カキツバタ目が眩むほどに白く冷たい空間。狭くも広くも感ぜられるその場所に、アイクはひとり佇んでいた。ここがどこで、自分がいつからここにいるのか、彼が知る術は無い。ただ、軋み掻き混ぜるような痛みが頭を支配し続けるだけだ。
「────っ……」
痛い。痛い。いたい。
騒ぐ脳とは裏腹に、恐ろしく澄んだ静寂がアイクの精神を蝕んだ。必然的に研ぎ澄まされた聴覚がキン、と音でない音を拾い、次第にそれはこだまする。ぼやけて歪む視界。顔を覆うためにかざした手がガタガタと震えている。
「……!」
無機質な空間に突如広がった凍てつくような冷気。嫌な風が着込んでいるはずの彼の肌を嘲笑うように撫でては去っていく。鋭く床を打つヒールの音がアイクの脳髄を直接叩くかの如く近づき、目と鼻の先で止まった。
「────やぁ、アイク」
涼やかにぎらつく赤い虹彩が愉しげに細められる。ひゅう、と音を立てて空を切った刃は血の滲むような''彼''の髪を映し、まるでそこしか居場所を知らないといった様子でその手元へと収まった。
自分のすべてを赤く染め上げた姿で佇む''彼''は口の片端を上げ、「あはっ」と笑った。低く、昏く、毒々しい、でもたしかに''アイクと同じ''声で。
「初めまして。或いは───」
Nice to see you again. My boy.
◇
「どうして、僕の名前、知ってるの」
「……さぁ?なんでだろ」
じわじわと歩を進め近づいてくるその男から反射的に逃げ、後退る。過度の緊張で背中には冷えた汗がつたい、意識と身体が分離してしまったかのような錯覚を覚えた。自己の制御は取れているはずなのに、脳の髄を丸ごと握られているような恐怖。アイクが持ち合わせる強力な武器──知的好奇心──を持ってしても、''それ''はアイクのキャパシティを遥かに超越し忍び寄る。
「じゃあ……」
「ひ、」
なんで。さっきまでもっと、とおくに、
「僕からも質問。いいよね?」
数秒にも満たなかった。
気づけば深いガーネットがアイクの視界を手繰っている。発光せんばかりの瞳は爛々として瞬き、すぅと細められる。
「君さぁ、落ちてるよ。''また''気づいてないの?」
「……なんのこと」
重力に従って赤く滲むグラデーションがふわりと揺れる。不思議そうに小首を傾げる様子もまた不気味に見えた。どういうわけか、これまでよりも更に口角を上げて''彼''は言う。
「……あぁ、そうか。もうわすれちゃったんだね。」
「……っ、ねえ、さっきから何なの、」
「大丈夫だよ、また教えてあげるから」
「っだから、君は一体」
「''Neel''」
どさりと布の重みが床に沈む音がして、チカチカと飛ぶ視界が辛うじて男の靴を捉えたとき、アイクは漸く自分に起きたことを理解した。''彼''の顔がこちらに寄せられ、深いガーネットにその髪が影を落とす。
「あー。言ってなかったね。僕の名前はエキ。わかんないよねぇ、僕は君のことようく知ってるけど、君はなんにも、知らないんだから」
エキ。エキ。
「…………ぁ、」
ただの音として出力されたその2文字が、アイクの脳を介して体中に甘く重い痺れをもたらしていく。頭の奥がくしゃくしゃになって、目尻に生理的な涙が溜まった。心は拒んでいるのに身体は悦を貪っているようで、倒錯的な衝動に目眩がする。
従いたい。ききたくない。屈したくない。壊されたい。こわい。きもちいい。
「………あ、えき、えき」
「うん、僕だよ」
今回はまた、相当我慢したねぇ。
頭の端でエキの声がする。酩酊するように滲む視界をまるで己のものだと感じられない。じわじわと絞られる意識とほのかに歪んでいく欲情。自らが忌み嫌う、Subの深い欲求だ。芯の通った自我を持ち周りに流されるのを是としないアイクと、最も相性が悪く、受け入れられないそれ。強い抑制剤の常用と副作用による体調不良は最早他愛もない日常と化していた。
(なんだろう、この、なつかしい…?かんじ)
荒んだ欲を甘く煮詰めた蜜に浸していくような感覚は、アイクの理性を激しく焼いていく。それが怖くて、嫌で堪らないのに、どこかで安堵し身を任せている自分がいた。
「あはっ、かわいそ。コマンド1個でふわっふわじゃん」
ころころと笑ったエキは目下でNeelの姿勢をとったままぼんやりと揺らぐバイカラーを見つめ、細く骨ばった手を伸ばす。
「不思議だよね。僕と君は同じ身体、同じ精神を持つんだ。君にできることは僕にもできるし、君が苦手なものは僕も苦手。たとえそれらに僕が興味を持たなくても。」
なのにどうしてだろうね。
「僕は持つ欲求はDomのものだ。そして君が持つのはSubの。………まぁ、君は頑固でいつまで経ってもパートナーを作らないから、僕と君とに対な面があって寧ろ良かったのかも。」
温かなぬるま湯の中にいるようだ。何を言われているのかもわからぬまま、優しい手つきで顎を掬われる。氷のように冷たいその手は自分と同じくメッシュの手袋をはめていた。手の甲についたインクの跡に、ああこれは僕の手だと実感する。僕のものなはずなのに、こんなにも冷たくて、無機質で、遠く無感情だ。
「……っ」
どうしよう。どうすれば逃れられる。こんなの、こんなの僕じゃない。僕じゃないはずだ。力に屈して悦ぶんじゃなく、強い自我でそれらを跳ね除け、毅然としていたい。苦しいを快楽と等しく結んでしまう本能を心の底から愚かだと思う。躾られることを求める溶けた欲望なんて知りたくなかった。少なくとも、自分がこうであることはどうしたって許せないのだ。
無理に顔を上げて見たエキの瞳は、夜を煮詰めた影の色をしていた。瞬く虹彩がチカチカと黒い光を放つ。この時が愉快で仕方ないといったように上がった口角は次に出すコマンドを恐らくアイクより欲しがっている。
追い詰められたSubが持つ最後の切り札なんて1つしかない。アイクは震える喉に力を込めて願いを音に込める。
「……っ!」
ぐらり、と酷い目眩で耳鳴りがした。