おそろいマグカップ「類、これどう思う?」
次のショーのための買い出しのついで、司くんが買いたいものがあると言ってふらりと立ち寄った雑貨店。あまりひとりで入ることのないその空間でのんびり店内をぶらついていたところで、駆け寄ってきた司くんに差し出されたのはちょっと大きめサイズのマグカップだった。薄い紫色でシンプルなデザイン。品としては良いものなんだろうとは思ったけれど、それが差し出されることについてはどういう意味か分かりかねて受け取るよりも先に小首を傾げる。と、流石に説明不足を理解していたらしい司くんが言葉を続けてくれた。
「お前、あの部屋での水分補給の手段を言ってみろ」
「……主に買い込んだペットボトルだね。母家にわざわざ飲み物を取りに行くのも面倒だし」
「そうだ! そしてお前の部屋に行くたびにオレは大量のペットボトルを片付けている。ペットボトル圧縮機を作ってくれたのはいいがなんだかんだ自分ではあまり使っていないだろう」
「うーん、袋から溢れ出てきたらそろそろかな、とは思ってやっているけれど」
「あのデカい袋からペットボトルが溢れることがそうあってたまるか! 効率重視なのもいいが、冬は冷えるのもあって温かい飲み物を自室で飲めるようにしていても良いんじゃないかと思ってな。ペットボトル代も馬鹿にならないだろうし……せっかく部屋に水道があるんだ。わざわざ移動しなくてもいいならお前でも習慣づけられるんじゃないか」
どうだ、とさらにずずいと差し出されたマグカップをそのまま受け取る。随分手に馴染むが、これを使うことが自分にとっての当たり前になるかどうかは正直答えづらかった。司くんにバレたら怒られるから内緒なのだが、今のようにアルバイトやゲリラショーで安定した収入を得られるようになる前、それこそ中学生だった頃は作業に没頭するあまり脱水症状を起こしかけたことが片手では足りないくらいにあった。それを見かねて両親が部屋の前に水分を置いてくれる様になって、バイト代が入る様になったら親に出させるのも申し訳なくて自分で買うようになったが、それでも面倒臭くて結構忘れてしまうことがある。そんな自分がこのマグカップをつかって作業中にほっと一息つく習慣がつくか──申し訳ないが、かなり難しいと思ってしまう。
「……気に入らないか?」
でも、珍しくちょっと控えめにこちらを伺ってくる司くんの姿にそんな結論を伝えることも相当に困難なことであるように思えた。絶対こうしたほうがいい、みたいに強めに言ってくれさえすれば多少我儘になったとしてもノーということは出来るのだが、こうもこちらを伺うように提案されるとついついぐっと言葉に詰まってしまうのだ。多分、司くんはゴミの処分もそうだが出来るだけちゃんと休憩を取らせるためもあってこういう提案をしているのだろう。この前だって作業に没頭しすぎて徹夜してしまったことを怒られたばかりだし、そこまで彼の心配を理解しながら断るというのも申し訳ない。
……仕方ない、これは折れたほうが良さそうだ。
「まぁ、試してみるのも良いかもしれないね」
「! そうか!」
惚れた弱み、というのは絶対に口に出せないが(口に出したらちょっとドヤ顔で照れられそうでそれは見てみたい気もするけれど流石に恥ずかしさが勝つ)、他の人からならば絶対に受け入れられなかった提案を了承してしまった自分によくもまぁここまで変わったものだと自分でもちょっと感心してしまった。でも、答えを伝えた瞬間の嬉しそうな司くんの姿を見たらこれ以外の返答はあり得なかったな、なんて風にも思う。
そうだ、別にちょっと面倒臭いくらいでこちらにデメリットがあるようなものでもないのだ。ペットボトルを買うことを一気にストップするのではなくたまに温かい飲み物を淹れるくらいならば何とかなりそうだし、カフェイン摂取のためにコーヒーを淹れるのもいいし……、とか誰も聞いていないのに心の中で言い訳をしながら嬉しそうな司くんをぼんやり眺めていると、そのままマグカップを渡してくるのだろうと思われた彼はその手にマグカップを持ったままくるりと踵を返した。思わずその肩を掴む。
「ちょ、司くん? 僕は君が選んでくれたマグカップが良いんだけど」
もしかしてここまでしておいてじゃあ自分で好きなのを選べなんて展開になるのではと焦って声をかけると、司くんは肩越しに振り返ってにかりとわらった。
「安心しろ、これはオレからのプレゼントだ」
「え? ……いや待って。別に誕生日でも何でもないのに買ってもらうのは」
予想外の提案につい戸惑ってしまうとそれが気に食わなかったのか司くんは眉間に皺を寄せてむっとしながら横目で睨みつけてくる。いや、でも買わせるのは申し訳なさすぎるからやっぱり自分で、と続けようとしたところで、ぽつりと、普段の彼からは考えつかないくらいの声が聞こえてきた。
「何でもないわけではない」
「え」
「……オレたちが付き合いだした記念のプレゼントだ。だから何でもないわけではない」
ぎゅん、心臓が掴まれた音がした。よくみると彼の耳は赤く染まっていて、睨みつけられたのも機嫌が悪いのではなく単にバツが悪いのと照れ隠しだったのだということを一気に理解する。なんて、なんてことだ。とりあえず先ほど面倒だからと断ることをしなかった自分を今は手放しで褒めておくことにする。よくやった、ナイスだ僕。
ただ、あまりにもぐっときて言葉に詰まったせいで何とも言えない沈黙が生まれてしまった。司くんはすっかり静かになってしまったし、この状況を引き起こした張本人として何とかこの場を収めたい。話題を逸らすではない形でうまく答えを返すことが出来ないものかとウロウロ視線を彷徨わせて……ぴたり、と。視線の先に今求めているものにぴったりの品を見つけた。
「……司くん、ありがとう。君の気持ちがとても嬉しいよ」
「そうか、ならばこの手を離してくれ。ちょっと買ってくるから」
「でも、君に贈られるだけではお付き合いの記念としては足りないんじゃないかな? だから、さ。僕からはあれを贈らせてもらおうと思う」
そう言って指差した先には、司くんの手に握られているものと全く同じ形の、色だけがパステルイエローのマグカップ。
「僕の部屋にいっしょに並べておいたらどうかな。そうしたら僕もちゃんと意識して水分をとることも出来そうだし、君が来てくれた時にお茶も出せるようになると思うんだ」
ふ、肩に置いた手からその強張りが解けていったのを感じる。よかった、これで正解だったようだ。司くんの眉間の皺はすっかりなだらかになっていた。でも相変わらず、というかさっきよりも耳が赤い。
「……オレが行った時にホコリをかぶっている様だと許さんぞ」
「もちろん、ちゃんと手入れもするさ。でもそうなる前に僕の部屋に遊びに来てくれるだろう?」
数秒だけ空白があった。が、その前の返答でもう勝利は確信していたから、肩を掴んでいた手を離して棚にきちんと並んでいた色違いのマグカップをお迎えに行く。しっかりそれを手に握りしめて未だ止まったままだった彼の隣に並べば、ちらりとなんとも言えない視線がこちらに向いてきた後に、でも何も言わずにそのままふいと逸らされた。これは了承のしるしである。その証拠に、レジに向かって歩き出せば同じ歩調で彼もいっしょにレジに向かってくれたのだから。
こうして僕の部屋には、ふたつのマグカップが並ぶことになった。このマグカップのおかげで随分お茶を淹れるのが上手くなったし、結果としてこの部屋で人をもてなすなんて事ができるようになるのだが、それはまた未来の話である。