流れ交わる「手合わせ?」
それは突然の申し出だった。
遠征を終えて部屋に戻ってきた膝丸に、待ちかねた様子の薄緑が声をかけてきたのだ。見れば非番だというのに戦装束を着こんでいて、すっかり支度を整えていたことが窺える。
「別に構わないが……」
「では、道場に」
迷いなく先導する薄緑は、すでに道場の使用許可も得ているようだった。その準備の良さに、後に続く膝丸は内心で首を傾げる。
彼がこの本丸に来て二年、実のところ手合わせを行うのはこれが初めてだった。もともと薄緑の方が練度が高かったとはいえ、段位は同じ特二同士。今ではその練度差も少し縮まって、薄緑はすでに上限、膝丸も上限まで十を切っている状態だ。
――なぜ今になって、というのが膝丸の正直な感想だった。
「昼餉の前だしな、一本勝負といこう」
「分かった」
道場は無人で、当番はすでに手合わせを終えたようだった。互いに木刀を手にし、中央で向かいあう。同じ《膝丸》、同じ戦装束、こうして相対するとまさに鏡写しのごとく、彼らはよく似ていた。
先に動いたのは、薄緑だ。
大きく振りかぶった上段からの一撃を、同じく上段で寝かせた刃で受け止める。二振りの力比べは拮抗しやすい。離れるべきだと判じた膝丸はそのまま刃を受け流そうとしたが、それはさすがに読まれていた。
刃を傾けるより早く薄緑が刀を引き、今度は下からすくいあげるようにがら空きの胴を狙われる。体を捻って交わしたが、鋭い剣風が襯衣越しに肌を粟立たせた。
――やはり、踏んできた場数が違う。
数手仕合っただけで分かる、それは圧倒的な太刀筋だった。膝丸とて、すでに練度上限が見えている身だ。出陣の経験は決して少なくないが、薄緑のそれは突出していた。人の身を保つ最低限の休息と食事のみで、ひたすら戦い続けていたかつての日々が彼にもたらした、容易には追いつけぬ力。その気になれば、一太刀で膝丸を黙らせることも可能だろう。
だが、彼はそうしなかった。猛攻の間に必ず、一瞬の隙が生まれる。そこへ膝丸が切りこむとあっけなく返されるが、深追いはしてこない。
さすがに数回同じことが起こると、膝丸も彼の真意に気づきはじめた。
――薄緑は、稽古をつけているつもりなのか?
切りこむべき一瞬と、反撃から身を守るための一手。仕合をすぐに終わらせず、同じ手を何度も確かめるように繰りだしてくるのは、そうとしか考えられない。
そして結局、思考は最初の疑問に戻るのだった。
――なぜ、今になって……?
膝丸の太刀筋が一瞬迷ったのに、薄緑は気づいたのだろう。あえて離していたであろう距離が一気に詰められる。我に返った時には、木刀の切っ先が唸りを上げて迫っていて、――鈍い痛みとともに、自分の木刀が宙を舞った。
「――俺の勝ちだ」
突きつけた木刀の向こうで、薄緑が息を弾ませながらそう告げる。ああ、と自分でも滑稽に感じるほど気の抜けた声で応じると、彼は眉を曇らせながら膝丸の顔を覗きこんできた。
「大丈夫か? 手を痛めないようにはしたつもりだったんだが」
やはり、手加減をする余裕はあったということか。小さく腑に落ちて、膝丸はもう一度しっかり「ああ」と応じた。
「大丈夫だ。……やはり、君は強いな。練度以上だ」
「俺が君に誇れることはこれくらいだからな」
ならばやはり、膝丸が気になったのは、それをなぜ今になって示したのか、ということだった。実力で相手の優位に立ちたいなら、譲渡されてきてすぐに同じことをしたはずだ。すっかりこの本丸に馴染んだ今になって、わざわざ稽古をつけるような真似をした理由が必ずあるはずだった。
途切れた会話を埋めるように、昼餉を告げる鐘の音が響きわたる。
木刀を片づけ、二振りは広間へ向かった。考えこんでいた膝丸は、すぐ隣で薄緑もまた、同じように何やら考えこんでいたことには気づかなかった。
*
「すまない、薄緑を見ていないか」
初めての手合わせから一週間ほど経ったその日、膝丸は本丸内で薄緑の姿を捜していた。今日は膝丸が非番、薄緑が畑当番の日だったが、昼になっても薄緑が部屋に戻ってこない。不思議に思って畑当番の相手に確認すると、早々に仕事を片づけてどこかに出かけたという。昼餉までには戻ると言っていたようだが、
「まだ帰ってきていないのか……?」
あちこち訊ね歩いても、薄緑の姿を見かけたものはいなかった。昼餉の鐘はつい先ほど鳴ったばかりだ。何度目か、玄関を見に来たもののやはり誰もいない。
昼餉に遅れて廚番の手を煩わせるのは本意ではない、仕方なく自分だけでもと思い直して、広間へ行こうと玄関に背を向ける。その時、閉ざされた玄関戸のむこうで、転送門が作動する気配がした。
進めようとしていた足を思わず止めて、玄関戸を注視する。やがて見覚えのある黒い影が、なぜか少々手間取った様子でその戸を開けた。
「ただいま。――ちょうどよかった、君がいるとは」
大量の本や巻物を抱えた薄緑が、膝丸の姿を認めて安堵の表情を見せる。どおりで戸を開けるのに手間取るはずだ。
「それはいったい何だ?」
「ああ、図書館で借りてきた行軍報告書と布陣図だ。別の帳面に自分の意見をまとめていたら遅くなってしまった」
「行軍報告書?」
聞いたことがあった。各本丸から政府に提出される行軍報告のうち、政府が広く共有すべきと判断したものについては、一部の情報が匿名化されたうえで「行軍報告書」として万屋街の図書館に納められる。そうして戦術や布陣の一例として、他の本丸も閲覧が可能になるのだ。
「わざわざ万屋街まで行っていたのか?」
「ああ、君に渡したくて」
「――俺に?」
問う暇もなく、本の山を渡されて反射的に受け取ってしまう。その重さと思いがけない言葉に面食らったが、当の薄緑は「すまん、少し持っていてくれ。靴が脱げん」とマイペースだ。
よく見れば彼は内番着のままで、上衣にはうっすら土埃がついたままだった。本当に、当番の仕事を終わらせたその身ですぐに出かけたのだろう。何をそんなに急ぐ必要があったのか――。
――もしや、と膝丸の脳裏にひとつの答えが浮かんだ。
彼が懸想している相手というのは、いまだこの本丸にいない、どこかの髭切なのではないか――そう思っていたところに、急に目に付くようになった薄緑の妙な行動。
そういえばここ最近、近侍でもないのに何度も審神者部屋を訪ねているのを見ている。つまり、何か主と相談することがあったのだ。
――もしや、薄緑は、懸想相手の兄者がいる本丸に行きたいのではないか。
そう考えれば、義理堅い彼が、急に膝丸に稽古をつけようとしたり、戦略指南をしようとしているのも頷ける。これはきっと、彼なりの恩返しなのだ。この本丸で二年間、面倒を見てくれた自分への。
「……すまなかった。重いだろう、部屋までは俺が」
無事靴を脱いで上がってきた薄緑が、そう言って本の山を再度受け取ろうとしたので、膝丸は頭を振ってそれに応えた。
「大丈夫だ、俺が運ぼう。昼餉が終わったら、君の意見と併せて読ませてくれ」
これが恩返しだというなら、素直に受け取るのが自分にできる精一杯のことだろう。少し波立つ心に蓋をして笑ってみせると、薄緑は「ああ!」と分かりやすく表情を輝かせた。
行軍報告書と布陣図を前にした薄緑の戦術指南は、持ちこんだ資料の多さも相まって結局夜まで続いた。
やはり踏んだ場数が桁違いなせいだろう、薄緑の語る戦術は、同じ刀である膝丸から見ても興味深いものが多く、気づけば夜が更けてしまっていたというのが正しい。部屋に立ち寄って夕餉を知らせてくれた仲間に「今日は遠慮する」と言付けを頼んだ以外は、二振りきりでずっと頭を突きあわせて話しこんでいた。
「――ああ、もうこんな時間か」
「すまない、時計を見ていなかった。君は明日出陣だったな」
我に返った膝丸に詫び、薄緑が申し訳なさそうに机上を片づけはじめる。そろそろ、不寝番が巡回を始める時刻だった。慌てて布団を敷き、風呂は明日の朝に入ることにして手早く寝支度を整える。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
いつもと変わらない夜の風景。並べて敷いた布団にそれぞれ潜りこんで、心地よい睡魔に身を任せる。
膝丸の耳の奥には、戦術を淀みなく語る薄緑の声がいまだに反響していた。
――君は本当に、俺とはまるで違う戦い方をしてきたのだな。
事情を知ったあの日のことを思いだす。ほとんどブラック本丸同然じゃないかと怒っていた審神者と、慎重に言葉を選んでいたこんのすけ。確かに、薄緑がいた本丸の審神者は、刀剣男士を粗末に扱っていたわけでも、私利私欲のために使っていたわけでもない。手入れは滞りなく行われ、食事と休息も与えられていたと、薄緑は述懐している。
「前の主は、決して悪い人間ではなかった。存分に戦えることを喜ぶものも多くいた」
ある意味、刀剣男士の本分に最も忠実だったのだろう。高い戦績はそれを証明していたし、だからこそ、政府も罰することができなかった。
それでも、と膝丸は思うのだ。人の身と心を与えた以上、心にも気を配るのが審神者たる者の務めではないかと。誰かを思う、まっすぐな薄緑の瞳を知ったからこそ、それをないがしろにすべきではなかったのだと――。
――彼との思い出を懐古するうち、いつの間にか眠ってしまったらしい。ふと浮上した意識が捉えたのは、背中越しに何度も寝返りを打つ気配だった。背を向けた隣の布団で、どうやら薄緑は眠れずにいるようだ。
ゆっくりと、彼の方に体を向ける。障子を透かす月明かりに、ぼんやりと薄緑の頭が見える。彼はこちらに背を向けていたが、その身じろぎには明らかに鮮明な意識があった。
「眠れないのか?」
驚かせないよう低い声で囁くと、彼はすぐに気づいてこちらに向きなおった。
「――すまない、起こしてしまったか」
本丸に来たばかりの頃、布団で眠る習慣のなかった薄緑は、横になって寝るようになってからもしばらくは眠りが浅く、夜半に目を覚ますことが何度もあった。膝丸はそのたびに温かい飲み物を飲ませ、子守唄代わりに取り留めもない日々の出来事を語り聞かせて、彼が再び眠るまで見守ったものだ。
懐かしさに思わず笑みを零して、小さく頭を振った。
「俺もたまには起きる。――しかし、最近はよく眠れているようだったのに、めずらしいな」
「あ、ああ……その、少し、考え事を」
――やはり、想いを寄せる兄者のことが気にかかるのだろうか。
何となく察しはついたが、口には出さない。恋愛経験のない膝丸とて、それくらいの心の機微は理解している。
また、以前のように温かい飲み物を作ってやろうか。そう思い、起きあがろうとした時だ。
「その、膝丸……」
窺うような声音で、薄緑が呼びとめる。
「君の手に、触れても良いだろうか」
「手?」
思いがけない頼みに驚いたが、膝丸はすぐに得心した。うまく眠れなかった頃を思いだして、少し不安になっているのだろう。
起きあがるのをやめて、
「……これでいいか?」
布団から出した手を薄緑の方へ伸ばすと、同じように布団から出てきた手がおずおずと指先に触れ、繋ぐように緩く握りこんだ。
「……温かい」
「君と体温はそう変わらないと思うぞ」
「そう、だな……」
心地よさげに目を閉じたその表情に、これなら眠れそうだと胸を撫でおろして、膝丸は自らも彼の手を握りかえした。
安心したように手を預ける様子は少しあどけなく、――同時に、彼がいずれ他の本丸に行ってしまうのだと思うと、胸に湧きたつ寂しさが抑えられない。
兄を想う気持ちは、同じ《膝丸》だからこそ痛いほど分かる。それでも、理解と感情は別だった。別だと、理解ってしまった。
気づけば、思わず口走っていた。
「……こんなに甘えたでは、兄者に笑われてしまうぞ」
「……兄、者?」
《膝丸》の性と言うべきか、兄刀の名を出したとたん、薄緑は目を開いた。その瞳に宿る、思いがけず強い光に膝丸は面食らう。
「なぜ、兄者が出てくるのだ?」
「すまない、起こすつもりは、」
「もしや、とうとうこの本丸に……?」
「いや、まだだ。それに君には、想う兄者がいるのだろう」
膝丸としてはごく当たり前の話題を出しただけだったのだが、薄緑の反応は予想外のものだった。
にわかに起きあがった彼は、膝丸の手を握りしめたまま、困惑した表情でこちらを見おろして
「……何を言っている?」
と低くつぶやいた。
「そのままの意味だが……」
「俺が? どこぞの兄者に? 懸想をしている、と?」
一言一句確かめるように問われ、さすがの膝丸も彼の様子にただならぬものを感じ、布団の上に身を起こした。手はしっかりと繋がれたまま、二つの布団の間を渡している。
「違うのか?」
「待ってくれ、なぜそうなる」
「君の心をそれほどまでに搔き乱す相手など、俺にはそれしか思い浮かばなかった。それに最近よく、審神者部屋に出入りしていただろう? てっきり、他の本丸に想いを寄せる兄者がいて、主と譲渡の相談をしているのだと……」
「それは違う。主の部屋に行っていたのは、資料の閲覧場所を聞いたり、外出許可をもらうためで……。
いや、待ってくれ、本当に待ってくれ。ならば、俺がしてきたことは、君には届いていなかったということか?」
「君が、してきたこと? ……俺に、とはどういうことだ?」
膝丸の困惑しきった言葉を聞き、薄緑は分かりやすく落胆の表情を見せた。とは言え、膝丸も何が何だか分からない。正直に、思いのままを口にすることしかできない。
「すまない、君を悲しませるのは本意ではないんだ。ただ、俺には何のことだか……」
「……ともにいたいと、思ってほしかったのだ」
「え?」
「思いが通じれば、恋仲になる。それはつもり、ともに過ごす時間が増えるということだろう。
逆に考えれば、ともにいたいと思える相手なら、恋仲になれるのではないかと、そう思ったのだ。だが、俺が君に与えられるものは決して多くない。それこそ、戦の経験くらいしか……」
初めての手合わせ、容赦のない猛攻。
大量の資料に、饒舌な説明。
それが、彼なりの「与えようとした」結果であると――そして、その相手が自分であることの意味にようやく気づき、膝丸は一気に体温が上がるのを感じた。
「――では、君の、……君が言っていた、相手というのは、」
「皆まで言わせるのか」
繋いだままだった手が、ぎゅっと強く握りしめられる。微かに震えているのは、きっと気のせいではない。
それでも、告げられた思いは瞳と同じくどこまでも真っ直ぐで、一分の揺らぎもなかった。
「膝丸、君が好きだ。朽ちるまでともにと、願うほどに」
――いつか、「相手が同じ気持ちでなければ、報われないことではある」なんて、彼の真意も知らずにかけた言葉がぐるぐると脳裏を巡る。
同じ気持ち、なのだろうか。懸想をしたことがない、と言った膝丸の言葉に嘘はない。軽々に応えるべきではないことも分かる。だが、強く握られた手を振り解くことはできなかった。
振り解きたいとは、思わなかった。
そうして、口をついて出た言葉は
「――俺が、か? 兄者ではなく……?」
薄緑は一瞬、あっけにとられた顔で口をつぐんだ。間を置かず、言うべきではなかったと後悔した膝丸だったが、取り消せるものではない。
「あ、いや、君の気持ちを疑うわけでは、」
慌てた言い訳に、押し殺した笑いが重なる。薄緑が片手を口元に当て、俯いて静かに肩を震わせているではないか。
「薄緑……?」
「っふ、……まったく、さすが《膝丸》だな。まあ、俺とて膝丸だ、君の言いたいことも分かる」
ようやく笑いを収め、改めて向けられた眼差しは、とても優しいものだった。
「無論、今代で兄者に会いたいという思いはあるが、……君を想うこの気持ちは、確かに君だけに向いているものだ」
――「一緒にいたい、触れたいという想い」。そうとは知らず、いつか万屋街で彼から聞きだしたことが、今さらのように思いだされる。
少なくとも、その想いには自らも誠実に応えるべきだと、膝丸は口を開く。
「――あの日、君に話したことは本当だ。俺は今まで、誰かに懸想をしたことはないし、……これからも、しないだろうと思っていた。
だが今、薄緑、君に想いを告げられて、俺は少しも嫌じゃないんだ」
薄緑は、願うように言葉の続きを待っている。
「君がいなくなるかもしれないと思った時、とても……寂しかった。……俺は、君と一緒にいたいと思った。
これで、答えになるだろうか」
見つめる同じ色の瞳が細められて、膝丸は薄緑が再び笑ったことを知る。それは、これまで過ごしてきた二年間で初めて見る、心底嬉しそうな、とびきりの笑顔だった。
「――ああ、じゅうぶんだ」
夜半の空気に、喜びが淡く溶ける。
握りしめた手を伝う互いの体温は、いつの間にか同じくらいに熱くなって、二振りの境を曖昧にしていた。