積もりて傾ぐ「すまない、買い忘れがあった。すぐに戻るから、君はそこで待っていてくれ」
うす青い空がよく見える、冬晴れの昼下がり。膝丸と薄緑は、連れだって万屋街へやってきていた。今日の近侍として買い物を頼まれた膝丸に、非番の薄緑が同行を申し出たのである。
「万屋街には数えるほどしか行ったことがないのだ。よければ同行させてくれないか」
この本丸に来てから今日まで、何度か近侍を任されたことはあったが、万屋街への用を申し付けられたことはなかった。嗜好品の類にも興味がなく、身の回りのものは本丸の備品で事足りていたので、そもそもひとりで行ったこともない。
「いつまでも不慣れなままではいけないと思っていた。それに、荷物持ちくらいはできるだろう」
同室の自分へわざわざ留守を知らせに来た膝丸の顔を見た途端、思わずそんな言葉が口から滑り出ていた。そこに含まれる理由に、嘘偽りはない。万屋街に慣れた方がいいだろう、というのも、膝丸の仕事を手伝いたい、というのも、まさしく真意である。
ただ、申し出を後押しした最大の真意は、そのいずれでもなかった。唯一にして単純な思い、それは、
――ともに行きたかった。そう、一緒にいたかった、それだけだ。
踵を返す膝丸の後ろ姿を見送り、薄緑は示されたベンチへ荷物とともに腰を下ろした。時おり吹いてくる風は冷たいが、ベンチにはちょうど日が当たっており、座っていると黒い内番着をじんわりと温めてくれる。
だが、胸の奥にわだかまる後悔には、その熱も届きそうにない。
――自制すべきだった。……あまりにも、軽率だった。
この本丸に――膝丸の部屋に迎えられ、ともに暮らすようになって二年。元いた本丸とのあまりの違いに戸惑い、初めはひどく頑なだった薄緑に、「心」というものが人の身においていかに大切か、根気強く教えてくれたのは他ならぬ膝丸である。
そんな彼の姿をことあるごとに目で追ってしまうのは、仕方のないことだと思っていた。迷い子が親を捜すように、常にそばにいる彼を無意識に求めているだけだと、子どもじみた感情に我ながら呆れてすらいた。
それがどうやら違うらしいと気づいたのは、いつのころだっただろう。この思いは、子どものようにわがままだが無垢ではない。最近になってようやく、薄緑はこの感情の名に思い当った。
――「執着」だ、これは。
強く重いその感情は、時には人を異形にすら変えてしまう。今代で未だ再会の叶わぬ兄刀が、かつてその腕を切り落とした鬼のように。
それは、ようやく心というものに向き合いはじめた薄緑にとって、ひとりで抱えこむには大きすぎる感情だった。
――己の心ひとつ、満足に御すことができないとは……源氏の重宝が聞いて呆れる。
抑えきれない思いならば、せめて秘めておかなければ。そう思っていたのに、万屋街へ行くといった膝丸を黙って見送ることができなかった。あまつさえ、それらしい理由を述べて己の密かな願いを叶えようとしたのだ。
もしや、膝丸が自分をここへ置いて行ったのは、その浅ましさを見抜いていたからだろうか。買い忘れという理由さえ、自分をここへ留め置くための適当な方便だとしたら……。
いつの間にかうなだれてしまった頭のなかを、悪い想像ばかりが埋め尽くしていく。ぼんやりと足元を見つめる視界に広がるのは、内番用の靴を履いた自分の足と、綺麗に敷かれた石畳、そしてその石畳を塗りつぶす小さな影。
――影?
意識のふちに引っかかったそれに目を凝らす。少し視線を上げると、石畳によく似た色の灰猫が一匹、薄緑の足元に寄ってきたところだった。
なぁう、と小さく鳴いた猫は、まるでそうするのが当然であるといわんばかりに、薄緑の足の間を八の字を描くように歩きまわっては、時おり足に額をこすりつけてくる。
「……餌が欲しいのか?」
さりとて、猫にやれそうなものなど持っていない。隣に置いた荷物は日用品や雑貨ばかりで、食べ物はひとつもないのだ。
他に何かしてやれることがあるだろうか。少しの間考えて、薄緑はその小さな頭へ手を伸ばした。しきりに額をこすりつけてくるのは、そこがかゆいからではないかと思い至ったのだ。
足に寄ってくる時を見計らい、指先で額を撫でてみる。初めこそ、意に介さずうろつきまわっていた猫だったが、頭や首、背中と撫でる範囲を広げるうちに、どうやらそれが心地よくなったらしい。立ち止まったばかりか、もっと撫でろと横たわって腹を見せてきた。
「警戒心の薄い奴だな」
とはいえ、信用されていると思えば悪い気はしない。身をかがめ、短い毛並みを整えるように両手で体じゅうを撫でてやる。
しばらくそうして構っていると、また猫がなぁう、と小さく鳴いた。しなやかに体を捻って起き上がり、じっと遠くを見つめている。その視線を追いかけて、薄緑も顔を上げた。
石畳の向こう側、道路との境目あたりで、別の猫が一匹、じっとこちらを見つめている。
その猫がなぁーう、と長く鳴くのと、足元の猫が跳ね起きて駆けだしたのはほとんど同時だった。
促すように歩きだした相手の猫に、駆けだした猫が勢いよく追いついて、二匹はしばしその場でじゃれあう。よく似た体格と毛色の彼らは兄弟だろうか、やがて一緒に通りの向こうへと駆けだして、あっという間に見えなくなった。
「――街猫だな」
猫に向いていた意識を引き戻す、耳になじんだ声。身を起こして振り仰ぐと、新たな紙袋を抱えた膝丸が、いつの間にかベンチのすぐ横に立っていた。
「街猫?」
「万屋街に住む猫だ。特定の飼い主を持たず、万屋街の店主たち皆で世話をしているらしい」
なるほど、どおりで野良猫にしては警戒心が薄いはずだ。ひとり得心して、薄緑は猫たちが駆けていった方を見やる。初めて触れた柔らかな毛並みの感触が、まだ手のひらに残っていた。
「薄緑? どうかしたか」
ふいに膝丸の声が近くなる。いつもと違う様子を案じたのか、彼は自分の荷物も併せてベンチに置くと、その隣に腰かけて薄緑の方を覗きこんだ。
いくつかの紙袋越しの距離は、決して近くはない。しかし、「執着」を自覚した薄緑にとっては、毒になり得る距離であった。
「あ、いや、」
振り向けない。視線を合わせられない。何か言葉を、と必死に探してようやく出てきたのは、
「……もう少し、触れていたかった、と」
執着の対象を挿げ替えただけの、稚拙な言い訳だった。
「あの猫にか?」
「あ、ああ」
いたたまれなさに再びうなだれる。呆れられただろうか。《膝丸》ともあろうものが、まるで童のようだと。いや、呆れられるだけならまだいい。もし、この感情までも気づかれているとしたら――。
沙汰を待つ咎人の心境で、薄緑は固まっていた。その様子を膝丸がどう受け取ったかは定かではないが、刹那、応えを聞き逃すまいとそばだてていた耳に飛びこんできたのは、思いがけず優しい彼の声だった。
「そうか。――そのように、他者に興味を持つのは良いことだ」
「え、」
予想だにしなかった反応に、ためらいも忘れて顔を上げる。ようやく視線を合わせた膝丸は、声音に違わず穏やか笑んでいた。
「そうなのか?」
「ああ。君がもっと触れたかったと望むのは、あの猫に心を動かされたからだろう。
君もずいぶんヒトらしく振る舞うようになったが、動物にそういう感情を抱いたと聞いたのは初めてだ」
無意識に胸へ手を当てていた。確かに、出陣先や非番時に動物を見かける機会はあったが、それはあくまで風景の一部であり、これまで特に気に留めることはなかった。
何かに興味を持つ――膝丸いわく「心を動かされる」というのは、すなわち執着、悪しき感情だと思っていたが、それは悪いことではない、と彼は言う。
それならば、
「……膝丸」
「何だ?」
どうしても、確かめたかった。
「それは、動物以外でも『良いこと』なのか?」
「と、言うと?」
「その、……誰かと一緒にいたいだとか、その相手に触れたいだとか、それも『心を動かされた』と言えるなら、悪いことではないのか?」
薄緑の問いを咀嚼するように、問われた膝丸はしばらく黙っていた。真摯に見つめてくる同じ色の瞳が、まるでこちらの心を見透かそうとしているようで、――見通されてしまいそうで、沈黙と併せて不安が胸の奥を重くしていく。
どれほど経ったか、一瞬言葉を探すように逸らされた膝丸の視線が、再びまっすぐに薄緑を捉えた。そして答えがひとつ、彼の言葉でもたらされる。
「――悪いことではない、と、思う」
煮え切らない語尾だった。自ら苦笑して、膝丸は言葉を続ける。
「君の言葉は、まるでその誰かに懸想しているようだな。だとすれば、経験のない俺が偉そうに言える立場ではないのだが……」
「懸想……なのか、これが」
言葉として理解はしつつも、経験するとは思ってもみなかったものだった。重ねて問えば、自分よりも顕現年数の長い彼は頷く。
「俺にはそう聞こえる。例えば、そうだな……君が一緒にいたい、触れたいと思うのは、その相手だけか?」
逆に問われ、しばし考えを巡らせる。
この本丸に来て、兄刀の髭切にこそ会えていないものの、膝丸以外にも多くの仲間に恵まれた。しかし、この強い思いが向かう先はただひとり、目の前にいる膝丸だけだ。
「――ああ、そうだ」
肯うと、膝丸は目を細めて「そうか」とつぶやいた。その瞳に乗る感情は、今の薄緑には推し量れない。
「……それは悪いことではない、とは思うが、相手が同じ気持ちでなければ、報われないことではあるな」
「それは、相手に訊ねればいいということか?」
思いは言葉にしなければ伝わらない。いつか、膝丸が教えてくれたことだ。前のめりに訊きかえせば、膝丸の手が緩やかにそれを制した。
「君らしい真っ直ぐな意見だが、まずは相手の気持ちを推し量り……いや、この手の話は他の刀に訊くべきだな」
ひとまず帰ろう、と立ちあがった彼に倣い、慌てて置いていた荷物を抱えあげる。危うく忘れるところだったが、今は買い物の最中だ。それに非番の自分と違って、膝丸は近侍なのである。
――懸想、か。そうか、これが。
転送門のある中央広場まで、先に立って歩く膝丸の背を追いかけながら、薄緑は先ほどの会話を反芻していた。
懸想。他者に思いを寄せること。その思いは、親が子を愛するものとも、弟子が師を敬うものとも、仲間が互いを認めるものとも違う。時には不幸さえ呼ぶほど強く、それでもかけがえのない思いを、人は「恋」と呼ぶのだと長く生きる間に知った。膝丸のいうとおり、懸想した相手が同じ気持ちを持っていれば、そのふたりは晴れて結ばれ「恋仲」になるのだ。
他者との関係性において、「恋仲」が特別な意味を持つという理解はあった。そして自分は――膝丸の指摘が正確であるなら――彼にそれを望んでいるのだろう。
しかし、そこで薄緑はふと重要なことに気づく。
『経験のない俺が偉そうに言える立場ではないのだが……』
先ほど、膝丸は確かにそう言った。つまり、彼は誰かに懸想したことがないのだ。
……それはつまり、薄緑の思いが、確かめずとも一方的であることを物語っていた。