傾ぎ流れる 空調の風が規則的に首筋を撫でては遠のいていく。温湿度が管理された書庫で、薄緑は今日も何冊かの書物を紐解いていた。
書庫のすみに設えられた机の上に、まるで塔のように積みあがっているのは、いずれも恋愛に関する本である。医学的なものから風俗的なものまで、とにかく恋愛について触れたものなら見境なく本棚から抜きだして、ただひたすらに読みふけった。すべてはあの日、「まるで相手に懸想しているようだ」と膝丸に言われた一言がきっかけだった。
――しかし、果てしない……。
非番のたびにこうして書庫を訪れるようになって二週間ほど経つ。これまでに読んだ本の数は……端から数えてなどいなかったので不明だが、その感情の底知れなさを証明するように、いくら知識として身に着けても自分事として咀嚼できるかはまた別問題だった。
多くの書物が、一方的に相手への思いを募らせる――いわゆる「片思い」と呼ばれる状態を、当人にとって辛い状態であると定義づけている。ならば早々に相手へ思いを告げればいい、と薄緑は思ったが、どうもそういうわけではないようだ。
ある書物いわく、「片思いの相手に告白して断られた場合、これまでの関係が壊れてしまうことが怖い」と。
一方的に恋愛感情を抱かれる、というのは、どうやら気分のよいものではないらしい。それは何となく理解できる。いわば「執着される」ということなのだから、誰だっていい気はしないだろう。
つまり、それまで友人や仲間としてある程度親しかった相手の場合、不用意に思いを告げてしまえば――そして、相手がそれを受け入れてくれなければ、それ以降、相手から「一方的に執着してくる人間」として見られてしまう、ということだ。薄緑と膝丸の関係性は、まさにこの型に該当する。
――これが、「報われない」ということか。
何冊か読み終えた段階で、膝丸の話していたことがようやく理解でき、薄緑はひとり得心した。つまり、「告白」する前に、相手が自分の思いに応えてくれる可能性があるのか、慎重に見極める必要があるのだ。いわゆる「脈アリ」と判断できる状態でない限り、不用意に「告白」してはいけない。――なるほど、相手を慎重に観察するという意味では、戦術にも通じる理論である。
懸想の経験がない、と言った膝丸の言葉を信じるのであれば、現時点で薄緑が思いを伝えたところでよい方向に向かう可能性はない。とすれば、関係性を進めるにあたって取るべき方法は、膝丸が自分に懸想するよう仕向けること――俗っぽく言えば「惚れさせる」ことである。
――できるのか?
辿りついた結論に思わず自分でつっこんでしまうくらい、それは薄緑にとって無理難題に思えた。感情表現の豊かな膝丸に対し、そういった方面で秀でているところが自分にあるとは思えない。戦術に関してならばまだ、彼より経験豊富だという自負はあるのだが……。
――そうか、戦術。
取り留めもない思考に一瞬、閃光が走る。「告白」が受け入れられて「両思い」になる、これが「恋仲になる」ことである――というのがここまでの理解だ。そして恋仲になったふたりは、ともに過ごすことを望むようになる。
つまりそれは、「ともに過ごすに値する」と判断してもらえるなら、「告白」を受け入れてもらえる可能性がある、ということではないか。
わずかに勝機が見えた気がして、薄緑は立ちあがった。新たに探すべき書物はすでにいくつか浮かんでいる。
それはこの日、書庫に入ってから五時間ほど経過した時分のことであった。
――薄緑はまた書庫か。
畑当番を終えて戻ってきた膝丸は、覗いた部屋に非番のはずの薄緑の姿がないことにすぐ気づいたが、行き先にもすぐ思い当ったので慌てるようなことはしなかった。連れだって万屋街へ出かけたあの日から、彼は暇さえあれば書庫にこもって熱心に書物を漁っている。あの時のやりとりを考えれば、彼が何を知ろうとしているかは想像に難くない。
――まさか、薄緑が誰かに懸想しているとは。
言葉を選びつつも、こちらを真っすぐ見つめていた同じ色の瞳を思いだす。以前の本丸でほとんどモノ扱いだったために、ヒトらしい感情の発露が極端に少なかった薄緑が、感情の極致ともいえる恋心を誰かに抱く日が来るとは――付きっきりで世話をしてきた膝丸にとっては、まるで我が子を嫁がせる親のような心境である。
何かしてやれることがあるなら力になりたいが、あいにく膝丸は誰かに懸想したことがない。知識として恋愛の何たるかを語り聞かせることはできるが、今の薄緑に必要なのはより具体的な、そう、例えば経験談や成功例の類だろう。
それにしても、と膝丸は思う。情緒の発達に尽力したとはいえ、あれほど凪いでいた薄緑の心をこうも搔き乱す相手とは、一体誰なのだろう。
膝丸とて、強く焦がれる相手がいないわけではない。それが懸想だという自覚はないが、少なくとも、思いの向く相手はいる――。
――まさか。
薄緑が懸想する相手――それに思い当った気がして、膝丸は思わず書庫の方を振りかえった。じきに夕餉の時刻だから呼びに行かなければとか、あまり根を詰めるとよくないとか、そういう細々した思考を軽々と飛び越えて、ふいに脳裏を照らした答え。
――まさか君は、何処かの兄者に懸想しているのか?
答える相手はない。遠く厨の煮炊きの音を聞きながら、膝丸はしばし、書庫の壁を透かして薄緑の気配を追うようにたたずんでいた。