呼び方の話「雨さん」
そう呼びかけた声にいつもより半テンポ遅く振り返って五月雨はどこか不思議そうな顔をしていた。
「雨さん」と、彼女は五月雨のことをそう呼ばなかった。何か特別な理由があったわけではなく特に誰かを愛称で呼ぶタイプではなかったのでそのまま呼んでいた。篭手切や豊前達を呼ぶのと同じように、人で言う名字を呼ぶように。だから気にしたことは無かったのだけれど、彼女と仲の良い同期審神者の何人かは彼のことを「雨さん」と呼んでいた。頻繁に聞いていると「なるほど可愛い呼び方だなぁ」と思えてきてなんとなく彼女は五月雨のことをそう呼んでみた。すると思いの外に可愛らしい反応をするものだから彼女はついつい思いつくとそう呼ぶことを繰り返してしまっていた。
◇◇
「あの」
「はい」
「雨さん、と呼ぶのはやめていただけますか」
そう呼ぶことを何度か繰り返したところで五月雨からストップが入った。一応返事はしてくれていたが、駄目だったらしい。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌……」
五月雨は少し考え込むように襟巻きを引き上げる。「そうですね……」といくらか迷うようにしながらも最終的には五月雨は彼女を真っ直ぐに見据えた。思わず背筋が伸びる。
「頭は他所の私のことを雨さんと呼んでいましたよね」
「うん」
友人が五月雨のことを「雨さん」と呼ぶから、ついつい他の本丸の五月雨のことは「雨さん」と呼んでいた。「あそこの雨さん」とか「政府の雨さん」とか。
「雨さん、だと私が呼ばれているとすぐに判断できません。頭が他所の私を呼んでいるような気がして」
五月雨の顔がずいっと近づいてきた。真剣な眼差しの中に彼女自身が映るから緊張してしまう。背筋が伸びたのとはまた違う、胸の内をそわりと撫で上げられるような落ち着かない感覚が生まれる。
「あー……そっか!分かりにくかったね」
「いえ。そうではなくて」
「え」
説明し難い感覚を誤魔化すように明るく言った言葉を一刀両断される。違うんかい。それなら一体どういうことなのか。
困惑した彼女を置いて五月雨は静々と続けた。
「混ざりたくないのです」
「混ざる……」
「私だけを見て、私だけを呼んで欲しい」
「……」
「他の誰かと同じでは、嫌です。」
「えっと……」
そわり、そわりと胸の内を撫でられるような感覚は無くならない。むしろ悪化しているような。なんだか熱くなってきたような。
おかしなことは言われていないはず。刀剣男士として彼女の五月雨は彼だけだと、そう言いたいのだと思う。なのに妙に真剣な瞳が捉えて離さないから胸の内の感覚はやはり無くならなくて、彼女は思わず手をぎゅっと握り込んでしまう。
「なので、五月雨と今まで通り呼んで頂きたいです」
「……………はい」
なんとか絞り出すようにただ小さく返事をすることしかできない彼女を五月雨が変わらず曇りなく見つめてくる。真っ直ぐに落とされた言葉からも眼差しからも逃れられなくて、息が止まりそうで、彼女は五月雨の前に立ち尽くしてしまった。
「頭」
ただ五月雨を見上げていた彼女に、強請るような声が降ってくる。こちらを見つめ続ける五月雨の瞳がなにかを催促するように揺らめくからまた手を握りしめてしまう。何を求めてるのか分かる。今までそう呼んでいたはずなのに何故だか特別なことのように思えてしまって、喉が乾いていて上手く声が出ない。
一度深呼吸をして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「さみ、だれ……」
「はい」
やはり小さくしか紡げなかったがその名を呼ばれた五月雨にはしっかりと聞こえたようで、目の前のアメジストがそれはそれは満足そうに細められたのだった。