれたように顔を上げた、その眼からは、やっぱり涙が零れそうになっていたけれど。

    「幸せそうだった。元気そうで、嬉しかったよ」
    「……、よく言う、他人事みたいに」
    「え?」
    「は?、……僕にあんなふうに豪語しておいて?」
    「え……?」
    「まさか、おまえ……、忘れたのか、自分の言葉を」

    ちょっと待った!これは十中八九、晩酌で俺が何かしら告白した時の話なのだろうが、だとすれば大変まずい、雲行きが怪しいどころか急転直下。

    「いや、ま、待って今その話?
     あ…、あの夜はさ、緊張してたっていうか、ぼーっとしてたっていうか…、
     ──そ、それに、」
    「……それに?」
    「きみが、まさか……頷いてくれると、思ってなくて、」
    「……」
    「なんか、ぜんぶ、記憶飛んじゃった……」
    「……、それを、忘れたって言うんだろう」
    「……はい。ごめんなさい」
    「…………」

    至極たっぷりとした間のあと、はぁ、とこの子は溜め息をついた。忘れていることに関しては俺が全面的に悪い。だから罵声でも鉄拳でも何でも(絶縁だけは避けたいが)、甘んじて受けようと瞑目する。が、この子は呆れたか諦めたか、やがて肩の力を抜いて、ぽすん、とこちらに身体を預けてきた。

    「……確かに、なんでもない会話の最中だったよ」

    あの夜、酒を手土産にしたのは俺の方。さして高くも珍しくもない銘柄だったが、以前、この子が飲んだことがないと言っていて、偶然それが手に入ったので。悪くない味だったし、この子の好みにも合ったようで、それは良かった。
    それからは、とりとめのない話をした、今のことも昔のことも。中庭に新しく住み着いた仔猫。診療所の庭に咲いた花。東の家で育てた野菜で作った料理。古い文献に綴られていた物語。任務中に見つけた薬草の使い道。授業でのテストの点数……、そうだ、東の生徒たちの。

    「……僕は、たぶん、嬉しそうにしていたんだろうな。
     あの日の授業は、試験も実技も、いい出来だった。
     少し前に…、進め方を、おまえに相談したことがあっただろう」

    東の子たちは三者三様、知識も経験も特性もバラバラだ。まぁ各国それぞれ一筋縄ではいかないのだが、東は(他に比べれば顕著に)常識を持ち合わせた面々の集まりとも言える。ゆえに手腕が試される。
    それでもちゃあんと取りまとめて、本人もけっこう慕われているのだけど、どうも自覚は薄いらしく──とにかく生真面目な先生が、引きこもりといいつつ図書室で、本の山とにらめっこをしながら眉間に皺を寄せて考え込んでいるのをよく見かける。で、そこに声(ちょっかいとも言う)をかけるのが俺の日々のお楽しみ。勝率は五分五分といったところか、その日はたまたま良い方の目だったようで。

    「それが奏功して……、最後には、三人が皆、喜んでくれて。
     いつか、彼らが困難に立ち向かう時、多少なりとも助けになればいいと、……たかが、授業ひとつかもしれないが」

    わかるなぁ、その気持ち。初めての弟子を相手に、俺も同じだった。
    たかが授業。それでも、それがいつか、死なないための、生きて帰るための術のひとつになるかもしれないんだから。
    あの夜もそう思って、それで……

    「そうしたら、なんでか、おまえもにこにこしてて……、」

    そりゃあ嬉しいさ。きみが笑ってる。言ったじゃないか、きみには笑っていてほしいって。
    ねぇ、今日のその笑顔、ほんのちょっとだけでも、俺のおかげも入ってる?自惚れてもいいのかな。俺の所為で、きみが笑ってくれてるなんて。そんなこともう二度とないだろうって、諦めていたのに。
    そうやって、幸せそうにしてるきみを目の当たりにしたら、やっぱり──

    「……きみが、幸せだなって思うとき。
     傍にいるのは、俺でありたい」

    そう、望まずにはいられなかったんだ。

    「なんだ、覚えてるじゃないか。ふふ」
    「あ……、」

    ああ、そうか──だから「幸せだよ」って。
    別れ際、二千歳のきみは、そう言ってくれたんだ。傍には未来の俺がいるって、だから大丈夫だよって。

    「……なら、僕の返事は?覚えているのか、どうなんだ?」
    「え、ええ!?待ってよ、さすがにそれは忘れてないって…、
     いいよ、って言ってくれたじゃない」
    「その前」
    「前、まえ……え?」
    「……全く、」

    この子はもはや呆れを通り越して、悪態すら出てこない様子。

    「だったら、おまえが──疲れて、辛くて、寂しくて、
     ひとりじゃどうにもならないときには、」

    横から遠慮がちに絡められた指先に、きゅ、と力が込もる。

    「僕を呼んで、傍にいさせて。
     それなら、いいよ、って。僕は言った、……なのに、」

    ……そう。そうだった。
    触れ合う肩から微かに震えが伝わってきて、何を返すよりも先に、この子を腕の中に閉じ込めた。駄目だ、また泣かせてしまう。

    「……僕がいるってこと、忘れるな、……ばか」
    「うん…、ごめん……」

    でもね、本当に。そのくらい、嬉しかったんだよ。
    いいよっていう、きみの言葉。きみの心が。
    二千年の彷徨が終わる。果てなく探し求めてきたものが、ようやっと──それで他の記憶を全部まるっと飛ばすのは、我ながら舞い上がりすぎではある。

    「……フィガロ。僕は…、」
    「うん?」
    「ちゃんと、成長していたか?
     過ぎた歳月に見合う力を、身につけていたか?」
    「……きみ、」
    「二千歳の僕は、あなたに、
     ……あなたの隣に、ふさわしい存在でいたのか?」

    変わらぬ眼差しで、同じことを聞く。
    ああ、この子もあの子も、やっぱりファウストだったのだ。
    千六百年の先へと、確かに続いている。俺の生命とともに。
    ──なんて愛おしい。

    「……どうしよう」
    「え?」
    「疲れなんて吹き飛んだ。もう辛くないし、寂しくもない。
     けど俺、いま、ひとりじゃどうにもならないよ」
    「……?」

    ならばもう、躊躇う理由もないだろう。

    「だから、ね、キスしていい?」
    「は?え?──っんむ!?」

    こちとら長いこと、想像の中で、あんなこともこんなこともしてきたのだ。初めて触れたはずの柔らかさは、もはや既知のもののようにも思えたが、それでも現実には敵わない。
    なぜなら、ほら!唇を真一文字に引き結んで、ぎゅうっと目を瞑って、借りてきた猫のように固まってる。あまりの必死さに噴き出しそうになるのを堪えて、やさしく啄み、時々ぺろりと舐めて、我慢に我慢を重ねた「初めて」を存分に堪能する、……相手の息が続かなくなるまで。

    「──っぷは!おまえな…っ、答えになってな、」
    「息は鼻でするんだよ、それと口開けて。目は閉じててね」
    「は?、は…っ!?、……っ、う、んぅ、ふ……っ」

    問答無用で再び唇を塞いだ。
    理解が追いつかなくたって教えられたことは実行してるから、さすが俺の弟子、優秀優秀。しかし身体はもうガチガチで、緊張してる。初心だなぁ、二千歳とは大違いだ。やっぱりこの子は、こうでなくっちゃ。
    それで?これが、千六百年後、あんなふうになるのか?セックスのたびに全部残らず根こそぎ搾り取られて、すっからかんになって自慰する気も起きないくらい、そういう頻度っていうか密度っていうか、とにかくシてるってことでしょ?
    「俺が育てました」って?──やばい、めちゃくちゃ興奮するわけだが!!

    「──っ、けほ、っは、…っおま、んぅ、も…、しつこい!」
    「んー……、ふふ、おしまい?」

    うっかり唾液を飲み込み損ねたらしいので、咥内を嬲るのを止め、解放してやる。口元を拭い、ようやく自らの意思で息をしながら、ひどく恨めしげに涙目で睨みつけられた(そういうの逆効果だよ、と教えるのはまた今度にしよう)。

    「ファウスト?……怒った?」
    「……、おまえ。なんだ、それ」
    「うん?……っあ!」

    はて、突き刺さらんばかりの視線をよくよく辿れば、その先は耳朶の下──思い出した!やられた、鬱血痕だ!

    「南ではいつも忙しいって宣っておいて、そっちか。お楽しみだったようだな、この女たらし」
    「っちょ!ちが、誤解だって!これは、」
    「なら、二千歳の僕に、迫られでもしたのか」
    「……」
    「──は?本当に?」
    「…え?あ、いや、待ってファウスト、これには理由が、」
    「それで?まさか、したのか?どこまで?」
    「だって、あれはきみの方から、──って、うわ、いたたた、」
    「──やっぱり!ばか!ばか!ふざけるな!
     どうせ、今の僕なんて、おまえには、子供みたいなもので、
     きらい、きらい!だいきらいだ!!」

    腕の中、じたばたと暴れる勢いは、いっぺん石になってこいとでも言わんばかり。
    けれど、ああ、この手が届く。ここにいるのだ。
    目の奥がじんと熱くなるのを誤魔化すように、その温もりを、かわいらしい抵抗もまとめて全部抱きしめた。

    「ファウスト、聞いて」
    「……っ、」

    きっと、これからも。

    「俺はたぶん、きみをたくさん怒らせるし、泣かせると思う。
     けど──俺、諦めないからさ。
     たくさん、たくさんだよ、……あの日の流星雨みたいに、」

    極北の夜、きらきらと、さんざめく降りそそいだ、星々のひかり。
    なんだっていいのだ。どんな、ささいなことでもいい。ううん、きみとのことなら、なんでもないことだって、なんでもなくなる。そのちいさな、ひとつひとつ、すべてが、あたたかなひかりとなって。
    ──腕いっぱい、溢れるくらいの、祝福とならんことを。

    「たくさん、幸せだなって、きみに思ってもらえるように。
     だから……」

    紋章が消えても、酒に弱くなっても、応える精霊がいなくなっても、
    ──いつの日か、この身体が物言わぬ欠片になるときが来ても。

    「……、一緒に、だろう」

    大丈夫だよ、って。
    他の誰でもない、きみが傍らで、そう言ってくれるのなら。

    「おまえだって、幸せじゃないと、意味がないんだから」
    「……うん」

    この子の言葉はどうして、かくも真っ直ぐに響くのだろう。
    流星雨の落し子。この子はきっと、俺には見つけられなかったものを見つけ、聞こえなかったものを聞くのだろう。

    (きみの眼を通して見る世界、なら……)

    かつて壊しかけたものだとしても、見てみたいと思った。だから門を開いた。そうすれば、このぐちゃぐちゃな人生、俺ひとりではついぞ掴むことができなかったものでも、この手にできるんじゃないか、って。

    「……ね、いつかまた、髪、伸ばさない?」
    「なんだ、唐突だな。……魔法じゃなくて?」
    「魔法じゃなくて。自然に」
    「一緒に?」
    「一緒に。髪紐も、ふたりで選ぼう」
    「……そう、だな。それも、いいかもな……」

    今はまだ、短いままの襟足の癖っ毛を、くるくると指先で遊んだ。俺のものよりも柔らかくて、癖が強い。いつだったか、巻き毛ちゃん、なんてあだ名されたことがあったのを思い出す。なに、とこの子は口を尖らせながらも、擽ったそうに笑うばかりで、押し除けようとはしないまま。
    しろい頸を顕にしても、耳朶の影にも、艶めいた痕跡は、ない。
    抱きしめた身体の奥底、この子のものではない魔力の残り香も、まだ。

    (……さぁて、腕が鳴るなぁ)

    俺も負けてはいられない──何から始めようか?
    キスはさっき思わずやっちゃったけど、ちゃんと段階を踏んでやり直したいし、舌とか唾液とか、いろいろあるよね。触れられるところは全部触れたいし、耳も胸も、頸も背筋も、下肢も全部、手でも口でも嬲りたい。もちろん傷つけたくはないから、中はゆっくりしよう。解すのも、挿入も、その後も。香油もあった方がいいな、いい花の材料がある、今度ちょっと北へ行ってこなきゃ。量は多めに、足りなくなるのは困るし。だって前から後ろから、横からも、いくらでも出来るし、頼めば上にだって乗ってくれるかも、それに、ああ、あのいちばん奥に達した時には──

    「言い忘れていたけど、フィガロ」
    「……っう、ん?」

    おもむろに身じろいだこの子が、腕の中で居住まいを正す。こちらは下心が顔に出たかと内心焦ったのだが。

    「──おかえり」
    「……え?」

    掛けられたのは、思いがけない言葉。

    「その…悪いものじゃないんだろうけど、
     その変な世界から、ちゃんと、帰ってきたから。
     僕のところに」

    ということは、そんなわけで、つまるところ。
    ──もう抱いていいよね?俺相当我慢したよね?俺のかたーい理性は聖堂で祀られて神話として未来永劫語り継がれてもいいくらいだよね?どっちにしろ千六百年後はあんなことになってるわけだし。なにこのかわいい生き物。俺をじぃっと見つめて、返事を待ってる。

    「……うん。ただいま、ファウスト」
    「ん」

    そして──ふんわり、やさしい表情が花ひらく。

    (あ……、おなじ、笑顔だ)

    二千歳のあの子の姿が重なり合う。
    おかえりって言われる。ただいまって言える。逆もきっとそう。
    そんなちいさな幸せを、これから、たくさん抱えて歩いて行くのだろう──ふたりで、一緒に。

    (ああ、きみは、本当に……)

    いつだってこの子は、知らず、俺の欲しいものをくれる。むしろ、俺が欲しかったものはこれだったのか、と気づかされる。そのたびに、きゅうっと胸が詰まって、なんだかもう切なくて、息ができなくなるのだ──きみは知らないだろうけど。

    (俺を石にするのは、きみ、かもね……)

    わりと真剣にそんなことを考える。ならばきっと俺は、石になるとき、ひとりじゃない。それこそ夢みたいだ──最期にこの子の姿を瞳に焼き付けて、めいっぱいの祝福を贈ろう!
    何もかも堪らなくて、言葉にならない──俺に言葉を失わせるなんて、この子くらいだ。代わりに抱きしめる腕にぎゅうぎゅうに力を込めた。ソファに腰掛けたままの姿勢では不自由で苦しいくらいだろうに、無邪気なこの子はくふくふ笑いながらこちらの背に腕を回して、大きな猫でもあやすように撫でてくる。ああもう、どこまでも俺を許してしまう、この痩躯の無防備なこと!

    (ほんっっっと、人の気も知らないで……!)

    今だって暴発寸前だというのに、この上もし同い年で、日々あんなふうに迫られたりしたら、ああ──恐ろしいなんてものじゃない。
    寿命以前に、俺、身体も理性も保たないよ、ねぇ、ファウスト。

    (俺が年上でよかった……)


    きみが幸せだなって思うとき/完
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    harunoyuki

    DOODLEフィガファウ/魔法舎のフィが、二千歳のファが暮らす未来に迷い込む話/魔法舎では付き合いたてで、まだ何もしていないふたり
    きみが幸せだなって思うとき「…………あれ?」

    ふと気付くと、鬱蒼とした森の中、赤い屋根の一軒家の前にいた。
    見知った場所ではあった。東の果て、呪い屋…というには些か清廉にすぎる魔法使いがひっそりと居を構える、嵐の谷。だが珍しく雷雨でも暴風でもないらしい。穏やかな夕陽で、家の壁も傍の木々も、茜色に染め上げられている。素朴な絵画にでもありそうな、いたってのどかな情景だ──平時ならば呑気に感嘆していられるのだが。

    (おかしいな、俺、診療所にいたはずなんだけど……)

    今回の帰省は常よりも多忙を極めた。
    夕刻に任務から戻って来たかと思えば今度は深夜、南で経過観察をしていた妊婦が予定より早く産気づいたとの一報を受け、取るものも取り敢えず箒を飛ばし、明け方無事に元気な赤子を取り上げたのはよかったものの、そこから休む間もなく、やれ子供が転んで膝を擦りむいたとか、老婆が散歩から帰って来ないとか、しまいには機嫌を損ねた飼い牛が牛舎に入ってくれないとか云々、我ながら引く手あまたの人気者だった。ああ、あと川沿いの土手が大雨で崩れていたのを、応急処置もしたんだったか。
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    Shiori_maho

    DONEほしきてにて展示していた小説です。

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