【パパ活しようとしたら灰谷兄弟に囲われることになった話、する?】 最後のタイムリープは、万次郎と共に、未来に戻らずに過去をやり直そうと決めた。
もし失敗したとして、あと何回やり直しが効くか分からなかったし、万次郎と二人一緒にリープできるだなんて、そんな奇跡が二度も起こるとは思えなかったから。全国制覇を成し遂げ、全てのミッションをクリアした今も、万次郎も武道も、過去に残ったまま共に時を歩んでいく。
今度こそ幸せな未来を掴むために、そして、過去に失った青春を取り戻すという意味も込め、二人は過去を生きると決めた。
東京卍會を解散して三年後の現在。
万次郎はオートレースの養成所を卒業し、選手として下積みを経験している最中で、武道は都立高校の三年生になった。千冬や八戒に、元溝中メンツも全員同じ高校に進学し、賑やかで楽しい時間を過ごしている。いつか見た過去の高校時代とほとんど変わらない生活を送っていた。
ただ一つだけ。以前とは違うことと言えば、このタイムリープでは、日向とは付き合わない道を選んだということ。
彼女とは現在、別々の高校に通っている。中学は一緒で接点もあったし、今でも交流がない訳では無いけれど、男女の恋愛をする仲ではなくなってしまった。万次郎には日向を幸せにしてやれと言われたし、今でも時折物言いたげな顔をされることもあるけれど、それでも今回、武道は日向との未来を選ばなかった。
これが最後のタイムリープだと思うと、怖くなったのだ。また自分は日向を幸せに出来ないんじゃないかと。それをプレッシャーに感じてしまい、どうしても彼女の手を取ることが出来なかった。日向が好きだし、今でも愛しているけれど、想うだけで充分だと思ってしまった。日向が幸せで生きていける未来になるなら、自分が隣に居なくてもいい。いつしかそういう愛へと変化していったこの気持ちのまま、日向の彼氏となり、ゆくゆくは夫となることに違和感を覚えたのもある。
そんな経緯を経た結果、武道は高校三年生になった今も彼女は一人もおらず、未だに童貞のままだった。やっぱり日向が特別だっただけで、基本的に武道は女に縁のない人種なのだ。結局武道の人生には、女神様は日向しか居なかったのだと、後悔してももう遅い。
だからと言ってはなんだけれど、武道は夢に生きる道を選んだ。
今まで何度も大人になった自分を見てきたけれど、どれもこれもろくな人生じゃあない。基本的には底辺フリーターであったし、良くても古びたレンタルビデオ屋の雇われ店長。または反社の幹部だったりと、どれもこれも成功や幸せとは言い難い人生に辿りついてしまう。
それはそうだ。
どんなに過去のキーポイントを死ぬ気で乗り越えたとしても、残りの日々を生きるのは、凄惨な未来を知らずに逃げてばかりいる弱虫な自分なのだ。だから、何度やり直したところで、似たり寄ったりな人生になってしまう。
しかし──、今回は過去の弱い自分に人生の選択を任せるのではなく、諦めないことの大切さを知っている、大人のままの自分なのだ。それならば、本当の意味で人生をやり直すことが出来るかもしれない。こんなチャンスはもう二度と無いだろう。大人になって何度も後悔し、あの時ああすれば良かった、こうすれば良かったと、嘆いていた自分を知っているから。だから、この世界では後悔のないように生きていきたい。
その昔、武道にも叶えたい夢があった。
ずっと、自分には絶対に無理だと端から諦めている、夢だというのも烏滸がましいと思い、一度も口に出したことがなかった夢がある。
それは、映画監督になりたいという夢だった。
思えば、いつの時もほとんどの未来でレンタルビデオ店で働いていたのも、映画関係の仕事に就きたいとは思っていたけれど、自分には無理だと諦めていたので、それなら少しでも興味のある職種がいいなと思い、選んだような気がする。
しかし、毎日安い給料で労力と時間を買い叩かれ、友人も彼女も目標もないまま生きているうちに、そんなことはすっかり忘れてしまっていたのだ。日々を消費していくだけで精一杯だった。
夢を見失い、ただ日銭を稼ぐだけの未来への希望もなにもない人生。底辺を生きるフリーター。友達も彼女もおらず、一生童貞のさもしい人生。
そんな未来に向かって生きていくのは、もう嫌だ。
せっかく最後のやり直しが出来る人生。それならば一度くらい、真剣に夢を追って生きてゆきたい。頑張って過去を変え、やっと皆が平和な未来に向かっているのだ。それくらいの我儘は許されてもいいのではないだろうか。
そう思い武道は、高校三年生の最初の進路相談で、映像関係の専門学校に行きたいと相談した。自分でいくつも資料を集め、なるべく有名な映画監督を多く排出している名門に行きたいと、教師と親に説明する。
大人達は、明確な夢や目標を持ち、自分で行きたい学校を選んできた武道に、とても好意的だったし、それならば応援したいと言ってくれた。
しかし、問題がひとつ──。
それは、いい学校になればなるほど、莫大な学費がかかるということだった。入学金は、親が何とか出来ると言ってくれた。武道が大学に行きたいと言った時のために貯めていた金があるからと、それを使ってくれることになった。ただ、それだけでは研修費や実費の機材を揃えるのは難しいということを、武道は理解していた。
色々調べてみたら、入学してからもとにかく金がかかって大変だということが分かった。
だから、これからの一年は、学費の足しにするために出来るだけアルバイトをして稼ぎたいと教師と親に相談する。学校の単位を落とさない範囲かつ、高校生ができるバイトであれば問題ないだろうと、教師も親も賛成してくれた。とりあえずここまでは順調だ。
しかし武道は、そんな健全なバイトで稼げる額なんて、正直なんの足しにもならないことを知っていた。伊達にフリーターを長くやっていたわけではない。
無知な高校生の自分なら、放課後に出来るだけバイトを入れれば何とかなるかもと甘い夢をみるのだろうが、放課後と土日を使ったとしても、東京都の条例で高校生は二十二時までしか働くことは出来ないし、能力の低い学生は、当然社会人より賃金も安い。それに、毎日バイトに費やせるわけではない。学校の行事だってあるし、友人との付き合いだってある。
そうなると、高校生のできるバイトで一年間で貯められる額なんて、武道が必要だと思うカメラが一台買えるかすら微妙なところだ。必要な機材はなにもカメラだけじゃない。それに、本気で夢を目指すなら専門学校に行くだけではなく、その他の講座なども別途で受けなければ難しいだろう。
大人になり現実を見てきた武道は、子供が見る甘い夢ではなく、どれだけ若いうちに効率良く時間を使えるか、そして、夢を叶えるには金がかかるということを知っている。
だから、このままではダメだと思った。馬鹿正直にバイトをしたところで無駄な一年を過ごすことになるだろうと。
そうして、武道は考えた。自分が持てる全ての知識をフル活用して考えた結果──。
『パパ活しか勝たん』
その結論に辿り着いた。
馬鹿みたいな発想だと笑いたい者は笑えばいい。しかし、武道が出来る仕事などたかが知れているのだ。特別な才能やスキルもない。
自分が持っている価値といえば、若いことと丈夫な身体を持っているという点だけだ。健康な男子高校生なら大抵の者が持っている利点を最大限に活かすとしたら、もうそれしか思いつかない。
この時代では、売春──いわゆる援助交際が女子高生の間ではブームになっている。援交という略語すら存在している、公然の秘密とでも言えばいいのか。結構な割合で、そうして稼いでいる女の子が居るのは事実だ。
武道が居た未来でもその名残りはあって、パパ活という名前に変わっていたが、やっている事は大差ない。
男女間で、食事やデートをしたり、もしくはそれ以上のこともする個人的かつ一時的な契約。
大抵が、出会い系サイトや掲示板で相手を探すのだが、当然個人間のやりとりなので危険は付き纏うし、リスクもある。そもそもが犯罪だ。
しかし、武道はそこら辺の概念はあまり固い方ではなく、人に迷惑をかけないものなら多少は有りという考えをもっている。これでも一応不良の端くれだ。
未成年が酒やタバコをやったとして、犯罪ではあるが、他人への迷惑はほぼかからないだろうという思想を持っている。自分の身体に害があるだけで。
クスリは周囲に迷惑がかかる場合もあるのと、身体への負担が大きすぎるのでやろうとは思わないが、それだってやる人間が決めたことなら仕方あるまい。万次郎がやるなら全力で止めはするけれど、それは個人的な感情で、だ。
未成年が無免許で単車で公道を走り回るよりも、リスクを承知で身体を売るほうがよっぽど迷惑にはならないだろう。捕まるのは大人だけで、買う側だってそのリスクは充分承知の上だ。
それに、中身が大人である武道は知っていた。
意外にも、若い男の子を買いたがる大人の男が居る、ということを。ヒトの性癖は様々だ。ゲイビデオがどれだけ売れていたのかだって知っている。
武道はゲイではないので、男に抱かれるのは嫌だし、想像するだけで鳥肌が立つが、背に腹はかえられない。
手っ取り早く大金を稼ぐことに、リスクが無いわけが無いのだ。それを痛いほど知っているから。
武道が男に身体を売っていることがバレれば、周囲の仲間は悲しむだろう。しかし、バレなければ無かったことと同じになる。
それに、一年だけだ。夢のために必要な資金を稼ぐために、一年だけは秘密を抱えることを許してほしい。それ以降はきっと、真っ当に生きていくつもりでいるから。
この世界では万次郎に全てを話してきた武道に、初めて自分だけの秘密ができる。それだけが、チクリと胸に棘のようなものを刺した。だけどもうこれしかない。武道は胸の中で何度も言い訳を繰り返し、そのことからそっと目を逸らした。
♦♦♦
週末の五反田駅は、飲み会に向かうサラリーマンやOL、外国籍のコールガールや客引きにスカウト、明らかな風俗関係の若い女性や、それ目当ての男達など、様々な目的を持った人間で溢れている。
武道も、その中のひとりだ。
駅前のロータリーの片隅で、黒いキャップを深めに被って待ち合わせのために視線を動かす。
今日は、例のパパ活相手と会う日だった。
いつもの服装とは違い、なるべく目立たないように、かつ、大人っぽく見えるように、シンプルな無地のシャツとパンツを選んで着てきた。
ゲイ専用掲示板でマッチングした男とは、今日は先ず食事をしてみて、その後にどうするか決めようということになった。
待ち合わせにわかりやすいように、手に明るい緑のハンカチを持ち、それを相手に伝えると、直ぐに数メートル先から男の人が向かってきた。
「はじめまして。ミチ君で合ってるかな?」
「はい……。〇〇さんですよね? よろしくお願いします」
相手はメッセージで広告業界に務めていると言っていたように、普通のサラリーマンよりも華があり、それっぽさを全開に出したイケオジ風の男だ。四十代後半と言っていたけれど、それよりはずっと若く見える。スーツもビジネス用ではあるが、色や形なども野暮ったくなくてお洒落に着こなしている。髪型もツーブロックにパーマと、パッと見たら三十代くらいには見えるけれど、確かに近くで見たら目尻に皺があったりと、それなりの年齢は感じられる。
しかしながら、太っていて脂ぎったハゲのおじさんとかじゃなくて良かった……。武道はまず、相手が嘘をついていなかったことにホッと胸を撫で下ろす。顔は出していなかったけど、首から下のみのプロフィール写真は本物だった。
「ミチ君、想像よりずっと可愛いね。君みたいな子と遊べるなんて嬉しいな」
「はは、ありがとうございます。〇〇さんもお洒落で格好いいですね」
「そうかい? そう言ってくれると、高校生と会うために若作りしてきた甲斐があるよ」
軽く談笑しながら、そろそろ店に行こうと促される。繁華街にある焼肉屋に行こうと言われ、案内されるままついていった。五反田の中心街にあるその店は明らかに高級そうで、せっかくの高い肉も、知らない男と敷居の高い店の雰囲気に呑まれ、全く味が分からなかった。
しかし相手は大人だ。話すのも上手ければ聞くのも上手で、会話は途切れることはない。相手はお酒も嗜みながら、武道に肉を焼いてくれたり、追加の注文をしてくれたりと、終始スマートに対応してくれた。
宴もたけなわ。
食事も落ち着き、さぁ、これからどうするかという雰囲気が漂ってきた。
「ミチ君は、今日が初めてと言っていたね。どう? このままおじさんと続きに行ってもいいと思えたかな? 初めてだって言うし、それなりに出すつもりではいるし、お互いに気に入れば定期的に関係を続けたいとも思ってるけど」
直球にそう聞かれ、生唾を呑む。
相手は凄くいい人だ。歳だけど清潔感もあり見た目も悪くなく、優しいし、初めての相手には申し分ない。もし相手が武道の身体も気に入ってくれたら、そのまま定期的にパパになってくれる可能性だってある。
だから武道は、相手の提案に頷いた。
「〇〇さんがオレでも良ければ、このままよろしくお願いします……」
そうして話は纏まり、武道と男は店を出て、ホテル街へと歩いてゆく。
五反田の風俗街には歩く度にそういう目的のホテルが点在しており、思わずキョロキョロ視線を彷徨わせてしまう。渋谷の神泉あたりや、歌舞伎町の奥とはまた違う、同じ色を売っていてもある程度落ち着いた雰囲気の街が、武道には慣れなくて場違いではないかと心配になる。
「初めてだからいいホテルにしようね」と、気遣ってくれる相手に、ありがたいのかどうか微妙な気持ちになる。いくら好条件だからといって好きでこんなことしている訳じゃない。場所なんて正直どうでもよかったけれど、相手が自分を気遣ってくれることは純粋にありがたいなと思う。お陰様で、ケチな相手と過ごすよりも幾許か心に余裕が出来る。
「あそこだよ」と指を刺されたホテルは、上品な石造りの、白亜のお城のような建物だった。所々ライトアップされており、周囲のホテルよりも目を惹く外観をしている。
「ここ、岩盤浴もあるから嫌いじゃなければ一緒にどう?」と言って肩を抱いてくる男に「いいっスね」と適当に返し、あと数歩でホテルへ入るという時に、武道の後ろから声がかかる。
「あれ? 代理じゃね」
「こんなとこで何してんのー?」
その声に、ぴたりと足が止まる。
思わず反射的に声の方向に振り向き、そしてその声の正体が誰なのかを理解した途端、心臓がドクンと脈打ち、無意識に「ヒィッ」と大きく息を呑む。
そこには、最も会ってはいけない人物上位に食い込むであろう、六本木のカリスマこと灰谷兄弟が、ニヤニヤと楽しそうな顔をしてこちらを見ながら佇んでいた。
ヤバイ……。こんなところをよりにもよってこの兄弟に見られるなんて……。
絶対に簡単には逃がしてくれる気がしない。その考えは大正解で、灰谷兄弟は嬉々とした表情を浮かべ、武道へと群がってくる。
「もしかして代理、イケナイコトしようとしてる?」
灰谷のかなりヤバイ方で有名な蘭が問う。
「へぇ、意外〜。そうゆーの嫌がりそうなツラしてんのにな」
兄よりちょっとだけマシだと言われている弟の竜胆が言う。
誰がどう見たって、これから春を売ろうとしている場面にしか見えない状況で、灰谷兄弟相手に誤魔化しようもなくピシリと固まる。たとえ違う、と否定したところで、百パーセント信じてもらえるわけがない。なんて言えばいいのか正解が分からず、武道は黙ったまま冷や汗を流した。
「き、君たち、ミチくん知り合いか……?」
隣で武道の肩を抱いたままの男が狼狽えながら問う。
「ぶふ! 〝ミチくん〟だって。ウケる〜」
「ガチの援交じゃん! やっば! これってスキャンダルってやつー? マイキーはこのこと知ってんの?」
竜胆の口から出た言葉に、ビクリと肩を揺らす。その様子を見ただけで、彼らには答えが分かったようだ。
「へぇ、なにそれ。マジで面白いじゃん」
「東卍のお姫様がヒミツの援助交際ねぇ〜」
ニヤニヤと笑みを深める二人を前に、武道の視界が潤みだす。
もうおしまいだ……。
あの灰谷兄弟のことだ。これからこのネタで脅されるか、誰かに告げ口をされるのかは分からないけれど、いい展開が待っていないことだけはもはや確定だろう。
「き、君たち、いくらなんでも他人のプライバシーに踏み込んでくるのはマナー違反なんじゃないか? ミチくんもこんなに怖がって……」
「未成年を金で買うのはほーりつ違反なんじゃねぇのかよ?」
「おっさん、自分が今どーいう立場か分かってないんじゃない?」
人の悪そうな笑みを浮かべてそう反論した灰谷兄弟に、隣の男も口を噤む。それでなくとも、明らかにヤバイ見た目の彼らを前にし、恐れない一般人は居ないだろう。厄介事に巻き込まれたと引き攣った顔をしている男に、武道は申し訳なくなって声をかける。
「すみません。知り合いに会っちゃったんで、今日は解散でもいいですか?」
武道がそう声をかけると、男はあからさまにホッと息を吐き、安堵したような顔をした。
「そ、そうかい? ミチくんがそう言うなら、それなら今日は失礼するよ。……何かあったら警察を呼ぶんだよ」
大人の矜恃を保ったままの口ぶりだが、そう言って逃げるように去っていった男の背中からは、恐怖や焦りが透けて見える。だけど、助けて欲しいだなんて微塵も思っていなかったので、それでいい。むしろこの場に残られたほうが厄介だった。あまり接点がない灰谷兄弟が、これからどういう行動に出るのかが分からなかったから。チラリと彼らの表情を盗み見る。
「だっせーオヤジ」
「腕くらい折っときゃ良かった」
まるで虫けらでも見るような目で男を見送り、愉快げに笑っている。そして、二人で目配せをしたかと思ったら、武道を両サイドから挟むように肩を抱く。長い腕が二本も首に巻きついてきて息苦しい。
「ねぇ、代理。もちろんこのままバイバイなんて寂しいこと言わねーよなぁ?」
やはり、タダでは帰してくれないか……。嫌な予感ほどよく当たるのはなぜなんだろう。ニヤニヤと意地悪く笑う二人を見て、ゴクリと生唾を呑む。なんと答えたらいいのか、頭の中には何も浮かんできやしない。
長い三つ編みを弄ぶような仕草で、兄の蘭が武道の耳に唇を寄せ、息を吹き込むように囁く。
「なぁ、今日あのオヤジでいくら稼ぐつもりだった?」
「っ……!」
吐息が耳にかかり、ゾワゾワと背中が粟立つ。何も答えることが出来ず、俯いて首を左右に振った。
そうすると今度は反対側から、竜胆が同じように耳の中に言葉を吹き込む。
「獲物を逃がしちまった礼はしてやるよ。その時間、オレらが買ってやる♡」
「ひっ」
反対側からはまた蘭が、今度は耳たぶを唇で食みながら言う。
「するならオレらと援交しよーぜ、代理♡」
妖しげな雰囲気を醸し出す二人に、武道は無駄だと分かっていても、小さく身を竦める。まるで蛇に睨まれた蛙。肉食獣の標的になった草食動物のようだ。カタカタと身体が小刻みに震える。
そんな武道の様子をみた二人は、より一層笑みを深めた。
「いくら欲しい?」
「言い値で買ってやんよ♡」
これは、安易にパパ活に手を出そうとした武道に対する罰なのか──。これからどうなってしまうのか、考えるだけでも恐ろしい。
しかし、灰谷兄弟に弱みを握られ逃げ出すことも出来ず、武道は、祭壇へ引き渡される前の生贄のごとく、促されるまま静かに夜の闇へと進んでいった。
♦♦♦
「まずはそのダセー服なんとかしねぇとな」
そう言われて向かったのは、青山にあるセレクトショップだった。
閉店間際の店に強引に入り、自由気ままに衣類を物色しだす灰谷兄弟に、武道は引きずられながらついていく。複数のブランド服がカテゴライズされている店内で、兄弟はある一角から数着服を手に持って試着室へと入っていく。
「今日は時間ねーからここら辺で我慢するきっきゃなくね?」
「まー、今のよりはマシかぁ」
そんなセリフ混じりに、大人三人でも余裕で入れる試着室で服を脱がされ、あれこれと宛てがわれる。結局細身のチノパンに、オーバーサイズのトップスを組み合わせ、それを着たまま店員にタグを切らせた。自分では絶対に選ばない柄のトップスと、窮屈なパンツに、服に着られているとはこのことかと実感する。鏡を見た限り似合わなくはなかったけど、慣れない装いが浮いて見えた。
他にも、ネックレスに靴、カバンに至るまで、全て灰谷兄弟が選び、黒光りするカードで会計を済ます。店員の手を借りながら、装飾品を身につけ終えた頃には疲れきってしまい、鏡をみる余裕すら湧かなかった。
「これ、全部捨てといてー」
「えっ、ちょ、……」
そう言って蘭が武道の着てきた服と靴とキャップを店員に押し付けるのを見て、止めてくれと言いたかったけど、言う前に竜胆によって店の外に出されてしまった。言ったところで蘭は返してくれそうにはなかったが、持っている服で唯一大人っぽものだったので捨てたくはなかった。潤みそうになる瞳を堪え、武道は未だに言わぬが花、とばかりに口を噤み、最低限の質問に頷くだけに留めた。
食事は食べたかと聞かれ、食べたとだけ答えると、蘭が「残念。ならディナーはまた今度♡」と、なにやら恐ろしい単語を発した。全力で聞かなかったことにしたい。これに次があるなんて、今は想像もしたくなかった。
そうして青山からタクシーで移動し、ほど近い場所で降ろされる。
六本木交差点から、外苑東通りをロアビル方面へ少し進み、程なく裏道に入ると、何の看板も出ていないテナントのようなビルの中へと連れていかれた。
武道はいったいどこに連れていかれるのかと戦々恐々とし、キョロキョロ辺りを見回しながら竜胆に手を引かれて歩く。
地下へと続く階段を降りて、蘭が一つしかない重厚なドアを開いた。
そのドアの先には、看板一つない殺風景な鉄筋コンクリートの外観とは全く異なった世界が広がっており、武道は目を丸くして驚きを露わにする。
重そうな防音扉の向こうは、煌びやかな装飾がキラキラと光る、洒落たバーのような店になっていた。壁一面にディスプレイされた酒に、天井から吊るされている大量のグラス。バーカウンターにボックス席もあり、奥にはピアノやステージまであった。今も、たっぷりと口髭を蓄えた老齢のピアニストが優雅にジャズを奏でている。
店の中には数えられる程度の客しかおらず、みなが好きなように談笑している。照明がかなり絞られているので客の顔はあまり見えないが、バーカウンターに向けて光るライトが、色とりどりの酒を反射していて壁がステンドグラスみたいに彩られている。
まるで竜宮城へきた浦島太郎かのように、武道はポカンと口を開け、目の前の光景に魅入る。すると、バトラーがすぐに灰谷兄弟に気づき、荷物や上着を預かるために、一人に一人づつ就いて世話を始める。武道も何が何だか分からぬままカバンを取られ、上着を預けた。そうして案内された席は、一番奥にある明らかに特別仕様なソファー席だ。そこに座るように促され、恐る恐る腰掛ける。
「いい店だろ?」
「ここ、オレらが持ってるプライベートラウンジ」
「へぇ、す、すごい……っすね」
プライベートラウンジがなにかは分からないが、とりあえずそう答えておく。武道の反応をみて蘭がクスクス笑った。
「何飲む? 弱いのならイケんだろ?」
竜胆にそう聞かれながらメニューを見せられても、何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだ。
「いや、お酒は、ちょっと……」
「大丈夫だって。ここのバーテンは一流だから、弱くても美味いやつ作ってくれっから」
「で、でも……」
この流れで酒は危険だと思いそう告げるも、竜胆は全く聞く耳を持たずに勝手に注文を始める。
「オレはギムレット。兄貴は適当に聞いて。こいつにはアレキサンダーね。あとなんか甘いものとしょっぱいの。つまめるモン出してやって」
あれよという間に注文が終わり、バトラーが去っていく。コの字型のソファーには、武道を挟んで右に竜胆、左に蘭。腰が触れるほど密着され、抱き寄せられる。あまり面識のない元チームメイトにこんな風に近寄られ、心臓は落ち着かずに鼓動を早める。
「今夜は長い夜になりそうだね、代理♡」
「ンな怯えなくても、取って食いやしねーよ」
そう言っている二人の目には、分かりやすく嗜虐心だったり、好奇心みたいなものが滲んでいる。これで怖がるなというほうが無理だ。
「でもさ、援交の件は抜きにしても、オレたち代理とサシでゆっくり話してみたかったんだよね」
視線とは裏腹に、穏やかな耳障りのいい声で蘭が話す。
「ぇ、なんでですか……?」
「代理にはいつもマイキーや取り巻きがベッタリだろ? 元天竺のオレらは中々お近付きになれないまま解散しちまって、もっと色々話してみたかったなーって」
「オレら、多分全く違う世界で生きてる感じするじゃん? だから、純粋なキョーミ。代理が何を考えてて、なにが好きなのか、普通のお話がしたいんだけど、ダメ?」
同じチームに所属してはいるが、灰谷兄弟には絶対に近づくなと、東卍の皆から言われていた。特に幼なじみの春千夜は口をすっぱくして刷り込むように言っていたし、千冬達からも言われている。万次郎は何も言わなかったけど、武道と元天竺とは、あえて深い交流はさせないような素振りをみせていたから、自然と自分から近寄りはしなかった。イザナと鶴蝶は別だったけれど。
だから、こうしてゆっくり会話をするのは確かに初めてで、あの六本木のカリスマと言われる男たちが自分なんかと話してみたかったという言葉に、純粋に驚いてしまう。
「オレなんかと話したい……? 灰谷兄弟が……?」
「えっ、なにその反応。もしかして疑ってる?」
「さすがに傷つくんだけど」
「あっ、ご、ごめんなさい……! あんまり意外だったもんで」
「オレらのことも話すからさ、代理のことも教えてよ。ってか武道って呼んでいい?」
「その前に、酒が来たぜ。固い口にお喋りさせんのにはコレが一番だろ」
バトラーが持ってきた、キラキラ輝くカクテルと、小さなオードブルの盛り合わせがテーブルに並べられる。
竜胆は逆三角形のカクテルグラスに、ライムが浮いた透明な酒を。蘭は背の高いロンググラスに、琥珀色の酒を。
そして武道には、白っぽいクリームにココアパウダーがまぶしてある、一見するとティラミスのような酒を手渡された。
「それじゃあ、武道との再会を祝して」
「かんぱーい」
「か、かんぱい」
グラスを煽る二人にならい、武道も恐る恐る口をつける。ひとくち口に含むと、まろやかで甘い、チョコレートの味が口いっぱいに広がった。
「え! 美味しい……!」
「ハハ、飲みやすいだろ?」
「はい! 全然苦くない!」
「武道、こっちも飲んでみ。武道がチョコ嫌いだった時のために頼んだんだぁ」
蘭から渡されたグラスに口付けると、今度はさっぱりとした爽快感が口の中を洗ってゆく。
「え、アイスティー?」
「そう。紅茶は一切使ってないけど、アイスティーみたいで飲みやすいだろ?」
「はい! 美味しいです!」
未来でもカクテルに縁のなかった武道は純粋に感動してしまい、灰谷兄弟は危険だということは分かってはいたが、悪い雰囲気でもないし、つい警戒心が緩んでしまう。勧められるままに、目の前のカクテルに舌鼓を打った。本当に、デザートみたいに美味しいのだ。これがお酒だなんて信じられない。これなら酒に慣れていない高校生の身体でも大丈夫かもしれないと思った。
「次は季節のフルーツを使ったカクテルにしようぜ。ゴロゴロ果肉がはいってるやつ」
「へぇ、そんなのもあるんですね〜」
カクテルの美味しさに絆され、すっかり灰谷兄弟と普通に会話ができるようになった武道は、目の前のオードブルをつまみながら一杯目のグラスをあっという間に空けた。そのグラスが空くころには、竜胆がスマートに注文していた次のカクテルが一秒と待たずにスっと出てくる。
他愛もない話をしながら、二杯目のカクテルを楽しんだ。今度は生のフルーツが沢山入っていて、先ほどよりもさらに飲みやすかった。
「でさぁ、そん時に鶴蝶が──」
「いや、あれは大将が──」
「あはは! 天竺って意外と仲良いんスね!」
話し上手な灰谷兄弟の語る武道の知らない世界の話は聞いていて楽しくて、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。武道も聞かれたことに答え、灰谷兄弟がそれに笑い、想像していたよりずっと楽しい時間を過ごす。
カクテルが四杯目に入った頃──。真っ青な南国の海のようなカクテルは、少しピリッとするけれど、相変わらず舌触りがよく飲みやすい。頭がぼーっとして、心地よい波に揺られているようで気分がいい。
「ねぇ武道、この際だから聞くけど、なんで援交なんてしようと思ったの?」
三つ編みに長い指を絡めて蘭が聞く。
「えんこう……? あぁ、パパ活っスね」
「パパ活? なにそれ?」
竜胆が不思議そうに聞き返す。
「ん? ……あぁ、この時代にはまだパパ活はないのかぁ〜。まぁでも、やることは一緒っスからね。援助交際と」
「よくわかんねーけど、何で武道はパパ活? しよーと思ったん?」
「んーー、オレ、夢があって……」
武道は、なるべくタイムリープの話をしないように気をつけながら、事の経緯を話した。酔ってきているのか、あれだけ口を噤んでいたのにスラスラと言葉が出ていく。
簡単に言えば、己の夢のためには金が必要で、その資金を自分の身体で稼ぐしかないという身も蓋もない話だ。
だけど、もしかしたら、本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。人は誰しも、誰にも言えないと秘めれば秘めるほど、本心では聞いて欲しいという欲求が高まるものだ。
あらかた話し終える頃には、四杯目のカクテルは空になっていて、底に沈んでいた真っ赤なチェリーが艶々と顔を出している。
それを見ていると武道の世界もぐにゃりと歪み、グルグルと視界が回り出す。自立していられずにソファーに凭れようとすれば、がっしりとした身体に支えられた。
「お、そろそろ効いてきた?」
「さすがに四杯はなぁ」
「最後に青い珊瑚礁頼んだのは兄貴だろ。鬼畜すぎ」
「だって、意外とこいつが強いからさぁ」
二人が何を言っているのか、聞こえているのに理解が出来ない。まるで水の中から話し声を聞いているみたいに、耳にフィルターがかかっているみたいだ。
「ねー竜胆、ちょっと味見してもいいよな?」
「あー、ちょっとならいいんじゃね? 早く移動したいけど」
竜胆に凭れている身体を蘭によって反対側に引き寄せられ、顎を取って上を向かされると、半開きになった唇になにかがぬるりと入り込んできた。
「んぅッ……!」
湿っているそれは、武道の舌を絡めとり、うねうねと口の中を動き回る。何がなんだか分からずに驚いたのは最初だけで、すぐに頭の奥がジン、と痺れてなにも考えられなくなる。
「んっ、あッ……」
飲みきれなくなった唾液が口端を伝い、それが皮膚を撫でる感触にゾクゾク背中を震わせる。いつの間にか掴んでいた蘭のシャツをぎゅっと握りしめ、目をきつく瞑った。
「ぁう、やらぁ、」
「兄貴、オレにも変わって」
口腔を塞いでいたなにかがズルリと抜け、吸いづらかった空気が流れ込んでくる。大きく息を吸おうとすると、今度は肉厚ななにかがまた口の中に入ってきた。
「んぅ!?」
先ほどの長くて薄い感触ではなく、ぽってりと分厚いそれは、入ってくるだけで武道の口腔内をいっぱいにした。それが、入ってくるだけでなく好き勝手に動き回るものだから、武道は気持ちよさと苦しさで目を回し、じたばたと手足を動かした。
「ダーメ♡大人しくしてな」
「んぅ、あッ……」
だんだんと意識が朦朧としてくる。
上手く息が出来なくて、それなのに口の中を擦られるのが気持ちよくて、武道はもうなにも考えられずにされるがままになっていった。
どれくらい時間が経ったのかは分からないが、ようやく口を離されたところで、武道の意識は海の底へと沈むように、ゆっくりと暗闇に落ちていった。最後に飲んだカクテルの青が、ゆらゆらと揺れる海面のように綺麗だったなぁと、とりとめのないことを思い出しながら。
眠りに落ちた武道をみて、灰谷兄弟がニヤリと笑う。
「夜はこれからだなぁ、竜胆♡」
「ひとまず寝てるうちに腹の中洗っておこうぜ」
「えー、めんど。竜胆やってよ」
「兄貴はいつもいいとこ取りじゃん」
「ごめんて。初めては譲るから〜♡」
「ったく、しゃーねーなぁ」
「奥の部屋、開けて」
蘭がバトラーに短く告げると、初老の男がやうやうしく頭を下げる。
長い廊下の先にある秘密の部屋の鍵が、開いた。
♦♦♦