🍙:side🌙 ──白米が炊ける香りは、何度だって感動する。うつくしい白が光り、甘くやわらかな湯気と香りが立つ。慣れた手つきでしゃもじで米を切り、ふわりと空気を含ませる。用意していた具材を米で包み、丸みを帯びた三角形に握る。それを何度も繰り返して、陳列棚へと並べてから店先に暖簾を掛ける。時刻は朝の八時。おにぎり専門店【つきや】が開店した。
月島が脱サラをして持ち帰り専門のおにぎり屋を始めたのに、大きな理由はない。大企業の社畜を極めた結果、深夜三時に貰い物の高級クッキー缶を無心で食べ尽くした後、退職届をしたためた。これ以上は駄目だな、と心のセーフがかかった瞬間がそこだった。
おにぎり屋をしようと思ったのも、「そういえば米が好きだったな」と仕事を辞めた後の一人旅で握り飯を食べた時にふと好物を思い出したからだ。幸いにも貯金はかなりあったし、社畜時代の伝手があったので経営に大きな不安はなかった。
おにぎり屋をする、と上司や友人に告げたところ、意外にも反対する声は上がらなかった。
「いいんじゃないかな、僕、月島さんのおにぎり好きですよ」
「お店の名前は決めましたか? 制服やロゴのデザインは? まだ? 仕方ないから僕が手伝ってあげます、月島さんに任せると絶対変になるんで!」
「知り合いが空き店舗の貸し出しをしているんだが、内見してみるか?」
反対する声が上がるどころか、皆がそれぞれ月島の旅立ちを応援してくれる言葉と行動をくれたことに月島は開いた口が塞がらなかったし、自然と笑みと涙が溢れそうになった。
「お前にはたくさん無理をさせてしまったからな……これからは自分の好きなように働いて、困った事があれば友として頼ってくれ」
「はい……ありがとうございます」
こうして周囲の支援もあり、月島は念願のおにぎり専門店【つきや】をオープンさせたのだった。
経営に大きな不安はない、とは言ったものの月島は接客業などほとんどしたことがなかったから最初の頃は上手くいかないことも多かった。けれども、周囲の協力や持ち前のガッツで接客に慣れてくると少しずつ売り上げが伸び、所謂常連と呼べるような客も少しずつ増えていった。
不安が全くないわけではないが、月島はようやく地に足がついているような心地になっていた。僅かでも誰かの不安を取り除ければ良い、なんてガラにもないことを思ってしまうくらいには充実した日々を過ごしていた。
そんな、少しだけ順風満帆な日々のある日、たいへん疲れ切った様子の美丈夫が店を訪れた。仕立ての良いスーツに、細かなところまできちんとした身嗜みだというのに、隠しきれない疲労と覇気のなさが溢れていて身に纏う雰囲気がどんよりしていた。月島はそんな草臥れた青年の姿にかつての自分を思い出し、僅かに眉間に皺を寄せる。頭を振って余計な雑念を散らし、ぼんやりと商品を眺める青年に声を掛けた。
「いらっしゃいませ。どれになさいますか」
いつも通りの淡々とした接客をすれば、青年は小さな声で「高菜と……鮭で……」と呟いた。月島は注文の品を手早く包んで会計をする。商品を受け取ってトボトボと去っていく青年の後ろ姿を痛ましく思ったが、月島にできることは何もない。今の月島には、ただ米を握ることしかできないのだから。
疲れ切った人なんてこの仕事をしていればいくらでも見たし、なんなら自らがその立場にいたからある意味では見慣れたものだった。だが、それなのに、どうしてか彼のどんよりと沈んだ瞳が気になって仕方がなかった。詮無いことをいくら考えても仕方ない。縁があれば、いつかまた来てくれるだろう。自分の握り飯にそこまでの力があるかはわからないが、月島はただいつも通り米を炊いて握るだけだと業務に戻った。
──青年との再会は存外早かった。何故ならば、青年は次の日にまたおにぎりを買いに来たからだ。しかもオープン直後に、息を切らしながら走ってやってきた。前日と打って変わって何処か肌艶が良くなったような姿に少しだけ驚きながら、青年に声を掛ける。
「いらっしゃいませ、どれになさいますか」
変わらず淡々とした接客に、青年ははたと慌てたように身なりと呼吸を整え、商品棚を見つめた。数秒ほど品物を眺めた後、青年は意を決したように月島に尋ねた。
「っあの……店員さんのおすすめは、どれですか?」
「え? ええと、鶏五目ですかね……?」
唐突な質問に疑問符を浮かべながらおすすめを伝えた月島の答えに、青年は目を輝かせて「ではそれを!」と元気よく注文した。
「あと、高菜もひとつお願いする!」
「かしこまりました、少々お待ちください」
注文の品を丁寧に包み、会計を済ませて商品を手渡す。青年はそれを受け取ると笑顔で「あいがと!」と礼を言って去って行った。昨日と違って軽い足取りで歩いていく後ろ姿に、月島はふ、と息を漏らす。
「なんだかよくわからんが、元気になったみたいでよかった」
そう独りごちて業務に戻る。もう一度買いに来てくれたということは、多少は口に合ったということだろう。月島は、あんな美丈夫が無骨な己の握り飯を気に入ってくれたという事実に一人機嫌を良くしながらその日を過ごした。また来てくれたら嬉しいと、仕込みにも少しだけ気合が入った。
「おはようございます!」
「……おはようございます」
翌日、いつものように店先に暖簾を掛けようと外に出た瞬間、声を掛けられた。そこにいたのは例の青年で、月島はあまりにも早い再会に戸惑いながら挨拶を返した。
「あっ、もしかして早すぎましたか……?」
「ああ、いえ。丁度今開けるところでしたので……」
「どうぞ」と商品棚を指してカウンターへと戻ると、青年は昨日と同じくらいに嬉しそうに品物を見つめた。どれにしようかと悩む青年に、月島は少々逡巡した後に「今日は」と呟く。
「ん?」
「今日は、昆布がおすすめです。香り付けに生姜と一緒に煮てあるので、それがお嫌いじゃなかったら」
「! 嫌いじゃない! では、昆布を一つと、あと……今日は明太子で!」
「かしこまりました」
元気な返事に月島はほんの少し口元を綻ばせる。商品を包み、それを手渡すと青年は「あいがと」と感謝を述べてくる。こういった些細な声掛けが、接客業は嬉しいのだと改めて思う。
「あの」
「はい」
「また、来ます……【つきや】さんのにぎめしたもっと、元気が出っで」
「じゃあ!」と元気よく手を振って去っていく青年に、月島は呆気に取られながら手を振り返しながら言われた言葉を反芻する。どこかの国言葉だろうか、なんとなくしか理解出来なかったが「元気が出る」と言ってくれたのはわかった。
いつも静かな心臓が、ほんの少し早くなる。青年の真っ直ぐな言葉は、月島の胸にぐっと響いた気がした。月島は浮ついて緩みそうになる頬をパチンと叩くと、揚々とした足取りで仕事に戻った。
これが、おにぎり専門店【つきや】店主の月島と、その店の常連客となった鯉登との出会いである。二人がお互いの名前を知り、少しずつお互いを知っていき、もっと違う気持ちで思い合うのはもう少し先の話──。