白い雨がはらはら夜風に吹かれている。向こう岸に咲くソメイヨシノを遠くながめ、博士は左目をやさしく細めた。となりでは竹の縁台に腰掛けた玉森が唐草の風呂敷包みを開けたところだ。中には細身の酒瓶とカルスピの小瓶が入っている。酒のほうを博士に渡すと、二人は栓を抜いて静かに乾杯をした。氷川酒造の慣れた辛さをひとくち飲み、博士はほっと息を吐く。
散歩がしたいと言い出した玉森に連れられ夜の上野に来ていた。不忍池の桜はほとんど散りかけだったが出店はちらほらと開いており、花見客もそこそこ歩いている。あるいは桜を口実に飲みたいだけの者もあるのだろう。
二人は池のそばの柳の下に座り、広大な蓮池とその向こうの景色をながめていた。池の真ん中には緑の屋根の弁天堂があり、それと岸をつなぐようにして数本の道がのび、道のそちこちに桜が咲いていた。池の水面は落ちた花びらで淡く光っている。二人はうすぼんやり暗いあたりに座っていたので酒飲みの笑い声は遠く、出店の小太鼓の音がどこからかうっすらときこえていた。Romanticな雰囲気に博士は思わず頬をおさえてとなりの恋人を振り返る。
玉森は猫のようにチロチロとカルスピを舐めていた。昼間は暖かかったから纏っているのはシャツ一枚にスラックスだけだ。寒くていつものように飲む気がしないのかもしれないと思い、博士は背広を脱いで玉森の肩にかける。玉森はきょとんと顔を上げ、ようやく寒さに気がついたように博士の上着をよくはおり直した。
「玉森くん、大丈夫ですか? なにかあたたかい食べ物でも買ってきましょうか?」
博士は気遣ってそう言ったが、玉森はめずらしく首を横に振った。
「いえ、いいです。お腹は空いてません」
そういえば今日は三度寝していたのを博士は思い出した。玉森の昼は遅かったのだ。
「じゃあ、えぇと……お酒は、あ、いや、お酒はよくありませんね、」
アルコールを入れれば一応体温は上がるだろうがその先が困る。一週間ほど前の出来事を思い出して博士は思わずひたいをおさえた。
花澤たちと皆で花見に行ったときのことだ。桜はちょうど満開で、水上や川瀬もやってきて五人で酒を飲んだ。いつもは大酒を飲まない玉森もそのときばかりは気が大きくなって飲みすぎてしまって、危うく公衆の面前で脱ぎかねないところまでいったのだ。仕方なく博士がぐるぐる巻きにしてゲロを吐く玉森を持ち帰るはめになったので始末が大変だった。
(いや、玉森くんの吐瀉物であれば素手でだって触れられますし、あれはあれで、あの後縛られた玉森くんがとても可愛かったのでいいのですが、……いやいや、そうではなくて)
思い出してつい反応してしまいそうになるのをおさえ、博士はせきばらいをして玉森を振り返った。
「玉森くん、あの、寒いようでしたらどこか店にでも、」
「いえ、ここがいいのです。……博士もここにいてください」
玉森はそう言って博士のシャツを引き、黒い髪を彼の肩にさらりとのせた。ふいに近づいた匂いで博士は酒なんかよりよっぽどクラクラする。
博士が暗がりでほんのり頬を染めているのを見ると、玉森はおもしろくなったのか人さし指と中指をのばして博士の太腿をカリカリと引っかいた。
「ひゃあッ!?!? た、たたた、玉森くん!?」
「なんですか、騒々しい」
「だだだっ、だって、指、ゆびが……!!!!」
玉森は素知らぬ顔で指を立て、人が歩くみたいに二本足で歩かせてみたり、あるいは膝の皿の上で五本の指をひらいてくすぐってみたりした。
「はっ……は、はぁぁぁあん……!」
「気色悪い声上げないでください、人が見てますよ」
振りかえれば往来をゆく数人がたしかにこちらを見ていて、博士はあわてて自分で自分の口をふさいだ。自分で注意したくせに玉森は博士の太腿をつねったり指で線を引いたりするので博士はすっかり真っ赤になってしまった。
長身が前かがみになりかけたところで玉森はパッと手を離す。それからぽつりとつぶやいた。
「博士はおもしろくないですね」
「えっ」
ガーンと博士は顔を青くした。さんざん博士で遊んだくせ、対岸をながめて玉森は不満げに言う。
「飲んでも全然酔わないし、酒ではすこしも赤くならない。泣き上戸や笑い上戸にでもなったら楽しいのに」
向こう岸では十人ほどの男たちが敷物を広げて騒いでいた。数日前同じようにしていた水上や川瀬のことを思い出し、博士は恐縮しきって頭を下げる。
「す、すみません……あの、玉森くんのお望みでしたら僕も酔えるように努力しますので……き、嫌いにならないでください……!」
博士が真剣にそう意気込むと、しかし玉森はかるく笑って冗談デスといった。心臓に直接冷たい夜風を吹きかけたあと、あたたかな春風で撫でるような言葉だ。博士は思わずはぁ、と吐息をもらした。
玉森はしばしば、こんなふうに博士を弄んで地獄に落としては天国に昇らせるような物言いをした。博士はそのたび激しく一喜一憂をさせられるが、けれどその気まぐれを心憎く感じたことは一度もない。玉森の機嫌を損ねるのはたしかに悲しいが反面でもっと好きになってもらえる努力ができると思ったし、あるいは玉森の機嫌がよければ博士も一緒に嬉しくなった。けっきょく玉森がとなりにいるならなんでもいいのだろう。
博士が苦笑して日本酒をやっていると、カルスピの空き瓶をトンと置いた玉森は博士の左腕にぴたりとくっついてもたれた。あたたかな体温が博士の肘のあたりで小さく身じろぎ、それから椅子についた手の甲を上からそっとつかんで握る。
「ただ、……ただ、いつもと違う博士が見られたら楽しいのにと思ったのです」
うつむいて言われたそれに、博士はぱちりとまばたきした。
「いつもと違う、ですか」
「……この前の花見で川瀬は口うるさくなったし、水上は箸が転ぶのに笑って、花澤に至っては悟りをひらいていたでしょう。でも、博士はいつもと同じでずっとみんなの世話を焼いていた。おかげで私は全然博士と話せなかったし、悔しかったので今日また花見にきたのです」
「そうだったのですか……」
玉森は口を小さくすぼませて下を向いている。いじらしい横顔をしばしながめ、博士は考えてみる。
好きな相手の色々な面を見てみたいという気持ちは博士にもよくわかった。むしろ博士の欲求のほうがずっと強いくらいだろう。
どうしたらいいだろうとしばらく考えて、博士はそうだと顔を上げた。
「玉森くん、手を出してください」
「え?」
急な申し出に不思議そうな目をして、けれど玉森はおずおずと右手を持ち上げた。博士は左手でぎゅっとそれをつかむ。
「このまま池を一周しましょう」
「えっ、でも、」
玉森は思わず後ろを振り返った。二人のいる柳のあたりは暗いが往来には提灯がつるされていた。人気だってそれなりにある。玉森がためらいがちに見上げると、博士はダメデスヨと言った。
「え、」
「だめです、片時でも離したら後でひどいですよ」
勝手な言い方にカッとなって言い返そうとして、しかし玉森ははっと止まった。博士の大きな掌が自分の手を覆うようにつかんで強く握っている。大人の男の力にびくりとして、玉森はどうしようもなく反論の気力をなくしてしまった。博士はなおも顔をよせて念押しする。
「玉森くん、わかりましたか?」
「ぅ……は、はい……」
普段と違う強引な声と仕草に不覚にもドキドキして、答える声はやけに弱々しい響きになった。博士はうなずいて荷物を手仕舞いし、それからふと、エヘ、と笑ってみせる。
「……なんて言ってみたら、君がよろこんでくれるだろうかと思ったのですが……」
玉森は空いた手を博士の胴体に思いきりやった。博士は何度かせきこんで口もとをおさえ、玉森はうらめしく彼をにらむ。しかし博士はあいかわらずつないだままの手をぎゅっと握って言った。
「でも、君と手をつなぎたいと思ったのは本心なのです、……いやでなければ、このまま行きませんか?」
玉森は口をきゅうと結んでなにも言わなかった。答えれば博士をまたよろこばせることになってしまう。博士は無言を肯定と受け取って行きましょうかと微笑みかける。この大きな不忍池の池が水たまりくらいの小ささになってほしいような、あるいは海みたいな広さになってほしいような気分で玉森はのろのろと立ち上がった。風はますます冷たいのに、熱に浮かされたみたいに右手がぼうっと熱かった。