sc16受「ヘアピン」萩景「ごめーん、ちょっとピン貸して」
スプーンを手にした手が中途半端な位置で停止する。
背後から聞こえてきた声がするりと耳に入ってきた。聞きなれたそれは数拍おくと間延びした声で謝礼の言葉を紡ぐ。
左肩をひいて振り返ると襟足の長い男がこちらに背を向けて座っていた。広い背中を丸めて、頭が僅かに上下する。彼と向かい合って座っている女性陣がニコニコと笑ってその様子を見ていた。
「ヒロ? カレーこぼすぞ」
背中を叩かれた。慌てて前へ向き直って、宙ぶらりんな位置にいるスプーンを器に沈める。ぺたぺたと胸元から足の付け根まで触ってこぼれていないのを確認する。幸いなことに被害はないらしい。
ホッと息をついて横の幼馴染に礼を言えば、彼は目を据わらせて首を傾げた。
「食事中に、しかもよりによってカレー食べてるときによそ見をするなよ危ないな。なにを見てたんだ」
「いや、大したことじゃないんだけど」
言いながら振り返ると、先程と同じように広い背中がそこにあった。同じようにそちらを見た幼馴染がさらに首を傾げる。
「萩原がどうかしたのか?」
その言葉にぴくんと背中が跳ねて、ゆっくりと彼がこちらを振り返った。
口をもごもごと動かしながら、目を丸くしてこちらを見ている。いつもは目元にかかっている髪がこめかみでとまっていて、いつもよりもはっきり見える表情に少しだけ新鮮な感じがした。
眉の横から額の中心へ山のようにのぼる生え際は、の頂点が隠れてしまってはいるが、美人の象徴などと言われる富士額になっているはずだ。あの頂がクッとすぼんでいるのを風呂場でもみたような気がする。もう少し髪をどかしてくれれば見れるのに、なんて思いながらじっと見つめると、にまっと彼の表情が愉快そうに歪んだ。
「なあに諸伏ちゃん。おでこ晒した俺に見惚れちゃったー?」
「ヒロはお前みたいに惚れっぽい安い男じゃぞ」
「ええー降谷ちゃんひどなあ。じゃあこれがかわいかった?」
ちょんちょん、と彼の長い指が、こめかみを指さす。ピンクの頭巾を被ったウサギのキャラクターの顔がそこについていた。眉も口もないからにっこりともしていないのに異様に可愛らしく見える摩訶不思議なそのキャラクターは、常日頃ヘラヘラと笑う萩原研二という男と何故か妙に親和性が高い気がした。
「うん。かわいいね」
「諸伏ちゃんは俺よりまいめろさんの方が好きってこと? 研二ショック!」
「ううん。それつけておでこ出してる萩原すごい似合ってて可愛いなって」
素直に感想を述べただけだったが、彼は大きな口をキュッと噤んで垂れた目をパチリパチリと瞬いた。どうにも素直に言いすぎたらしい。彼はその言葉をどう受け止めるべきか少し悩んでいるようだった。
「ヒロ、素直なことは君のいいところだけど誰彼構わずそういうこと言っちゃダメだ」
「いや零には言われたくないし、ちゃんと言う相手は選んでるよ」
「選べてないから言ってるんだろ。見ろこの萩原の顔を!」
「そうだよ! 俺が諸伏に恋しちゃうとこだったでしょ! 諸伏ちゃんの恋泥棒!」
はわわ、なんて態とらしく鳴きながら萩原が口元をふたつの握ったこぶしで隠す。こめかみのまいめろさんは相変わらず可愛らしく無表情だ。
「俺が恋泥棒だったは萩原はどうなるの?」
そんな女子高生みたいなヘアピンをつけても違和感ない成人男性。でも別に女の子みたいな訳じゃなくて、体格はかなりいいほうだし、顔つきだってタレ目が優しい印象ではあるけどどちらかというと男くさい部類だ。だというのに可愛らしいものが似合ってしまうのはきっと彼の雰囲気や根本的な気質のせいだろう。そんな彼にうっかり惚れてしまった人間はおそらく数多くいるはずだ。なんてかわいそうに。
彼は女が好きだと言って憚らない。だけれでもそれはどちらかというと博愛主義的なものに近いと思う。特定の誰かの元に留まっている様子を見たことは無い。まだ付き合いは半年ほどしかないが、彼の幼馴染から聞いた話からもその気は窺えた。彼はどうにも、誰かひとりのものになろうとしないらしい。
「んー諸伏ちゃんが恋泥棒だったらおれはどうしようかなー……」
「萩は軽くてチャラくてふらふらしてるからな。恋の流浪人とかでいいんじゃないか」
「恋の流浪人! なにそれだっっさっっっっ! いいねそれでいこう! おれは今日から『恋の流浪人』ですよろしく!」
手を叩いて笑いながら名乗りを上げた流浪人は、ぱちんとウインクをこちらに投げ飛ばしてくる。何故だか少しだけムカムカして、彼の前髪を止めるそれをむしり取ってやった。ワ、と彼が声を上げるが構わず抜き取る。手のひらの中で頭巾を被ったウサギが無表情にこちらをみている。
彼はお前のところにも留まらないぞ、と言われている気がした。
「もー諸伏危ないじゃんどうしたの…………って、あ」
大して長くもない自分の前髪にそれを挟んで、むすっと彼を見る。
「ねえ、流浪人も盗めそうかな」
唖然とこちらを見る彼の顔に少しだけ心が微笑む。このヘアピンのように彼の心を自分のところに留められたらいいのに。
「俺は何を見せられてるんだ?」
隣に座る幼馴染の困惑した声は聞かなかったことにした。