美味なるものよ、何処へ 肺が痛むほどに走るという経験は、何度も繰り返したがあまりにも久方ぶりすぎた。振る腕は徐々に下がり、脚は少しずつもつれ始める。それでも、その動きを止めるわけにはいかない。後ろから追いかけてくる"何か"から逃げ切るまでは、この腕と脚を止めることはできないのだ。
その日はいつも通り、なんの変哲もない日であった。定時に上がれたから、商店街で揚げたてのコロッケを買い、好意でオマケしてもらった野菜や肉を抱えながら帰路についていた。家で待つ、愛しい愛しい養い子と、その実父のことを想いながらご機嫌に夕暮れの道を歩いていたのだ。あまりにもいつも通りだった。だからかもしれない、そんなつもりはなかったが油断していたようだった。
「美味ソウナニオイダナァ」
「!」
耳に触れる、人の世のものではない声に、思わず足を止めてしまう。しまった、と思う間もなく周囲は暗くなり人の気配は全て消えていた。平衡感覚を失いそうになるほどの耳鳴りが聞こえた瞬間、荷物を投げ捨て駆け出したのが先程のことだ。
長く、異質なものたちと共にしていたからわかった。これは"危険なもの"だと。本能のままに足を動かし、とにかくどこか常と違う道をひたすらに走った。けれど、やはりただの人間である自分には限界があった。
「!」
家に向かっていたはずなのに、辿り着いたのは木々が生い茂る深い森の中で、ああ、八方塞がりとはこのことを言うのかと詮無いことを考えた。後ろを振り返り、暗闇から己を狙うギラギラとした化け物たちの瞳を睨み返す。首元に巻き付けていた赤のネクタイを乱雑に外して指に巻き付ける。ステゴロの経験は少なくないが、どこまで通用するものか。
跳ね上がる心臓を落ち着けるように、拳を構えて大きく息を吸って吐いた。
──間に合わなかった。
そのあまりにも無惨な光景を目にして、最初に抱いた感想は情けなくてお粗末なものだった。ある意味では、脳が現実を受け止めきれなかったからだったのかもしれない。
それは、朝見たいつもの白いシャツ、着慣れた紺色のスーツ、お気に入りの赤いネクタイ、ピカピカに磨かれていたはずの革靴。彼が身に纏っていた、彼の服飾品が、赤黒い泥に塗れて散らばっていた。
「今日は、鬼太郎の好きなやつにしよう」
そう言って、なるべく早く帰ると言ってくれた人がいつまで経っても戻ってこないものだから、迎えに行こうかと父と共に家を出たのだ。
一歩足を踏み出すと、下駄の歯がぐちゃ、と不愉快な音を立てた。その感触は、雨に濡れた泥のような地面よりも硬く、悍ましいものだった。手が震え、足が震え、息が上がって呼吸が乱れる。一歩、また一歩と、彼を着飾っていた物の残骸へと近付く。
力が抜けるようにかくんと膝が落ちて、地面にベシャリと着いた。
「みず、き」
震える喉を無理矢理動かして、彼の名前を呼ぶ。応える声はない。薄汚れ、切り刻まれたような布に触れて強く握りしめる。
ようやく見つけたのは、彼を象(かたど)る物たち、そして──あまりにも濃すぎる血の香り。
「……父さん、水木、は」
小さく、傍に立つ父に尋ねる。答えはわかっている、けれど現実を受け入れがたい想いが強くて、この嫌な出来事は気のせいなのだと言って欲しくて、問うた。俯いて狭まる視界に、父の手が見えた。布切れを握りしめる己の手を覆うように、父の手が触れる。
「奪られた」
それは怒りに満ちた声だった。悲しさと悔しさを滲ませた、抑えきれぬ怨嗟の声だった。父から溢れ出る感情に、どこか冷静な頭で「やっぱり間に合わなかった」と理解した。
「幽霊族」
「幽霊族だ」
ヒソヒソ、ケタケタと、蔑み嘲笑う声が聞こえてきたのでそちらを見上げれば、生い茂る木々の枝葉の向こうにいくつもの光る目がこちらを見下ろしていた。いつの間にか囲まれていたようだ、とゆっくり立ち上がる。父の手は、まだ自分の手に重ねられたままだった。
「何しに来た?」
「此処にはなんにもない、誰もいない」
「怖い、こわいなァ」
「……ちぃとお尋ねしたいんじゃが」
ヒソヒソ、ギイギイ、ケタケタ。木々が揺れて葉が擦れる音に乗って、魑魅魍魎たちの声がいくつも重なる。父は静かに問いかけた。
「ここに、人間の男が来ませんでしたかな?」
その穏やかで、しかし嘘偽りは許さぬという問いかけに、ザワザワと木々と木の葉が揺れる、ずっと蠢いている。小さな声たちはクスクスと笑い声を上げながら答えた。
「人間か、いたなぁ、いたかもなぁ」
「もういないぞ」
「いいニオイだったなぁ」
「少しだけもらえばよかったな」
「ばか、くれるわけねぇだろ」
「口惜しいなぁ、口惜しいなぁ」
魑魅魍魎どもの言葉に、その意味に、首の後ろがチリチリと焼けるような心地になる。理解したくない、解りたくない。けれど、知らなければ何もできない。溢れ出そうになる何かを抑えながら言葉を紡ごうとすれば、父がそれをそっと制する。ああ、きっと──自分と同じくらい炎に呑まれている筈なのに、己を律することができるのは年の功なのだろうか。
「……その人間は、どこへ行ったのだ?」
ヒソヒソ、ヒソヒソ……。父の問い掛けに、小さな存在たちは何かを相談し合っていた。言うべきか、どう答えるか。木っ端に等しき存在たちは、できるだけ生き永らえられる方法を取るのだ。いつだって、どんな相手だって。
やがて、そのうちの一つが言った。
「──うまかったらしい」
その一言で、煮えたぎっていた感情が爆発し、何もかも消し飛ばしたくなるような怒りが溢れ出た。手を握る父の体温が自分と同じように上がっていくのを感じる。けれど、まだ、その手は離されない。
「なんと、言っておったのだ」
最早囁くような声音だと言うのに、それは強く、大きく響き渡った。その怒気がわかるのか、わからぬのか。小さきものたちは口々に伝えた。
「うまかったなぁ、ああ、とても美味かった!」
「肉も骨も血も、みぃんな美味かった」
「こんにうまい人間、初めて食ろうた!」
「特に肝臓がな、ヒヒ、幽霊族の血が染み込んでいてなんとも美味だった!」
「わしは目玉が一等うまかった。息のあるうちに抉ったからみずみずしくてたまらんかった」
「心臓は焼いて食べたらもっと美味かったかのう。もったいないことをした」
「うるさい喉であったが、潰したら良い響きをしていた、やはりヒトの悲鳴は心地良い!」
ああ、ああ──間に合わなかった、驕っていた、高を括っていた。自分たちが丁寧に丁寧に育てたものを、奪う輩がいるのかと、いるわけなかろうと。過信していたのだ。どうしてくれよう、いかにしてくれよう。我々が一等大切にしていたものを奪った罰を、如何にして償わせるべきか。
「鬼太郎よ」
ザワザワと逆立つ毛を抑えられぬ自分に、父が声を掛ける。返事をしないうちに、父は言う。
「すまぬのう、お前の母を起こしてやるのは、ちぃとばかり先になりそうじゃ」
眉を下げ、本当に申し訳ないという表情でこちらを見下す父に、目線を地面に散らばる衣類に向けたまま答える。
「大丈夫です、お母さんもきっとゆるしてくれます」
「……そうか、そうじゃろうなぁ」
父の表情は見えない。その言葉と声音から感情を読み取ることは難しかったが、きっと本当に申し訳ないという気持ちと致し方ないという感情が綯い交ぜになったものだろうと思った。だって、自分がそうなのだから。
少しずつ、少しずつ。大事に大事に慈しんできたものが、何処の何とも知れぬモノに奪われる屈辱たるや、如何ともし難いものである。
「ああ、でも」
小さきもののひとつがそういえばと呟く。
「わしは見たぞ、ヒュルリと飛んでゆくのを」
その言葉に、他の言葉が続く。見た、見たぞ、見ていたぞ──。
「人魂がヒュルリと逃げていったのを!」
「そうだ、そうだ、逃げておった」
「あやつらが掴んで喰らおうとしたのをな、ヒュウルリ、ヒュルリと逃げていったのだ!」
「はっはっは、あれはすごかったなあ!」
「あやつら悔しそうにしておったなぁ!」
ケタケタ、ゲラゲラと笑い声が木霊していく。何が面白いのか、なんて欠片も理解できなかったけれど。その様を想像したら少しだけ笑みが溢れた。手を握り続ける父の腕をひき、伺うように見上げると、父もまた少しばかり空気をゆるめて笑っていた。
「鬼太郎よ」
「はい、父さん」
呼びかけに答えれば、父は優しく微笑んだ。
「あやつはほんに、ただじゃ起き上がらんのう」
ぱたり、と、父の目から落ちる雫が地面に落ちる。大きく、優しい、養い親ともまた少し違う手を握り返しながら「ええ」と答える。
「それでこそ、僕のお義父さんです」
奪われた肉と骨を集め、そうしたら逃げ惑う魂を迎えに行こう。もしかしたらそちらの方が先に見つかるかも知れない、それはそれで好都合である。
「父さん、水木はもしかしたら寂しく泣いているかも知れません。早く見つけてあげましょう」
「おお、そうじゃな、そうじゃなぁ。彼奴を見つけて、そうして」
──肉を奪ったモノたちを懲らしめんとなぁ。
ギラギラと煮えたぎる瞳の父に、なんと頼もしいのだろうと嬉しくなる。握りしめていたままの布切れを顔に近づけ、そっと残り香を嗅ぐ。血と汗と泥に塗れた、彼の生きた証をこっそりズボンのポケットに仕舞い込んだ。