口づける資格を「どうぞお入りください」
通算、何度目かのお宅訪問。リビングに通された俺は、すとんと椅子に腰掛ける。キッチンでコーヒーを入れる恋人ーー入間さんの様子をじっと見つめていると、それに気づいた彼は優しく微笑みかけた。
いつ見ても顔がいい……と惚けそうになって本来の目的を思い出した俺はふいっ、と視線を逸らした。顔は熱いから、彼から見たら照れてそっぽを向いたように見えただろう。実際そうではあるのだが、今日の俺はちゃんと理由があってここにいる。
ことの発端は、俺が気づいた入間さんの行動からだった。いつ会ってもスマートにエスコートしてくれたり、俺の愚痴や話を聞いてくれたりと恋人として申し分ない彼だが、ひとつだけ気になっていることがあった。
スキンシップがないわけではない。手を握ったり頭を撫でられたり、そういった些細な触れ合いはよくある。けれど、俺たちはいままでキスをしたことがなかった。
瞼や頬にキスを降らせてくることはあるが、唇への接触はまだない。恋人ならキスをしたいと思うのは自然なことだと、俺は思っていた。
そういうことを視野に入れず付き合うことも世間的にはおかしいことではないと思うが、入間さんと時間を共有したいままでを考えると、そういった欲がないとは思えなくて。
もしかして俺とはキスしたくないんじゃないか、とか実は義務感で付き合ってくれているだけかも、だなんてネガティブなことばかり考えてしまうのが嫌で、この際今日はっきりと聞いてしまおうと思っていた。
「お待たせしました」
コーヒーを淹れ終えた入間さんがカップを机に置いて隣に座る。密着する距離ではないが、パーソナルスペースとしては少し近い距離。触れそうで触れられない位置に恋人の存在があるのが少しだけもどかしくも感じられた。
少しの沈黙。いつもなら気にならないようなこの時間も、決意をして来た俺にとっては緊張感のあるものでどう切り出そうか悩む。ここは勢いに任せてしまうべきか。いやでも、それで拒絶されでもしたら俺はそれこそ立ち直れない。
「……今日はお疲れですか?」
「え?」
「少し、上の空だ」
いつも感じる手袋の感触じゃなくて、彼自身の手がそっと頬に添えられる。少しだけひんやりとした体温が火照っていた身体に心地いい。
親指でかすかに撫でられ、くすぐったさに片目を閉じる。優しい体温に擦り寄るように頬を押し付ければ入間さんが距離を詰めてきた。
とうとうその時がきたのかと内心ばくばくと鼓動が鳴り止まない。俺の考えていたことは杞憂だったのかと、そっと目を閉じる。唇への感触を期待した俺だったが、柔らかいものが触れたのは額だった。
「今日はもう休みましょう。観音坂さんもお疲れのようですし」
「あ……」
頬に添えられていた手が離れていく。近かった身体も、入間さんが立ち上がってしまって遠くなった。初めのうちはショックで固まってしまっていた思考がぐるぐると回り始める。
ああ、もうだめだ。最後にそう思った瞬間、俺の身体は勝手に動いていた。
「観音坂さん……?」
ゆらりと立ち上がった俺を不思議そうに見る入間さんを勢いに任せて椅子に押し倒し、腹の下辺りに跨った。そのまま身をかがめて唇を奪う。
沸騰したように熱くなった思考は暴走していたのか、驚きでかすかに開いていた唇の隙間から舌を伸ばして入間さんのそれに少しだけ絡ませたあと、がばっと顔をあげて唇を離し、ふーふーと息を荒くしたまま噛み付くように声をあげた。
「なんでキスしてくれないんですか!俺のこと好きじゃないなら優しくすんな!馬鹿!」
感情が昂ったまま、俯いたままの恋人に声を荒げる。まだ激情は収まらなくて、捲し立てるように声をあげた。
「いつまで経っても唇にはしてくれないし、そういう雰囲気になっても手は出してくれないし!俺としたくないならはっきり言えば俺だっ……て……?」
少しずつクールダウンしてきた頭がクリアになってきてやっと、目の前の恋人の様子がおかしいことに気がついた。
よくよく見てみると普段の入間さんが嘘みたいに真っ赤な顔をしていて、思わずひゅっと息を呑む。
「あ、あの……入間さん?」
おそるおそる声をかけてみると、額から目までを手で覆って、クソッ……と呟き、大きく息を吐いた。驚きで昂っていたことも忘れておろおろしていると、指の隙間から窺うように視線を寄越す彼と目があった。
「……まず、訂正させていただきます。あなたのことが好きじゃないとか、そういうことをしたくないとかでは決してありません。そこは信じてください」
「は、い……」
顔の半分を覆っていた手を外して俺を見るその瞳は嘘をついているようには思えない。顔は赤いが。続く入間さんの言葉に耳を傾けようとおとなしく頷くと、一度呼吸を整えてから口を開く。
「結論から言うと、私があなたにそういうことをしないのは、できなかったからです」
「……俺が嫌だからとかじゃなくて?」
「いいえ、それはありえません。なのでこれは、私の問題です。本命ができたのは、あなたが初めてだったので。……臆病になってたんですよ」
入間さんが言ったことは、俺に衝撃を与えた。勝手に、彼は百戦錬磨な男性であると思い込んでいたからだ。
だって、この容姿に物腰柔らかな笑み。女性が放っておかないだろう要素しかなく、俺と付き合うまでにもいろいろな相手と恋人関係であったことはたくさんあると、そう思っていたのだ。
実際、付き合ったことはあるのだろう。だが、さっきの話を聞くに、本命と言える相手は俺だけであったと、そう言っているのだ。こんなに嬉しいことはあるだろうか?
それと同時に、本当は可愛い人なのかもしれないとも思う。だって、目の前で顔を赤くしているのは紛れもなく自分の恋人なのだ。
やばい、可愛い。好きだ。大好き。
そんな気持ちがいっぱいになって、溢れそうで。でも、いままで不安になっていたのも事実で。……少しだけ、意地悪したくなった。
「理由はわかりました。でも、いままでもやもやしてた俺の気持ちは変わらないてす」
「……わかっていますよ」
「だから、いまキスして?それで許してあげます」
跨ったままだった身体を再び近づけて、キスがしやすいように顔も近づける。少しの逡巡が見えたあと、そっと後頭部に添えられた手に力が込もった。その力に抗わず、ゆっくりと目を閉じる。
「……ん」
触れるだけで離れていった唇が、入間さんの不器用さを物語っている。けれど、それすらも愛しさへと変わって想いが胸に込み上げてくる。
「へへ……大好きです」
そっと目を開けた先、頬を赤く染めた恋人に向かって、俺はとびきりの笑みを送れただろうか。