同棲彰冬 近くで人の気配と物音がして意識を戻される。目を開けると、橙色の天井が見えた。
「——目が覚めたんだな。おはよう、彰人」
反射的に目線が向いて、枕の上で頭を傾けたオレは何度も瞬きをした。ぼやけた視界の中から、すぐ傍にいるであろう冬弥を探るために。
だが、いつまで経っても霞んだままの視界に瞬きを諦めてぼうっとしてると、オレの様子を怪訝に思ったのか、冬弥は顔を近づけてきた。
「……はよ、」
空気みたく発せられた掠れた自分の声に思わず苦笑する。近づいてくれたおかげで冬弥は聞き取れたみてえだが、いまの短い返答にオレの容態を察したらしく、前髪の隙間でくっと眉間を寄せていた。
「…おはよう。起こしてしまったか?」
「いや、たまたま目が覚めた」
声が出しづらくて咳払いをするつもりが、喉を刺激したせいで酷い咳になる。こんな耳障りなもんを冬弥に聞かせたくねえから俯いてシーツに向かってするが、喉が締まるせいかなかなか治まらねえ。犬が吠えたような咳が続いて、頭痛まで起こす。
——…あっちい……。
咳が治まった頃には、オレは息を切らせて汗だくになっていた。暑さのあまり袖で顔の汗を拭うが、そこに冷えピタを貼っていたことを思い出す。もうすっかりぬるくなって端の方が捲りあがっていた。
「彰人…」
オレの名前を呟いた冬弥が、座り直してシーツに肘をつく。もう喋るのは諦めて、黙ったまま冬弥の手を握る。
なんて声を掛けるか迷っているのか、オレの指をふにふにと握りながら深刻そうな顔をしていた。「大丈夫か?」って聞いてこないのは、そう訊ねられたときのオレの返答をわかりきってるからだろう。
真っ直ぐ伸ばしていた両脚の膝を曲げると、紺色の夏用布団が膝に掛かってることに気がつく。寝に入る前に肩まで被っていたはずだが、寝ぼけてベッドから落としたり剥いだりでもしたんだろう。綺麗に畳まれたそれは、もしかしたら冬弥が掛けてくれたのかもしれない。
いまが何時か訊ねようとしたが、橙色の明かりの中にいる冬弥がよく見ると寝間着の恰好をしてることに気づく。自惚れではあるが、帰宅した冬弥が病人のオレの様子を見ずに家事をこなすっつーのは考え難い。帰るのは十八時つってたが、いまはもう真夜中に近い時間なのかもしれねえ。
「…朝からずっと寝ていたのか?」
ようやく口を開いた冬弥は、オレの前髪を整えながら問いた。聞き慣れた滑舌のいい声が心地いい。声が少し遠く聞こえるのは寝起きなせいだろう。
ベッドの下の床には、今朝冬弥が昼飯用に作り置きしてくれた手のひらの半分ぐらいの小さいおにぎりとスポーツ飲料のペットボトルがのったおぼんが置かれてる。それが手付かずで残ってるから不思議そうに聞いたんだろう。
「いや、昼に一回起きた。せっかく作ってくれたのに、手つけられなくて悪かった」
咳き込まないようにゆっくりと、声量を落として喋る。頷いたりするだけの返事を予想していたのか、冬弥は目を丸くさせる。
「それはいいんだ。気にしないでくれ」
前髪を梳かしていた冬弥の手がオレの額にのる。冷えピタ越しなのと、きっとオレの体温が高すぎるせいで冬弥のそれの感覚は普段よりも鈍いのが惜しく思う。前髪は汗で濡れ不快だろうに、「まだ熱があるな…」ってしょんぼりした顔で言った。
「お前だって、今朝まで鼻声だったろ。今はもう戻ってるな」
「そうだな、今朝だけだったみたいだ。ただ…俺が移したのに、彰人の方が症状が重いな」
「実は同じタイミングでバイ菌もらってたんじゃねえの?」
「そうなら良い——、…ああ、いや、良くはないな」
「……」
はは、と乾いた声で無理に笑う姿に胸が傷んだ。取り繕うのが上手くねえからこそ、余計にくるものがある。オレの前で無理に笑う必要なんてねえのに、こいつはオレのために笑顔をつくってる。
どうしたら冬弥を笑わせられるか——それを考える前に身体が動いてた。伸ばした手で頭を撫でて、頬にすべらせる。
「あ、きと…?」
オレの行動に両目を瞠る冬弥だったが、徐々に目元がやわらかくなっていった。グレーの瞳が揺らいで、淡い色になっていく。この過程を見るのが好きだ。
頬に添えられたオレの手に、冬弥は頬擦りをする。心から愛してる恋人と、薬指に嵌めてる指輪を並べるとき、オレは幸せっていうものを実感する。
「……すまない、彰人」
「うん? ——…っ、」
視界が暗がる。冬弥が使ってるシャンプーの匂いが仄かに香ってきて、唇に弾力を覚えた。
「とうや…」
顔を上げてオレを見返す冬弥は、左側の横髪を耳に掛けながら、照れたように笑っていた。薬指の輪っかが部屋の照明を反射する。
「これで、俺がもらってやれればいいんだが…」
「んなこと言うなよ。…けど、ありがとな」
無意識なんだろうが、自虐するような言い回しが気になって否定を入れる。それと、キスのお礼も。
同じ家に生活して、同じベッドを使って、外でもほぼ毎日一緒にいるんだから防ぎようがない。冬弥には悪いが、オレの方が症状が重くてよかった、と思ってる。たかが風邪でも、されど風邪だ。こんなもんを味合わせたくねえし、苦しむところも見たくねえ。
「彰人」
「うん?」
すっかり晴れた表情が、甘い声でオレを呼ぶ。もう数えきれないくらい聞いて耳馴染んだものだが、いくらでも聞いていたいと求める。好きなヤツに呼んでもらえるだけで、自分の名前が特別なもののように思えるからだ。
「元気になったら、またたくさんしよう。おそらく、そのせいで移してしまったんだが」
「…っ! お、まえなあ……」
キスの話かと思いきや、最後の言葉でぐるっと一変した。口元に笑みを浮かべて悪戯な顔をする冬弥に、オレは指で頬をつつく。
「あはは」と声を出してくつくつ笑う冬弥の姿にときめいた。オレとふたりきりの時だけ出るその笑い方の癖に気づいた日から、オレは恋におちていたから。