波の音海に来たのは気まぐれだった。いつものヴォックスの浮気。本気じゃないことは分かってる。かと言って、自分以外の人を口説く恋人を見て楽しい気分じゃなくなるのも事実。ヴォックスが来ないようなどこかに行ってしまいたくなって、俺がいないことに気づいたヴォックスが困ればいいなと思って、ミスタは電車に飛び乗り、気づいたら海にいた。
ただ海岸線を眺める。きっとヴォックスの1番はKindred だろう。それはいい。ミスタもMystakesは大事だ。そして次にLuxiemの皆。それに関しても、ミスタも同じだ。彼らは愛すべき、家族で友人だ。でもきっとヴォックスは、愛が多い人なのだ。その次の恋人であるミスタにだけでは、愛が余る。だから自分以外にも、愛を囁く。太陽が海面に反射して煌めく。美しい光景とは相反して、自分の気持ちはどんどんと海底に沈んでいく岩のように暗く深くなっていく。泣きそうになって、顔を膝に埋める。自分が、ヴォックスの愛を全て受け止められるような強い人間であったならいいのに。彼からもたらされる愛は、甘く麻薬のように依存させてくる。戯れのようにもたらされる愛ですら、そうなのだ。きっと、本気の愛は受け止めきれず自滅するのが分かる。なら彼が他にも愛をもたらす相手がいるのを許すべきだ。でも、それもできない。相反する気持ちに苛まれ、言葉にすることのできないモヤモヤとした気持ちを抱える。近くにあった石を、とりあえず投げてみる。ぽちゃんという音が耳に心地いい。少し気持ちが上を向いたので、靴を脱いで素足を曝け出す。ズボンの裾を捲り上げ、足をつける。ひんやりとした水温が心地よく、ぱしゃぱしゃと音を立てる。そう言えば、彼から連絡は来ているのだろうか。今日はディナーを共にする約束をしていた。早めに会って買い物もする予定で、待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。近くの岩場に腰かけ海に足をつけながら、スマホを取り出す。すると、そこにはおびただしい数の着信とメッセージの通知が来ていた。
“寝坊かな、my son？”
“体調でも悪いのかい？”
“家に行ったのにいないじゃないか、どこにいる”
“何か事件に巻き込まれていないだろうね？”
“とりあえず電話に出てくれ”
“ミスタ、今どこにいる”
最初は余裕を感じられるメッセージだったのに、どんどん焦っていくのが分かる。ああまだ愛されているんだなと、安心する自分にため息が出る。通知だけ見るつもりだったのに、間違ってタップしてしまい既読をつけてしまう。途端にかかってくる、ヴォックスからの電話。1度は無視するが、既読をつけたのはわかっているぞ、電話に出ろというメッセージに屈して恐る恐る電話に出る。
「どこにいるんだ、ミスタ！心配したぞ！」
「ああ、うん、そうだね」
開始早々声を荒げるヴォックスに対して、俺は何て返せばいいのか分からず、曖昧な返事しかできない。俺の様子が普段とは違うのが分かったのか、黙り込むヴォックス。しーんとした時間が流れ、俺は会話の切り口を見つけられずにいた。
「…海にいるのか」
「えっ？」
唐突に切り出されたヴォックスの言葉に、戸惑いを隠せない。確かに海にいるが、なんで分かったのだろう。
「波の音がする。家から近い海といえば、〇〇か？」
「ああ、そうだね…」
「そこであったかくして、じっとしていろ。近くにカフェがあるなら、そこで待っててもいい。電話には出ろよ」
そう言うとヴォックスは電話を切った。え、迎えに来るってこと？まじ？近くとはいえ、俺たちの家からは割と遠い。迎えに来てくれることに喜びを感じる。あったかくしてと言われたが、今のところ寒さは感じないし海に浸けている足も冷たく気持ちが良い。今のところはとりあえずこのまま待つかと思い、俺は海岸線を眺めていた。

「ミスタ！！」
どれくらい時間が経ったか分からないが、すっかり太陽は西に傾き綺麗な夕焼けが辺りを照らしていた。声のした方を振り向くと、焦った様子のヴォックスが立っていた。
「ヴォックス…」
「あったかくしろと言っただろ！なんで海に足をつけているんだ！」
「冷たくて気持ちいいよ？」
「冷え切ってるじゃないか！全く！」
ヴォックスは海につけていた俺の足を引き上げると、手にしていたタオルで拭い始める。
「海の近くにいるからもしかしてと思って、タオルを持ってきたのが正解だったな」
「別に大丈夫なのに」
「それより、俺との約束を破ってまで海に来た理由は？」
真剣なヴォックスの瞳に、嘘をつけないことを悟る。
「今日の女の人、美人だったね」
そう自分とは違い、綺麗な金髪で胸も豊満な女性。きっとヴォックスにはああいう女性がお似合いだ。
「おれのことあきた？」
泣くつもりはないのに、声が震えてしまう。ヴォックスの方を見ることができなくて、膝に顔を埋める。飽きてる訳じゃないのはわかってる。飽きてるなら俺のことを探しになんて来ないから。いや、来るかもしれない。ヴォックスは面倒見が良くて愛情深いやつだ。一度愛したやつに対しては、優しいのかも。黙り込むヴォックスに、俺は想像を膨らませぐるぐると考え込む。涙が出てきそうになるのを必死に抑えて、鼻をすする。
「お前はなぜ嫉妬ではなく、飽きたという感想になり俺を捨てようとする」
ヴォックスの言葉に時が止まる。嫉妬？俺なんかがヴォックスに対して？
「ヴォックスは俺に嫉妬して欲しかったの？」
「嫉妬して欲しかったは少し違うな。お前は俺のもので、俺はお前のものだと言う自覚を持って欲しかった。そのために彼女を利用したのは悪いと思っているが」
俺がヴォックスのものなのはそうだけど、ヴォックスが俺のもの？
「俺なんかがヴォックスを独占していいわけないじゃん」
「いや、お前でなければダメだな。400年生きた鬼の俺を、ここまで強欲に、感情豊かにさせた責任はとって貰わなければ」
真剣な顔をして、なんだか情けないことを言うヴォックスに涙は引っ込み、代わりに笑いがこみ上げてくる。
「俺じゃなきゃダメなんだ、ダディ？」
「ああそうだ。だから、お前ももっと俺に対して強欲になれ」
強欲になれ、その言葉は俺にとってはとても難しい。でも、こんなにかっこいいのに、俺の目を見ながら真剣に情けないところを晒すヴォックスに答えるのもいいのかもしれない。ヴォックスをぎゅっと抱きしめて、彼の耳元で囁く。
「俺以外に愛を囁かないで何て言えないからさ、代わりに誰よりも1番多く俺に愛を囁いて」
「ああ、もちろん。ミスタ、愛してるよ」
ヴォックスの魅惑的な声から紡がれる、愛の言葉は俺の体に染み渡る。波の音と共に、世界に2人だけになったような気持ちになりながら、ヴォックスの愛に溺れるのは心地よかった。