美味なるものよ、此処へ ──カラン、カラン。
蛙がゲコゲコと鳴き、鈴虫がリィリィとさざめく。天辺には青白く輝く満月がいて、薄暗闇の世界を照らし続けている。
──カラン、カラン。
小さな生き物たちの声だけが支配する空間に、鉄の筒に木を打ち付ける軽快な音が響き渡る。使われなくなって久しい廃工場のタンクの上に、一人小柄な少年が座って夜空を眺めていた。
何かを待っているような、ただただぼんやりとしているような、どちらとも取れる様子の少年はカランカランと一定のリズムで足に履いた下駄の踵をタンクに打ち付けて鳴らす。
──カラン。
足を動かすのを止めれば、途端に世界の音は自然のものだけになる。ゲコゲコ、リィリィ、さざめく音と、ザァとゆるやかに吹く風が少年の髪を揺らす。それらをジッと肌で感じながら、少年は腕に抱いた桐の箱をするりと撫でた。
「水木、今日はとても綺麗な月夜だよ」
囁くように箱に語りかける。当然、箱が喋るわけないので返事はない。けれど、少年はそんな事は知ったことではないとばかりに声を掛け続ける。
「夜風は少しあたたかくて、窓を開けて寝るのにちょうど良さそうです」
少年の言葉に応えるように、もう一度風が緩やかに吹く。骨壷が入るくらいの大きさの桐の箱を優しく抱え、するりと撫で、時々ぎゅうと抱え込むように腕に力を入れる。頬を寄せて、甘く蕩けそうなほどのやさしい声で、少年は話す。
「覚えていますか、僕がまだ小さな頃、あなたは銭湯の帰り道に遠回りをして川辺に寄ってくれましたよね。蛍が綺麗に見えるンだって……」
淡い緑の光に照らされるかつての養父の姿を思い出し、少年は今一度箱を強く抱きしめる。月の光は木々の隙間から川を照らしていて、白と緑ふたつの光に照らされて微笑む養父は、それはそれは美しかった。
「可愛いナァ、なんて、あなたが指に止まった蛍に言うもんですから、僕は嫉妬で狂っちまいそうでした。僕以外に優しく笑わないでって……ふふ、恥ずかしいな」
小さな独占欲に駆られて、養父の指に止まった蛍を長い舌で捕らえてむしゃりと食べてやったら、大慌てで吐き出させようとしたのを思い出して、また笑う。思い出話は尽きない。いくらでも、いつまでも話していられる。それだけ、長く、そして濃い、密度の高い時間を共にしていたのだ。
「水木……」
おとうさん、と呼ぶのが恥ずかしくて、実父を真似して呼ぶようになった名を音に乗せる。ずっとずっと、いつまでも呼んでいたい、特別な名前を噛み締める。
「早くあなたをここから出してあげたい」
桐の箱をゆるりと撫で、愛しいものへ触れるようにそっと口づける。ぬくもりも何もない、ただの木の感触だけが唇に伝わった。
大事に大事に育てていたものを、見も知らぬ者どもに奪われてから早数ヶ月。父とふたり、西へ東へと駆けて駆けて駆けずり回って、わずかな情報と匂いを辿る日々だった。そうして見つけた不届者たちを、言い聞かせ、説得し、仕方なしに懲らしめ、腹を開いてはせっせと中身を選別してかき集める。
ドロリと溶けかけた肉たちではあったが、親しんだ匂いは強く香るので問題なかった。むしろ、取り出した後の方が大変だったのだ。
初めは手頃な瓶に詰めた。中身は見えるが、あまりにも見えすぎてしまう。
「水木はちと恥ずかしがるかもしれんのう……」
ううむと口を尖らせて父が言うので、透明なものはやめておこうということになった。次に、外から見えずに尚且つ運びやすいもの、という事で金属製の缶缶箱に詰めてみた。アルミで出来たそれは軽くて丈夫ではあるが、あまりに無機質すぎて心配になってしまった。
「あれじゃの、なんか、水木の弁当箱みたいじゃな」
そんな父の発言を聞いては、なんだかそうとしか見えなくなってしまったのでそれもやめた。壺は割れるし、紙は論外、網籠は漏れるし、布は不衛生。うんうんとふたりで悩み、相談して考えた結果、上等な桐箱に入れることになった。
「桐は良い。虫はつかぬし、湿気に強く、軽く柔らかく、腐りにくい」
元より養父の肉は早々腐らぬが、それでも万が一、ということもなくはない。知り合いに金具と紐を付けてもらい、背負えるように加工してもらったのでいつでもどこでも連れて行ける、その上両手が空くので大変便利になった。
箱には特殊な封がしてあり、必要な時以外は開かないようになっている。中に入れられた肉は、少しずつ分け与えた血の効果でゆっくりと元の形に戻っていくだろうとの事だった。
「しかし、まあ、肉と骨が集まればすぐに妖怪病院で治してもらえる。我らの時間は長いが、それだけあやつに会えぬのも、の……寂しいではないか」
そう言って父は頭を撫でてきた。柔らかな髪が、大きな手の指に絡んでするりと抜けていくのを感じる。子供扱いしないでほしいとは思うが、きっと父も自身の寂しさをこうやって慰めているのだと思うと無碍にはできなかった。
寂しい、そしてとても悲しい。いつか来るだろう別れなど、とても許容出来るものではなかった。だから、父を説得し養父を迎え入れる準備を手伝ってもらっていたのだ。生き物の運命を弄んではならないと、いつもの父であれば言っていただろう。けれど、連れ合いを喪い、唯一無二の友まで失くすというのは、心やさしく寂しがりやな父には酷く辛い現実だったのは確かだ。
もうあと十年もすれば、晴れてこちらの仲間入り、というところで養父は食い散らかされた。その上、魂もどこかへひゅるりと逃げていってしまった。間に合わなかったその時のことを思い出して、はあ、とうんざりした溜息が漏れる。もっと警戒すべきだったのに、と何度となくした反省を繰り返す。
肉よりも早く見つかるだろうと思っていたが、何故だかその魂もどこかへ消え失せた。父曰く、「地獄にも見当たらない」とのことで、一体何処を如何彷徨っているのか皆目見当もつかないのが現状である。魂とは別に、肉体にも記憶は宿る。魂がなくとも肉は形になるが、明確で明瞭なものではないし、不定型で不安定なものになるだろう。完全なものにするには、己が求める形にするには、やはり魂は必須なのだ。
「……まどろっこしいことしなけりゃ良かったかな」
ヒトを理から外すのは案外簡単だ、そういうのが得意な妖怪もそれなりにいる。方法を選ばなければ即日お仲間、ようこそお化けの世界へ、となるわけだ。けれど、やはり、自分にとっての最善策はアレだったのだとも思う。
自分で選んだのだ。世界が出会いを肯定していたのだ。共に歩み、連れあうならば彼しかいないのだ。ふたりのそれが運命なのであれば、己の力でなんとかしたいと思うのが男というものである。しかし、如何せん未熟な身であるものだから、多少の援助は求めても良いものとする、この場合は実父である。
時間はかかるし、本人の意思確認は事後承諾になるが、逃げられぬ所まで追い詰めて囲って仕舞えば養父はきっと怒った後に「仕方ねぇなぁ」と笑って受け入れてくれる。もしかしたら受け入れ難くて少し離れていくかもしれないが、結局彼は息子のことが一等大事なので戻ってくるのだろう。考えうる行動の一つ一つが簡単に想像できて、小さく笑いが溢れた。肩を振るわせる動きに合わせて、桐箱の中身が静かに蠢く。それが、まるで彼が返事をしてくれたように感じて少しばかり嬉しくなる。
「……時々。本当に時々ですよ? このままの姿ならずっと、何処までも、何時までも、一緒にいられるなァって思うンです。でも」
目を閉じると、瞼の裏側に見えるのはかつての美しい日々の記憶たちだ。父がいて、養父がいて、滅多に会えぬが母もいて、祖母とも呼べる養父の母がいて……眩しくて、美しくて、優しくて、大事な記憶たち。その中でもやはり、一等光輝く眩いものが、彼だった。
愛しているのだ、彼を。誰よりも、何よりも、彼を一番に愛している。だから、何一つとて手放すことなど出来はしないのだ。
あたたかな身体を覚えている。抱きかかえてくれた腕も、頭を撫でた手も、肩に乗せられた時に見えたつむじの位置も、自分と比べた足跡も、微笑む顔も。
──鬼太郎。
名前を呼ぶ、その声も。何もかもを覚えている。
「僕はもう一度……いいえ、何度だってあなたと手を繋ぎたい」
胸に耳を当てて鼓動を感じたいし、耳に唇を寄せて愛を囁きたいし、照れてはにかむ笑顔が見たい。抱きしめて、抱き返して、そうして布団の上で微睡むのだ。指を絡めて、足で触れ合い、額をくっつけて、アァ幸せだななんて睦合う。そんな夢を、ずっと抱いている。
桐箱をするりと撫でる。柔らかでやさしい手触りのそれにぬくもりはなく、鼓動を感じることなどない。それでも、無機質なそれに触れることをやめられない。箱を撫で、抱きしめて頬を寄せながらポケットから布切れを取り出す。鼻先に当てて香りを嗅げば、煙草と、土と、血と、彼の匂いが複雑に混ざり合った香りが鼻腔を通して脳を揺らす。眼窩の奥がツンと痛んで、涙が溢れそうになった。
悲しいのか、悔しいのか。なぜこんなにも胸が締め付けられるような心地になるのか、何度考えても答えは出ないままだ。このまま、全ての肉を集められなかったらどうしよう。元の身体に戻っても、自分のことを忘れていたら、元の彼と何かが違うと感じたら。漠然とした不安を慰めるように、今一度、彼の香りで胸を満たす。
「必ず……あなたを取り戻します、水木」
自分に言い聞かせるように呟いて、今一度桐箱に口付ける。柔らかな木の香りが鼻の奥で彼の匂いと混じり合うのが妙にくすぐったくて、ふ、と小さな笑いが溢れた。
遠くから、カラン、コロンと下駄の音が響き、こちらへ近付いてくるのに気が付いてゆっくりと立ち上がる。桐箱を慎重に背負い、もう一度空を見上げた。月は変わらず白い光で世界を照らしていて、やっぱり一緒に見たいなァと思わせるほどに美しい。
父が自分を呼ぶ声がする。はい、と返事をして、カランと下駄の音を響かせた。