ようやく身軽になった気分だった。レポートの提出を終えた帰り道、歩くスピードも自然と早くなる。最近は真っ直ぐ家に帰っていたが、今日は寄り道しても良いだろう。どこか行きたいところはあるかとカバンの中に小さく声を掛ければ、いつも通りに肉と返ってきて笑ってしまった。カインも同じことを考えていたところだった。
「けど、さすがに店で食べるのはまずいよな。テイクアウト出来るところか…」
この辺りにどこかいい店があったかと頭の中で地図を広げ、裏路地を通り過ぎたところで足を止めた。店が見つかったわけではなく、何か見知ったものが視界の端に引っかかったような気がしたのだ。
あたりを見渡しても特に気になるようなものはない。だったらさっきの路地だろうかと数歩戻る。
店と店の間の狭い裏道を覗きこめば、そこには見慣れた友人の後ろ姿が見えた。なるほどこれか、と頷いて、一歩踏み出す。ファウスト、と友人に呼びかけようとする前に、困ったような声が聞こえて思わず口を閉じる。その声には、聞き覚えがなかった。
「いやだからさ、これは俺のわがままっていうか……あんたも疲れてるだろ?」
「僕のことは気にするなと言ったはずだ。それに、疲れていないとも言った」
「けどさ…」
どうも取り込み中らしい。邪魔をしないほうがいいかと踵を返そうとして、ふわりとカバンから浮かび上がった小さな影に声を上げてしまった。亜麻色の髪が揺れて、驚いた顔のファウストがこちらを振り向いた。その肩越しに見えた小さな影に、カインの方も目を丸くしてしまう。
「よう、ネロ。久しぶりじゃねえか」
「……は?ブラッド?」
ふわふわ浮かぶブラッドリーをあっけに取られたように見つめているのは、子猫のように小さくて、不思議な少年だった。白い尻尾がぶわっと膨らんでいる。二人はどうやら知り合いらしい。
じゃれるように言い合いを始めてしまった二人から、ファウストの方に視線を向ける。すみれ色の瞳と目が合って、苦笑してしまった。たぶん二人とも、同じようなことを考えている。
「場所を変えたほうがいいかもな」
「だったら、僕の家にすればいい」
丸眼鏡を押し上げながら言われた言葉に甘えることにして、ファウストと二人連れだって路地を抜けた。じゃれ合っていた方の二人には、カインのカバンに入っていてもらうことにする。
この近くだというファウストの家に着くまで我慢しようとは思ったが、やっぱりどうにも気になって落ち着かない。今日はどこに行っていたかぐらいはいいだろうかと尋ねれば、眼鏡の奥の瞳が柔らかく細められた。
「色々と買い出しに行っていたんだ。うちのシェフに欲しいものがあるらしくて」
「シェフ?」
思わず首を傾げれば、カバンの中から声が上がったような気がした。ちらりと覗くと、困ったように垂れ下がる白い尻尾が見える。同じくカバンの中を覗き込んでいたファウストが小さく笑い声をあげた。そのまま、お腹は空いているかと聞いてくるので、どういうことかと思いながらも頷く。
「そう。じゃあ、期待していていいよ」
楽し気に告げられた言葉の意味がわかったのは、ファウストの部屋でテーブルについてからだった。
目の前の差し出された皿の上には、たっぷりの野菜とキチンのグリルが挟まったバケットサンドが乗っかっている。見た目からしておいしそうな料理に思わず顔を上げれば、青髪の青年がさりげなく目を反らした。料理人らしい火傷がうっすら残る右手をポケットにつっこんで、左手で気まずそうに頬を掻く。
「まあ、大したもんじゃねえけど。どうぞ」
勧められるがまま、バケットサンドにかぶりついた。もぐもぐと咀嚼音だけが部屋に響く。最初の一口を飲み込んで、カインは思わず、何だこれと声を上げていた。
「めちゃくちゃ美味いな!」
思わず目の前に座るファウストを見れば、どこか誇らしげな顔でそうだろうと頷かれる。
「言っただろう、期待していていいって」
「ああ。すごいな、期待以上だ!」
ファウストは優しいが、評価は結構容赦ない。だからこそ美味しいのは確かなんだろうなと思っていたが、その想像を余裕で超えてきている。言葉ではうまく言い表せなくて、それでも黙っていることもできなかった。
手持無沙汰な様子でエプロンを弄っていた青年に目を向けた。
「すごく美味しいよ。作ってくれてありがとう!」
ネロ、と教えてもらった名前を呼べば、小麦色の瞳が困ったように泳ぎだす。小さな声が、本当に大したことねえから、と謙遜するのに大きく首を振った。たった一口食べただけでも、この料理の完成度の高さはよくわかる。これが大したことないなんて、と視線を落として、そこに空っぽの皿だけしかないことに目を丸くした。咄嗟にどこかに落としたかと思ったが、さすがにそれなら気づかないはずがない。だったら、と考えて、そういえばやけに静かな人物が一人いることに思い至る。例えばそう、何かおいしいものを食べている時みたいな。
慌てて隣を見れば、最後のひとかけらを口に放り込んだところだった。
「ブラッドリー!」
「俺様の前で、食いもんから目を離す方が悪いだろ」
「それはそうかもしれないけど、一口しか食べてなかったんだぞ!」
そう言って睨みつけても、ブラッドリーはどこ吹く風だ。それどころか、うまかったと機嫌よく笑っている。
口元に食べかすをつけたままの幸せそうな顔に、カインの方の気持ちが萎えていってしまった。仕方がないかとため息を零す。今までの、コンビニとスーパーの惣菜頼りの食生活を考えれば、カインにも責任の一端はある。