家族で使うものだから「ホームベーカリーを買った」
扉を開け放ち、大きな箱を抱えながら開口一番そう宣った鯉登に、月島は眉を顰めながら繰り返した。
「ホームベーカリーを買った」
「うむ」
月島の返答にうんうんと頷きながら「お邪魔するぞ!」と鯉登は揚々と靴を脱いで上がってくる。
「相変わらず狭い玄関だな!」
「築四十年のボロアパートに何求めてるんですか。隙間風入るんで早く閉めてください」
月島の小言に「わかっちょ!」と軽く返事をしながら戸を閉め鍵を掛ける。鯉登の住まう家とは大違いのアナログな鍵だが、ガチャリと重たく閉まる音が鯉登は案外好きだったりする。が、月島にはそんな豊かな感性はないのでそんな心情は毛程も感じ取れないのであった。
「もうご飯の準備できてますから、早く手を洗ってきなさい」
「月島はかかどんのようだなぁ」
「貴方みたいな美丈夫を産んだ覚えはとんとございません」
月島の家は先述の通り築四十年の、お世辞にも綺麗とは言い難いアパートだ。あまりにも古い外観に、駅からも遠く離れた場所という立地故、入居者は半分にも満たない。もう二、三年したら建て直しかリノベーションで追い出されるかもしれない。ギリギリまで住んで、取り敢えず老後の為の資金を出来る限り貯めようというのが月島の魂胆である。
「んん……あったかいな……」
「そりゃあ、貴方が来るまで俺がぬくぬくしていた炬燵ですからね」
手洗いうがいを済ませ、身軽な格好になった鯉登が炬燵に潜り込みくつろぐ。そんな姿を見ながら月島は用意していた夕食をテーブルの上へと並べた。手伝おうとする鯉登を手で制し、この日のために、というわけではないがなんとなく開けそびれていた高めのシャンパンをグラスと共に運んでから炬燵へと足を入れる。
「じゃあ、今日もお疲れ!」
「お疲れ様です」
チン、と軽くグラスを交わして中身を味わう。良し悪しは大してわからないが、鯉登が美味そうに飲んでいるのを見てなんとなく安心する。美味い酒を飲んでいる恋人を見るのは気分が良い。
「ところで、なんでホームベーカリーなんですか?」
グビグビと水を飲むように酒を煽りながら月島がそう問い掛ければ、鯉登は眉間に皺を寄せながらもにょもにょと口を動かす。
「なんですか、言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「貴様はやはりかかどんのようだな……いや、うん、あー、月島? まずは先に渡す物があるのでは?」
月島の言葉に眉間の皺を深くしながら逡巡した後にそう言うので、仕方なしに月島は炬燵から出て冷蔵庫に突っ込んでいたものを取り出す。そして、のそのそと炬燵に戻り「ハイ」と小洒落た紙袋を手渡した。
「あいがと月島ァん!」
「大変でしたよ、混雑しすぎて繋がらないネットの海、かろうじて辿り着いた先で整理券取って抽選待ちして優先順位の高い所から回って……もう二度とごめんです」
むちゅむちゅと月島から手渡された紙袋の中身に口付けをして喜ぶ鯉登に、心底うんざりした表情で月島は深いため息を吐く。思えば初めの年は何をあげて良いのかわからずに取り敢えず羊羹を渡したら悲しげに抱き締められたし、次の年は百円の板チョコを渡したら「……うん」とあからさまにがっかりした態度を取られたし、とにかく正解に辿り着くまでの道のりが遠かった。「このボンボンが……黙って喜べ」と罵れれば良かったが、そこは惚れた弱みもあって正直に言葉にするのは憚られた。態度には出ていたかもしれないのでそこはお互い様である。
「さあ、俺が渡すべきものは渡したので、貴方の番ですよ」
そう真っ直ぐと見つめながら言えば、鯉登はいそいそと贈り物を紙袋にしまい直し、横に置いていた件の家電を引きずって腕に抱えた。
「……月島よ」
「はい」
神妙な面持ちで名前を呼ぶ鯉登に、いつも通り淡々とした声音と態度で返事をする。その間も胃袋に酒を流し込むことはやめない。高い酒だ、できるだけ多めに飲みたい。
「ホームベーカリーは……餅がつけるのだ」
「……はあ」
グビ、ゴキュ。盛大な音を鳴らして酒を飲み干した月島から出た返事は、それ以外に「そうですか」としか言いようのないものだった。剣呑な恋人の態度に、鯉登は焦ったように言葉を紡ぐ。
「いや! 聞け、月島!」
「聞いてますけど」
「うん、そうだな……いや! そうではなく! 勿論理由あってのものだ」
鯉登は箱を横に置き、炬燵から出ると月島の横に正座した。不可解な行動に眉を顰める月島をよそに、鯉登は真剣な顔をして意を決した様子で言った。
「月島、最近のホームベーカリーは出来ることが多い」
「……はあ」
「パンを焼くだけにあらず、麺も作れるしケーキもできる、ジャムもスープもできる」
「はあ」
「やってみたいことがたくさんあるのだ」
「うん、はい」
「……月島」
「はい」
「ホームベーカリーでも、餅つきの時はガタガタうるさいらしい」
「そうなんですか」
「そうだ、だからこの家で餅をつくのは不向きだ」
「そんな予定はないので大丈夫です」
「うん、だからな、月島」
「はい」
「……一緒に暮らさないか」
「はい……はい?」
途中から話半分に聞き流しながら酒を煽っていた月島は、勢いよく首を傾けて横にいる男を見て目を見開いた。姿勢はそのままに、顔を耳まで真っ赤にさせながら。今にも雫を溢しそうなほどに潤わせた瞳が真っ直ぐに、月島を見つめている。ごくりと口の中に残っていた酒を飲み込み、そのまま思わず口が開くが、予期せぬ光景に言葉など出てくるはずもない。
鯉登は、月島からその目を逸らすことはしなかった。瞬きすれば何もかもが溢れてしまいそうな眼差しを、只々月島は受け止めることしかできない。
「お前と、共に、朝、パンの焼ける匂いで起きたい、し、ガタッ、ガタうるさい餅つきを見て、共に笑いたい、し、それで、それでっ」
ぽとり、長い睫毛に縁取られた瞳から大きな雫が遂に落ちる。一粒落ちれば、その後はほろりほろりと雫がいくつも続いていく。それを見て、月島は鯉登の頬を濡らすそれをそっと服の袖で拭う。言葉はかけない。鯉登の言葉を、しっかりと最後まで聴きたいから。
月島は鯉登を見る。真っ直ぐと、その熱い瞳に言葉を促す様に。その眼差しに鯉登の頬が、耳が、目尻が、さらに色濃く赤に染まっていく。
「──っ月島と、ずっと一緒にいたい! からっ、オイと……オイとといえしたもんせっ!」
頬を拭う月島の手を両手で握り、これ以上ないくらいに顔を赤くして鯉登は叫んだ。息が上がって、息が詰まって、涙が溢れて、涙が零れて。それでも、月島から目を離そうとはしない。固くへの字に引き結ばれた口と、寄り過ぎて深い溝となった眉間の皺に、月島は遂に噴き出した。
「──っく、はは!」
「! お、オイは真剣だぞ! 真面目に聞けぇ!」
「ふ、ふふ、すみません……決してバカにしているわけでは……ふふ、あはは!」
「わ、笑うな月島ァ!」
涙目で、なんなら少し鼻水も垂らしてしまって、いつもの色男ぶりが台無しだ。けれど、そんな姿だからこそ月島は笑いがあふれて止まらないのだ。ぼとぼとと落ちていく涙を自由な手で拭ってやり、月島は鯉登をもう一度見つめ返す。ああ、今、自分はきっとだらしない顔をしているのだろうな、と頭の片隅で思う。それでも、この胸に詰まった答えを与えずにはいられない。
「あなたのことだから、もっと気障ったらしい雰囲気や言葉を用意しているんだと思っていました」
「……本当はもっとスマートに言うはずだったのだ!」
「なるほど、本番でパニックになったわけだ」
「言うな!」
揶揄うような言葉に、羞恥と混乱が入り混じった声が咎める。涙と鼻声はおさまらないが、緊張は多少落ち着いた様だった。月島は己の手を握る鯉登の手を優しく包み込んで、改めて目を合わせる。
「どうして、ホームベーカリーなんです?」
「笑わんか?」
「ええ、笑いませんとも」
内容にもよりますが、という言葉は飲み込む。鯉登は一度目線を横にずらし、暫しうろうろと彷徨わせてからホームベーカリーの入った箱を見つめた。
「家電売り場で、これを見つけた時に……月島の顔が浮かんだ。そしたら買ってた」
以上。想像していた答えの斜め上から降り注いだ理由に、月島は一瞬呆けた。が、すぐにその答えを導き出して表情を戻した。ああ、本当にこの人は──。
「きっと」
鯉登がもう一度月島の目を見る。月島は鯉登の手を優しく撫でる。握り合うお互いの手のひらがじわりと熱くなっていくのを、互いに感じる。
「きっと、炊飯器を見ても、テレビを見ても、掃除機を見ても……あなたは俺を思い出すんでしょうね」
「!」
そう言ってイタズラ小僧のように笑いかければ、鯉登は一度大きく目を見開いてから同じように笑う。
「違いない!」
どちらからともなく肩を震わせ、声を抑えてくつくつと小さな笑い声を上げる。そうしてクスクスと笑い合った後に、月島は思い切り手を引いて鯉登を自分と密着させた。突然の行動に目を白黒とさせる鯉登の動揺を、抱き締めたその身体から感じながら月島は応えた。
「来年はつきたての餅で何を食べましょうか」