走る男の裏での話 這々の体で理由もわからず走っていく背広の男の背中を見送り、女は今一度坂の下を見やる。
先程まで幼い子どもたちの姿をしていた“それ”は、最早ヒトとは到底呼べない巨大な何かへと変貌していた。
「お冠のようね」
女がそう呟くと、どろりと固まった情念の集まりのようなそれが咆哮を上げた。聴くものの心を蝕み、視るもの全てを奈落へと引きずり込まんとするようなそれに、女は毛ほども顔色を変えることはなかった。
悍ましいそれは獲物を奪われた怒りをぶつけるように腕のような黒い塊を振り上げ、女のいた場所へ叩き付けた。が、女は軽やかにその一撃を避け、ただ静かに目の前のそれを見つめる。女の瞳は先程の背広の男を見つめていたのとは対象的に、ひどく冷たく恐ろしいものだった。
その瞳に、それは再びけたたましい雄叫びを上げて不安の元を立つように腕を振り下ろす。鞭のようにしならせ縦横無尽に地面に叩きつけられる腕を、女はなんてことはないようにひらりひらりと躱していく。地響きと土埃が舞い上がる中で、女はそれに向かって人差し指を向けその指先から放たれる閃光でそれを撃ち抜いた。
ドン! と派手な音を立てて躰を穿たれたそれは、風に舞う塵のように闇に溶けていく。その姿をじっと見つめていると、背後から耳馴染んだ下駄の音が近付いてきた。
「流石儂の妻! なんと見事な鎮め方なんじゃ!」
「あなた」
現れた白髪の大男の姿を認めると、女は嬉しそうに微笑む。その笑顔に、男は殊更に緩んだ笑みを浮かべて女の肩を抱いた。
「嫌なものを見せてしまったのう、大事なかったか?」
「あら、心配性ねぇ。私だってそれなりに修羅場はくぐっているんですよ」
「そうじゃったのう、そうじゃったのう! やはり、儂の妻は美しくて賢くて強くて最高じゃ!」
感極まったように男は女を強く抱きしめ、力一杯の愛情を示した。ふと男が顔を上げると、塵となって消えていくだけの僅かな塊が目に入った。男は女を伴ってその黒い塊に近付き見下ろすと、打って変わって地の底から這い出るような声音で言葉を発した。
「はよう去ね」
男の言葉を聞いてなのかは謎であるが、その言葉に応えるようにそれは塵ひとつ遺さず消え去った。男は最早何も残されていない地面を、じっと見つめる。
「……あやつの未練と後悔を盗み見るような真似をしおって」
ザワ、と周囲の空気が騒ぐ。ヒリつくような空気は男の怒気に呼応するようにその重たさを増し、ただそこにいるだけの夜の生き物たちを震え上がらせた。
「あなた!」
男を呼ぶ声と共に、身体がぐるりと後に向かされる。そこに見えたのは、女が男の頬を両手でパチンと包み込みながらほんの少しむくれている愛しい妻の姿だった。
「もう済んだ事ですよ」
そう言って微笑み掛けてくる女に、男は逡巡してから「すまん」と小さく項垂れながら謝罪した。その姿に女はうん、と満足げにひとつ頷く。
「あの人、迎えに行かなくて良いの?」
そういえば、と訊ねる女に、男は「うむ」と答える。
「たまには、息子と二人きりにしてやるのも良いかと思ってな」
「まあ!」
フフン、と得意げに鼻を鳴らす男に、女は口元を抑えてうふふと笑う。
「あなたのそういうところが好きよ。あの子も、あの人もきっとおんなじ」
「そうか? ふふ、照れるのう」
好いた女にそう言われ、男は頭から湯気が出そうな程に顔を赤らめた。