未完成「ごめん」
伝えたい相手がいない部屋に向かって、1人呟く。しんと静まった空間に俺の言葉だけが響いて、それが妙に哀しさを呼び寄せた。
“俺がこう思う資格なんて無いのにな”
センチメンタルになっている自分に乾いた笑いが出る。このままこの部屋にいたらせっかくついた決心も揺らぎそうだと思い、振り切るように荷物を持って部屋を出た。
「俺のことは忘れて、生きて」
それが俺のたった1つの望みだから。
ヴォックスから離れようと思ったのは、自分の中に到底抱いてはいけない所有欲と独占欲があることに気づいたからだ。物や人に対しての欲求は弱い方だと思っていたのに。
「ミスタ」
俺のことを呼ぶヴォックスの声が好きだ。
「好きだ」
愛を伝えてくる時の、蕩けるような黄金の瞳が好きだ。
「いい子だ」
褒めてくれる時の優しく頭を撫でる手が好きだ。
それが自分以外の誰かに向けられている時、自分の中で激しく燃え上がる激情に気づいた。俺は俺が怖くなった。
”このままじゃ自分を抑えられなくなる“
ヴォックスを縛り付けることも、他の誰かを傷つけることもしたくはない。
「いっそ俺の存在ごと、世界から消えられたらいいのに」
でもそんな事はできないから。だから俺は、ヴォックスの前から消えることを決めた。
必要最低限の荷物だけを持って、家の鍵とヴォックスが贈ってくれた揃いの指輪と手紙を置いて、俺はヴォックスの元から去る。愛する人との別れなんて辛いことのはずなのに、涙は1滴も出ない。ヴォックスは泣いてくれるかな。
「愛してるよ」
愛してるからこそ、俺はお前を捨てるべきなんだ。
“何処にいても、俺はお前を愛してる”
***
帰宅した時、家にいるはずの恋人の出迎える声が聞こえないことに何故だか異様に焦りを覚えた。急いで扉を開けてリビングに向かうと、机の上に何かが置いてあるのが目に入った。そっと机に近づけば、自身の左の薬指にはまっているものと揃いの指輪と鍵、1通の手紙が置いてあった。震える手で、手紙をひらけば癖のある見覚えのある字が並んでいた。
ヴォックスへ
ごめんね。何も言わずに消えて。
誤解のないように言いたいんだけど、お前が悪いわけじゃないんだ。
俺が弱いから、俺が誰かを傷つける前に、お前を縛り付けてしまう前に。
俺はお前の前から消えなくちゃいけないんだ。
ずっと一緒だよって言ったのにね。嘘つきって怒ってもいいよ。
俺のことをもう思い出さなくてもいい。むしろ忘れて欲しい。
俺の願いはお前が幸せになることだから。
傷つけることしかできない俺が、お前を愛しちゃってごめんね。
もう自由だから、もっといいやつと付き合ってよ。
ミスタ
「馬鹿だ。ミスタ、お前は特大の馬鹿だ」
ポタポタとこぼれ落ちる涙が手紙に落ちて、文字が滲んでいく。それを見つめながら自分の目の前から消えた恋人に対して、恨みごとを呟かずにはいられなかった。忘れることなんて出来るわけないのに。お前と共にいられたことで、長年の寂しさを埋めることが出来たのに。
「馬鹿なのは俺もか」
愛する恋人が悩んでいることにも気づけなかった。ミスタに不安定なところがあるのも、自己肯定感が極端に低いことも知っていたのに。
「俺がお前を追い込んだ」
愛してごめんは自分が言うべき言葉だ。楽しかったから浮かれていた。ミスタと過ごす日々は眩しいくらいの楽しさに満ちていたから。
「無責任に愛してごめん」
謝罪はミスタに届かない。