今夏、あなたの名前を。 窓を突きぬけてくる日差しだとか、ただただ五月蝿いだけの蝉だとか、
そんなもの達のせいで浮き出た汗がつう、と顎の端まで伝って落ちた。
夏休み中に学校の夏期講習という名目で朝から呼び出されたせいで、冷房が効いているのにも関わらず多くのクラスメイトはだるさを全身から滲ませていた。
自分も例外なくこの時間のやるせないだるさに身体を溶かされていたので、頬杖をついて目線だけ前に向ける。
目の前の綺麗なアイリス色の癖がかった髪が日光を透かして、ちらちらと明滅した。
浮奇・ヴィオレタ。
きっと、俺以外を思っている、
俺のすきだったひと。
恋とか愛とか、自覚する瞬間なんかは小説でも漫画でもいくらでも見てきた。
読者という立場ながら『今更かよ』と思い続けてきたが、いざ自分がなってみると本当に分からないものだなぁ、とファルガーは薄ら思っていた。
「消しゴムに好きな人の名前書くやつ、流行ったよね〜。」
「わかる、小学校の時とか必死にやってたわ。」
「それ、昔の女の子達よくやってたよね。知ってる。」
「まじ?でも浮奇なら知ってそう感あるわ。」
浮奇が何人かの女子に囲まれながら窓際の浮奇の席で喋る光景はクラスではお決まりの風景で、
全く浮かずに同じような温度感でファッションやメイクの話をしているのはひとつの名物とも言えた。
「あ、ふーちゃん!おはよー!」
「おはよう。朝から騒がしいな。」
そして、そこに浮奇と親友とも言えるファルガーが巻き込まれて、一緒くたに弄られるのももう慣れたものだった。
ファルガーが開いていた文庫本を閉じて、イヤホンを外す。
6月の初め、今日から夏服に統一ということもあってか中心にある浮奇の机にはいつもより乱雑にメイク道具や櫛、手鏡が置かれている。
よくもまあ毎日飽きないものだ。とファルガーは感心した。
「何にそんな盛り上がってたんだ?」
「ふーふーちゃんは知ってる?消しゴムのおまじない。」
「……聞いたことはあるがどんなものかは知らないな。浮奇は知ってるのか?」
「好きな人の名前を新しい消しゴムのカバーの下に書いてさ」
浮奇はごちゃごちゃとした机の上にある新品で、何の変哲もないぴかぴかと白い消しゴムを手に取って、する、とスリーブを外してみせる。
「その本人にバレずに使い切ったらその人と結ばれるってやつ。」
なんの汚れもない真っ白なそれを見せて、また仕舞う。
大方、この消しゴムから話が始まったのだろう。
ファルガーはそれを見つめて、ふぅん、と軽く相槌を打った。
その反応には目もくれず、周りの女子は話を続ける。
「んで、浮奇は書かないの?」
「そーだよ、好きぴはいないの?」
すきぴ?とファルガーの頭にハテナが浮かんだが話の腰を折る気がしたので無言のままファルガーは返答を促すように浮奇に視線を移す。
多分好きな人の意だろう。
浮奇は口に人差し指を当てていたずらっぽく笑う。
「ナイショ、噂好きで口が緩い君達には教えないよ。」
「えー、ケチ。」 「心外なんだけどぉ。」
「残念だったな。ほら、そろそろ片付けないと先生来るぞ。」
はーい、と返事をする周りにやれやれと言った風にファルガーは眉をさげてはにかんだ。
そのままギャラリーがいなくなった浮奇の後ろの席にファルガーが腰をかける。
好きな人はいるのか、と聞かれた時に一瞬だけ曇った浮奇の表情をファルガーは見逃していなかった。
「朝から楽しそうだったな。」
「うん、そうだね。」
放課後になってファルガーは浮奇と一緒の帰り道を歩いていたが、頭の中でまだ朝のことがあとを引いていて足取りは軽いものではなかった。
自分の中で野次馬根性がひょいと顔を出してきて、訪ねるような声をかけてしまう。
「噂好きじゃなくて、口が硬そうな俺には教えて貰えないのか?」
「……屁理屈、朝のことでしょ。というか興味あるの?」
「まぁ長く一緒にいるし、多少はな。」
「……うん、そうだな。」
男の子だよ。同級生の。
ぱちぱち、と目を瞬かせると浮奇がぶはっ!と吹き出した。
「ふーふーちゃん、今かわいい顔してる。」
「す、すまん、少し面食らった。」
「いいんだよ、そうだよね。びっくりすると思うな。」
浮奇が少し困ったように笑って言う。
「だから、叶うと思ってはないんだけど。ずっと閉まっておくつもりの物だから。」
「でもちょっとぐらいかけてみたいよね。願がけだよ。」
「……そうか、すごく好きなんだな。」
「うん、大好き。」
あの曇りの原因はそうだったのか。
叶うつもりも、叶えるつもりもなかったからか。
と納得すると同時にファルガーは"それ"を思った。
男なら、俺じゃだめなのか。
女子に囲まれる浮奇にはこんなことは思わなかったのに。
男なら、俺が1番じゃないのかという考えが脳裏によぎってしまった。
それは俺、ファルガー・オーヴィドが恋を自覚したと同時に失恋を味わった瞬間であった。
頑張れよ、という言葉は震えずに吐き出せていただろうか。
嫌でもそれが目に付いた。
1つ60円ほどの小さな白い塊が目の前の席で、視界の隅で。
擦れて、削れていく度に自分の心もジリジリと焦がされていくようだった。
本当にその消しゴムに名前が書かれたのかは自分の知るところではないが、確実に言えるのは自分の胸が苦しいことだけで。
時間が解決してくれるだろうとは分かりつつも、ツキツキと心臓は痛み続けた。
遠くに陽炎がゆらゆらと見えるこんな季節になっても、それは付きまとってきて、まだ目を離せないでいる。
あれからあの消しゴムは少し短くなった。
無くなるまで、あとどれぐらいなのだろう。
使い切ってくれればこの気持ちも無くなるだろうか。
こんなに想いを寄せたところで、何も変わりはしないのに。
はは、と乾いた笑いを口の中で噛み殺した。
4時間目、11時48分。
目線だけ動かしていたのをやめて、
ただただ時間が過ぎてくれと祈りながら静かに瞼を閉じれば、微睡みに落ちるのは必然だった。
肌をなぞる不愉快な生暖かい風で目が覚めた。
机の上で突っ伏して寝ていたせいで腕はじんじんと痺れ、ぼやけた視界で窓が開け放されて、カーテンが大きな生き物みたいに風に靡いているのを見る。
午後、12時42分。
夏期講習は特に帰る前の説明もなく自由下校のため、寝ていた自分は取り残されたようだ。
肌に張り付いた髪を耳にかける。
遠くから野太い掛け声や様々な楽器の音が校内に響いていた。
ふと目を凝らすと、目の前の机の下にひとつ、見慣れたものが落ちている。
浮奇の、消しゴム。
真昼の太陽にギラギラと照らされたそれがとびきり神聖なものに見えた。
きっとまだ夢の中なのかもしれない。
こんな都合よく落ちてることなんてあるものか。
そう思ったものだから、立ち上がって手に取って、躊躇いもなく指を滑らせてしまったのだ。
「だ、だめっ!」
「っ!」
ガラッと勢いよく扉が開いて、そこには血気迫る表情の想い人の顔があった。
息をきらして、まるで敵を見るような目でこちらを見る。
ああ、こんなにいい所で本人が来るなんて、やっぱり夢の中なのだろう。
「ファルガー、それだけはだめ!」
「……浮奇、ごめんな。」
夢の中だけでも思いを断ち切らせてくれよ。
そしたら、きっとすぐまたお前の親友に戻れるから。
浮奇が止めようと近づいてきているのが足音で分かる。
でも、それでも、
ファルガーは途中まで滑らせた指をそのままスライドさせた。
現れる、すこし掠れた文字。
『Fulgur』
「……はは。」
やはり、これは夢だ。
ただただ自分を虚しくさせるだけだった。
そんなこと分かっていたのに。
鼻の奥にズキンとした痛みを感じながら、ファルガーは顔を上げる。
「っ!?おい、浮奇!」
「ッ……う、ぅ……」
大粒の涙がその陶器のような肌にいく筋も流れていた。
いつの間にか目の前に来ていた浮奇を支えることも出来ず、ファルガーがただそれを見つめる。
急速に頭が冴えていく感覚。
「だから、やだって、ダメだってッ……言ったのに、」
「え、ちょ、」
「もう、かなわなく、なっちゃう……」
万が一、これが夢じゃないとしたら。
その考えが頭をよぎって、もう一度手元のそれを見て、目を見開く。
確かにそれは、ファルガーの手の中で質量を持っていた。
「ずっと、ずっと黙ってたけど」
ふーちゃんのことが、好きなんだ。
一際大きな風が吹いた。
カーテンが大きく揺れて、一瞬だけお互いの顔を隠す。
また、お互いの顔が見えた瞬間、既にファルガーは浮奇を抱きしめていた。
「ごめん。ダメだって、言ったのにな。」
「……っ、ほんとデリカシーない。ダメだっておれいったのに、」
「うん、ごめんな。」
制服のシャツが涙を吸って、肩口がどんどんと濡れていく。
人肌のそれをファルガーは受け入れたまま、とんとんと浮奇の背中を優しくたたいた。
引きつったしゃくり上げる声と、鼻をすする音と、背中を撫でる衣擦れの音だけが教室にあった。
「浮奇、喋らなくていいから、聴いてくれるか?」
こく、と頷く頭を傍目にファルガーはにかんでそのまま話し始める。
「俺。ずっと分からなかったんだ。浮奇に対して俺ってどう思ってるんだろうって、」
とん、とん。
「でも、お前の好きなやつが男って言うから。その時初めて気づいた。男なら俺にしとけよって。女なら諦めもつくが、男ならお前の1番は俺だろって思ったんだよ。」
ぴく、と肩が動いたがそれを気付かないふりをしてファルガーは続ける。
「なぁ、浮奇。そのお願い、神様じゃなくて俺が叶えちゃダメか?」
ばっ、と浮奇が顔を上げるとその顔をファルガーが両手で包み込む。
ファルガーが右手に握ったままの消しゴムのカバーが浮奇の左頬に触れて、少し冷たい。
親指で何度も赤い目元拭いながら、その視線を交わらせた。
浮奇はたまらなくなって、引きかけた涙がまた溢れてくる。
「い、いの?」
「もちろんだ、言ってくれよ。叶うぞ、それ。」
ファルガーから離れて、浮奇がまた目を擦る。1度深呼吸をして、改めて向き直るとファルガーの手を握った。
「君と、ふーちゃんと、……ファルガーと、付き合いたい。
一緒にいたい。」
「……よく出来ました。」
夏の陽光が2人を照らして。
汗だくのまま重なって、熱くなりすぎた体温を分け合って。
初めて触れ合ったそこはその人自身を表すかのように柔らかくて。
「ぅう〜〜っ……」
「ははっ、もう目が溶けるぞ。」
はらはらと少し色の違う両目から
星屑が散るみたいに、涙の粒が溢れて、
泣かせているのは自分なのに、
自分だからか、
ただただ、綺麗だった。