海に還った日ザザン……ザザーン——
これは何の音だろうか……酷く懐かしい気がする。そうだ…この音は——
「海……」
目の前に広がっていたのは、薩摩の海だった。美しくも悲しいこの海を見るのは随分と久しぶりだ。函館へ移ってからは中々帰ることもできなくなってしまっていた。
しかし、私はどうして海に……
ザザン——
「あ、にさあ…?」
そこにいたのは見まごうことなく、しかし何年も前に亡くなったはずの兄さあだった。
ああ、やはり海だ……海にいたのだ。
兄さあは此方を見て哀しそうにゆるりと笑い海の向こうへ行こうとした。
「っ待ちたもんせ‼行きやんな‼いかじ‼あにさあ‼おいを…おいを一緒につれていきたもんせ‼あにさあっ……おねげ……」
ひとりにせじ………
……と……お……おと………
「音ッッ‼」
ハッッッッ‼‼
「ハァッ…ハァッハァ……ハァ……あにさあ……?」
夢……?
「音…わっぜ魘されちょったが大丈夫か?汗もすげね、タオルでもとってくっ」
今のは、夢だったのだろうか……?目の前でバタバタとタオルを取りに行く後ろ姿は、確かに自分の知っている兄さあの姿だった。
ならばあれは、一体なんだったのか。兄さあは海自らしき服を着ていたが、知っている制服とは少し違っていたようにも見えた。それに、己の姿も幼い姿であった気がする。その頃に海であのような体験をした記憶などもない。そもそも、海は苦手なのだ。
「音、もう大丈夫か?タオルをもってきたが、シャワーを浴ぶっ方が良かか?」
「大丈夫じゃ、タオルあいがと兄さあ」
兄さあが持ってきてくれたタオルを受け取り、汗を拭いながら部屋を見渡す。見慣れた自分の部屋だ。今は何時だろうか、寝る前の記憶が全くないがなにをしていたのか。
「そいにしてん酷う魘されちょったが、ないか悪か夢でも見ちょったんか?」
夢……そうだ、あれは夢だ。夢なのに嫌な感覚がまだ残っている。
「兄さあ…おいを置いて海に入ったことはあっか?」
「音を置いて?そげんこっ仕事以外じゃなかね」
「おいが小せ頃も?」
「当たり前や。そいに音は海が苦手じゃろう?一緒に行ったこともほとんどなかど」
そうか、じゃあやはりただの悪い夢だったのだ。「実は——」兄さあがいなくなってしまうだなんてことは。
「おいが海ん中に行っておらんごつなっ夢……」
「そうじゃ……じゃっで「アハハハハハハッッ‼」なっいを笑うちょっどっ‼こんっ桜島大根ッッ‼‼」
人が本気で心配しているというのにこの兄は!
「いや、すまんすまん。音があんまりにもむぜことゆてくるっで」
「むぞうなんかなか‼‼おいは本気でっ」
「そげんこっ心配せんでん大丈夫や」
ピタリと空気が変わった気がした。あんなに笑っていた兄さあは、真剣な顔で「おいは何処にもいったりせん」と言った。
「どこにも……」
「そうじゃ、おいは何処にもいったりせん。ずっと音ん側におっど」そう言って優しく笑った。
その顔があまりにも優しかったので、なんだかとても安心してしまった。途端ふと、どうにも眠たくなってきてしまった。おかしい、先程まで寝ていたはずなのに……。だが寝てしまってはいけないと、今眠れば二度と兄さあに会えなくなってしまうような気がして、安心したばかりの心にダメだダメだと言い聞かせるように頭を振った。
「また眠たっなってきたんか?よかよか、兄さあはこけおっでな。ゆっくり眠りやんせ」
「やっせん……兄さあに、会えんくなってしまう」
「兄さあは何処にもいったりせんってゆたじゃろう?大丈夫や、悪か夢は……兄さあがもっていっでな」
そう言って優しくその大きな温かい手のひらで頭を撫でられれば、抵抗なんてものはすることなどできずトロトロと眠りに落ちていってしまう。ああ……その手のひらの温もりがどうしてこうも酷く懐かしく感じるのか……。
『なあ音之進……もし、おいがわいの側を離れたとしてん……』
最後に聞こえた言葉は、なんだったか——
目を覚ました私の目に映ったのは、先程までの部屋ではなく見覚えのある執務室だった。どうやら執務中に眠ってしまっていたようだ。そこには当たり前だが兄さあの姿などあるはずもなく、かといって別の場所で生きているわけでもない。私の知っている兄さあは、もう随分と前に亡くなっているのだ。
「ずっと側におってゆてくれたどん、兄さあはやっぱいうそひぃごろじゃ……。兄さあがおらんなら、悪か夢などのうならんど」
ポツリと呟いた音とともに、ポタリポタリと机に染みができていく。
『なあ音之進……もし、おいがわいの側を離れたとしてんおいはずっと側で見守っちょっでな』
ザザン——
聞こえないはずの海の音が聞こえた気がした。