大切な人「マスター!!」
ガルの視線の先には、夥しいほどの血を流して倒れ込むエイトの姿があった。慌てて駆け寄ろうとするガルの前に、大きな熊の魔獣が立ちはだかる。
「くっ……!」
魔獣が腕を振りかぶった。鋭い爪が空を裂き、既のところでガルが飛んで避ける。
小柄で俊敏なガルにとって、避けるだけなら問題はない。しかし、今は一刻も早くエイトのもとへ辿り着かなければならなかった。なんとか進もうと焦るガルの行く手を魔獣が阻む。
「マスター……!」
魔獣の攻撃を避けつつ、エイトの様子を確認する。……いない。いつの間にか、倒れているはずのエイトの姿が消え、ただ大きな血溜まりだけがそこにあった。
「え、マ、マスター!?」
エイトを襲っていた魔獣が、こちらを向く。その太い爪にはエイトの服の切れ端と、血液がこびりついていた。それを見た途端、ガルに衝撃が走る。頭から冷水をかけられたような感覚に、無意識のうちに全身が震えた。
どうしよう、どうしよう。ガルの頭の中は真っ白だった。息の吸い方さえ分からなくなり、少しずつ視野が狭まる。耳の奥で、カイルがなにかを叫んでいる気がした。
「みんな、一旦退くよ!」
こうもりの姿で宙を舞うエスターが叫ぶ。それも遥か遠くのできごとのようで、ガルはぴくりとも動けなかった。そんなガルに気づいたエスターが、彼の首輪に繋がった紐を懸命に引っ張る。
「ガル! 逃げよう!」
ようやく我に返ったガルの頬を、魔獣の爪が掠めた。猛追を慌てて避けながら、ガルはエスターを見上げる。
「でも、でもマスターが……!」
「ご主人様なら無事だよ! ガルも感じるでしょ!? ご主人様の魔力を!」
ガルは戸惑いながらも辺りを探る。……微かにだが、エイトの魔力は確かにあった。遠のいていくそれを感じ取り、安堵したガルの身体から力が抜ける。彼はぶるぶると首を振ったあと、両手で頬をぴしゃりと叩いた。
もう恐れるものはない。ガルはふらふらと飛び回るエスターを軽い身のこなしで捕まえると、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
なんとか魔獣の群れから逃げきったガルとエスターは、暗い森の中を歩きまわり、はぐれてしまった仲間を探していた。少し離れた小川沿いで休む二人をやっと見つけ、ガルが安堵の息を吐く。
二人のそばにエスターを下ろすと、彼はぼふんと音を立てて人型に戻った。エスターは腹部に傷を負っているらしく、衣服に血が滲んでいる。痛みに端正な目元を歪ませながら、彼は眷属たちに問いかけた。
「みんな……怪我はない?」
「あぅ……エスター、怪我してる……」
狼狽し、エスターの腹部をちらちらと見ながら言うガルは無傷だ。玖夜とケシーも、魔力の消耗による疲労はあれど、深い傷を負ってはいない。
エスターはなにかを考え込みながらも、ガルに向けて小さく首を振った。それから、安心させるかのように微笑む。
「……ボクは平気。心配しないで」
それを聞いたガルの表情が少し緩む。エスターは真っ白なハンカチで腹の傷を拭いつつ、言葉を続けた。
「ご主人様も、きっと大丈夫。ブレイドが連れて行ったから」
そう言うと、エスターは森の奥を見据えた。ガルも小さく頷く。ガルもまた、ブレイドとは面識があった。ブレイドは強い。エスターの言うとおり、きっと大丈夫だ。
「……ふん、あの魔法人形は治癒魔法も使えないのに、何が大丈夫なんでしょう?」
それまで黙って聞いていた玖夜が、やけに刺のある声で言う。彼は苛ついているらしく、冷ややかな眼差しでエスターを睨んでいた。玖夜の言葉に、エスターが薄い唇を噛む。その表情には焦りが滲んでいる。押し黙るエスターを見たガルの胸中に、重い影が差す。ガルもまた、なんと言えばいいのかわからなかった。
重い沈黙を破ったのは、ケシーだった。小川のそばに屈んだ彼は、大きな手のひらで水を掬いあげながら言う。
「ブレイドは、知識が豊富。治癒魔法が使えなくても、薬が作れるし手当もできる」
ケシーはそう言いながら、ざばざばと腕の小傷を洗い流す。同時に治癒魔法もかけていたのか、傷口は既に跡形もない。ガルはそんなケシーを見ながら、ブレイドの家にあった本の山のことをぼんやりと思い出していた。
しかし、玖夜は馬鹿にするかのように鼻で笑う。
「おやおや、ずいぶん暢気ですねぇ。やわな人間があんな大怪我を負って生きていられるとでも? そんなことも分からないほど馬鹿でしたか?」
玖夜が冷ややかな声音で言うと、ケシーの動きが止まった。睨み合う二人の間に、張り詰めた緊張感が漂う。
ガルはどうしていいか分からず、二人を交互に見るだけだった。間近で喧嘩を見るのは初めてで、どう声をかければいいのかわからない。なにもできないことが悲しくなり、ガルの獣耳がしゅんと垂れる。尚も睨み合う玖夜とケシーの間に、エスターが割り入った。
「……今はケンカしてる場合じゃないよ。敵の素性も分からないんだ。一旦屋敷に帰って対策を練ろう。……それに、早くご主人様を迎えに行かなきゃ」
諫めるエスターの眼差しには、静かな炎が宿っていた。炎の中に怒りを滲ませて、彼は森の外へ向かって歩いて行く。
「……ふん」
未だ納得のいかない様子の玖夜の隣で、ケシーが静かに頷いた。二人が歩き出したのを見て、ガルも躊躇いながら一歩を踏み出す。みな押し黙り、帰路につく足どりは重かった。
エスター邸に帰りついた一行は、出迎えた他の眷属にひと通り現状を報告した。みな不在のエイトを案じ、なかには取り乱す者もいた。
応接室に、重苦しい空気が漂う。そんな中、ガルは初めて会う眷属たちへの挨拶を済ませた。それから、モルフィスに連れられ、応接室を後にした。
「この部屋、使っていいってさ」
案内された一室は、ガルの想像以上に豪華なものだった。もともとはゲストルームだったのだろう。ベッドやチェストのほか、棚の上には高級そうな壷や花瓶が並んでいた。
部屋にはトイレや浴室まで備え付けてある。どれもガルには到底使いこなせる気がしないほど高性能なものだ。そのすべてを好きに使っていいと言われ、ガルの瞳が戸惑いで揺れる。
「こ、この部屋……オレだけで……?」
「おう。足りないものがあったら言えよ、すぐ用意させるからさ」
室内の設備をひと通り説明し終えると、モルフィスは慌ただしく部屋を出ていった。広い部屋に一人取り残されたガルは、どうしていいのか分からず床に座り込んだ。ふかふかのベッドにかかるシーツは真新しく、近づくことさえ躊躇ってしまう。
膝を抱えて座ったガルは、どうやら疲労が溜まっていたらしく、すぐにうとうとし始めた。まどろみの中で、エイトの笑顔を思い浮かべる。それだけで胸の奥が温かくなるような、不思議な感覚だった。
しかし、次の瞬間には眼裏に赤い色が弾け、エイトの表情がみるみるうちに歪んでいく。地に伏せて悶えるエイトの姿がやけに鮮明で、ガルは浅い眠りから飛び起きた。早鐘を打つ心臓を両手で押さえ、荒い呼吸を整える。
いてもたっても居られず、ガルは部屋を飛び出した。
そうして広い屋敷の中を無我夢中で走り回るうちに、部屋に戻る道が分からなくなり、ガルは途方に暮れていた。窓の外はすっかり暗い。静かな屋内は、森の中よりもずっと孤独を感じる。胸中でカイルに呼びかけてみても、眠っていて反応がない。
しょぼくれたまま歩き続けるガルだったが、突然足を止めた。くんくんと鼻を動かし、辺りの匂いを探る。
「……この匂い」
ガルの瞳が輝く。彼は軽快な足どりで匂いの元に向かって走り出した。そうして、あるドアの前で立ち止まる。
間違いなく、エイトの匂いだった。馴染んだ香りに、ガルの尾が自然と揺れる。
「あれ? ガル?」
ドアノブに手をかけたところで不意に呼びかけられ、ガルの身体がびくりと震えた。勝手に部屋を抜け出して、怒られるかもしれない。恐る恐る振り返れば、たくさんの書類を抱えたエスターが、不思議そうにガルを見ている。
「どうしたの? 眠れない?」
エスターの問いに、躊躇いながらもガルが小さく頷いた。情けなくて、尻尾の先が自然と下を向く。
「……勝手に部屋を出てごめん。オレ、落ち着かなくて……」
「どうして謝るの? ここはもうガルの家なんだから、好きにしていいんだよ」
……オレの、家。エスターの口調は自然で、至極当たり前のようだった。それが嬉しくて、ちょっと照れくさい。
「……エスター、傷はもう平気なのか? それ、オレ持つよ」
「ううん、大丈夫。まだ飛べないけど、痛みはだいぶマシになったから」
エスターが笑いながらそう言うと、ガルの表情が緩んだ。それから、ガルはエスターの腕の中の書類に目を止める。ガルの不思議そうな視線に気づき、エスターが苦い笑みを浮かべた。
「……えっと、これは死の土地の地形図とか、暗黒の森のモンスターのリストだよ。ボクは捜索に行けない分、できることをやろうと思ってさ」
「そうか……」
できること。オレにできることって、なんだろう。ガルの脳裏に今日のできごとが過る。エイトを守れなかった。喧嘩を止められなかった。なにもできなかったことを思い出し、ガルの身体がどんどん縮こまっていく。
暗い顔で俯くガルに、突然エスターが身を寄せた。書類を抱いたままガルの肩に頭を乗せ、囁くように言う。
「……玖夜もケシ―も、みんなご主人様のことが大切なんだよ。大切だから、あんなことがあって……心配になって、焦ってた。ボクも同じ。ガルも同じ……だよね?」
「……うん……」
「大丈夫。みんな、仲間だよ。支え合って、助け合おう。みんなで、ご主人様を見つけようね」
エスターの言葉は穏やかで、冷え切ったガルの心を優しく包み込む。寄りかかるエスターの身体から伝わるのは、体温だけではなかった。
二人はしばらくそうして寄り添いあっていたが、不意にエスターが顔をあげた。目の前にあるドアをちらりと見てから、ガルに向かい微笑む。
「……ここ、ご主人様の部屋なんだよ」
「あ……やっぱり……」
それを聞いて、ガルは寂しげな表情でドアを見上げた。その姿を見たエスターの笑みが、ますます深くなる。
「ガルなら、入ってもいいよ」
「いいのか?」
エスターの言葉を聞き、ガルの顔がぱっと明るくなった。きらきらと輝く瞳で、エスターとドアとを交互に見ている。エスターはこくりと頷き、ドアノブに手をかけた。
「ご主人様の魔力の香りって、安心するでしょ?」
そう言ってにっこり笑うと、エスターはドアを押し開ける。ドアの隙間からエイトの痕跡が溢れ出し、それだけでもガルの胸はいっぱいになった。ガルはエスターの手を取ると、心の底から想いを込めて言う。
「……ありがとう」
「うん。……明日から、一緒にご主人様を探そうね。おやすみ~!」
明るい声で言うエスターは、廊下を小走りで去っていく。小さな背が角を曲がるのを見送ってから、ガルはそっとドアを閉めた。
「……うん、エイトの匂いだ」
部屋に入ったガルは、まず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。それだけで胸の奥から勇気が湧いてきて、今ならなんでもできる気さえする。
ベッドの上には、綺麗に畳まれた毛布が置いてあった。ガルはそれを持ち上げると、ふかふかの生地に顔を埋める。
「……マスター……」
エイトの香りが色濃く残る毛布を大切そうに抱き締めたあと、ガルはそれを頭からかぶり、ベッドの上に丸くなる。エイトの残り香に包まれて、ガルはようやく心から安心できた。
(エイトはオレに優しくしてくれた。ついていってもいいって言ってくれた。オレの……マスターになってくれた。マスターのおかげで仲間ができて、帰る場所ができたんだ……)
大切な人のために、自分が今できること。しなければならないこと。ガルにはもう分かっていた。
ガルはふとエイトが撫でてくれたことを思い出し、自分で自分の頭を撫でてみる。エイトの時のような心地よさはないが、溜まった疲労も相まってすぐに瞼が重くなってきた。もう腕が上手く動かせない。ガルは撫でる手を止め、顔の横に置いた。
(オレ、絶対マスターを見つけるから……)
うとうとするガルの眼裏に、エイトの笑顔が浮かぶ。また笑って欲しい。また、名前を呼んで欲しい。また……
「……また……撫でて、ほしいな……」
エイトの香りと毛布の温もりに包まれ、ガルは穏やかな眠りに就いた。