勝手な遠慮「なあエマ」
明らかとまではいかないものの、うっすらと日焼けしたエマの手の甲に目をやり、グランは僅かに口元を緩める。エマが(半分業務のようなものだったと聞いてはいるが)羽を伸ばせたであろうと安堵するとともに、自身の中で薄暗い淀みが渦巻いていることに気付き、そっと意識から追いやった。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
「コーヒーでもいれようか?」
エマがグランを見る時はたいてい見上げられる形になるのだが、今はグランだけが椅子に腰掛けているからそうではない。そのため少し心配そうに見つめてくる瞳がいつもより近く、その澄んだ輝きに気圧されてしまう。思わず一瞬目線を逸らし、その先には自らが描いた生き絵があった。描いていたのは花のはずなのに、何故か目が合った気がして息が詰まる。
「ああ、助かる。そろそろこちらも切り上げるかな」
声色が強張らないよう、息を意識して吐き出す。練習という名目で描いた黄色い薔薇が静かに訴えてくるのは自らの淀みか。何気なしに選んでしまった題材だが、無意識のうちに感情を発露させてしまっていることに気付き、エマが絵とそれが持つ意味に気付かないことを祈る。幸いなことにエマは絵に目線を向けることなく、そのままキッチンへ向かってくれた。
前職での経験から感情を御することは意識せずにできると思っていたが、どうやら違ったようだ。当時は単に感情が麻痺していただけだったのだろう。ただ、最近はエマのこととなると、月渡りに関する出来事以上に感情の振れ幅が大きくなっている気がする。これはエマに気付かれたくないものだ。
「グラン、ミルクとお砂糖はどうする?」
「そうだな、たまには両方いただくとするかな」
珍しいね、と言いながらエマが運んできたのはコーヒーと、グランが目にしたことのないドライフルーツ。
「ヨカ島で見つけたんだけど、人気だったのかみんなの分まで無かったの。だからグランにだけお裾分け」
単純だが、自分にだけ分けてくれたという事実に心が弾む。たまたまこの場に自分がいたからで、他の誰かがいたらその誰かにだけ分けられたのかもしれないとは考えないことにした。そうでもしないと淀みに嵌って抜け出せなくなりそうだ。
エマが出してくれたドライフルーツは生で食べると酸味が強いが悪酔いしない果物だというので身構えたものの、干されたことで甘味の方が増しているのか、思ったよりも食べやすかった。
「悪酔いしないというならルージュに渡せばよかったかもな」
「ルージュさん、すれ違ってしまいがちで中々渡す機会がなくて」
「それは放浪してるあいつが悪いな」
「ふふ、そうかも。でもグランに一番食べてほしかったからよかった」
エマがグランを見て安堵するように微笑む。今はソファに隣同士で腰掛けているから表情がやや見えにくく、機敏も読み辛い。でも、エマのこの発言からするに、少なくとも月渡りの中では自分が少しだけ特別だと自惚れてもいいだろうか。
「そういえば、さっき少し顔色が悪そうだったけど大丈夫?」
ふいにエマがグランの顔を覗き込んできた。またも心配そうな表情を見せられ、グランは何だか申し訳ない気持ちになる。別に体調が悪いわけではなく、ただ自らの淀みがどこからか滲み出しているだけだ。
「心配させてすまない、特に問題ないな」
「……それならいいんだけど。グランは色々溜め込みがちだから気になるよ」
「月渡りの書類仕事は溜めていないが?」
「それはギルドキーパーとして一番分かっているつもりだけど、そうじゃなくて」
あえて茶化すようにはぐらかしてみたが、エマには通じなかったらしい。唇をきゅ、という音が聞こえそうなくらい真一文字に結ぶエマに申し訳なさを覚える。グランがただ自らの感情を制御しきれていないのが原因なのだから。
「正直、もやもやしたからだろうな」
「え?」
「お前が情熱大海とやらのギルド支援に行って、そのまま一緒に過ごしていたことにな」
別にエマ、お前が悪いわけではないぞと付け加えてからコーヒーに口をつける。エマが添えてくれたミルクと砂糖はまだ入れておらず、柔らかい苦味が口内を満たす。
「お前の夢も分かってはいるつもりだが」
以前、エマが話してくれた夢を思うと、こんな自分勝手な思いをぶつけて彼女を縛りたくない。縛りたくはないのだが、抑えられない。
「月渡りの、俺達だけのギルドキーパーだと言って独り占めしたくなる」
かろうじて月渡りの、と付け加えたが、本当なら自分だけを見てほしいとすら思ってしまう。そのままエマを後ろから抱きしめたい衝動に駆られたが、隣同士で座っていることですぐには動けず、少しだけ頭を冷やす間ができた。抱きしめるかわりにエマの頭にそっと手をのせ、柔らかい髪を梳かすように撫でる。自分のものとは違う優しい手触りが、さらに心を落ち着かせてくれるような気がする。
「私はね」
そのまま暫くゆるゆると頭を撫でていると、為されるがままだったエマが小さく口を開いた。
「グランと一緒だったらもっと楽しいかも、ってずっと思ってた」
──プールも、遊園地も、海も。情熱大海のみんなや知り合いの華火師と一緒で楽しかったけど、この場にグランがいたらなって思ったよ。今、何をしているのかなって部屋で仕事をしながら考えていたの。でも子どもみたいで、グランを困らせるかなって。
エマは不安気な表情でグランを見る。困るなんて、そんなことがあるはずない。グランの奥底で溜まっていた淀みが、静かに流れ出していく気配を感じた。
「……すまない」
そのまま謝罪の言葉が口を衝く。
「何が?」
「お前の気持ちも考えず、勝手に考え込んで勝手に嫉妬していた」
「私もグランに、気持ちをそのまま伝えておけばよかった」
エマがヨカ島にいる時、グランにキーパーズボードで連絡はしていたが、それはあくまで月渡りに関する業務連絡だけだったのだ。
「お互い様か」
「うん、そうだね」
グランはソファに身体を預けたまま、隣にいるエマをそっと抱き寄せた。エマはさも当然と言わんばかりに身を委ねる。他の面々は確か少なくとも夕方までは月渡りとして請けた仕事や予定があったはずだ。少しくらいエマを独り占めしていても誰も咎めることはない。
「そういえばさっき描いていた絵、よく見ていなかったんだけど何を描いていたの?」
「ただの練習だから気にしなくていいさ。後で片付ける」
あれはエマにわざわざ見せるような絵ではない。自らの心身から淀みが完全に流れ出ていったことを心の片隅で感じながら、グランは先程エマがくれたドライフルーツを口に運ぶ。最初に食べたそれよりも、甘味が増しているような気がした。
「お土産のお返しだ」
「……?」
グランは抱き寄せていない手でそっとエマの髪の毛を掬い、割れ物へ触れるように唇を落とした。