共喰いエバー サマー
今でも足の裏に感触がある。歪な瓦礫は靴底を不愉快なくらい押し上げていた。
『左馬刻、俺――』
『やめろ』
今にして思うとこの時にちゃんと言葉にできていたなら、あんなことにはならなかったのかもしれない。
『謝ったりしたらぶっ殺すぞ』
何もかも、燃やし尽くして鎮まる時の揺らぎ方をした瞳は、一瞬だけこちらを見た。
『俺様は謝んねえ。だからお前も謝んな』
拒絶の言葉を置いて、背は埃風に流される。ずっと前に終わっていた。けれどこれが本当の終わりなのかと一郎は感じた。
「左馬刻さん」
見慣れた背中に声を掛けると、必ず振り返るその男はいつも煙草を銜えている。眠そうな顔をしている時もあれば、チリッと棘のある雰囲気を醸し出したこともある。出会った当初は後者が圧倒的に多かった。
「おう、一郎か」
けれど共有する時間を積木のようにこつこつ積み上げると、今みたいに甘やかすように目を細めることが多くなった。一郎はそれが嬉しい。胸の中がむずむずして、でも陽だまりに包まれるように暖かいから嫌じゃない。これが何なのか分からないほど初心ではなかった。
足を止めて待つ男に駆け寄った。
「締まらねえツラしてんな。どうした? なんか良いことでもあったかよ」
隣に立つと左馬刻は再び歩き始め、人の顔を見てニヤッと笑った。
「そうっすね。最近は良いことしかないっす」
「お? ついに女できたか?」
「……違えよ」
そんなこと考えたこともなかった。そりゃ左馬刻と出会う前は彼女ではないけれどそういうことをする、所謂セックスフレンドいえる女がいた。あまりに疲れて拒否する気力も無かったし、やはり年頃の男なので溜めるのも身体に毒だ。女の顔はたびたび変わるから、自分の容姿が良いのだと気づいたのはその時だった。仕事に追われ学校に行くだけで他に何も無かったから、爛れた関係を持っていたが、今は違う。
左馬刻がいる。
この人が好きだと自覚してすぐに女は切った。あっさり引き下がる女もいたし、泣く女もいたし、激昂して平手を食らわす女も何人かいた。そういう女には、ああ、俺はひどい奴だったんだ――と後悔を抱いたけれど、左馬刻と少しでも多くの時間一緒にいたかった。
「じゃあなんだよ」
だからそんな後悔にも潰されることはない。
「左馬刻さんのおかげっす」
何言ってんだ? と物語る表情に一郎は笑った。馬鹿にしたんじゃない。
「まともな仕事で二郎と三郎を食わせられて、ちゃんと家があんのは左馬刻さんのおかげっす。俺だけじゃ無理だった」
「はなっからお前にその気が無かったらこうなってねえよ」
偉そうで、気に入らないことがあれば力でねじ伏せる傍若無人な男は、与えたことに見返りを求めなければ、「与えた」という意識さえ持たない。そういうところが格好良くて眩しい。しかも誰にでも与える訳じゃなくて、左馬刻が気に入った人間にしか許されない領域だ。一郎は良く知っている。だから自分がそこに入っている事実が、なによりも幸福を授ける。
「……うす」
頬がだらしなく溶け落ちる。氷菓が熱に溶けるが如く自然に、止めようがない。そうすると左馬刻は甘ったるい笑みを湛えて、頭をわしわし撫でまわした。
「左馬刻さん、やめてくださいよ」
そう言うくせに、本気でやめてほしいと思っていない。素直に離れてしまう手を引き戻したくなる。
「テメェが腑抜けたツラしてっからだ」
紫煙を軽く飛ばして事務所に入る左馬刻について行く。寂雷も乱数もいなくて、茶色い革張りのソファは二人で占領した。
「乱数と寂雷さんは直接会場行くんでしたっけ?」
「ああ、そうらしいぜ」
今夜のバトルのことだ。
「今日の相手、結構やるらしいっすよ」
教室でそんな話を耳にした。もしかしたら、なんて会話をこっそり鼻で笑った。
煙草を灰皿に押しつけて、ゆっくり吐き出される煙がじわじわと空気を侵食する。左馬刻といることで自然と汚れる肺を眺めているみたいで、くだらないことにそれが嬉しい。左馬刻といればいるほど、その証拠は秘かに肺に残る。
鼻を鳴らした左馬刻に肘で小突かれた。
「俺様とお前だけでも充分だろ? なんなら久しぶりに二人で相手にしてやろうじゃねーの」
大胆な物言いに満たされた。屈託のない笑顔に我ながら狡猾だと思う。信頼されているし、特別可愛がられている自覚もある。でも、こうしてたまに確認したくなる。左馬刻はいつだって我儘な渇きを癒してくれた。
「いいっすね」
乱数と寂雷の不在に会場はどよめいたが、お構いなしに一郎はライムを刻み、左馬刻はフローで魅せた。背中を合わせてマイクを握り、結果は圧勝だった。
歓声が高揚を煽り、細胞はザワザワしたままだった。左馬刻も同じで、二人だけの打ち上げは近くのクラブに繰り出した。
ネオンはステージの照明ほどの熱さは無い。けれども闇を瞬く蛍光色は、視神経から人間を狂わせる。左馬刻は酒を飲んで肌に色を浮かばせ、彼の匂いを濃くした。真近でそれを嗅ぐと鼻の奥がビリリと痺れる。首筋を舐めるように伝う汗がマゼンダに染まる。これを舐めたらどんな味がするのだろう、と考えてしまった。飲み込んだコーラが舌に纏わりついた。
「だから言っただろ。俺様とお前で充分だって」
卑しい妄想を抱いていることも知らない男は不用意に身を寄せた。ベース音と鼓動の違いが曖昧になって、咄嗟に一郎は俯いた。
「そうっすね。大したことなかった」
「ア? 聞こえねえよ、もっとはっきり言えや」
熱い息が頬に染み込んで、酒気が身体にまわるようだった。
「左馬刻さん近いって」
息の掛かり方で笑ったのが分かる。
「なぁに恥ずかしがってんだ」
左馬刻は不用心だ。けれど誰に対してもという訳じゃない。それを知っているから優越と後ろめたさに心が揺さぶられる。考えずにはいられないのだ。もしも吐露したら、この人はどんな反応をするのかと。
だが最後に残された恐怖が言葉を殺す。
「んだよ、ノリ悪りぃな」
「ちが――」
そんなことない。左馬刻といたくて、左馬刻が好きだからどこだろうとついて行く。けれど上手くできないのだ。不満を刻む眉間を均したいのに、その方法が見つからなくて口を噤む。
「ねえ左馬刻サマー。暇なら一緒に踊ろうよ」
「あ、オイッ。ったく仕方ねえな……」
その刹那、止める間もなく左馬刻は女に連れられフロアに潜った。人波に飲まれようと一郎の目には左馬刻が映る。女の腰をさりげなく支えるその腕は優しく、曲に乗る身体は気ままに揺れて、ライトを浴びる顔は笑った。どうせなら自分が笑わせたかった。自分で曇らせたのだ、他人の手でそれを払われるのは嫌だ。
左馬刻といるとなりたいものが多くなる。
左馬刻が煙草を銜えれば煙草になりたいと思った。酒を口にすれば酒になりたかったし、今はあの女になりたい。左馬刻の目を独り占めしている、あの女。何かを羨めば心臓が鉛のように重たくなり、苦しくなるから嫌だった。それでもやめられない。泥濘に沈む自分を助けることなんて無理だ。
しかし、救いがあることを知っている。狡い子供だった。
群れから頭ひとつ高いところにある顔がこっちを見た。何か耳打ちした女が人波に流れていく。たちどころに胸の澱みは透明になって「来いよ」と形を変えた口に従って脚は勝手に動く。いつだって一郎を救うのは左馬刻だった。沖から眺める灯台に縋るように人を避けて行く間、左馬刻はずっと目を離さないでいてくれた。
「……なんすか?」
「なんすかじゃねーわ。ずっと寂しそうに見てたくせに」
「見てないっす」
悟られていたのが恥ずかしくて目を逸らした。けれど冷やかしてくる時の左馬刻は鋭い目元をほんの少し溶かして、大事にされているという自覚を植えつける。それが欲しくて、ついつい視線を泳がせる。すぐに掴まった。
「ほらな?」
赤い瞳の中でネオンが揺らめいて、溶けた目元に溜まっていく。そこで溺れる自分が見える。幻は湾曲した現実だ。白い手が真っ直ぐに正す。
「――やっぱ良いじゃねえか。ピアス」
普段より熱い手が耳元をくすぐり、全身の毛穴が蒸気を上げた。それくらい熱くなったのが分かって、火傷をさせてしまうんじゃないかとも思い込んだ。でも身体が痺れて離れられない。
「一郎? お前聞いてん――」
切に願っていたので、錯覚だと思った。一瞬がひどく長く音がうねる。赤い瞳が歪んで見えた。それが離れて唇からだんだんと熱が消える。
「ってえな……」
フロアを睨む男をじっと見ていた。この人が夢か現実か教えてくれる。
「酒飛んだっつのクソが……。おい、どうした?」
早く、早く教えてくれ。
「もしかしてお前初めてか?」
「……はい」
左馬刻についた初めての嘘だ。
「マジか」
一郎は俯いた。そうしないと嘘ではなく、違うことがバレてしまう。緩んだこの顔は隠さないといけない。隠すべきだと思った。
「アー、あれだ。事故だからノーカン。気にすんなよ」
「……っす」
二回目の嘘。ずっと自分を縛るものになると、思っていなかった。
ネオンが身体を刺して、音が殴りつける。人の熱気に揉まれて、汗が絶えなかったあのクラブは夏を閉じ込めたように暑かった。
風が運んでくる冷たさが幾らか和らいだ三月半ば。軽いアウターを羽織るか羽織らないか、外に出てみて風に当たり少し考える。曖昧な季節だ。
まるで俺たちみたいだ、と。山田一郎はふとそんなことを思った自分を鼻で笑った。慣れない土地に来たせいでこんな感傷に浸っている。ここに来ることを分かっていたから、あんな夢を見る羽目になった。
「――仕事しねえと」
花曇りの空を見上げる双眸は憂鬱とまではいかないけれど、本来の鮮やかさを潜めて今日の天気を映し取っていた。
「兄貴、鍵開いたから荷物入れていいってさ」
「サンキュな。雨も降りそうだし、とっとと終わらせるか」
「了解。養生確認してくるわ」
「おう、よろしくな」
二郎を見送ると視界の端で何かが映った。見上げると三階のベランダから依頼主の女性が手を振っていた。イケブクロを離れ、新しい街で新しい生活を始める彼女はワクワクしているようだ。荷台をほどきながら一郎は手を振り返したが、憂鬱な気持ちは晴れない。
何故ならここがヨコハマだから。
日々を積み重ねて一時は薄れたとしても、記憶は化石となって頭(ここ)に埋まっているのだ。目に触れないものほど、現実よりも明確に存在感をもつ。
あの日を境に一郎は左馬刻と会うことはなかった。背中を見るだけで何もしなかったことを悔やんでいる。だが、どうしたらよかったというのか。言葉は拒絶された。全部あの決別の日と同じ筋書きを辿って、まるで左馬刻と自分はこうなる運命であると念を押されているように感じる。
意識しなければいいのに、と考えるのはもう手遅れだと証明するのと同じだ。――前はもっと楽だった。
「大丈夫だった、よ……」
駆け寄ってきた二郎は、ちょうど歩幅二歩分の距離のところで足を止めた。深い溝でもあるみたいにこれ以上行けないと、困惑を表情に漂わせる。だが一郎は朗らかに笑った。溝なんてないぞ、と。
「ん? どうした?」
「――ううん、なんでもない」
「そうか? じゃあ大物からいくか」
「オッケー」
二郎は二歩分の隙間を一歩で飛び越えた。
気遣うような声音に罪悪感が芽生えるが、そっと心の隅に置いた。あとで一人になった時に拾い上げればいい。他人(ひと)を、弟でさえ誤魔化すのはずいぶん得意になった。誤魔化せないのは一郎自身だが、自分の息苦しさなんて我慢すれば良いと思う。惨めな感傷も自業自得としか言いようのない後悔とも、長い付き合いになった。浅い呼吸も慣れればそれが普通になる。身体を動かす仕事だって訳ないし、普通に生活ができるのだから問題なんてどこにもない。
表面には。
「本当にアッという間ですね、すごい」
「『安くて早くてたくましい』が売りだからな」
感嘆する依頼人に、一郎は笑って返して謝礼を受け取った。開いたままのベランダのカーテンがはためいて、頂上にある太陽の光が差し込む。
「またなんかあったら言ってくれよ」
いつもは一郎が言う台詞を二郎が言った。
「はい。友達にもすごく良かったって紹介しますね」
依頼人に見送られて二人は軽トラに向かう。
「あいつ紹介してくれるって。良かったね」
「そうだな。口コミが広まるのはありがてえな」
笑う二郎の目の中を見た。同じように笑った顔に安堵して、少し肩の力が抜けて運転席に座るとごく自然にハンドルを握り、二郎がシートベルトを締めたのを横目で確認してアクセルを踏んだ。過ぎていく景観に目を配ることなく、一郎はフロントガラスを真っ直ぐ見ていた。
「今日の飯……どうするかな。二郎なんか食いたいもんあるか?」
「あれっ、俺言ってなかったっけ?」
フロントミラーを覗いたら慌てた様子で二郎がこっちを見ている。どうした、と聞く前に声が飛んで来た。
「今日こっちのダチと飯食おうって言ってたんだ」
「なんだ、そうだったのか」
「ごめん兄貴」
交友関係が広いと知ってはいたけれど、ヨコハマまで友人がいるとは思わなかった。申し訳なさそうに眉を下げる横顔を見て一郎はフッと笑った。
「そんな謝ることないだろ。どの辺で落ち合うんだ? 送ってってやるよ」
気持ち良いくらいの兄貴風を吹かせると、二郎はパッと顔を明るくして「中華街の方」と告げた。なんでも今日会う友人は中華屋の息子で、前々から来いよと誘われていたらしい。来る機会のほとんどない街だったけれど、今日の依頼でヨコハマへ来るのを知らせると、夕飯に誘われたのだとか。
「そうか……だったらなんか手土産でも持ってったほうが良いんじゃねえか? どっか寄ってくか」
「ンー? 肉まんとか?」
「いやぁ……」
思わず苦笑があふれる。中華屋に持っていく土産が肉まんはどうなんだろう……そう思いながら、ヨコハマのことはほぼ無知なので、思いつく物はまったく無い。かといって二郎に選ばせるのも少し不安で、中華街近くのパーキングに車を停めると一緒に降りて良さげな土産を物色した。
一郎も二郎も中華街に来たのは初めてだった。異国情緒あふれる景色に目を輝かせる二郎にあてられて、一郎もつい笑みを浮かばせる。そうすると二郎ははしゃぐから、土産を選ぶよりも街歩きに没頭して時間を忘れた。
風が暗い雲を連れてきて、ぽつぽつと雨が降り始めてようやく目的を思い出して、目に映ったエッグタルトを慌てて買った。家で待っている三郎の分も買って、一郎は二郎を見送った。
「ありがとう兄貴!」
「おう、あんま遅くなんなよ」
まだ夕陽が燃えている時間だが、暑い雲に覆われて空は暗い。宙にぶら下がっている提灯が淡い灯りをつけてふらふら揺れている。雑踏の中で一人になった。それに気づくと途端にここを離れたくなる。衝動を囃し立てるように雨脚が強くなり、一郎は小走りした。顔を叩く雨粒に目を細めて、パーキングに向かう。脚を止める理由は無かった。
その声を聞くまでは――。
「クソ偽善者」
地面を蹴っていた脚が見えない手に掴まれて、動けなくなってしまう。拍動のひとつひとつが強くて痛くて、振り向いたらいけないと頭では思うのに身体は勝手に動く。
「俺様のシマで何してやがる」
赤い瞳の中で碧い火が揺らめいている。ほかに目を向けるのを許さない、そういう強引さが周りの景色を燃やし、一郎を袋小路に追い詰めた。頬を伝う冷たいものは、雨だろうか。
「……左馬刻」
「さんつけろってんだ」
脳が疼いて熱を生み出す。氷をねじ込むように冷静になれ、冷静に、と言い聞かせた。けれどどうして自分が、こんなに必死にならなければいけないのか、と憤りがけぶってある記憶が目の前に広がる。もっと楽で、シンプルだった時だ。
憎み合っていた時だって、いつも自分を見つけては喧嘩を売って焚きつけて、心を踏み荒らしていく。どうしようもなく乱されて、言葉通り、本気で殺したかった。殺す気で言葉を吐いた。向けられた殺意の矛先に同じものを突きつける。激情に任せていたあの時は、シンプルで楽だった。
けれど今はそうじゃない。
対立はそうなるように差し向けられたものだったと分かっている。他人に地盤を固められた殺意の上で、殴り合っていた。だから――、
「なんとか言えや。クソガキ」
言えって、何を。
粉塵を舞い上げる風の中で、言葉を拒絶したくせに。
あの殺意は正しくなかった。身勝手に誂えられた道を修正しようとしたのに、邪魔をしたのはお前だ。
心臓を懐かしいものに掴まれた。
「テメェ聞いてんのか」
不快に眉を寄せる左馬刻を見て、一郎も表情を変える。しかし自分では気づかなかった。うっすらと、嘲るような笑みを湛えたことに。何か一線を越えて、解き放たれたような爽快感に襲われる。怒りを飛び越え、悲しいも飛び越えた先にあるのは、骨身に刻まれた憎悪だ。懐かしくて簡単な感情で、どうすれば良いのかも一郎はよく分かっている。
「お前、暇なんだな」
「アア? 舐めた口きいてっと沈めんぞ」
左馬刻の顔が怒りを描く。どうしてか、安心した。刺々しい空気が久しぶりに身体をすっぽり包み込んで、ありのままをぶつけることができる。
「それとも馬鹿って言ったほうが良いか」
「……テメェ。ふざけてんじゃ」
「ふざけてんのはどっちだよ」
腹に響く低い声だった。
昔からそうだ。嫌いだと、嫌悪も通り越した殺意を抱いているくせに、必ず突っ掛かってくる。本当に嫌いだというのなら、存在まるごと消してしまえばいいじゃないかとどれほど思ったか。
左馬刻の声に止められ、苛烈な感情を向けられ、そのたびにどれだけ苛まれたか。どれだけ悩んで苦しんで、やっと同じ感情を突き返せるようになったのに、全部他人の掌で踊らされていた。
また悩んで、悩んで、苦しんで、苦しみぬいて、やっと区切りをつける機会を見つけたのに、踏み潰されてまた苛む。
憎しみを抱くのが、正しいだろう。
「お前の身勝手に付き合わされんのはもうたくさんだ!」
ここがどこか、誰がいるのか。左馬刻がすべて消したおかげで、一郎は吠えるように吐き出した。肩を激しく上下して、荒々しく息を吐く一郎を振り続ける雨が宥めようとする。けれどそんな些細なものでは激情を洗い流すことはできない。
最初は目を見張った左馬刻は、だんだんと顔から感情を削ぎ落して冷たい視線で射貫く。傍から見れば鏡合わせのようだ。
「先に勝手したのはどこのどいつだ? 俺様のシマに潜り込みやがって……」
見下すように鼻先を向けて左馬刻はマイクを手にした。
「よっぽど死にてえらしいなぁ」
一郎もマイクを掴んだ。持ち歩くのが習慣になっているが、起動音を聞くのは久しぶりだ。耳鳴りみたいな狂った音が、裸の心を突き飛ばす。理性はすっかり棄ててしまった。
「お前の方こそ――」
「ストップ、ストップ! やめなさい二人とも!」
破裂音に近い声がして、左馬刻の姿が遮られた。途端に周囲の景色が一郎の双眸に飛び込んできた。
「っせえぞ銃兎! 邪魔すんな!」
「うるさいのは貴方ですよ。少し目を離した隙に……面倒を起こすなといつも言っているでしょう」
近くにいるのに遠巻きな視線。暑い雲に覆われた空は暗くて、危うげな灯りをつけた提灯が静かに揺れる。雨の冷たさが肌を伝う。本能に従って暴れようとする左馬刻を止めようとする男。
荒れ狂っていた波が静まり、水平線が綺麗に浮かぶ。そんな風に記憶が過ぎる。
――オレモムカシハ。
目を逸らした。記憶からも目の前の光景からも。
「馬鹿がご迷惑をお掛けしました。こちらは気にせずお引き取りください」
「馬鹿ってどういうことだ。テメェも沈めんぞ銃兎。つーか迷惑掛けられてんのは俺様の方だわクソが」
マイクをしまって、絶えず水滴が滑っていくビニール袋を見た。中身も濡れてしまっているかもしれない。
「ちゃんと見張っとけよ」
吐き捨てて一郎は踵を返した。背後の喚き声には耳を塞いで、走りはせず歩いて離れる。逃げたなんて思われたくないから、早くこの場を去りたいという衝動は堪えた。
やっぱりヨコハマなんて来るんじゃなかった。
頭の上でバチバチと音が鳴り続ける。いつにも増して耳障りだ。
「馬鹿は死んでも治らないと言いますが、これを機に試してみるのはどうです?」
相変わらず人をとびっきり不快にさせる嫌味をほざく銃兎は、左馬刻の眼光を無視して煙草を吸っている。目の前の焚火がバチっと音を鳴らした。
「銃兎ぉ。そこら辺に埋めてやろうか」
左馬刻は静かに目を細めた。
「その前に豚箱にぶち込んでやるが、文句は無いな? ぶち込まれる覚えが無いとは言わせませんよ」
背中をぴんと伸ばして鼻持ちならない態度で言うからこの上なく癇に障る。他人を煽ることに関して、銃兎は達人だった。
「私がいなくなって困るのは、誰でしょうね?」
止めの一言にぐうの音も出ず、左馬刻は舌打ちした。火の向こうにある満足そうな笑みを拝むのは御免で、銜えた煙草に火をつける。煙を吐いてテントから空を覗き込んだ。灯りの無い森では夜空は一層黒く、飽きもせず雨を落とし続けて、ひどく気分を滅入らせる。湿った空気のせいだろう、いつもならすぐに姿を消す紫煙は厭味ったらしく居座った。
「本当に、困ったもんですよ。お前には」
「誰がいつテメェに迷惑掛けたってんだ」
「やっぱりお前は馬鹿だな」
「アア?」
心底呆れた声音に向き直ると、もはや諦めの漂う目で見られていた。
「テメェやっぱ今すぐ埋めてやらぁ。おい理鶯、スコップ貸せや」
「――もうすぐ食事ができるからあと少し待っていろ」
少し離れたところで鍋の具合を見ている理鶯がこっちを見ずに言って、まるできかん坊を宥めるような低い声にまた舌打ちする。視線が合った銃兎はなにか見透かしたような目をしているから居心地が悪くなった。
「……なに見てやがる」
「どうせお前から突っ掛かったんだろ」
ちょうど雨が降り出した夕方の出来事を言っているのだろう。今日の小言の材料はそれしか与えていない。そっぽを向いて深く煙草を吸うと、肩から吐いたような溜息が聞こえる。嫌味な男だ。
「待たせたな――ん? どうした二人とも」
器用に三つの椀を持った理鶯からそれぞれ一つを受け取った。旨そうな匂いがするが何が入っているか分からない。口にする瞬間を少しでも先へ伸ばそうと足掻く銃兎が今日の一件を語って聞かせ、左馬刻はその間、器の中身をまじまじと見ていた。
「――なるほど。そんなことがあったのか」
聞くだけ聞いて、理鶯はスープを啜った。食べないのか? そう促されて、左馬刻と銃兎は視線で「お前が先に逝け」と互いの背中を突き飛ばし合った。
「状況から察するに、左馬刻が先に声を掛けたのだろう?」
理鶯が言ったのを聞いて銃兎が勝ち誇った笑みをこれ見よがしに浮かべる。思い切り煙草を潰した。
「……なんでそう思うんだよ」
「それが自然だったからだ……早く食べるといい。冷めてしまうぞ」
お先にどうぞ、と手を向ける銃兎を睨みながら一口飲み込んだ。あっさりした塩味で旨いが、むにゅっとした歯触りのものがなんなのかは、考えないようにした。ヤケになって立て続けに流し込むと、理鶯が嬉しそうにして銃兎を見る。
「銃兎も遠慮せず食べろ。今日は貴殿らが久しぶりに来る予定だったからな。多めに作ってある」
「あ……そうなんですか……そんな気を遣わなくても……」
顔を青くする銃兎を目にして、左馬刻はニヤリとほくそ笑む。鍋を空にするまで今日は逃がさねえ。じれったいくらい恐る恐る口を近づける様子から目を離さない。
「それで、小官の見解は当たっていたか?」
「お見事ですよ、理鶯」
すかさず口を挟むことで一口を逃れた銃兎をきつく睨みつけた。
「走っていく彼をわざわざ呼び止めて、馬鹿の一つ覚えよろしく挑発して、口答えされたら逆上したんですよ。この馬鹿は」
成り行きを遠巻きに眺めていた銃兎の誇張した言いぶりに思わず立ち上がった。けれど殴り飛ばすにも、理鶯の作ったスープが片手にある。不義理を行わない理性は残っていた。銃兎が白んだ視線を作った。
「……貴方ね、普通分かるでしょう?」
「アア? 何がだボケ」
はあっ、と声を出して溜息をつく。ブチリと頭の中で音がして一歩踏み出せば「落ち着け」と理鶯に諭されてしまい、勢いを殺された。舌打ちしてベンチに腰掛けて銃兎を見れば待ち構えていたみたいに続ける。