sc16受「甘やかす」萩景 警視庁警察学校の寮には広い大浴場がある。二百名は同時に利用可能だというそこにずらりと並ぶシャワー台の数はそこらの銭湯なんか目じゃない。健康ランドももしかしたら蛇口から泡を吹いてしまうかもしれない。そんな浴場にいま誰がいるだなんて把握しようとすれば少しだけ面倒なものだが、大抵が皆自分で決めた時間に来ているので、ここでよく顔を合わせるメンツというものは存在する。
そこで萩原研二は最近気付いたことがある。
ひとつは、仲のいい連中がだいたい同じくらいの時間に入浴していることが多いこと。
もうひとつは、その中で降谷と諸伏が少しだけ湯から上がるのが早いこと。
そして三つ目は、降谷のキラキラ輝く髪を諸伏が乾かしていること。
三つ目が謎すぎてここ数日のもやもやになっている。萩原の中の常識では成人した人間が恋人でも家族でもない人間に髪を乾かせることはそうそうない。はずだ。いくら幼馴染でもあまりにも世話を焼かれ、焼きすぎではなかろうか。少なくとも自身はこの歳になって幼馴染に髪を乾かしてもらうなどという発想に至ったことはない。
初めて見た時こそ、たまたまなにか事情があってその日だけお願いしたのかな、なんてちょっと小首を傾げつつも自己解決してスルーしたのだが、何度も何度も見かけるうちに首がどんどん傾ける角度を深くしていった。
気になって仕方ないので今日はいつもより早めに浴場に向かい、二人が上がるタイミングで萩原も同じように上がった。気付いた諸伏が「今日は来るの早かったんだな」なんて声をかけてきたが「お前たちのせいだよ」とは言わずに曖昧な相槌とへらっとした笑みを返すのみに留めた。
それから不自然にはならない程度に二人を観察しつつ、体を拭って、服を着て、自身も髪を乾かすために洗面台に腰を落ち着ける。席はひとつあけて。首にタオルをひっかけた諸伏が、鏡の前に降谷を座らせてその後ろに立っていた。
綺麗に爪が切られた指は頭皮を傷つけることも無く、降谷の頭をかき混ぜる。彼の手は決して白魚のようななんてお姫様みたいな表現の似合う手ではない。しかし節の見える紛うことなき男のそれが、何故か萩原には美しく見えた。
それが金糸に差し込まれて隠れて、絡まって梳いて。
萩原はプラグも差し込んでいないドライヤーを片手にぼうっとその様子を見てしまっていた。
「はぎ?」
ひとつあけているとはいえすぐ近くだ。視線に気付いた二人は、手を止めたままの萩原を不思議そうに見た。
「どうした? さっさと乾かさないと風邪ひくぞ。萩原は襟足長いんだし」
「いやいやいや諸伏チャンに乾かしてもらってる立場の降谷チャンにふんぞり返って言われたくないんだけど」
萩原が思わずそう返すと、二人はさらに不思議そうに首を傾げた。そうしたいのはこちらの方なんだが、とは口にしなかったが、萩原の目は少し据わってしまった。
「ねえ諸伏、なんでいつも降谷の髪を諸伏が乾かしてるの?」
「えっなんでって…………そんなに変なこと?」
髪をかき混ぜる手は止まらない。ドライヤーの音にかき消されそうになりながらも諸伏の不思議そうな声が届く。
「普通はまあ、自分で乾かすんじゃない? 俺とか、他の奴らも大体そうみたいだけど」
萩原が言いながら当たりをぐるっと見渡す。それに釣られて二人も視線を巡らせた。
先述した通り、ここの浴場は大変広い。それに伴って脱衣所も大層広い。いまこうして髪を乾かしているのはなにも萩原や、諸伏、降谷たちだけではないのだ。同じように髪を乾かそうとしている人間はみな鏡を見て自身の手を使ってドライヤーやタオルで水気を取り除いている。
「ほんとだ」
「でも別に自分で乾かさなくてはならないなんて決まりがある訳ではないだろ」
降谷は不満そうに口を尖らせた。余程自分で乾かしたくないのか、諸伏に乾かしてもらいたいのか。萩原にはどちらなのかすらも分かりはしなかった。
「昔から降谷の髪は諸伏が乾かしてたの?」
「お泊まりした時とかはね」
「ヒロは気持ちよく乾かしてくれるんだ」
「ふーん」
なぜだか妙に面白くなくて、萩原は二人から視線を外して手にしたまま行き先をなくしていたドライヤーのプラグをコンセントへ差し込んだ。出力をいちばん強いものにして適当に側頭部へ充てると、萩原の警察官を名乗るにはやや長い印象の髪がバラバラと無造作に舞う。長さはあるものの、意外と軽いそれは萩原にとってはわりと自慢の髪だった。見た目よりも柔らかくて擽ったくて好き、とは以前付き合っていた恋人の言葉だ。
風に弄ばれたそれが、ふわっと大きく舞って、落ちる。風が消えた。髪は湿ったまま沈黙している。
萩原の手からはドライヤーが消えていた。
「あ、あれ……諸伏?」
「ね、萩の髪も、乾かしていい?」
いつの間にか諸伏が萩原のすぐ横に立っていた。片手には萩原の手にあったはずのドライヤーがある。にこにこと笑みを浮かべた彼は、萩原の返事を待たずにその柔らかい髪へ指を差し込んだ。地肌に触れたそれに思わず萩原の肩が跳ねる。
「わ、」
「あはは! ごめんごめん、萩の髪も触ってみたいと思ってたんだ。気持ちよさそうだなって」
まるで頭を撫でるように優しく触れる手指と、ごうごうと耳元で騒ぐドライヤーの向こうから飛んでくる優しい声に萩原は目を閉じた。
ゆっくりと砂糖を溶かすような、肌触りのいいタオルに包まれるような、優しい感覚にウト、と思考が揺らぐ。過去に親や姉にされたときよりも更に優しく心地いい。
こんなふうに甘やかされる感覚を独り占めしていたらしい隣の男に少しだけ嫉妬した。