歪みの国のさとし第1話さとしくん
キミの腕を
足を 首を 声を
ください
キミを傷つけるだけの世界なら捨ててしまって
ちぎれた体は狂気に包まれて穏やかに眠る
さぁ 覚めることの無い悪夢を貴方に…
学校の自習室でうたた寝してしまったさとしに、誰かが優しく肩を叩いて起こしてくれた。さとしは親友の白戸が起こしてくれたんだと半分寝ぼけながら起きると、そこにいたのはいつもの優しい笑顔を向けてくれる白戸ではなく、全身黒づくめの顔の右側が前髪で覆い隠され、背中にコウモリの羽根が生えた男が宙に浮いた状態でさとしに話しかけていた。
「おはようございます。さとしくん」
「……!?だ、誰!?」
文字通り飛び起きて危うく椅子からずり落ちそうになり慌てて座り直すさとしの様子に、男は大声で笑い飛ばした。
「カカカ!やっぱりキミ、面白いですねぇ!!」
「ホントに誰!?ここ学校だから関係者以外入れないはずだぞ!?…あれ?白戸くんは?オレ、確かここで白戸くんとテスト勉強してたんだけど…」
「そんな人物は、いません」
黒い人物は【人物】というワードを強調しながら返事したが、さとしは意味に気づくことなくキョロキョロと辺りを見て白戸を探した 。
「…先に帰ったのかな?」
「いいえ、帰っていませんよ。今から追いかけっこしましょう」
「は?追いかけっこ?」
いきなり追いかけっこしようと言われて、意味が全く分からないさとしは間抜けに口を中途半端に開けたまま黒い人物を見上げた。
「えーと…鬼役の人を探しているのですか?」
「オレちゃんは探していません。さとしくんが追いかけるんです」
「…オレが追いかける?てか、アナタは誰?」
「オレちゃんとした事が忘れてました。オレちゃんはブラック。悪魔系YouTuberです」
「悪魔系?YouTuberって事は……あ、もしかして、人違いしてます?ならオレはアナタと撮影する予定のさとしではないですよ」
「オレちゃんは決してさとしくんを間違えません」
「え?」
「さあ、シロウサギを追いかけますよ!」
ブラックと言う男はさとしの手を掴むとそのままズルズルとさとしを引きずるように引っ張って行った…。
﹣﹣﹣﹣﹣
ブラックに引きずられながら自習室を出るとさとしは変化してしまった校舎内に思わず叫んでしまった。
「え?…ええええええっ!?階段はっ!?なんで廊下こんなに長いの!?」
廊下は長く延びて果てがなくなり、廊下の向こうは闇が広がっていて、すぐ右にあった筈の廊下への階段も消えていた。
「ど、どうなっちゃったの?…あれ?ブラックさん?」
ふと掴まれた筈の手が緩んだと思って横を見ると何故かブラックまで跡形もなく消えていた。一瞬自習室に戻ろうか悩んださとしだが、戻っても事態は解決しないと思い仕方なく廊下をとぼとぼと歩き始めた。
歩いてから何度か大声で叫んでみたが何の反応も返ってこなかった。時計は見ていないが、日の沈み具合からまだ外で練習している運動部や帰る人の声が聞こえてくる筈なのに窓から外を見ても、いつも見ている街の風景は広がっているが誰一人いなかった。車も自転車の通る音もせず、静かだった。
教室を見るとクラスナンバーが書かれている筈のプレートには何も書いていない。誰かいないかと祈る気持ちで一つずつ教室の中を見ながら歩いた。
いくつ目かの教室の後ろのドアを開けた時、教室の真ん中にぽつんとただずむ後ろ姿を見つけ、さとしの足が止まった。
人がいた!と安堵して駆け寄ろうとしたがすぐに足が竦んでしまった。
腰まである白く長い髪、同じく白くて光沢のあるキトンを身にまとった青年がボンヤリと宙を眺めていた。しかしその目はボンヤリとしながらも全てを見通さんと鋭く、そしてよく見ると後ろの風景がうっすらと見えた。
「あ、あの…」
恐る恐るさとしは声をかけながらそっと正面へと回った。
「…!?」
さとしは叫びそうになったが、咄嗟に口を手で覆って声を抑える事が出来た。
真っ白な姿から天使に見えなくもない人物であるが、その目は冷たく、目の前にいるさとしに興味を示さなかった。しかしそれより驚かされたのは、青年の右手がベッタリと血で赤く染まっており、胸に何かを抱いていた。
それは血で汚れてはおらず、よく見ると赤ちゃんと同じ程の大きさの体の人形だった。腕、足、頭はついていない胴体だけの人形で、人形を見る時だけ真っ白な彼は、愛しそうに見つめた。するとあやす様な歌声がどこからか聞こえてきた。
ウデ ウデ ウデ
ウデは どこだろ
ウデが なくっちゃ
ぼくに 触れてもらえない
青年の手から滑り落ちた血の雫が人形の腹を滑り、床にポタリと落ちた。その鮮やかな血を見てさとしは『今さっき誰かを殺した…?』と考えていると
「足りない」
やけに頭に響く青年の声に、さとしはビクッと体を震わせた。しかし彼は人形に目を落としたままでさとしには目もくれていなかった。無視しているのか気づいていないのか判断出来ないがさとしは助かったと心から思った。
「ダメ、足りない。急がないと」
そう言って彼はフラリと前の扉へと歩き出し、透けた体は机をすり抜けた。閉められたままのドアを通り抜ける直前、彼の呟きがさとしの耳に届いた。
「さとしくん…」
それは教室のドアを通り抜けて姿を消し、さとしは呆然と立ち尽くした。
「何だったんだ?今の…」
白い彼が立っていた場所には床に落ちた血が小さく、しかし色濃く残り、点々と血は前の扉へと続いていた。
さとしは怖いと思いながらも扉を開けると、血は廊下の奥へと続いていた。奥は相変わらず見えないが誘われるように廊下へと歩くとブラックが壁にもたれてこちらを見ており、さとしの手を掴むとそのまま一緒に歩いてくれた。
﹣﹣﹣﹣﹣
「ウサギはどうやって探すのですか?ウサギはどの辺りで見失ったのですか?」
さとしは歩きながらブラックに白い青年について聞いたが一切答えてくれず、仕方なくウサギについて質問した。するとやっとブラックはさとしの質問に対し返事はしたのだが、意味のわからない答えを返した。
「かけらが落ちてます」
「かけら?」
「シロウサギの記憶のかけらです」
「………なに、それ?」
「シロウサギが通ったあとには記憶のかけらが落ちてます。まずはそれを探しましょう」
さとしは必死に【記憶のかけら】という物をイメージしようとしたが、検討もつかなかった。
「…とりあえずは地道に探せってことか」
学校を出たさとしとブラックは、駅前通りを歩いていた。夕方の駅前通りは、いつもなら帰宅する人々で混み始める時間帯にも関わらず街には人っ子一人いなくなっていた。店のシャッターは開いており、商品も整然と陳列されているが、客も店員もいない。車道には運転手のいない車が信号待ちをしているが、信号が青になっても当然車が動き出す事は無い。人の存在だけ綺麗さっぱり消え去っていた。
さとしは人がいないかとキョロキョロして、寄り道しそうになるとブラックに引っ張られながら一緒に歩いた。クレープ屋の角を曲がると店員も客もいないのに甘い匂いがふわりと漂った。
さとしが何処へ連れて行かれるのかと不安がるのを他所に、ブラックは悠々と静かな街を歩く。
さとしはそんな様子のブラックを見ていると、逆に人がいない方が、こんな得体の知れない男と手を繋いで歩いているのをクラスメイトに見られなくて良かったかな、と前向きに考え始めた。
ゴーストタウンと化した街を抜け、さとし達は駅前のホテルに着いた。エントランスの自動ドアを通り、高級感あるフカフカの絨毯の上をブラックは堂々と、さとしは怖々と進んだ。ロビーの大きなシャンデリアにもフロントにも明かりは灯っているが、ここにもやはり人はいなかった。
「ここにも人、いませんね」
そうさとしが言った途端、奥から物音がした。さとしは音がした方へブラックを置いて一目散に走った。まるで何がなんでもシロウサギを見つけないと、と使命感を抱いたかのような強い表情を浮かべながら…
﹣﹣﹣﹣﹣
物音が聞こえる方向へさとしは走った。階段の下から音がすると階段を降り、奥から音がすると奥へ進み、ちっとも姿は見えなかったが、何者かが鉄の扉へくぐって行くのを見たさとしは、何の部屋かも確認せず扉を開けて入って行った。
中は五段程の階段になっており、そこからまっすぐ薄暗い廊下が延びていた。幅は人、一人分しかない。
さとしは走った勢いのまま入ったせいで階段を転がり落ちたが、落ちた事で冷静になったさとしはブラックを置いてきてしまったと思い出して戻ろうと立ち上がった。しかし…
ガシャン!!と重い音が目の前で響いた。さとしは慌ててドアノブを掴もうとしたが、その手は空を切った。
「え?…え?」
暗闇の中でドアノブを探すが、そこにはドアも何もない真っ平らな壁だけだった。
「嘘だ…ドアが…消えた…」
確かにここを通った筈だと、さとしはドアがあった筈の壁を叩いた。
「ブラックさん!聞こえますか!!!」
ブラックから返事はなく、叩いた感触も鈍く、向こう側に空間がある感じではない。叩く内に手が痛くなってきて助けは来ないと悟ったさとしは通路側を振り向いた。そこはコンクリートを打ちっぱなしにした廊下だった。ぽつりぽつりと裸電球がぶら下がっており、頼りなさげな光を放っていた。通路の奥は見えなかった。
もう一度ドアがあった筈の壁を探った。しかしやっぱりドアはどこにもない。幸い一本道の様で迷う心配はないと決断したさとしは覚悟を決めて廊下を歩き始めた。
カツ、カツ、とさとしの足音だけが通路に響いた。電球のお陰で前後が分からなくなる事はないが、照明器具としてはほとんど役に立っていなかった。
暗く伸びる廊下。等間隔に並ぶ裸電球は闇へと続く道しるべだ。とさとしにしては難しく考えて気を紛らわせた。
息を潜めるようにして歩いていると、ふと、自分以外の足音が聞こえる事に気づいた。
ペタ、ペタ…
さとしの足音に被せるように足音が響いた。歩くのを止めてみると、足音は前から誰かが歩いて来ているのだと気づいた。さとしは前方の闇を見つめた。
ペタ、ペタ…
裸電球の薄明かりの中に不釣り合いなくらい真っ白な姿が見えた。
「あ…」
さとしは本能的に逃げようと思い後ずさったが、足がもつれて、尻もちをついた。
青年がゆっくりと近づいて来るのをさとしは何故か分からないが絶望の表情を浮かべながら見上げていた。青年の右の脇腹はぐっしょり赤く染まっていた。だらりと下がっている右手も同じ色に染まっている。
「ごめんなさい…」
さとしはただただ怖くて訳も分からず謝った。そんなさとしに白の青年は何も言わず右手を振り上げた。
「やめて!!」
痛みはいつまでも襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると…そこに白の青年の姿はなかった。ただ、何事もなかったかのように暗い通路が伸びているだけだった。
一瞬だけ間を置いて、さとしは駆け出した。恐怖の余り、吐き気までしていた。
ごめんなさい
さとしの頭の中ではその声だけが響いていた。
誰に、何を謝っているのか、よく分からなかった。
ごめんなさい
今すぐ、頭をこのコンクリートの壁に打ちつけて壊したい衝動をさとしは必死に我慢した。長い通路だと思ったが、突き当たりにドアが待っていた。
さとしは躊躇せず、外へと飛び出した。
﹣﹣﹣﹣﹣
さとしの頬をぬるい風が撫でた。外に出たさとしが辺りを見回すとそこは薄暗い路地裏だった。左を見ると路地が途切れた向こうを大勢の人が行き交っている。さとしは光に惹かれてフラフラとそちらに近づいた。
大通りを出て、ようやく先程までいた路地がホテルの裏側だったのだと気づいた。さとしは夢から覚めきれず、その場にぼんやりと佇んだ。
街灯が灯り、ショーウィンドウがライトアップされ、帰宅途中のサラリーマンや学生が突っ立ったさとしを邪魔そうに見つつ避けていく。
さとしは人の海の中で途方に暮れた。よく知っている場所なのに、まるで迷子になったような気分だった。どうしたら良いか分からず呆然と立っていると、ポン、と背中を叩かれた。
「うわぁ!!」
さとしは思わず叫んで飛び上がった。慌てて振り返るとそこには見慣れた制服を着た少年がイタズラに成功したと笑いながらさとしを見ていた。
「し…白戸くん?」
名前を呼ばれた少年はニッコリ笑った。
「やっぱりさとし君やん。どないしたん?家こっちやないやろ?」
白戸は小学校から一緒の学校に通うさとしの幼馴染にして、一番の友達である。白戸の顔を見て、一気に世の中が現実味を帯びた。
「白戸くん…!白戸くんだよね…!本物だよね?」
「ど、どないしたん?……何かあった?」
「えっと…全身黒づくめの男がオレを連れ回して、で置いてきちゃって…!」
「ええ!?」
白戸の頭の中で、さとしは謎の人物に誘拐されかけて逃げてきたんだと思い、さとしを庇うように道の脇に押し込むと、辺りを見回した。
「黒づくめ以外にどんな特徴あった?」
「えっと…右目が前髪で隠れてた…」
「…そんな奴、居らんな」
「そっか…もう大丈夫、なのかな?」
「さとし君、変な人に妙に好かれやすいんやから気ぃつけや」
そう言いながら振り向いた白戸の顔が急に険しくなった。
「どないしたん!?それ!!」
「え?」
「ほっぺ真っ赤や!」
さとしはそう言われて自分の右頬を触った。途端、思い出した様に頬に痛みが走り出し、かあっと熱を帯び、どくどくと脈打つ度に痛んだ。
「い、いた…」
「まさかさっき言ってた奴に…!?」
「い、いや…そんな事は…。いつの間に…?」
さとしにも覚えがなかった。誰にも叩かれていないし、ぶつけてもいなかった。
白戸は心配そうにさとしの顔を覗き込んでいたが、ふっと表情を和らげた。
「大丈夫や。ずっと一緒におるから」
「ありがとう…」
「と、言う訳で…」
白戸はニッコリ笑って人差し指を立てた。
「どっか行こ?」
「え?」
「ワイ、お腹空いた〜」
「で、でもオレ、お金持ってない…」
「奢るって」
「でも、そんな悪い…」
「気にせんといて。ワイがさとしくんと一緒にいたいって言ったんやからこれくらいさせてぇや」
「でも…」
「なら今度ジュース奢って」
「そんなので良いなら…」
「決まりや!ほな行こ!」
さとしと白戸は近くのファストフード店へと入っていった。店に入ると、2階の大きな窓ガラス面のカウンター席へと座った。さとしは食欲がなかったのと白戸に奢ってもらう申し訳なさもあり、飲み物だけを注文した。
飲み物を飲んで一息つくと、ようやくさとしの心が落ち着いてきたが、白戸に言われて、実は誘拐されそうになっていたという事実が今更になって恐怖となり、密かに震え出した。そんなさとしを見てか、白戸が明るい話題を持ち出してくれた。
「そういえばさ、さとし君もうすぐ誕生日やなかった?」
「え…」
「?どないしたん?」
「あ、いや、なんでもない!」
余りにも日常的な普通の会話にさとしは、普通って素晴らしいと思ってしまった。ホヤホヤした気持ちになっていると
「プレゼント、楽しみにしとって。今回はとびっきりなんや!」
「プレゼントなんていいのに…」
「なんでやねん」
白戸は軽くさとしの頭を叩いて突っ込んだ。昔からやたらと距離感が近く今も肩がくっつきそうなくらい近い距離で話していて、さとしはいつも通りの白戸の様子に段々と恐怖から抜け出していっていた。しかしそれについてお礼を言っても白戸は『なんの事?』と言ってはぐらかす為、さとしは口には出さず心の中でお礼を言った。
「あ、違うんだ。いらないっていう意味じゃなくて…ウチは誕生日祝う習慣がないから…」
「…そうやったっけ?なんで?」
「…なんでって言われると…なんでだろう?お母さんの仕事が忙しいからかな?」
さとしの家はシングルマザーで、母親と顔を合わせて夕飯を食べるなんて週に一回あればいい程で、下手をすれば半月以上顔を合わせないという事も珍しくなかった。幸い母親が給料の良い仕事に就いているお陰で生活に困った事はないが、余りの忙しさに誕生日を始め、あらゆる祝い事をした覚えが全くなかった。
「でも、折角さとし君が生まれた日やん…」
「白戸くんがそう思ってくれるだけでも嬉しいよ」
そう言ってさとしは白戸の頭を撫でると、もっと撫でで、と言いながら頭をさとしの手に押し付けた。
「…あ、でも、今年はアキラくんがお祝いしようって言ってくれたんだ」
「…アキラくん?」
「お母さんの恋人。話してなかった?」
「…ふーん 」
アキラ…栗矢アキラはさとしの母の恋人で、母が務める会社の取引先の営業マンで、その時対応してくれた母に一目惚れして、熱烈にアピールして付き合うようになり、近く再婚する事になった。
さとしとしては、母親が少しでも心の支えになるならと再婚自体には反対ではなく、さとしも、実は自分とそこまで歳が離れていない事もあったのとアキラから『自分を父親と無理に思わなくていい』と言われた事もありアキラくん、とまるで親戚のお兄ちゃんの様な親しさを持って呼んでいて、これからお祝い事などがこれから出来るのではないかと胸が浮き立つような気がした。
「どんな人?」
「アキラくん?良い人だよ。オレにも優しいし」
「へーそれなら、ワイのプレゼントいらんのやな?」
白戸は時々子どもみたいな拗ね方をする事があり、さとしは思わず笑ってしまった。
「白戸くんのプレゼント欲しいなぁ。今回はとびっきりなんでしょ?」
「…うん!」
さとしと白戸は顔を見合わせて笑いあった。それから冗談を言ったり、学校の愚痴を聞いたり話を続けたがジュースを飲んでる内に知らずに手に付いたのか、さとしは自分の手を開いて閉じてを繰り返し
「ちょっと手がベタベタするから手を洗ってくるね」
「分かった」
さとしはトイレに入り、洗面所で手を洗い、席に戻ろうとした所で、足元に小さな血の跡を見つけ、さとしの足が止まった。血の跡を目で追うと階段へと続いていた。最初は誰かが怪我したのか、と考えたが、ウサギの血?と無意識に呟いた。呟いた途端、血の跡が消え始め、さとしは気づけば消えゆく血の跡を追いかけていた。
血痕は階段を降り、店の外へ続いていた。さとしは人混みの中、地面に残された赤い印を追いかけた。誰も血の跡は見えていないのか、こんな街中では珍しくないのか、誰も注意を払っていなかった。しかし、沢山の足に踏みにじられても血の跡は薄れることは無かった。
さとしは人混みの多さにイラつきながら、一方で冷静な心の中は首を傾げていた。
﹣なんでこんなに必死になっているんだ?﹣
﹣この血がウサギのだって確証はない。そもそもウサギなんてオレには関係ない﹣
﹣折角妙な出来事から逃げられたのに﹣
「…あっ!!」
突然大声を上げたさとしに人々が一斉に振り返った。さとしは慌てて口を手で抑えて俯いた。
「白戸くん置いてきちゃった…」
今度は小さな声で独り言を呟き、次に血の跡をじっと見つめた。
「…血の跡は気になるけど、白戸くんの所に戻らないと…」
戻らないと。そう思っていたにも関わらず、気がつけばさとしは血の跡を追って高架線の裏路地にまで来てしまった。
辺りには雑居ビルや個人商店が並んでいるが、どれもシャッターが下りており活気がまったくない。血は薄暗い通りの奥へとさとしを誘い、時間帯としてはまだ帰宅時間というのに全く人気がなかった。街灯はぽつりぽつりとしか設置されておらず、道は暗いが血の色だけは、鮮やかに見えた。
血は角を曲がっており、つられて角を曲がると…
「…!?」
そこに白の青年が立っていた。さとしは突然の事態に声も出せずに立ち尽くした。青年は相変わらず薄らと透けており向こうの景色が揺らめいていた。学校で会った時と同じように、胸に人形を抱き抱えていた。
「…あれ?」
よく見ると、人形から腕が付いていた。すると青年は人形を愛おしそうに撫でながら歌い出した。
アシ アシ アシ
アシはどこだろ?
アシがなくっちゃ
ぼくと一緒に歩けない
青年が歌いながら、くるりとビルの方へ向きを変え、吸い込まれるようにそのビルの中へと入っていった。
さとしはゆっくりとビルを見上げると、四階建てのようで、廃ビルらしく、やけに汚れていた。壁を触ると煤で汚れており、火事にでもあったのかと予想した。
さとしは少しだけ迷ったが、青年を追って薄暗いビルの中へと足を踏み入れた。
中に入ると小さなエレベーターがあったが、ボタンを押しても反応はなかった。狭く、細い階段を上がりながら周りを観察すると一面煤で汚れており、やはり火事があって廃ビルになったんだろうと改めて思った。
階段には砂やゴミも積もっており、靴の裏がザリザリした。
二階のドアの前には大量のガラクタが積まれて、通れそうもなく、そのまま階段を上がった。
三階には何もなく、ドアノブを回すと簡単に開いた。
ドアを開けると、その向こうには細い廊下が延びており、左右には二つずつ、磨りガラス入りのドアが付いていた。中は荒れ果てひんやりしていて、ここも煤で汚れているが階段に比べるとマシであった。
電気は通っていないと思っていたが、天井の蛍光灯がチカチカと瞬いていた。青年は見当たらず、右手前の磨りガラスの奥が仄かに明るく、恐る恐る扉を開けてみると、非常に強い光がさとしの視覚を襲い思わず目を閉じた。
犬の鳴き声がする。
よく聞くと本物ではなく、機械のオモチャの犬の鳴き声だ。
ガシャン!と大きな音がして、犬は壁に叩きつけられた。
しかし意外と頑丈だったらしく、それで壊れる事はなく、ぞんざいに拾われるともう一度壁に投げられた。
何度も何度も叩きつけられてその度に少しずつ犬は壊れた。
どうして、と誰かが泣いてる。
泣きながら犬を投げつける。
少しずつ犬は壊れ、壁には犬の血が赤く染み付いた。
…血?
腕がもげ、足が折れて、頭が地面に転がる。
バラバラになったさとしが地面に転がる。
子どもの頃のさとしが壁に叩きつけられる。
どうして?
その人は泣きながらさとしを壁に叩きつける。
地面に転がったさとしの首がぽつりと呟いた。
ごめんなさい
目を開けるとそこはただの空き部屋だった。一つだけある窓から街灯の光が差し込み、室内を僅かに照らしている。
さとしが瞬きを繰り返していると、ポロリと涙が落ち、自分が泣いている事に初めて気づいた。
涙を袖で拭い、ここに用事はないと戻ろうとした時、覚えのある匂いが鼻を掠めた。
「…きな臭い?まさか、…!」
さとしが部屋を飛び出すと既に廊下は火の海だった。
「なんで…!?さっきまでなんともなかったはず…!」
燃えるような物もなかった筈、と記憶を探る間も、コンクリートの壁がまるで木材のように燃え上がっていた。
「熱い…!!」
痛い程の熱がさとしを襲い、腕で顔を庇った。炎が廊下の半分を飲み込み、階段は既に火の海に沈んでいた。
「出口…!」
さとしが辺りを見回すと、炎の中で何かが動いた。
「!?」
真っ白な青年が、炎の中でじっとこちらを見つめていた。熱さを感じていないのか炎の中をゆっくりと動いてきた。彼が動くのに合わせてさとしもゆっくりと後退した。
炎の中で青年の左手がゆっくりとさとしを招いた。まるで一緒に行こう、と囁かれているの様な気分になった。
さとしは身を翻して駆け出した。振り返らなくとも炎と青年が追ってきているのが分かった。少しでも止まれば、捕まってしまう、と必死に前へ走った。
突き当たりの左側に狭い階段を見つけ無我夢中で階段を駆け上った。
屋上へと扉を開けて転がるように走り出た。飛び出た瞬間、風がさとしの髪を持ち上げた。
逃げ場がない、と思うとさとしの背後で、青年が炎を引き連れて屋上へと姿を現した。
風に煽られ、炎は益々激しく燃え上がった。さとしは少しでも炎から逃れようと後ろに下がると、腰に手すりが当たった。
逃げられない、と絶望するさとしを白の青年は両手を広げて近づいてきた。まるでさとしを抱きしめようとしているようだった。
段々と近づかれ、さとしは後ろ手に手すりを掴んだ。白の青年がさとしの腕を掴もうとしたその瞬間、さとしは空に身を投げた。
四階から落ちたら、死ぬよな。
とさとしは落ちながら考えた。
でも、焼け死ぬより良い。今は熱くも痛くもない。生暖かいだけだ。
「……生暖かい?」
目を閉じていたさとしが目を開けると、ニンマリ笑顔の男が視界いっぱいに映った。
「…ぶ、ブラック?」
「はい、オレちゃん達のさとしくん」
ブラックはコウモリの羽根を広げて空を飛びながらさとしを横抱きにしたまま呑気に挨拶した。
「え、悪魔…?」
「カカカ!今更気づいたのですか?」
さとしは元々ブラックは人間じゃないだろうと勘づいてはいたが、その正体が悪魔だと気づき顔を青ざめた。マンガとかゲームに出てくる悪魔は、敵だと強く、味方にすると強いけど召喚条件や色々制約があって味方にしてもやっかいという存在で、助けられた事で何かされるのではないかと恐ろしくなった。しかしブラックは笑うだけで特に何かを要求しようという様子は無く、地面にさとしを降ろすが、実は膝が震えていたさとしは倒れそうになったがブラックがグイッと引っ張ってくれたお陰で、なんとか倒れることなくブラックに凭れるようにして立っていた。
「ご、ごめん…!あの、…」
何か言いたいような気がしたが何を言えば良いか分からなくなりさとしの言葉は中途半端な所で途切れてしまった。少しあー、うー、と唸っていたが、やがてさとしはある質問をした。
「…本当に悪魔なんだ?」
「はい!オレちゃん悪魔ですが、何か?」
ブラックが悪魔だと白状し、何故かは分からないがさとしの中ではその答えは非常に納得出来た。ふと、ビルを見ると自分はあそこから落ちたのだと思うと身体が震え出した。
「さとしくん、手を」
「?」
ブラックがそっと手を差し出してきて、さとしはなんとなく手を握った。ブラックの手を握って息をつくと、体の震えは溶けるように収まった。
ブラックの手を握ると何故か妙に落ち着き、さとしはまだ会って二回目なのに、いつの間にこの奇妙な悪魔を頼りにするようになったんだろう。と不思議に思った。
さとしがもう一度廃ビルの方を見ると火の手はどこにも見えず、あれは何だったのだろう、と首を傾げていると
「遅れますよ、さとしくん」
「うん…え?」
さとしは生返事をしてから、言われた内容に振り返った。
「遅れるって…何に?」
「お茶会」
そう言ってブラックはニンマリ笑った。
to be continued…