大掃除を終えて一息つく暇もなく、年始を控えた本丸は新春の準備に慌ただしくなっていた。お節の準備に追われる特別編成の厨番に、正月飾りの用意を任された買い出し部隊、年内に残務整理を行うべく奮起する事務方一同。特に準備の任務を受けていないものたちも、彼らが抜けた穴を補うために内番や出陣、遠征に余念がない。何せ、時間遡行軍の進軍には盆暮れ正月など関係ないのである。
「敵さんも年末年始くらい休めばいいのにな」
急遽出陣の命を受け、玄関先に集合する第二部隊を横目にそうつぶやいたのは、厨番を手伝う鶴丸国永だった。廊下で立ちどまったかと思えばそんなことを言うので、隣にいた髭切も「そうだねえ」と鷹揚に応じる。
「来年は申し入れでもしてみる? 年末年始は休戦といたしたく、ってさ」
「矢文でも認めてか。はは、確かにきみが放てば届くかもしれないなあ」
そうなれば面白い、とどこまで本気か分からない調子で笑う鶴丸は、蔵から出してきたお節用の重箱を運ぶ途中である。同じ役目を負う髭切は、君の知己が待ちかねているよと彼を促して再び厨へと歩きはじめた。
慌ただしく出陣していった第二部隊の武運長久を願いつつ、自分たちにも果たすべき任はあるのだ。今ごろ厨では、燭台切光忠と歌仙兼定が陣頭指揮を執る厨番が、できあがった料理を詰める重箱の到着を今か今かと待っていることだろう。
あっという間に一日が終わり、暦がまた元旦に近づく。残りわずかとなった自室の日暦を見上げて、そろそろ来年のものを掛けるべきか、と膝丸は座椅子から腰を上げた。秋ごろに万屋で買った新しい日暦は、用箪笥の抽斗にしまってある。残り数枚となった今年の日暦の後ろに、抽斗から取りだしたそれを掛けたところで、部屋の障子が勢いよく開けられた。
「ただいまー。やっと終わったよ」
「おかえり。こちらの準備もできているぞ」
やや疲れの滲む声音とは裏腹に、帰ってきた髭切の表情は期待に満ちている。そんな兄に応えるべく、膝丸が指し示した座卓の上には、たくさんの料理が賑やかにひしめいていた。
「兄者のお望みどおり、今年は洋風で揃えたのだが、どうだろうか」
訊ねつつ、部屋の隅に置かれた小型冷蔵庫から白葡萄酒の瓶を取りだす。年に一度のこの日のため、数年前に給金をはたいてわざわざ設置したそれは、普段はもっぱら髭切がおやつの生菓子入れに使っているが、今日こそが本来の目的を果たすときである。すぐそばの棚から新しく揃えたグラスも取りだすと、髭切の声音も分かりやすく上機嫌になった。
「うん、とても美味しそうだ。さすがお前の見立てだね」
兄の労いを噛みしめる。その言葉だけで、何ヶ月も前から万屋街を走りまわり、美味しい店を探した苦労が報われるというものだ。
この本丸において、髭切と膝丸は年末のこの時期、ほぼ同時に顕現した。人の身を得て片割れと再会し、喜んだのも束の間、慣れない身体で年末年始の忙しさに巻きこまれて大いに戸惑ったのも、今となってはいい思い出である。
顕現から一年が過ぎようかというころ、年末年始の祝いのように、自分たちも二振りだけで顕現周年の祝いをしよう、と言いだしたのは髭切だった。
「お祝いはいいよね。活力が湧いてくる」
彼らは付喪神、末席とはいえ神に連なるものである。祝いは、霊力を癒し高めるには最適な祀りであり、祭りであった。
それからというもの、年末になるたび、二振りは自分たちでささやかな宴席を設け、ともに顕現と再会を祝いあうのを習慣としている。年始は政府から特別任務が課されることも多く、そういった意味でもこの時期に霊力を回復できるのは都合がよかった。
「すぐに頂きたいのは山々だけど」
年に一度の、大切な宴だ。例年通り、二振りはきちんと正装である戦装束に着替える。今年はともに修行を終えたので極の戦装束だ。さすがに防具や手袋、外套は外すが、揃いの洋装をきっちりと着込み、向かいあって席に着いた。
膝丸がグラスに注いだ白葡萄酒の香りが、美味しそうな料理の匂いに混じってふわりと鼻をくすぐる。
「では」
「うん」
改まると何だか落ち着かないが、そのささやかな緊張感がこの宴をハレの儀にするのだ。
揃いの瞳が交わって、今年も互いに相手を祝う。
「兄者、顕現七周年、おめでとう」
「弟も、顕現七周年、おめでとう」
毎年ひとつずつ増える年数は、重ねてきた思い出と無事の証だった。
戦のために顕現された彼らは、未来を約することはしない。次の年もと願えば、それは戦が続くようにという願掛けになってしまう。
だからこそ、過ごしてきた年月を言祝ぎ、千年の果ての巡り合わせに思いを馳せて、今ともに在ることを祝うのだ。
「――美味しい」
「ああ、美味いな」
乾杯を交わしたグラスに口を付けると、冷えた白葡萄酒の爽やかな甘みとふくよかな香りが口いっぱいに広がった。髭切も気に入ったようで、満足げなため息とともにもたらされた賛辞に昂揚しつつ、温かいうちにと卓上の料理も勧める。
「これ、初めて食べたけど美味しいね。どこのお店?」
「ああ、これは万屋の地下にある総菜屋で……」
二振りとも、細身の外見に反して実はかなりの健啖家である。当然自覚しているので、膝丸も相応の料理を用意したのだが、特に髭切は酒が入ると箸が進むたちなので、料理が片付くのにそう時間はかからなかった。
何度目か、髭切のグラスに白葡萄酒を注ごうとした膝丸は、ふと感じた視線に顔を上げる。
「……兄者?」
いつの間にか、じっとこちらを見つめていた髭切は、その眼差しに愛おしむ色を溶かして、ぽつりとつぶやいた。
「――お前が帰ってきてくれて、よかった」
初めて聞いた、兄の弱気が滲む言葉に思わず息を呑む。それが、修行の旅――本丸時間で言う、四日間の別離を指していることは、すぐに分かった。
出陣と同じく、修行も決して道中の安全が保障されているわけではない。ごく希にではあるが、旅立ったきり戻らない刀剣男士もいると聞く。
先に旅立った髭切を、膝丸が四日間ひたすら案じて待っていたように。髭切もまた、膝丸の帰りをひたすら待っていたのだろう。普段滅多に見せることのない兄の本心が、その小さなつぶやきには色濃く含まれていた。
だからこそ、応えなければと思った。
「――当然だ。俺は、あなたの弟だぞ?」
目の前の片割れに手を伸ばす。同じように伸ばされた髭切の手に触れる。手袋を外している今、触れあうのは肉の器の素肌だ。
「あなたにこうして触れられる日が来るとは、思わなかった」
合わせた手のひらをすべらせて、絡めた指をやわらかな体温ごとゆるく握りこむ。
同じように膝丸の手を握りかえして、髭切が目を細めた。
「……うん、僕も」
――色が変わった、気がした。それが空気か、兄の顔色か、自分の思考か、そんなことはもはや些末だ。
同じように感じたらしい髭切が、分かりやすく表情を変えて見せる。
「ねえ、弟」
もう、お腹いっぱいになった?
「……いや、まだ足りぬな」
あなたを食めば、あるいは。
食いしん坊だ、と笑う兄の唇を奪って、片づけをしなければ、なんて野暮な思考は手放して。
「――いいよ」
そう言って許してくれる兄こそが、自分にとっては何よりもご馳走だ――なんて、そんな台詞もやっぱり、野暮というものだ。