地獄への伴い人 ぎ、ぎぃ、と床の軋む音が聞こえ目が覚める。日がな一日、何をするでもなく床で寝るばかりの身体は重く、上体を起こすのも億劫だ。しかし、ただ寝転んで迎えることを己の矜持が良しとしない。
思うように動いてはくれない脚を無理矢理動かし、なんとか身を起こして布団の上に座す。ぎぃ、ぎっ、ぎ、と一定の間隔で響く音を耳にしながら、ただ静かに座して待つ。そのうちに、床を踏む音は部屋の前で止まり、一息吐く間も無く襖が静かに開かれた。
「おかえりなさいませ、音之進様」
深々と頭を下げながらそう告げれば、足音の主は静かに部屋へと入ってくる。自身の目の前まで足が来たのを見ると、その主は声を掛けた。
「……面を上げろ」
言葉の指示通りに顔を上げ、眼前に立つ人物を見上げる。顔を見やる暇もなく、目の前の男に抱きつかれた。
「今帰ったぞぉ、基」
「……はい」
ぐりぐりと頭を擦り付けるように首筋へと顔を埋める男の背を、月島は優しく撫ぜる。駄々っ子のように甘えてくる男を、母の様な気持ちで宥めていると、不意に男が覆いかぶさってくる。そのまま、息すらをも奪うような口付けをされながら押し倒される。舌を嬲られ、唇を食まれ、吸われ、その後は、一方的で抗い難く、抵抗を諦める程度にはしつこい愛撫を受け入れるのだ。そして、そのまま身体を朝まで暴かれる。それが、何年も続いた慣習だった。
「はじめぇ」
初めて、この上官に名だけを呼ばれた事を思い出す。いつも月島、月島と己ではあるが個人ではない名を呼ばれ続けていたので、どうにも気恥ずかしく、それでいて違和感が拭えなかったのを今でも覚えている。
「ふふ、これでもう、何処にも行けんなぁ……」
そう言って血に濡れた軍刀を投げ出し、腱を断ち切られた月島の足を愛おしげに撫でたのが最初だった。苦楽を共にし、運命を互いに乗り越えた無二の相手だという気持ちは月島にもあった。だが、この上官が、これ程までに自分を求めていたのだということはわからなかった。
思えば、確かに自分をそういう目で見ていた気もするし、熱の篭った声音で呼ばれたことも何度もあった。だがそれは気の所為で、若気の至りの延長の様なものだろうと無碍にしていた。それが間違いだったのだと気が付くのは、何もかもが随分と手遅れになってからだった。
任期を満了し、暇を乞うた日に鯉登の邸宅へと招かれ、二人きりの酒宴の最中前触れもなく床へ転がされた後、何をと問う前に月島の足は切られていたのだ。血走った目で、うっそりとした表情で、愛おしげに名を呼ぶものだから痛みや恐怖なぞよりも不甲斐なさの方が勝ってしまった。
右腕として支え続け、胸襟を開いて接し続けたつもりだった。だが、目の前の男にはそれだけでは到底足りなかったようで、その欲深さを理解しきれなかった己が歯痒かった。
「もうお前は、何処にも行けない。故郷にも行けず、あの方の元にも行かせない。私の、私だけの月島基なのだ……」
そう言って、初めて口付けを交わされた。乾いた唇を潤すように、何かを乞い求めるように、ただ只管に呼吸を奪われ続ける。
──たかだか、足の腱を切られただけだ。酒のせいで血の巡りが良くなりすぎ、溢れ出る血潮が畳をしとどに濡らすが、意識を失うほどでもなく。前線を疾うに退いた身とは言え、これしきの怪我で動けぬわけもなく。だが。
だが、これは──甘んじて受け入れるべきものなのだ。かつての月島であれば、このような愚行を良しとはせず、鉄拳に寄る制裁を躊躇いもなく行っていただろう。けれど、最早自分は国に仕える兵士ではなく、勅令がない限りはただの一市民で、ただの月島基という人間に過ぎないのだ。
「此処におれ、基……ずっと、死ぬまで、死んでも、オイの傍にいると誓え……」
命をも吸い尽くさんとするような接吻の後、真っ直ぐと此方を見て冀う鯉登の姿はとても憐れで、心苦しくなるほどに愛おしかった。薄暗く、どろりと濁った瞳の奥に、それでも消せない強い光が輝いている。この人は、この愛しい人は、ただ自分に寄り添おうとしてくれているだけなのだ──!
そうして、返事の代わりに目の前の柔い唇に口を付けて返す。嬉しそうにそれを受け取ると、童の様に笑っていたのをいつまでも覚えている。
──眩い日差しに、微睡みから浮上する。昨晩の情事の痕を残さぬように清潔にされた、完璧な寝具に横たわっていたのだと手を触れて確認する。
「起きたか、基」
声の方に目を向ければ、温かな食事の乗った御膳を持った鯉登が目に入る。居住まいを正そうとしたが、手で制された。
「良い、そのままでかまわん。昨晩も随分と無理をさせてしまったからなぁ」
そう言って御前を置いて月島の側へと座り込むと、鯉登は膳に乗っていた水の入った吸いさしを持ち自らの口へと含ませる。そして、口に水を含んだまま月島の頬を撫ぜ、甘さを湛えた瞳でじっと見つめる。そのまま、唇が触れ合いそうになったのを月島が待ったを掛けた。
「〜ッング、基ェ!」
「音之進様、再三申し上げているでしょう。効率が悪過ぎます」
月島に口付けを制され、含んだ水を飲み込んで抗議の声を上げれば、何度も聞いたお小言が飛んでくる。
「よろしいですか、貴方が思っているほど私の手足は細くはなく、力もまだまだそれなりにあります。貴方に前後不覚になるほど抱かれた後であっても、それは変わりありません。水くらい自力で飲めます」
「し、しかしだな、はじめぇッ!」
「お黙りなさい!大体ですね、腱を切られたくらいで身の回りのことが何もかも出来なくなるわけなどないのですよ。貴方が手ずから与えずとも飯は食えますし、介助などなくても厠へ行けます。何度も切られているせいで流石に覚束ない事もありますが、それはどうにか根性でなんとかなるものです」
「んなっ、なんたる屈強さ……流石オイの基ぇ……わっぜかっこよか……いや、しかし!わっ、私だって貴様のおはようからおやすみまでずっと見守りたいし、食事も下の世話も全て私の手でやってやりたいし、もう私以外の声を聞かず物を見ず、ただ私だけの為に生きていてほしいだけなのだッ!」
「甘えるなッ!!」
「キェッ」
月島の一喝に、鯉登は肩をすくめて身を縮こめる。青筋を立て、見下ろすような視線を送ってくる月島に、鯉登は室温が体感十度程下がっているような心地がした。
「宜しいですか、貴方はただの音之進ではありません。未来の日の本を背負って立つ将校のお一人、鯉登音之進閣下なのですよ。私のことばかりにかまけているのならば這ってでも佐渡に帰らせていただきますからね」
「キェ!い、いやじゃ基ッ!そんなこと言うな!」
「ではまずは本日の執務を全てこなしてくださいませ。私に触れるのはその全てが終わってからです。サボってもすぐわかりますからね、ハイッ、集中集中!」
かつてのように手を叩いて促せば、鯉登はぐぬぬと歯を噛み締めながら素直に立ち上がり部屋の外へと向かっていく。襖に手を掛け、廊下に足を踏み出しながら振り返り、捨て台詞のように「覚えていろよぉ!」と叫んでから鯉登は姿を消した。来訪した時とは真逆の荒々しい足音を聞きながら、月島はふうと息を吐く。
なんのかんのと思うことはあれど、存外この男はこういう風に愛されるのは吝かではないのであった。ただ、それをそのまま態度に出すのはどうにも憚られる。自らの全てを差し出し、曝け出していても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
鯉登が置いていった朝餉を横目に、月島はふうと身体の力を抜いて再び布団へその身を投げ出す。朝陽に温められた布に身を委ねながら、我が身に堕ちた男の事を想う。地獄への連れ合いとのひと時は、なんと甘美なものなのか。月島は身を縮めると、古傷の上に付けられた新しい傷を撫で、もう一度瞼を閉じて微睡んだ。