夜が明けるまで語らいたい ──ダダダダダッ! と、遠くから誰かが廊下を駆けてくる音が学園中に響き渡る。猪が走っているのかのようなその音は、あっという間に目的の部屋の前まで辿り着き、その勢いのままバン! と戸が開かれた。
「ちょーじ怪我したってホントか伊作!」
「小平太、扉は静かに開けて! あと、怪我人がいるんだから騒がない!」
勢いのままに大きな声で中にいるだろう人物に声を掛ければ、当たり前の注意が飛んでくる。それはそうだ、だってここは保健室。怪我人や病人が来るところである。
「すまん! 細かいことは気にするな!」
「細かいことだから気にして欲しいんだけど」
からりと笑いながら入室してくる小平太に、保健委員会委員長の伊作は薬箱を閉じながらため息をついた。ガサツな動きの割に静かな足音で近付き、小平太は伊作の隣に座る治療直後の男に声をかけながらしゃがみ込んだ。
「なんだ、聞いていたよりは軽そうな怪我ではないか」
「……」
小平太がそう言うと、声を掛けられた男──長次は静かに目を閉じる。その動きに首を傾げると、横にいた伊作が「見た目はね」と補足した。
「目にみえる外傷はそんなに酷くないんだけど、ちょっと喉をやられてるんだ。敵の放った煙に微量な毒が入っていたみたいで」
普段の長次であればそんなヘマは犯さないであろうが、今回はたまたま居合わせてしまった下級生を助け出す際に思い切り煙を吸ってしまったのだと言う。
「幸い、命に関わるようなものじゃなかったけど、喉が灼けてひどい炎症を起こしているんだ。声も出せない状態なんだけど、安静のためにも喋らないでほしいから丁度いいね」
「ふーん」
「……」
伊作の説明に気の抜けたような返事をする小平太に、長次はヒュッ、と矢羽音を飛ばす。が、伊作はそれを聞いて眉を顰めた。
「長次! 喉を痛めるような動きはダメって新野先生にも言われただろ、矢羽音も禁止だよ!」
鋭い叱責に、長次は目を伏せながら口を動かした。音にならないそれは、彼の口癖である「もそ」の形を取っていたのは長い付き合いの者でなくともわかった。
「伊作ぅ、長次のこれはいつ頃治るのだ?」
「うーん、僕の見立てだと、少なくとも一週間はかかるかなぁ。風邪とかの腫れとも違うからなんとも言えないけど」
「……」
「まあ、治らないものではないから安心して。長次は喉以外も怪我はそれなりにあるんだから養生すること! 小平太も、長次の怪我が気になるならバレーとか鍛錬の誘いは控えてね」
わかった? と、下級生に言い聞かせるように言われた二人は、揃って「はーい」と手を挙げた。勿論、声を出したのは小平太だけである。
「一応他のみんなにもこのことは共有しておくから。何か聞かれたら小平太通訳してあげてね」
そう言われて、再び小平太は「はーい」と返事をした。
「長次、しばらく声が出せないんだってな」
食堂でランチを摂っていると、定食の乗った盆を持った同級の留三郎が声を掛けてきた。小平太はいつも通り食事をしているが、長次は喉を痛めているためどろりとした冷めた粥を眉間に皺を寄せながら口に運んでいた。
「あー、喉痛い時って食事キツイよな」
二人の向かい側に座り、哀れんだように言う留三郎の言葉に長次は小さく頷く。
「しばらくは実習もないし、ちゃんと養生しろよ。じゃないと伊作がうるさいからな」
「伊作は十分うるさかったぞ」
「そりゃ、お前が騒いだからだろ、どうせ」
「……」
小平太と留三郎の会話に、長次はまた小さく頷く。それに対して留三郎は「ほらな」と我が意を得たりと得意気に笑った。それから「そうだ」と思い出したように長次に小さな板を手渡す。どこにしまっていたのか、など野暮なことを聞いてはならない。
「なんだ、これ?」
長次の代わりに小平太が問えば、留三郎は食事を摂りながら答える。
「黒板だよ。小平太は長次の言ってることわかるだろうが、俺たちはわからない時もあるからな。筆談用にと思って作ってみた。紙と筆だと嵩張るし、黒板とチョークなら何度も使えるだろ」
ちゃんと肩に下げられるよう紐付きだ、とこれまた得意気に言う留三郎に、ろ組の二人は「おお」と感心した。
「気が利くな、留三郎は!」
「……」
「長次もありがとう、だって!」
「へへ、それくらいは言わなくてもわかるぜ」
素直な賛辞と感謝に鼻の下を擦りながら照れる留三郎に、小平太は「長次の代わりに礼をやろう」と煮豆の入った小鉢を差し出した。
「お前、自分の苦手なもの押し付けてくんじゃねぇよ!」
「なはは! 長次も食べ終わったみたいだし、私たちもう行くな!」
「……」
「長次が、留三郎改めてありがとう、だって!」
じゃあな! と手を振りながら食堂を後にする二人に、留三郎は煮豆をつつきながら小さくため息をついて呆れたように笑った。
「長次、いるか」
「仙蔵、どした」
養生しろ、とは組の二人に言われてしまったので大人しく長屋の自室で本を読んでいると、い組の仙蔵が部屋を訪れた。突然の訪問に小平太が問えば、仙蔵は「小平太もいたのか」と少し驚いたような顔をした。
「伊作から今夜と明日の分の薬を預かってきた。湯に溶いて食後に飲めとのことだ」
手渡された小さな巾着を受け取りながら、感謝を込めてひとつ頷く。
「喉の調子はどうだ?」
『すごく痛い。水も満足に飲めない』
カリカリと留三郎にもらった黒板にそう書いて答えれば、仙蔵は「そうか」と眉を下げて笑う。
「あとで文次郎に葛湯を持ってこさせよう。水よりも多少粘り気のある方がマシだろう」
『ありがとう』
「何、大したことではない。それよりも……」
仙蔵は振り返り、床に寝そべりながら本を読む小平太に目を向ける。その視線に気が付いた小平太が「なんだ?」と起き上がった。
「いや、長次が部屋で本を読んでいるのはわかるんだが、小平太までいるとは思わなくてな。てっきり、外に出ていると」
その疑問はもっともだ、と頷きながら長次は一度黒板をきれいにしてから綴る。
『返却期限が近い本がいくつかあった』
「ああ、なるほど。それで共に読書に励んでいるというわけだな」
こくん、と頷けば小平太が補足するように言葉を続ける。
「この間ギリギリで返却したやつがちょっと汚れてたから、汚さないように見張ってるんだって」
「……」
小平太の言葉に、長次は音もなく口端を歪めて笑う。不機嫌な時のその表情に、仙蔵は「ちょっとどころではない汚し方だったのだな」と心中独りごちながら、労わるように長次の肩にぽんと手を置いた。
「まあ、小平太がそばにいれば誰かが来てもすぐ対応できるだろうしな」
精々こき使ってやれ、と笑えば、長次も心得たとばかりにグッと親指を立てた。
「では、私はこれで失礼する。長次、お大事に」
「……」
「ありがとうだって」
長次の無言の礼に、小平太が言葉を紡ぐ。仙蔵はそれを聞きながらゆるりと手を振った。
「長次、いるか」
「今度は文次郎か」
仙蔵と全く同じ声掛けで入ってきた文次郎に、小平太が「何か用か」と訊ねれば、文次郎は湯呑みと小さな包みの乗った盆を掲げた。
「仙蔵に言われて葛湯を持ってきてやった」
ほらよ、と盆ごと長次に手渡すと、長次は小さく口を動かした。音のないそれだが、聞こえなくとも意味は伝わる。読み終わったであろう本をポイ、と投げた小平太が盆の上に乗せられた小さな包みを指さす。勿論、長次の鋭い視線は無視してだ。
「これは?」
尋ねれば、ああ、と文次郎が包みを摘んで開く。そこには、小さな黄色の粒がいくつかあった。
「蜂蜜を固めたものだ。この前、きり丸のアルバイトを手伝った場所に蜂の巣があったのを思い出してな。摂ってきて水飴と混ぜて固めたんだ」
「へぇ」
「おいこらっ、小平太! これは長次にやるんだ、勝手に食うな!」
感心しながら蜂蜜の飴を一粒摘もうとした小平太からさっと包みを逃して文次郎が睨む。唇を尖らせて「ちぇ」とふて腐れる小平太を無視して、包みを長次に手渡す。
「蜂蜜は喉に良いらしいからな、そのまま蜜を舐めるよりも飴にした方が勝手がいいだろう」
しんどい時に舐めると良い。そう言って、文次郎はニッと笑う。長次は、小さなその気遣いが、彼と犬猿の仲である男と似ているなと思う。言葉にも文字にも出さないが、ふたりのそういった優しさが互いに気に食わないところの一つなのかも……とぼんやり考える。そんな長次の様子を見てなのかどうかはわからないが、小平太はからりと笑いながら言った。
「文次郎も留三郎も、気の遣い方が似てるな!」
「……あぁ?」
小平太の言葉に、文次郎の米神に青筋が浮かぶ。長次がそばに置いてあった黒板をサッと掲げて見せれば、それだけで意味が伝わったのか文次郎は「ケッ」と眉間に皺を寄せた。
「あいつもまあ、多少の気遣いは出来るみたいだな」
俺には敵わんが! と、誰に言い聞かせているのかわからない対抗心を宙に言い放つ。
「しかしだなぁ、長次には小平太がいるから、別に必要なかろう。そういうとこ詰めが甘いのだ」
フン! と鼻を鳴らして言う文次郎に、小平太と長次は顔を見合わせる。二人の様子に、文次郎は少し眉を下げる。
「なんだ? 何か変なこと言ったか?」
「……」
「いや? それもそうかな、と思ってな!」
小平太の言葉にパッと表情を明るくし、わかりやすく機嫌を良くした文次郎は「だろう?」と得意気に言った。
「じゃあ、俺はこれで。長次、お大事にな!」
揚々と部屋を出ていく文次郎に、長次はゆるく手を挙げて振った。それから、もう一度、小平太と顔を見合わせた。
い組の二人が来た後も、六年ろ組の部屋にはひっきりなしに人が訪れた。委員会の後輩だったり、長次が庇った下級生だったり、その友人たちだったり、それはもう様々だった。
そうこうしているうちに日は暮れ、あっという間に就寝時間となる。しばらくぶりの自分の布団に寝そべって、慣れ親しんだ柔らかさを感じながらぼんやりと天井を眺めていると、小平太が「長次」と声を掛けてきた。横向きになって小平太の方を向けば、小平太も長次の方をじっと見ていた。
「今日は、たくさん来客があったなあ」
「……」
「ふふ、なんだかんだ皆、長次のことが大好きだから心配なのだ」
「……」
「うん、そうだな。明日は乱太郎が教えてくれた花園に行ってみよう。しんべヱオススメの団子屋……は、また今度だな。え? ダメだ、バイトの手伝いは。伊作に怒られるぞ」
「……」
「細かいことじゃないからな」
静かな部屋に、小平太の話し声だけが小さく響く。独り言のようなそれは、音はなくとも楽しい二人の会話だった。しばらく他愛のない話をしていると、ふと小平太の口が閉じる。訝し気に長次が小平太を見つめると、小平太はごろんと身体の向きを変えて天井を見上げた。
「……なあ、長次。私は別に、困ってないんだ」
主語のないそれだったが、長次には何を言おうとしているのかがすぐにわかった。だから黙って小平太の言葉を待つ。
「私がいれば、長次と会話ができると皆が言うだろう? 私は長次が何を言っているかわかるから」
「……」
「でもなぁ、長次。長次ならわかるだろうが、私だって長次が何言ってるかわからん時もあるんだぞ」
ビシッと長次に指を差しながら小平太は口を尖らせる。そうだな、と肯定の意を込めて長次は一つ頷く。そもそも、小平太は長次の言葉を通訳するフリをして勝手に自分の意見を皆に伝える事がある。長次としては特に気にならないことなので別段訂正などはしないが、当たり前のように皆に「小平太は長次が黙っていても考えがわかる」かのように思われているのが現状だ。
「……」
だが、実際小平太は長次の言っている意味がわかっている。言葉と言えないほどの呟きすら、ほぼ十全の意味で理解できるのだから。そういえば、と長次は思考する。頬に傷が付いて、少しずつ上手く話せなくなっていったのに小平太は変わらず長次と会話ができている。当たり前すぎて気にしていなかったが、どうして小平太は自分の言葉がわかるのだろう。
小平太を見ているようで遠くを見ながら思案し始めた長次に、小平太は半目でジトリと訴えかける。
「……私が長次の言っていることがわかるのは、私がずっと長次とおしゃべりしていたからだ」
「!」
二人でたくさんのことを話した。長いようで短く、しかし濃密な学園生活の中、たくさん、たくさん、二人で話をした。だからわかるのだ。
「長次もそうだろう?」
小平太は真っ直ぐと長次を見て言う。その真剣な眼差しに、長次はパチパチと瞬きを繰り返した。
「……だから、長次。早く喉治せ。私は、お前の声を聞いておしゃべりしたいのだ」
そう言って、小平太はゆるりと笑う。長次の声を聞いて、長次自身の言葉で共に皆と話したい。小平太の目はそう言っていた。言葉にしなくとも互いの言いたいことがわかるのは共に過ごした時間があったからで、共に過ごした時間が長かったからこそ、当たり前のものを噛み締めたいのだ。
スッと布団から起き上がり、部屋の戸を開ける。差し込んでくる月明かりを頼りに、小さな黒板にカリカリと文字を刻む。同じように起き上がってきた小平太が手元を覗き込んで、ふはっ、と笑う。
「そーだな、長次!」
笑う小平太に、長次も淡く微笑む。戸を閉めて、布団にもう一度潜り込む。枕元に置かれた、薬と黒板、湯呑みと飴の包みを少し眺めてから目を瞑る。
『治ったら、夜が明けるまで語り合おう』
友たちと、仲間たちと、皆で語らおう。瞼の裏で幸福な未来を想像すれば、痛む喉も気にならなかった。
その後、治ったのを良いことに今まで以上に喋り倒す長次と小平太が伊作に叱られたのはまた別のお話。