「勘違いでも」 まぶたの裏まで貫くような強い光。あまりに深い眠りから勇利が目覚めたのは、小さな電子音が、ピコンと耳元で鳴ったからであった。二、三度瞬きをした直後、一気に現実感を取り戻した青年は、ベッドの上から勢いよく身を起こし、手元のスマホへと目を落とした。
『ユウリ、おはよう。予定通り、十一時に迎えに行くけど大丈夫? デート楽しみにしてるね!』
「まずい……!」
ヴィクトルからのメッセージアプリ通知、現在の時刻は――十時五十分だ。
「……やっちゃった……」
青年は、深いため息をついた。昨夜、夕食後にヴィクトルと別れて一人暮らしの家に帰ってから、あまりの眠さにシャワーも浴びずに寝落ちしてしまっていたらしい。太い眉をへにゃりと下げて、慌てて返信をする勇利。
『おはよう、ヴィクトル! 家まで来てくれてありがとう。時間どおりで大丈夫だよ。でも、先にシャワー浴びていい?』
――ヴィクトルには家の中で待っててもらおう。詳しい事情と謝罪は、直接伝えた方が良いと思いながら打ち込んだメッセージは、送った直後、すぐに既読がつく。
しかし、数分待ってみても、ヴィクトルからの返事はなく、青年は困ったように眉を下げた。
「……運転中かな……もしかして、怒ってる?」
口元を引き結んで考えるが答えは出ない。このまま待っていても仕方ないので、勇利は先に準備を進めることにした。ヴィクトルには合鍵を渡しているので、問題はないだろう。
「……『デート楽しみにしてる』……」
『恋人』からのメッセージを読み返しながら、青年はそっと微笑んだ。
師弟関係を経て恋人同士となった二人が、初めて身体を重ねたのはつい最近のこと。コーチとしてのヴィクトルは厳しいけど、恋人としてのヴィクトルは、勇利が不安になるほどに勇利を甘やかしてくる。その気遣いがどことなくくすぐったい。
「早くシャワー浴びよう」
生まれて初めて出来た恋人の、優しい声とまなざしを思い出しながら、シャワーを浴びる準備を終えた勇利が廊下に出た、まさにその瞬間であった――玄関の鍵がガチャガチャと騒がしい音を立て、勢いよく扉が開かれたのは。
「――ユウリ、」
「びくとる……?!」
眩しい光の中には、恋人であるヴィクトル・ニキフォロフが立っていた。急いで走って来たのだろうか、前髪は乱れ、大きく息を弾ませている。低い声で男は言った。
「――ユウリ。メール見たんだけど、本当に『良いの』?」
「えっ……?」
事情も分からぬまま、家の中に入ってきたヴィクトルによって、静かに壁際に追い詰められてしまう勇利。両腕で退路を塞がれる。見下された男の双眸がやけに鋭い。
「あの……えっと、『良い』って、何の話?」
恋人の迫力に動揺した青年は、腕の中のバスタオルをぎゅっと抱きしめながら、言った。
「これから『シャワー浴びる』って、ユウリが言ってたから」
「あっ、これは。昨日、寝落ちしちゃって、まだ出かける準備が――」
「寝落ち……?」
ヴィクトルのはっとしたような顔を見て、勇利は気が付いた――『良いの?』という同意を得るような恋人の言葉。シャワーを浴びるという自分のメール。二人で一緒にシャワーを浴びたのは、初めての夜のこと――
恋人との非日常的な情事を思い出した勇利の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。ヴィクトルへと送ったメールは、意図せずまるで夜を誘うような言葉になってしまっていたのだ。あまりの羞恥心から、必死になって首を振る勇利。
「あのっ、ごめん……!あのメールは『そういう意味』じゃなくて…! 紛らわしいこと言っちゃってごめん…!」
「――そう、だよね」
青年の弁明を聞いたヴィクトルは、少しだけほっとしたような、けれど少しだけ寂しげな様子で口を開いた。
「おれこそ、変なこと言ってごめんね。シャワー浴びてくるんだよね? 待ってる。ゆっくり準備しておいで」
そう言って、両腕の檻から勇利を開放する。陰っていた視界が戻る。はりつめていたアイスブルーの眼差しがやさしく細められる。
自分の側からゆっくりと離れていく体温を、その時勇利は、素直に寂しく思った。そして気付いた時にはもう、青年の指先はヴィクトルの腕をそっと掴んでいたのだ。
「……い、『いいよ』、びくとる」
「ユウリ……?」
「『そういう意味』じゃなかったけど、いい、よ。ヴィクトルが、もし嫌じゃなかったらだけど」
驚いたように見開かれた男の瞳を覗き込む、とろりとした勇利のアーモンド色の瞳。――つまりこれは、『二度目の夜のお誘い』である。
青年の真意を理解したヴィクトルは、困ったように笑いながら、それでも嬉しそうに目を細めた。勇利の身体をそっと抱きしめる。なめらかな頬がさらりと触れ合う。耳元で囁かれる甘い声。
「おれがYES以外の返事すること、ある?」
かすかに触れる吐息がくすぐったくて、勇利は小さく笑ってしまった。
「ない」
それは、合意の合図だった。ヴィクトルからさり気なく肩を抱かれて、シャワールームへ招かれようとしている。自分の家の中だというのに、既に主導権は男のものだ。
「ユウリから誘ってくれるなんて嬉しいな」
ヴィクトルのそんな台詞に、初めての夜の熱情を思い出した勇利は、せめても願うように言った。
「ま、まだ慣れてないから……ゆっくりだよ」
「……優しくする」
そう言って、ふわりと年上の恋人は微笑んだ。