sc16受「夜這い」萩景 寒い。熱い。
恐怖。安心。
見えない。聞こえる。
あべこべの感覚、感情、状態が身をめぐって不思議な感じだ。先程まで自分が何をしていたのかも思い出せない。誰といたのかも分からない。遠くで声がする。多分呼ばれているのだろう。でも上手く聞こえない。ふわふわとなにかに包まれ、あらゆる感覚が遠くなる。
誰が呼んでる? 誰がこの手を握っている?
誰がそこにいる?
開いたはずの目は何も映してくれなくて、なんとか握り返したはずの指は全部すり抜けてしまう。声をあげようと思ったが、そこが震える様子はない。
じりじりと胸が熱い。燃えているようだった。痛みで声を上げることも出来なければ、そこを掻きむしることも出来ない。ただ、苦しい。
嫌な夢だ。優しく包まれながらも身動きも取れずただ苦痛を享受するだけの嫌な夢。早く抜け出したい。でも体は動かない。たすけてほしい。でも助けも呼べない。なおも燃えたぎる痛みはその範囲を広げてじわじわ全身へまわる。
痛い。自身の全部が何かにゆっくりと蝕まわれる。早く終わらせて欲しい。
誰かが握ってくれている手までもがじわりと熔けて、朽ちて。
それから消えた。
一瞬の空白。そのとき痛みも何もかもの感覚がなくなった。
「ああもう、こーんなになるまで頑張っちゃってまあ」
声が響く。耳なのか頭なのか、直接響いてきたそれだけが聞こえる。
「諸伏、おつかれさま」
優しいその声を知っている。知っているはずなのに思い出せない。久しく聞いていないから。
いつから聞いていないのだっけ。そう、彼がいなくなったのはもう三年前。
――彼?
彼って誰だ。自分に問いかけてまたわからなくなった。
「ううーん。せっかく夜這いにきたのにこのまま放置されると俺さびしくて泣いちゃうぞー」
放置したくてしてるわけではない。自分の身体の境界も曖昧で声も出せず身動きができないのだ。伝えたくても伝えられないそれにモヤモヤが募る。
そのまま沈黙を返す俺に、なにやら合点がいったのか彼は手を叩いて声を上げた。
途端、ふわりと懐かしい香りが鼻腔を駆け抜けた。それが記憶の引き出しを勝手に漁っていく。そういえば臭覚は脳の感情等をコントロールする部分に直結しているらしいことを前に誰かが話していた気がする。
そうこうしているうちに、あれでもないこれでもないと引き出しを引っ掻き回したそれは、ようやく目的のものを見つけ出したらしい。同時に鈍くなっていた全身の感覚がじんわりとかえってくる。香りがすぐそこからして、全身はなにかに包まれて、優しい声が降ってきて、その正体がなんであるか、理解した。
「は、ぎわら」
「うん」
「萩原、オレ……」
「うん。お疲れ様。全部見てたよ」
身体を離した萩原が、そっと手を握って顔を覗き込んでくる。優しく垂れた目がまっすぐこちらを見ていた。
自身で撃ち抜いた胸はぽっかりと穴が空いている感覚がするのに、どくどくと血が巡るような感覚がする。おかしな話だと思う。
それから彼が言った言葉を反芻して今度は血の気が引いた気がした。
「ぜんぶ、見てたの」
「そうだよ。それしかできなかったからな」
「幻滅した?」
「なんで?」
彼は不思議そうに首を傾げる。
「なんでって…………警察官にあるまじきこともしたし、自分で命を絶った」
潜入した組織で、非人道的なことをした。直接しなくてもそれに手を貸したりもした。それが仕方なかったといえばそうかもしれない。任務だったのだから。だからといって、やったことの免罪符にはなりはしないだろう。ましてや最後は自分でこの胸を撃ち抜いたのだ。
「たしかにそれはどんな事情があれ諸伏がやったことだし、お前が死んでもなお悔やむことだと言うならそれでもいいと思う」
でもさ、と言葉を続けながら萩原が握った手に力を込める。ぎゅうと両の手が彼に握りしめられる。
「俺はお前のしたことを責める立場でもないし幻滅もしてないよ」
「でも、萩原は」
「俺は自分の意思に関係なく呆気なく死んじまったけど、あれは調子こいてた俺のせいでもあるしなあ。もし自殺したことで俺に引け目を感じてるならさ、少し考え方を変えようぜ」
萩原は慣れたようにぱちんとウインクをした。なんだかその仕草を久々に見た気がする。
「今夜、俺はお前のとこに夜這いに来たんだ」
「うん?」
「幽霊の俺が、お前のとこに夜這いに来たの。そろそろ会えないのが寂しくてな」
いま、萩原の足もオレの足も、先が見えない。なんとなく感覚はあるけれど、これは無いに等しいのかもしれない。足のない男二人が夜空の下で手を繋いで話し込んでいる光景は少々滑稽な気がする。
「俺が、お前を、殺したの」
「え?」
「だから、幽霊の俺が生きてるお前に夜這いに来たから、こうなったんだよ。ね、俺のせいにしていいよ」
そう言って萩原は優しく笑った。