彰冬(+杏こは要素)「…………は?」
日課のランニングを終えて部屋に戻ると、ふたつ並んだベッドの片方に冬弥の姿がなかった。
冬弥が使ってるのは手前のベッドだ。起きてトイレにでも行ってるか、それとも寝返って床に落ちたのかと思ったが、違った。
カーテンの隙間から朝日が零れて、その明かりが照明の落ちた部屋を照らす。おかげで、見つけることができた。奥の壁に面したオレのベッドで眠る、冬弥の姿を。
「…間違えた、のか…?」
オレが部屋を出てたのは一時間くらいだ。当然だが、一時間前はそんな状態になってなかった。なんなら、オレは目が覚めた時に冬弥の後ろ姿を見てる。
部屋を出る前に枕も布団も畳んじまってるから、真っ平らなシーツの上で横向きになって寝てる。バスローブのままだし、そんなベッドにわざわざ寝直すとも考えづれえ。トイレにでも行った戻りでこうなったんだろうと自分を無理やり納得させた。
「……」
横向きの寝姿勢だが、このままじゃきっと首を痛める。せめて枕ぐらいは差し込んでやるかと思って、オレは冬弥のベッドからそれを取ってベッドの傍らに立ち、口元にかかった髪をはらう。規則正しい穏やかな寝息に安眠できてることを知ってほっとしたが、どういう心情なんだろうな、と第三者視点のツッコミを思った。
寝てる人間の頭ってのは意外と重いらしい。下敷きになってる右耳には触れないように、こめかみの辺りからしっかり抱える。ゆっくり持ち上げるが、慎重な動作を求められるとなると難しかった。変に緊張しちまって顔に熱が集まるもんだから、引いた汗が吹き出しちまいそうだ。髪なんか触れようとして触ったこともねえから、袖に掛かる細い髪がなんだか新鮮に映る。
(なんかこれ、やべえことしてる気がする…)
思考が追いついたのはずいぶん後だった。オレの中の冷静さを保とうとする人格が「冬弥のために仕方ないこと」と、今のこの行動を肯定してくれるが、そうじゃない方が活発なせいで頭の中がパンクする。要するに、冬弥がオレのベッドで寝てると不都合なことがあるってことらしい。
「ん…——」
頭が動いたもんだからお目覚めかと思いきや、これもまた違った。腕の中にいるそいつはオレに吸いよってきて、夢見心地のよさそうな声を出す。
まさか冬弥がここまで眠りが深いだなんて思わなかった。この調子じゃ、オレが身体を叩きながら呼び掛けるか、アラームが鳴るまで起きなそうだ。
ひと役終えたオレは空いてる冬弥のベッドに横になる。天井に向かって深くため息をついた。
「…………くそ、」
よくわかんねえ葛藤なんかをしちまったが、やらなきゃよかった、とだけは思わない。起きて首を痛めてる冬弥を見る方がずっと嫌だ。
スマホでも操作してようかと思ったが、まだほんのり温もりのあるベッドシーツや布団から冬弥の匂いがしてきて、やばくなりそうだったからすぐに飛び起きる。スプリングの音を立てちまったから慌てて冬弥を見るが、変わらず穏やかな寝息だ。
寝顔なんかじっくり見たことはなかったが、オレが横髪をはらったことで顕になった左顔の泣きぼくろがやけに目を引いた。
クラスの女子の会話の又聞きだが、化粧で敢えて顔にほくろを描き足すこともあるらしい。小顔効果だとか、印象が変わるとかを言っていた気がする。人の外見をあれこれ考えたことはねえけど、仮にそれを踏まえて言うと冬弥は整った顔立ちをしてると思う。だから出会った当初の、今ほど感情が表情についていけてなかった頃は端正な顔立ちがより硬派な印象を引き立てていた。
(…まあ、これは最近知ったことだけど、こいつ、笑うと結構——)
「…っ!」
本来の冬弥のベッドから控えめな電子音がして驚く。充電ケーブルが届かないってのにわざわざスマホをベッドシーツに置いてたのは、バイブ音の振動を拾うための工夫だったらしい。オレは両手で顔を叩いて邪心をはらって、伏せてある冬弥のスマホに手を伸ばす。
「……」
軽やかな電子音を鳴らすスマホを冬弥の近くへ持っていく。指の腹がバイブの振動で震えた。
「ん……」
睡眠を妨げる音に脳が拒否反応を起こしてるらしく、冬弥は喉で声を上げながら布団を被って丸くなりだす。オレよりも身長のある身体が収まってんだから、布団の中で手足を畳んで小さくなってるんだろう。
「どうすっかな…」
このアラームがいつまで鳴り続けるのかはわかんねえけど、繰り返される一定の短いリズムにだんだん耳がおかしくなってきた。
毎朝のラウンジの待ち合わせにはまだ一時間はあるが、移動と身支度に取り掛かることを考えると放置するわけにもいかない。こはね達が使ってる隣部屋から扉の開閉音と廊下からあいつらの喋り声が聞こえてきたことだし、いよいよ焦りが生まれる。
「…冬弥、時間だぞ。起きろよ」
「ん………」
布団の上から揺すって声を掛ける。外側からじゃ構造がわかんねえから、肩を触ってるつもりでも、もしかしたらここは頭かもしれねえ。
すると、アラームがぱったり止まった。多分、十分くらいは鳴り続けてたと思う。耳にこびりついたせいで、鳴り止んでも幻聴が聴こえてくる。変化があったのは冬弥もだった。布団の中でモゾモゾと動きだして、伸びた手がシーツの上でスマホを探るような動きをしている。
「おはよ、冬弥。お前のスマホ、ここに置いとくな」
そう声を掛けて手探りをしてる手元にスマホを置いてやると、ぐっちゃぐちゃになったツートンカラーが白いベッドの上に現れた。
*
「おはよー! ねえ聞いてよ、ふたりとも! 夜中にこはねが寝ぼけて私のベッドに入ってきちゃって、今朝まで同じ布団で寝たんだ〜。こはねの寝顔、めちゃくちゃ可愛かったんだよ!」
「あ、杏ちゃん…! 恥ずかしいよ…」
「なんで〜? こういうのを素でやっちゃうの可愛いな〜って思って、寝顔もじっくり見ちゃった。もう今夜からいっしょに寝ようよ!」
「い、いっしょに… 楽しそうだけど、寝顔を見せるのは、なんだか恥ずかしいな…」
「寝てる時のこはねも可愛いから全然大丈夫だよ! でね、彰人達に…——って、なんかふたりとも静かじゃない? どうかした?」
ラウンジで会うなり一人でベラベラ喋ってた杏は、やっとオレらが無反応なことに気づいたらしい。杏にからかわれて両手を顔に添えてるこはねもオレ達を見返す。
「いや、オレらの挨拶返しも待たずに朝食前の朝イチからよく喋るなって感心してただけだ」
「こはねのおかげで元気だも〜ん! 冬弥こそ……あれ? 冬弥、なんか顔赤くない?」
「……」
「あれ、本当だね。…青柳くん、暑いの? それとも具合悪い?」
「…い、いや、平気だ。体調不良なわけではないから、安心してくれ。ただ、その……」
「その?」
こはね達に詰められた冬弥が、助け舟を求めるかのように隣のオレを見返す。横顔を見ても耳まで赤くなってるが、顔の方がよっぽどだった。
(ここでオレに振るのかよ…)
オレは冬弥が赤面している理由を知ってる。だが、それをこいつらになんて誤魔化すかはまだ思いついてない。それなのに、冬弥が瞬きをしながら眉間を寄せて困ったような顔をするもんだから、つい、助けてやりたいと思っちまって——。
「ふたりで見つめ合ってなに〜 部屋で何かいいことでもあった?」
「…っ!」
「と、冬弥…」
杏の言葉にあからさまな動揺を見せた冬弥に、オレはこの後の展開を予測して頭を搔く。
「ふふっ、もしかして私達みたいに、間違えてベッドに入っちゃった、とか? な、なんて…」
「……」
「え もしかしてこはねが言ったこと合ってたの 彰人、よかったじゃん!」
「……なんでオレに言うんだよ」
まるでオレを賞賛するかのように、強く握った拳を宙で突きつけてくる。いじりの対象がオレだとわかった途端、杏の表情が生き生きしだす。手で口元を覆ってこはねとべったりくっついた。
「ダメだよ彰人ー、寝てる人にイタズラしたら」
「…え? あ、あー……」
「あ? 適当なこと言うんじゃねえよ。つかこはねも、なに納得したような反応してんだ」
「違うの?」
「違えよ」
「フーン。ベッドを間違えことは否定しないんだー? じゃあなに、寝ぼけた冬弥にベッドに引きずり込まれちゃったとか? まあさすがにそれは………」
「…っ、」
(マジか…)
素直で嘘がつけない冬弥は、杏の言葉に視線を泳がせる。この場を切り抜ける方法はもう、立ち去る以外思いつかなかった。
「冬弥。こいつらは放っておいてさっさと朝飯行こうぜ」
「…え? あ、彰人…!」
冬弥の腕を引いてホテルを出る。後ろで杏がキャンキャン言ってるだろうがどうだっていい。早朝の少し冷えた空気が、火照った顔にちょうどよかった。
「彰人…その、今朝のことは……」
「…気にしてねえつったろ。オレも気ぃ抜いてたけど、引きずり込まれたわけじゃねえし」
「だが、寝ぼけてベッドを間違えていたし、彰人に不快な思いをさせてしまったと思う…」
「…それを言うなら、オレの方がそうさせたろ。体勢崩して起き上がろうとしてお前のこと——」
「…っ!」