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    沈九が逆行後、冰哥を殺そうとして心身がおかしくなってしまう話①

    ※普通に会話する冰九
    ※精神不安定で弱ってる九
    ※原作と時系列が異なる可能性
    ※なんでも許してくれる方のみどうぞ

    ##冰九

    生死流転七哥、七哥……七哥、ごめんなさい。全て私のせいだ。

    私があれの本性に気付いていれば。
    私があれを弟子に取らなければ。
    私があれに正しく接していれば。
    私があれを早くに殺していれば。
    俺が、貴方と出会わなければ。

    眼前の惨めに落とされた剣を見つめる。近寄ろうと藻掻けども、手足のない私はその場でのたうち回ることしかできない。以前とは異なり、もはや私の顔すらも判明にうつすことの出来なくなったボロボロの剣。七哥の剣だ。誰よりも強いと思っていた剣が、目の前で踏みつけられる。舌をなくした私にはそれを制止する一言すらも、発することは出来なかった。畜生にも劣るそいつが、愚かに足掻く私を上機嫌に嘲笑っていた。

    「……愉快ですね。貴方はこんなにも感情を出すことができるのか。これはいいことを知りました!」

    つらつらと演説でもするかのように私に何かを話しかけているそいつを気にかける余裕など微塵もなかった。私の瞳は片方しかないのだ。そいつにくれてやる視線など一欠片もない。私はもうすぐ生を終える。確信に近い予感を持っていた。ならば、七哥に近付かなければ。死ぬならば貴方を感じられるものの近くで果てたい。私に安寧をくれた貴方の傍にいたい。
    動くことも出来ずに、ただ一つ視線だけをそちらに向けた。虐げている雑種は何が気に触ったのか、私の髪を乱雑に掴んで顔を引き寄せる。手足のないだるまにされた私の体で、唯一正しい状態を保っている部位だ。なんの執着か、それは汚され乱されようと元の長さを保ち続け、私の軽くなった体を持ち上げるのによく使われた。

    「師尊、人のお話はきちんと目を見て聞かなければなりませんよ?そういえば、清静峰に居た時分から貴方は目を合わせてくださいませんでしたね」

    畜生と話すのになぜそんな儀礼を重んじなければならない。答える舌を持たない私は、唯一動かせる目を使い、横目でずっと七哥を見ていた。可哀想な七哥。あんな姿になってしまって。私など捨ておけば良かったのに。見え透いた嘘だと看破して、見捨てれば良かったのだ。ああ、けれど迎えに来てくれた。幼い私が永遠に待ち焦がれていた七哥がとうとう来てくれたのか。己の身が滅びようとも私のために来てくれたのか。懺悔や哀情と共に確かな嬉しさと幸福が身に渦巻く。
    峰主となり力を得ても零れ落ちてしまったものに、手足や尊厳をも失った今、ようやく手が届いたのだ。ずっと長い生を、虚しく消費して一人死ぬのだと思っていた。しかし全てを失った今、その時よりも遥かに満たされていた。
    このまま死ねば黄泉への道すがら、貴方に会えるだろうか。七哥は立派な人だったから、きっと地獄へは行かないだろう。けれど冥銭をくれる人などいないから、私は地獄に行ってしまう。また道が分かれる間の一瞬でいいから会えるだろうか。
    諦めとは異なる満足ともいえる心地だった。このまま死んでもいいと強く思えた。髪を掴まれ罵られている状況であるのにひどくのんびりと穏やかに時が流れているようだ。洛冰河は私と顔を合わせようと躍起になっていた。吊られた髪に引っ張られた頭皮と、奴の爪が食い込む頬から鋭い痛みが伝わる。けれども痛みは次第に鈍くなり、うとうと眠気すらしてきた。奴は焦って、私の体を振り回したり頬を張り始めた。落ちる瞼を止めることはできず、また止めたいとも思えず、私は逆らうことなく瞳を閉じる。異常に強い力で顔を固定されていたため、最後の瞬間に七哥を見れないことだけが心残りだった。最期までなんと忌々しい男なのだろうか、この畜生は。



    ほんの一刹那の後、身が焼かれるような感触に目が覚める。苦しい、……苦しい。体が燃えるように熱く、息を満足に吸うことができない。これが死後の世界か。結局貴方に会えないまま地獄に堕ちるのか。
    「……目が覚めたのかい?」
    懐かしい声がする、七哥の声だ。死ぬ前に見るという夢だろうか。
    「七哥……」
    久しく見ていない己の腕があった。動かし辛い腕を七哥の方へ伸ばす。
    「……っ小九!大丈夫、何も心配することはないよ。すぐに良くなる」
    私の腕を強く握ったその手の熱さに涙が出た。大きな掌が伸ばされて目尻の涙が拭われる。そのまま頬を撫でられ、優しく目蓋を閉ざされた。もう寝てしまいなさいと、二人で丸まって寝ていた頃のように声がかけられる。このまま地獄へ運ばれても悔いなどない。私は安心しきって目を閉じ、再び意識を奈落へ落とした。


    ――――――――


    意識を失う前の思いとは裏腹に、目を覚ますとそこは慣れ親しんだ清静峰の自室であった。状況が飲み込めず、うろうろ視線を迷わせる。寝台から立ちあがろうとするも、体が重くうまく動かすことができない。べたべたした体には薄い夜着が張り付いており不愉快で我慢できず、代えの服を探した。枕元に同じような夜着が畳んで置いてあることに気がつき着替える。ちょうど着替え終わった時、見計らったかのように部屋の中に大きな影が入ってきた。
    「小九、具合はどうだい?」
    七哥が片手に粥を抱えて近づいてくる。おいしそうな匂いにもう辟穀は済ませているというのに腹が鳴りそうになった。食欲を感じるなど、いつぶりだろうか。手渡された粥を口にすると、あまりにも生々しい五感にこれが夢ではないことに気付く。ならば現実か、先ほどまでの経験こそが悪夢とでもいうのだろうか。いや、そんなはずはない。あれは確実に、本当にあった出来事だ。ではこの現状は一体何だ。地獄というには優しすぎるし、極楽というには私は悪行を犯しすぎている。ぐるぐる答えの出ない問いを頭の中で回し続けていると、心なしか嬉しそうな七哥が話しかけてくる。

    「元気そうで良かった」
    ――貴方こそ生きていてよかった
    「ずっと苦しそうで心配していたんだ」
    ――私は貴方を心配することすらできなかった

    取り戻した腕を七哥へ伸ばした。頬や体に触れるのは躊躇われて、手を重ね合わせる。ぐっと握りしめると鼓動まで聞こえそうな力強い温もりがあった。七哥が動くので、つられて顔をあげると目が合う。いつ以来だろうか、貴方の瞳を見つめるのは。昔はよく見ていた気がする。でも、こんなにも深く暗い色をしていただろうか。七哥と呼びかけると、虹彩がきらりと光った気がした。

    「小九、小九……どうしたんだい?何か変なところでも」
    「ない。全部、全部完璧だ。七哥は変わりないか?」
    「私はもちろん変わりないよ。本当にどうしたんだい?やっぱりまだどこか悪いところがあるのかい?」

    そんなものある訳ないと頭を横に振る。五体満足で、両目もあるし言葉も紡げる。これ以上望むことなど少しもない。握っていた手に力を入れて引き寄せると、七哥は逆らわずに私に近寄った。すぐ傍にある肩に額をぐりぐり押し付けると、腕を回して背を撫でられる。汗で冷えきった体には熱い程の温度が気持ちいい。ほうと息を吐くとさらに距離が縮まり、厚い胸板に頭を預けた。七哥が照れたように笑い、振動が伝わる。しばらくそうしていて、七哥がぽつぽつとたわいもない話を始めた。

    「そうだ、小九。さっきの粥は美味しかったかい?」
    粥……久方ぶりに食べたものだったので、味を上手く思い出すことは出来ないが、匂いは美味しそうだったように思う。まあまあだ、と答えると七哥の笑みが深まる。
    「ふふ、そうか。作り手も喜ぶだろう」
    「作り手?」
    清静峰にはあのように美味そうな粥を作れるほどの人物はいなかった。だとしたら、あれは誰が作ったのだろう。七哥もあまり料理は得意ではなかったというのに。
    「小九は怒るかもしれないね。あの子だよ、確か……洛冰河と言ったかな?」
    「洛、冰河……」

    その言葉にあまりにも柔らかい空間ですっかり忘れていた畜生の存在を思い出した。苦々しく眉を寄せると節張った指に眉間を解される。
    「ほら、そんな顔しない……。君も、そんなところにいないでこっちにおいで、」
    入口辺りで小さな影がびくりと動いた。暫し考えた末、恐る恐るといった様子で顔を覗かせる。それは見慣れた忌々しい姿とは反対に、少女のように幼く儚げな姿だった。私の視線ひとつにびくびくと反応し、今にも床に平伏しそうなありさまだ。心のどこかで疑っていた、これが洛冰河の見せる夢である可能性を捨てた。あの男がこのように情けない姿を、わざわざ私に見せるわけが無い。これは現実だ。ならばどうして時が遡ったのか。到底答えを出せると思えない疑問を頭から追い出す。私にとって大切なのは理由ではなく目の前の現実だ。

    「止まれ。何故ここにいる?誰がこの竹舎に入る許可をした?」
    「私だ、小九。彼は君を心配して粥を作ってくれていたのだよ」

    なんということだ。私が平らげたあの粥はよりにもよってあの雑種が作ったものだったのか。唖然とする私に洛冰河は気後れしながらも口を開こうとするので、慌ててそれを遮った。

    「七哥、勝手なことをしないでくれ。洛冰河、今すぐにこの部屋から出ていけ」
    「それは少し、」
    「私のやり方に口を出さないでください」

    黙ってしまった七哥と私に一瞬目を向け、洛冰河は震える手で拱手をして逃げるように出ていった。ぷいとそちらから顔を背け、七哥に告げる。

    「もういい時間だ。私も疲れたし、掌門様にはやることも多いだろう。私は大丈夫だから、帰ったらどうだ?」
    「しかし、小九……」
    「また明日来てくれ、七哥。」

    おやすみと体を離し、さっさと上掛けに潜り込み目を閉じた。七哥は躊躇いの後、上掛け越しに私の頭を撫で、また明日と帰って行く。居なくなったのを確認して寝台から降りる。
    洛冰河。これがもし私の過去であるならばこのまま奴を放っておけば必ずや七哥は殺され、私も死ぬだろう。今の私は、奴の本性を知っている。無間深淵に堕ちて以降の奴の強さは異常だ。しかし、しかし今ならば、私の手で始末をつけられるのではないか。私は一度失い気付いた温もりを、もはや手放す気にはなれない。死の直前に私の心を守ってくれたように、今度は私が七哥の命を守ろう。覚悟を決めて、声を上げ明帆を呼んだ。

    ――――

    「師尊、何か御用でしょうか?」

    のこのこ呼ばれるが儘に現れた洛冰河に思わず笑みを浮かべた。何が起こるかも知らずに呑気なものだ。怯えたような表情で硬直している奴に心がすく。これまた随分と久しぶりに愉快な気持ちになった。敷物もない剥き出しの床に座るように促す。

    「先程の粥はお前が作ったそうだな」
    「お口に合いませんでしたか……?」

    己よりも遥かに低いところから視線を感じ、ますます笑みが深くなる。奴を床に座らせたまま室内を歩き回り、取り留めのない話をする。

    「粥の作り方は誰に教わった?」
    「養母が作るのを見て学びました」

    養母、そうだこいつには母がいたのだ。なんと運のいいことか。私はこの時分何をしていた? 少なくとも、養護されるような状況ではなかった。少なくとも、山門になど入れてはいなかった。ああ、妬ましい。

    「……洛冰河、お前は修雅を見たことはあるか?」
    「い、いいえ。師尊の御剣など私如きが拝見できるようなものではありませんので」

    怒られるとでも思ったのだろう。焦ってへりくだる奴を見て、思わず微かに声を出して笑ってしまった。あんなに偉そうにしていたのに、いい気味だ。

    「何、怯える事は無い。折角の機会だ、一瞥くらいはさせてやろう」
    「いいのですか……!?」
    一転してきらきらと輝き始める顔が面白い。
    「ああ、二言はない。ただ、」

    「ただ、今のお前では修雅の眩しさに目をやられてしまうかもしれない。慣れるまで少しの間、目を瞑っておれ」

    奴はなんの疑いもなく即座に瞳を閉ざした。それに耐えきれずくすくす声が漏れた。今この瞬間だけならこいつにも優しく出来るかもしれない、それほどまでに楽しかった。すらりと修雅を抜き、そわそわしている奴の頭上に振りかぶる。ちょうどその時、

    「……っやめなさい、小九!」

    私を撫でてくれた大きな手が修雅を掴んだ。ぼたりぼたり粘度の高い血液が床に、私の腕にとあちこち垂れていた。引いても押しても傷つけてしまう。私は貴方を守るためにやっているのに。

    「手を離しなさい」
    「七哥、」
    「手を離して、小九」
    「でも、」
    「小九」
    「七哥っ!」

    ぐっと手に力が入り、修雅がめり込む。流れ落ちる血の速さに驚いた。私は一体どうすればいいのだ。剣を動かすことも、そこから手を離す決断もできない。

    「小九、ダメだ。やめなさい」
    「でも七哥、ここで殺しておかないと。でないと俺と貴方はこいつに、洛冰河にこの上なく惨たらしく殺されてしまう」
    わかってくれ七哥、わかってくれ。
    「それでもダメだ、小九。それだけはダメだ」
    「七哥、よりにもよって貴方がそれを言うのか。他でもない貴方が!」

    私が過去に何をしたか分かるだろう?
    私がなぜそうしてしまったのか知っているだろう?
    だと言うのに貴方が私にそれを言うのか。どうしてそんなことを言えるのだ。私が狂っているとでも、私の思い違いとでも思っているのか。そうだな、七哥。貴方は限りなく公平な人だ。きっとこんなに取り乱している私を遠くから見ていられるのだろう。そしてこの場で一番正しい答えを選べるのだ。
    ちらりと洛冰河に目を向けると、間抜けに座ったままこちらを見つめていた。唖然とした様子のそいつは、感情の読めない表情を浮かべていた。先程までの幼子然とした姿と一線を画したその面に、ますます焦りがつのる。
    ついに七哥の握る修雅を離し、洛冰河の首に手を伸ばした。七哥の血が伝い真っ赤に濡れた私の腕と反対に、白雪のように輝く奴は頬を紅潮させ目を見開いていた。あと手のひら一つ分で届く時、後ろから七哥が胴を拘束してくる。
    「何をしているんだ、早く逃げなさい!小九は本気だ、本気で君を殺そうとしているんだ」
    七哥が洛冰河に告げた。恍惚とこちらを見つめていた奴は、はっと目が覚めたように立ち上がろうとする。
    「洛冰河、私が立っていいと言ったか!?そのまま跪け!」
    強い力で腕ごと抱き込むように止められる。洛冰河は私の言葉に再び床に伏した。ぐいぐいと七哥の衣と私の上着の摩擦で拘束から逃れようと藻掻く。私が抗っている間も七哥は諭すように私を否定してくる。
    なぜ、なぜ分かってくれない。ただ貴方を助けたいだけなのだ。前世の痛みで弱りきった心と今世の熱で疲れきった体は、ついに限界を迎えた。突然手足に力が入らなくなり、七哥の腕に縋り付くようにして立つことしか出来なくなる。七哥が慌てて私を引き寄せ支えた。

    「……急にどうしたんだい?ああ、泣かないで。大丈夫、大丈夫だから」

    気付かぬうちにぼろぼろ流れ落ちていた大粒の涙を拭われる。なんの価値も持たない醜い涙だ。泣き方などとうに忘れてしまっていて、息が上手く出来ない。ひいひい無様に息を吸い、しゃくりあげ、涙を流した。体勢を変えた七哥は私を凭れさせ背を摩ってくれた。大丈夫だ、大丈夫だと馬鹿の一つ覚えのように繰り返し慣れない手つきで背をさする。七哥の胸に頭を預け必死に息を吸っていると、闖入者が割り込んできた。
    「師尊……」
    そいつはどこか恨みがましい目で私を見ていた。今世でも私はこいつを殺すことができないのか。
    「もういい……、今すぐ出ていけ」
    鼻を啜りながら言った。酷くみっともない姿だったろう。このまま私を見限って何処ぞへ出ていって欲しい。そしてそのまま私たちを忘れて三界でもなんでも支配すればいい。七哥の胸から顔を上げずに、出ていけと繰り返す。洛冰河は無言で、何度も何度も振り返りながらゆっくり部屋から出ていった。


    ――――


    ……私の、師尊。自身が避けられていることは分かっていた。けれど、私には他に行くところもなくて貴方に縋り付くしかなかったのだ。師尊が高熱で倒れた時に強く理解した。たとえ嫌悪し虐げられていようと、私は間違いなく師尊に保護されているのだと。このまま師尊が帰らぬ人となってしまったら、私はどうなるのだろうか。少なくとも、名代になる師兄は私を山に置いておく事はないだろう。扱いは酷くとも服を着せ、毎日の飯を与えて私を生かしてくれたのは他でもない師尊だ。
    そう考えると、いても立ってもいられず厨に忍び込んで粥を作った。食べて貰えるなど微塵も思ってもいない。ただ何かをしなければ、己が死んでしまいそうな程不安で仕方なかったのだ。出来上がった粥を持って師尊の自室付近をうろついていると、岳師伯が声をかけてきた。身丈に合わない盆を抱えていたため、拱手をしようにも出来ず頭だけを下げる。
    「どうしてここに……?」
    「あの、師尊に粥を、」
    寒ければ死ぬ、食わねば死ぬ賎しい私と違い、師尊には食糧などいらない。知ってはいたが作らずにはいられなかった。
    「そうか、ありがとう。私が持っていこう。君も来るといい」
    優しげな笑顔で礼を言い、彼が手招いた。師尊が寝込んで以来毎日見舞いにくる彼は、当然のように竹舎に入っていく。清静峰に住む私はほとんど初めて入るというのに。

    私が入っては休めぬだろうと、内からは見えぬ廊下の隅で待つことにする。そこは上等な木材でできており、塵一つ残らぬよう磨きあげられていた。室内からはぼそぼそと話し声が聞こえ、食器を動かす高い音が響く。しばらく足先から伝わる寒さに耐えていると、内から私を呼び寄せる声が聞こえた。
    師尊の自室に入るのは本当に初めてで、恐る恐る顔を覗かせる。中には兄弟弟子と言うには近すぎる距離の二人が寝台におり、師尊は私を見て途端に不機嫌になった。私は気が引けながらも、挨拶の一言でもと口を開こうとするが、師尊はそれを遮り、部屋から出ていけと短く告げられる。一介の弟子に過ぎない私には逆らう理由などなく、緊張で震える手で拱手をして逃げるように去るしかない。私から師伯に移った目線が妙に気になり、ぐるぐる頭をまわり続けていた。

    厨で一人後始末をしている時、師尊が食べた粥を思い出した。私の作った粥を食べてくれたのか。辟穀修行を済ませた師尊には意味が無いものでありながら、私の粥を食べたのか。それはまるで私にだけ与えられた慈悲のようで、心が踊った。冷たい水に浸した手は不思議と火照っている。夢中で食器を洗っていると、暗い厨房に突然目が痛い光が差し込んだ。灯りを持って明帆師兄が入って来たのだ。
    「師兄……」
    「師尊がお呼びだ。ついてこい」

    師兄は苛々しながら荒い足音で竹舎に向かった。どうしてこいつが、俺だって滅多に入れないのに、とぶつぶつ文句を言うのが耳に入る。常に師尊の傍に侍ている師兄が、私を羨んでいた。彼すらも得られない幸福が私の身に降りかかったのだ。師尊が、自室に私を呼んでいる。改めて自覚すると、先程からおかしくなってしまった私の心臓は異常な程に弾んだ。
    「勘違いするなよ。師尊はお前を罰しようとしているのだ。きっと酷い罰に違いない。せいぜい怯えていろ!」
    師兄は捨て台詞を吐くと顎で竹舎の中をさし、突き飛ばすように私を押し込んだ。そうかもしれない、師尊は私をただ折檻しようとしているだけなのかもしれない。そう考えると、確かに恐ろしく思えてくる。しかし同時に、私は間違いなく師尊の私室に招かれるという事実に高揚していた。綯い交ぜな感情にどこかふわふわした心地で竹舎に入る。

    「師尊、何か御用でしょうか?」

    薄い内着を纏った師尊が寝台に座っていた。俯いている顔を、長髪が帳のように隠している。何処か重い空気をはらんだ師尊は、私の声に反応し体を動かし、重い黒髪が流れるようにその後を追っていた。雰囲気に気押され、固まる私を見て師尊は微かに笑みを浮かべた。貴人が嘲笑するような、幼子が企みを企てている時のような、なんとも言えない笑みだった。

    「先程の粥はお前が作ったそうだな」

    師尊のお声が静かに部屋中の空気を震わせる。気もそぞろになんとか答えを絞り出すが、自分が何を口にしているのか分からない。失礼になっていないか。師尊はお気を悪くされていないか。見上げると変わらずに微笑を浮かべる師尊がいた。師尊が、取り留めのない話を振ってくる。私はそれに必死で答えることしか出来ない。師尊は悠然と、たいして広くもない室内をそぞろ歩いていた。あの琴は師尊のものだろうか、師尊は琴を弾かれるのか。書きかけの写書はとても美しい字で満たされていた。清静峰に来てしばらく経つというのに知らないことだらけだ。こうして、穏やかな時間を過ごすこともまた初めての体験だった。

    「……洛冰河、お前は修雅を見たことはあるか?」
    「い、いいえ。師尊の御剣など私如きが拝見できるようなものではありませんので」
    この時間が永遠に続いてほしい。少しでも答えを間違えれば終わってしまうように感じ、慌てて答える。
    「何、怯える事は無い。折角の機会だ、一瞥くらいはさせてやろう」
    「いいのですか……!?」
    「ああ、二言はない。ただ、」

    修雅剣は師尊の御剣。それが折れればそのまま持ち主の死を意味する、大切な宝である。無闇矢鱈に見せびらかすようなものではない。事実師尊も常に帯剣するものの、滅多に修雅剣を抜くことはない。それを私が見せて貰えると言うのだ。

    「ただ、今のお前では修雅の眩しさに目をやられてしまうかもしれない。慣れるまで少しの間、目を瞑っておれ」

    修雅剣程の名剣にもなると、そういったこともあるのかと素直に目を閉じる。スラリと剣を抜く音がした。
    目を閉じると竹舎の匂いが強く感じられた。ふわりと漂う墨の香りとまた別の涼やかな香りが混じりあい、この上なく上品な情調を醸している。風に吹かれた竹がかさかさと音を立て、それに師尊がこちらに近付くすり足の音が合わさった。高揚か緊張か、私の顔は真っ赤に染まる。だらしない顔にならないよう、ぐっと唇を噛んでその時を待つ私は、さぞ滑稽であったことだろう。そんな私を見たのか、師尊のくすくすと笑いだす声が聞こえた。

    つい先日まで、姿を見ることさえ許されていなかった。それがどうしたことか、師尊は今、私を見て笑っているのだ。それは、私にだけ与えられた幸運であった。師尊がさらに近寄る気配がする。まさに今触れ合おうとするちょうどその瞬間、

    「……っやめなさい、小九!」

    不躾な声が聞こえた。途端に私に注がれていた目線はなくなり、清純な香りが血の匂いに掻き消される。竹舎の雰囲気に相応しくない騒々しさに思わず目を開けると、目の前で岳清源と師尊が言い合っていた。
    ほとばしっていた気持ちが急速に冷める。師尊はもはや、私には一瞥もくれない。笑みを浮かべていた面は苦痛に歪んでおり、ただ岳清源のみを見つめ、それはみるみる青ざめ生気を失っていく。

    じいっとそちらを見ていると、師尊が突然私に視線を向けた。悲痛な目をした師尊は岳清源を捨て、私に手を伸ばしてくる。交わる視線に私の頭は、殴られたようにくらくらしていた。

    「何をしているんだ、早く逃げなさい!小九は本気だ、本気で君を殺そうとしているんだ」
    その一言に理性が戻ってくる。逃げなければ、死んでしまう。
    「洛冰河、私が立っていいと言ったか!?そのまま跪け!」
    私は師尊の弟子だ。考える前に膝をついていた。

    師尊は岳清源の腕の中で必死に藻掻き、抜け出そうとしている。薄い夜着は乱れ、赤い血で濡れそぼり張りついていた。岳清源が言葉をかける度に師尊の顔色が悪くなっていく。ついには、がくんと全身の力が抜け、振り払おうとしていた腕で岳清源に縋り付き、肩を震わせた。私はただ呆然としていることしかできない。

    師尊、……師尊、貴方はそんな風に泣かれるのか。岳清源の胸に全てを預け、下手くそに嗚咽を漏らす師尊を責めるように睨めつける。大丈夫だと繰り返し背を撫でられながら、師尊は引き攣った呼吸をしていた。
    「師尊……」
    私を見てください。その細い指で衣を握り、岳清源に顔を擦り付けたまま師尊は私に、出ていけと繰り返す。涙混じりで、あまりにも痛々しい声だった。それに押されてしまい、後ろ髪を引かれながらも竹舎を後にする。最後に惜しむように見た室内で、岳清源が師尊を慰め寝台に座らせようとしていた。その光景が、網膜に焼き付いてしまい離れなかった。

    逃げるように入った狭い薪小屋の中、申し訳程度の寝床に体を横たえ考えた。師尊も泣かれるのか。何度も何度も先程の光景を思い返す。びゅうびゅう隙間風が吹き凍えるような寒さであるのに、自身の体は中央から熱を発していた。深い呼吸をする。心臓が大人しくなるにつれ、疲労した体はたちまち意識を落とした。


    ――師尊、

    真っ暗な箱の中で師尊がうずくまっていた。膝を抱えてぽつんと一人座っている師尊は幼子のようだ。師尊はぐずぐず鼻を鳴らし、顔を歪めて大粒の涙を顎にためていた。もっともっと、美しく泣く人だと思っていた。いやそもそも泣くなんて想像もしたことがなかった。常に無表情で美しく他を寄せつけない師尊は、私には神様のようにうつっていたのだ。がりがりと黒い小さな箱を爪で引っ掻く。
    それがこんなにも醜く、しかめっ面で下手くそに泣くなんて。これではまるで、人間のようではないか。ああ、そうか師尊もまた、私と同じ人なのだ。修位が高いと言えども人の延長に過ぎず、楽しければ笑うし苦しければ顔を歪め、悲しければ泣くのか。我慢できずに箱を叩いた。側に行かせてくれと、殴って蹴って壊そうとする。カタ、と軽い音がして箱の反対側の壁が外れた。
    「小九」
    岳清源は当然のようにそこに入っていった。岳清源が伸ばされた師尊の腕を当たり前に受け止めて、胸に抱きかかえる。師尊は細い細い指先でその胸元に寄り付き、形のいい頭を埋めて、真っ赤な顔で涙を流し続けていた。
    それは神画のように美しく尊い光景であったはずだ。しかし、私の目には高い声でしゃくり上げ、耳まで朱に染め泣きじゃくる師尊が、やけに扇情的に映った。婀娜っぽいその姿を見ているうちに興奮と羨望で絡まりあった心で思う。胸を貸すのが私だったらどんなに良かったか。私ならばもっと上手く慰めて差し上げるのに。

    師尊、私の何が駄目だったのでしょうか。


    ――――

    コンコン、薪小屋の粗末な戸を叩く音で目が覚めた。
    「私だ、入っても?」
    「岳師伯。す、少しお待ちください」
    先程の夢のせいか、下半身に違和感を覚え慌てて体を起こす。寝所代わりの藁についた体液を足でかき混ぜて誤魔化し、掛布にしていた大きめの衣を着て前を隠した。

    「わざわざこのような所へいらっしゃらずとも、一言仰ってくだされば、参りましたのに。」
    建付けの悪い戸を開き、岳清源と敷居越しに対面する。
    「いや、君と内密に話したいことがあってね。大事にはしたくないことだ」
    「話したいこと。それは、あの……先程の、」
    「そう、君の師についてだ」

    「先程はすまなかった。病み上がりで疲れていたところに悪夢を見てしまって混乱してしまったようだ。」
    「師尊は大丈夫ですか……?」
    「ああ、もう落ち着いて今は寝ている。」
    入れるのを躊躇っていた敷居をあっさり跨いで彼は小屋に入ってくる。
    「君はここで寝起きしているのかい?宿舎はどうした?」
    「師兄たちが、」
    「そうか……」
    言葉を濁すと少しだけ険しい顔をした岳清源が薪小屋を見渡して言った。
    「君は、沈師弟を害する気は無い。そうだね?」
    「ええ、……ええ、もちろんです。私は師尊の弟子ですから。どうして弟子が己の師を傷つけることがありましょうか?」
    「良かった。どうやら師弟は君を勘違いしていたようだ。私からよくよく言い聞かせておいたから、安心しなさい」
    余計なことを、
    「きっと明日からは宿舎で生活をして、きちんと指導も受けられるようになる。だから、どうか師弟を嫌わないでおくれ」
    今、私が最も苦々しく思っているのは岳清源だ。今日見た師尊の顔が頭から離れない。それを思えば、私が嫌うことなどありえないと思えた。
    「弟子が師尊を嫌うことなど有り得ません」
    うんうん嬉しそうに頷いた岳清源は、おやすみとひと言告げて小屋を後にした。

    ――――

    翌日、本当に宿舎に部屋が用意されごくごく普通の弟子としての生活が始まった。私の変化を一番喜んだ寧嬰嬰は、しょっちゅう部屋に遊びに来ては「先輩」として様々なお話をされた。それは他の弟子の噂から始まり、市井で流行りの書物や恋の話にまでおよんだ。そして必ず最後に師尊の話題に着地するのだ。

    「師尊は一体どうしてしまったのかしら?最近はご飯も全くと言っていいほど召し上がらないそうよ。もちろん辟穀はすませられているけれど……それでも、以前はお口にされていたのに」

    師尊はあれ以来、ずっと無気力な様子で食事にも手をつけず、少し痩せてしまった。元来、外へ出たがるような人ではなかったが、近頃は以前にも増して竹舎に籠り虚ろな目で一日を過ごしている。

    「心配だわ。昨日なんか、筆を持って一日中書机に座ってらしたと思ったら、何にも書いてなかったのよ。一文字も!」
    「師姉は竹舎に入ったのですか?」
    「ええ、昨日は当番だったもの」
    「当番?」
    「……阿洛が知らないのも無理はないわ。師尊の身の回りのお世話を何人かが交代でやっているのよ。私と、明帆師兄と、あとは、」
    「それは私にもできるでしょうか?」
    「阿洛に?……そうね、どうしてもと言うなら特別に明後日の当番を一日代わってあげる。そのかわり、今度お買い物に付き合ってちょうだいね」
    もちろんだと微笑んで答えた。そんなもので、一日を師尊のお側で過ごせるならあまりにも安すぎる代償だった。

    約束の日、寧嬰嬰に竹舎へ連れられながら説明を受けた。
    「大丈夫、なにも難しいことはないわ。まずは竹舎の掃除をして、それから師尊のお食事と身の回りのお世話、あとは来客の対応とかかしら……? ああそう、師尊が望んだら夜は入浴のお手伝いなんかもして差しあげてね」
    「にゅ、入浴、ですか?」
    「ふふ、阿洛ったら一体何を想像しているのかしら!大丈夫、私にもできたことだもの。お湯を運んでお着替えとかを用意するだけよ」
    「そうですよね、」
    ほんの少しだけ残念に思ってしまった。なにもお身体が見たかった訳ではなくて、ただ御髪に触れてみたかったのだ。黒く流れる河のようなそれに触れたらきっと気持ちいいだろう。洗えと言われたら、一本一本丁寧に清める自信があった。
    「今日は夕方に来客があったはずよ。私が竹舎までお連れするから、阿洛はおむかえの準備だけしてちょうだいね。そうだわ!お食事は阿洛が作って差し上げたら?阿洛のお料理、美味しいからもしかしたら師尊も召し上がってくださるかもしれないわ」
    もちろん私は最初からそのつもりだった。何がいいだろうか。しばらくまともに食事をしていないなら消化にいいものが良いだろう。汤と何品かおだししてみようか。寧嬰嬰と相談しながら竹舎へ歩いて行った。

    「巳刻まで寝ていらしたら朝食はいらないわ。師尊が起きる前にお掃除は必ず済ませておくこと、あとはきっと大丈夫よ。それじゃあ阿洛、頑張ってね!」
    手を振って宿舎の方に戻って行く寧嬰嬰を見送る。さあ、忙しい日になる、早く竹舎の掃除をしなくては。誰よりも綺麗に磨き上げて見せると、うきうきと逸る足で中に入った。

    けれども、そう思っていたのも始めのうちだけだった。師尊はただこんこんと眠り続け、当然朝食の用意は要らなかった。掃除を済ませてしまえば途端にやることが無くなり、部屋の隅で置物になることしか出来なくなった。
    昼食を用意して机に並べ、起きるのを待つ。しかし、日がのぼりきり傾き始めても師尊が起きることはなかった。己が殺されかけた部屋で、自身を手にかけようとした人の食事を用意して、その人が目を覚ますのを待っているのはとても不思議な気分だ。師尊は相変わらず眠っていた。身動きひとつせず、青白い顔で寝台に横たわる姿はまるで死体のようで不安になる。私はただ部屋の端に座り動かぬ師尊を何時間と見つめ続けていた。とうに昼時を過ぎた頃、しぶしぶ冷めきった昼食を下げた。汤と中に薬草を入れた肉包、そしてお茶や数品のおかず。時間を持て余した私が、腕によりをかけて用意したものは、虚しくそのままの状態で固まっていた。

    「阿洛、お客様がいらっしゃったわ!」
    そう時間が経たない内に戸外から寧嬰嬰の声が聞こえた。何せ暇で仕方なかったのだ、お茶や何やらは当然用意できていた。しかし、師尊は未だに寝台の上で寝たままだった。

    「師姉。実は師尊がまだ起きていらっしゃらなくて、」
    「まあ! 今日もなのね。本当にどうしてしまったのかしら、」
    「おや、沈師兄のことかい?」
    木清芳が会話に入ってくる。私たちが慌てて拱手をしているとその後ろからさらに岳清源までもが現れた。どうかしたのかと問うてくる木清芳に寧嬰嬰が答える。
    「それが、あの、師尊がおかしいのです。最近ずっと、ぼーっとしてらして、日がな一日何もせずに座っているだけなんてこともあるのです。お食事も取られないし、今日だってほら!こんな時間まで寝ていらっしゃいます。どこか悪いに違いありません。師尊は大丈夫でしょうか?」
    不安だったのだろう。寧嬰嬰はまくし立てるように二人に状況を説明した。
    「ああ、だから今日は木師弟を連れてきたんだ。一度、よく診てもらおうと思ってね」
    あれから何度も清静峰に訪れている岳清源は状況を正しく理解していた。岳清源が木清芳や私たちを引き連れて師尊の私室に入り、私たちが触るのを躊躇った師尊に、岳清源はあっさりと手を伸ばした。

    「小九、小九。そろそろ起きれそうかい?」
    肩を揺すられた師尊は薄目を開け、両手を使って大層な時間をかけ上体を起こした。岳清源は寝台に座りそれを自身に寄りかからせて支える。
    木清芳が師尊の霊脈や眼球、舌を診はじめた。私と寧嬰嬰は居心地が悪く身を寄せ合うようにして部屋の隅に固まって座っていた。一通りの診察を終えたのか、木清芳がいくつかの質問を投げかける。それに寧嬰嬰と岳清源が答えた。その間、師尊は岳清源が手土産にと持ち込んだ小さな肉包を蟻が食べているのかと間違えそうな速度で食べ進めていた。

    答えを聞きふむ、としばらく考え込んだ木清芳に待ちきれなかった岳清源が急かすように問いかけた。
    「どうだろう、木師弟」
    「そうですね、あえて病名をつけるとしたら疲労になるでしょう。沈師兄は心も身体もとても疲れているのです。だからこうして他の機能を止めてまで休もうとしている。」
    「そうか。それは、大層な病気でなくて良かった」
    「いいえ、掌門師兄。決して軽い病ではありませんよ。身体の疲労はともかく、精神の方はなかなか治りません。沈師兄には金丹がありますから、直接命に関わることはないでしょう。しかし、常人であれば十人に何人かは命を落とす大変危険な病ですよ」

    岳清源も寧嬰嬰も命を失うことは無いと聞いて安心した表情になった。しかし、本当にそうだろうか。私には二人のように信じきれなかった。師尊だって人間だ。疲れればこのように身体がおかしくなり、食事を食べねば僅かにだが痩せてしまう。ならば、命を落とすことだって案外簡単にあるのではないか。うつらうつら師尊が、舟をこぎ出す。岳清源はそのまま師尊を寝台に戻し、再び木清芳と向き合った。

    「それで、私達はどうすれば良いのだろうか?」
    「とにかく休息を取らせることが大切です。薬も調合致しますが、滋養強壮を高める程度のものしか出せません。なるべく他の峰に仕事を振って、休ませましょう」
    「ああ、そうしよう。……二人も、師弟を頼む」
    蚊帳の外になっていた私達に岳清源が頭を下げる。寧嬰嬰が慌てている横で、「勿論です」と岳清源の目を見つめて答えた。言われずとも、そうするつもりだった。今のように師尊と親しさを滲ませる岳清源が、私にはとても妬ましく憎たらしく感じた。肉包なら私が用意したものの方がきっと美味しかったのに、私ならただ支えるだけではなく、背を撫で慰めて差し上げられたのに。私がどんなに師尊に尽くそうとしても空回り、横からきた岳清源に全て取られてしまう。それがひどく虚しく悔しかった。

    ――――

    それから幾年か後の仙盟大会は、ここ数年籠っていた師尊も参加せねばならないほどの大きな行事だった。しかし最中で予想外の魔物の襲撃に遭い、師尊と私は二人になった。どこか覚えのある光景に頭が痛くなる。

    「師尊、ご覧下さい。あれは一体何でしょうか?」
    ぱかりと割れた地面の間に禍々しい深淵があった。地響きに合わせて奥から臭気が漂ってくる。疲れきった様子で大きな岩に腰掛ける師尊は、私の額に浮かぶ印を見てもなんの反応も示さなかった。

    「無間深淵だ。地獄のようだが、地獄ではない」
    岩の突き出た部分に背をもたれて、師尊が目を閉じる。
    「驚かれませんね」
    「何に?」
    「私が天魔の一族であったことにです」
    「ああ、……全て知っていたからな。お前が天魔族であることも、何処ぞの翁に師事していることも。本当だったらそれを理由に私は、お前をそこから突き落とすはずだった」
    全くと言っていいほど興味がなさそうに、ぐったり身を投げ出す師尊を見つめていた。いっそ突き落としてくれればどんなに良かったことか。無関心でいられるくらいならば、嫌われ憎まれていたかった。

    「では何故私を破門しなかったのですか?何故突き落とさないのですか?」
    「どうでもいいからだ。何もかもが、どうでもいい。お前が自らその深淵に身を投げようとも、蒼穹山に留まろうとも、好きにすれば良い。お前が何をしようと、私はもう、どうでもいい」

    師尊が気だるそうに指先だけで印を結ぶと、修雅剣は己で魔物の穢らわしい体液を振り払いその輝きを取り戻す。周囲に生い茂る木々の緑、立ち込める土埃、そして師尊の衣の色を反射して、修雅剣は爛々と光り続けていた。薄目を開けた師尊は修雅剣が腰元に戻ったのを確認し、再び目を瞑った。割れた地面の縁から立ち上がり、私は師尊の方へ体を向ける。
    突然、耳元で夢魔翁が話しかけ始めた。
    (早く沈清秋を殺して無間深淵に入りなさい。そうすればお前は誰よりも強くなれるぞ)
    ――師尊を殺すなど冗談じゃない。
    (目を覚ませ。沈清秋は必ずお前の枷になる。生かしておいたとして、特段お前に構うこともあるまいに。ほれ、見てみろ。全くお前に興味がなさそうじゃ)
    ――うるさいうるさい! 私はもう決めたんだ。俺の決定が嫌ならこの体から出ていけ! 俺を誰だと思っているんだ。私は、俺は……

    「師尊はどうなさるのですか?」
    「私はここで七哥を待つ」

    七哥、七哥七哥七哥。また岳清源だ。なぜそうもあいつを気にかける。頭の中ではずっと夢魔翁が騒ぎ続けていた。気に食わない。師尊があいつを気にかけるのも、あいつが師尊を気にかけるのも何もかもが気に食わない。

    「師尊、貴方にとっての岳師伯とは何なのでしょう?」

    私は酷い顔をしていたのだろう。近頃は感情という感情を顔に出さなかった師尊が、私を見て顔を歪めた。焦燥、絶望、そして懺悔。師尊のそんな表情を見て私はようやく思い出す。

    そうだ、俺は洛冰河だ。三界を制し貴方を殺めた、洛冰河だ。再び師尊と相見えた事実に俺の身体中が歓喜した。あの時と全く同じで、ひどく愉快な気持ちだ。

    「そうでした。貴方は決して無情な人ではなかった。私はどうしてこんな大事なことを忘れてしまっていたのでしょう?」
    「お前、」
    「師尊、貴方は岳清源を追ってすぐに逝ってしまわれましたね。そう、……私を置いて。一人残された私のその後を考えたことはありますか?」
    「何を言っているんだ、洛冰河」
    「ええ、きっとないでしょうね。貴方にとっての特別は私ではなく、岳清源だったのですから!」

    岩を支えに師尊が立ち上がる。私が一歩進むと、師尊が一歩下がった。少しも縮まらない距離に頭がぐらぐら煮えたちそうだ。次々と頭の中に湧いてくる過去の記憶と敗北感に苛立ちがつのった。

    「貴方が逝ってしまった後、不思議なことに私は別の沈清秋に会ったのです。そこで私と貴方は道侶になっていました。あの出来損ないは沈清秋の特別でした。あいつに出来て私に出来ないことなどあるのでしょうか? ねぇ、師尊。きっと私たちだって夫夫になれますよ。」

    本気で、俺が何を言っているのか分かっていない師尊は、ただ私を警戒していた。先程までの死人のような瞳ではなく、生気の宿る黒色と目が合う。この沈清秋は他の誰のものでもない私の、私だけの師尊だ。

    「そうしたら私はようやく貴方の特別になれますね!ご安心ください。私は岳清源よりも、誰よりも上手く貴方を慰められるし、大切にできます。」

    言葉を紡ぐうちに舞い上がった俺は、踊り出しそうなほど軽快な歩幅で師尊に近付いた。並んで立つと、師尊の目線は私より随分と高いところにあり、自身の体の未成熟さが目立つ。これでは背伸びをせねば口付けのひとつだって送れやしない。仕方ない、

    「私は一度魔界へ赴きます。それで、また以前と同じように貴方をむかえに行きます。浮気なんかしちゃ嫌ですよ? 私のことを忘れないで、待っていてくださいね。どうぞお身体を大事に、」

    そう言うやいなや、俺は弾むように無間深淵に飛び込んだ。以前はあんなにも禍々しく恐ろしいものに見えていたそこは、羊水のように暖かく優しく感じた。ああ、楽しみで仕方ない。引き裂きたいほどに妬ましかったあの束の間の夢だって、今や地続きの未来だ。早く早くと焦る心を押し込めて、深い底に沈んでいった。
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