ミスタは特別でした。このやうな古臭い家で唯一人宝石のやうでした。
ミスタは僕を善人のような瞳で見つめます。綺羅綺羅とした輝きで僕を捉えます。
しかし、僕は善人ではありません。ミスタを騙しているのです。僕は酷く醜悪な人間なのです。お天道様も人の目も僕を責めているように感じます。
ミスタが唯一人気付いておらず、僕に笑いかけてくれるのです。
ミスタは外つ国の妾から産まれた畜生腹の子供だそうです。だからまだ5つにもならないうちから僕の世話係などをしていました。幼いものですから言語も覚束ず、言えたのは「ゴメンナサイ」のたった一言だけでした。
はじめの頃、ミスタはビクビクしていて、瞳も翳っていました。僕はこの陰気な家で、子供が居るのが嬉しくて、兄のような心持ちでした。
だから、世話係などは名ばかりで、部屋に招いては何でもないお喋りを繰り返しました。
そのうち、ミスタはみるみる明るくなって、今のやうな宝石になったのです。
呪いの家業を持つ家で、ミスタだけが輝いていて、陰の者は光を厭うものですから、この家にミスタはいつまで経っても馴染みませんでした。
しかし、ミスタはいじらしくも「あにさまが居ればだいじょうぶ」と照れ照れ云うのです。
私は、その頭を撫でながら、自らを罪深いと思うのです。
ミスタは内緒が好きな子供でした。
ミスタは内緒だよ、と言い含めると悪戯っぽい顔でコクコク頷きます。ふくふくした頬の中に秘密を隠して楽しそうにしています。それを見るのが楽しみで、二人で沢山の内緒を用意しました。
ミスタの好きな猪口令糖をあげるとき、部屋にこっそり招くとき、仕事のフリをしてお喋りするとき、ミスタの粗相の後始末をするとき。
すべてに「内緒だよ」と言い含めました。
ミスタは大切な弟です。愛しい弟です、慈しむべき弟です。愛する、弟です。
僕が初めてミスタを騙したのは、5年前です。お互いにまだまだ子供でした。ミスタがあんまりにも可愛いので、僕はよく唇を寄せていました。まろい頬へ、サラサラした額へ、絹のような髪へ、小さい爪へ、何度も唇を寄せて、ミスタはいつも擽ったそうに笑っていました。
僕はある日、ミスタの母親と僕の父親の逢引を見ました。種類の違う愛を知りました。酷く重く、とぐろを巻く蛇のようにうねうねと交わる二人を見てしまいました。僕はなにだかわからず、怖くなり、ミスタを部屋に呼びつけて、抱きしめました。ミスタの軽く甘いふわふわとした香りを胸に入れて、嫌な動悸を誤魔化しました。ミスタはおずおずといつも僕がするように頭を撫でてくれました。
僕はその時、ミスタへの気持ちが、あの大蛇たちの物と同じだと気付いたのです。
何度も、何度も念入りに言い含めました。僕はミスタを騙すことにしました。今の幸福を捨てたくないけれど、僕の愛も受け入れてほしかったのです。本当に醜悪な自己中心的な欲望に突き動かされ、純粋なミスタを汚すことを決めたのです。
「ミスタ」
「なあにあに様」
人の目を、お天道様を、全てを避けるように押し入れへと手招きします。ミスタは暗闇が嫌いでしたが、僕が頼むと恐る恐る入ってくれました。
「ミスタ、いい?これからすることはとっておきの内緒だよ」
「とっておき?」
「そう、とっておき」
押し入れは湿っぽくて、空気も悪い、なのにミスタだけが縁取られたやうにキラキラして見えました。
「これはね、一等大事で特別な人だけにするんだよ。他の人に言っちゃだめで、二人だけの内緒にするんだ」
そう言って、肋骨が軋むほどの動悸を隠して、ミスタの唇に、唇を寄せました。ミスタもなにか何時もと違うことがわかっているのか、耳まで真っ赤に染めて胸を抑えていました。
「あにさま、これ、すごくどきどきする」
「そうだね、一等特別な内緒だからね」
手のひら、手の甲と交互に頬に押し当ててどうにか熱を逃がそうとするミスタはそれはそれは愛らしいものでした。そして、ちろりちろりとこちらを見ると真っ赤な顔で同じことをしてくれました。幸福で、幸福で、死んでしまいそうでした。
□□□
いつからか、とっておきの"内緒"をするとき、ミスタは僕のことを名前で呼ぶようになりました。
ミスタは漢字がわからないので、ただの音として、名前を転がされるのは不思議な感覚でした。しかし、ミスタの名前と似ている気がして、咎めはしませんでした。
「シュウ、」
「ミスタ」
広かった押し入れも、成長するに連れて狭くなり、体を折り重なるようにして二人でキシキシ入るようになりました。
何度も、何度も唇を合わせました。涎が唇を濡らして、どんどんと境が分からなくなります。ミスタを僕が食べてしまっているようでしたし、ミスタが僕を食べているようでもありました。
何度も何度も繰り返すと、押し入れのなかの空気がどんどんと熱っぽくなります。その熱に浮かされたミスタが僕の上でくったりと力を抜くのです。
額に浮いた汗が、首筋の汗が、きらきら光って見えて僕はまた罪を重ねました。
ちろりと舌を伸ばして、朝露のようなそれを舐め取るとしょっぱく、それなのに甘く感じました。甘露の
〜中略〜
ミスタが両手の歳を越えた頃のことでした。
綺羅綺羅と光る宝石は、隠さなくてはいけませんでした。特に、この陰気な家ではミスタは大層目立ったことでしょう。僕はミスタを騙すことに必死で、周りが見えていなかったのです。本当に愚かなことに、事件が起きるまで、まったく予想もしておりませんでした。
ミスタは、下男に汚されました。汚らしい物を見せられて、穢らわしい好意を押し付けられたのです。
あまりのことに、ミスタは喉をひくひくさせるだけで、叫ぶこともできませんでした。
出来ることならば、あと十分、早く気が付けば、ミスタがそれを知ることはなかったでしょうに。
僕が扉を開けたときには、もう、ミスタはそれを目にしていました。
「見ちゃだめだ!ミスタ!見ちゃいけない!見ちゃいけないんだ!」
僕は、絶叫しながらミスタの頭を、必死に抱え込み、目も耳もすべてを覆って、すべてを無かったことにしようとしたのです。しかし、ミスタはビクビクと跳ねて、嫌がるのです。ああ、手遅れでした。そう、手遅れだったのです。ミスタは僕の蛇を知ってしまいました。とっておきの内緒が、下男と同じただの汚らしい欲望だと日の下で晒されてしまったのです。
下男は、僕が現れた瞬間、慌てて去っていきました。しかし、そんなことはどうでも良かったのです。ただ、ミスタに嫌われたくありませんでした。
騙していた大罪人だというのに、未だに縋るようにあよあよと動いているミスタを強く、強く抱きしめて、ただ、それだけを思っていました。
「違うんだ、違う」
何が違うのだと頭の中の呪が言います。
「ミスタ、ミスタ、僕は君が一等大事なんだ、それだけはそれだけは本当なんだ」
言い訳がましいと頭の中で呪が言います。
僕は、ぼくは、ミスタにどうして欲しいのでしょう、自分でもよくわかりませんでした。もう、何を言えばいいのかもわからず、ただ、ミスタを抱きしめていました。離せば最後、二度と手には戻らないような気がしたのです。強く、強く、強く、抱き締めていました。
「あにさま」
きりりん、と風鈴のような音が胸元から聞こえました。ミスタです。呪の心臓は寺の鐘のように重く響きました。背中に汗がつたいます。いま、呪は正に地獄の裁判にかけられたような気持ちでした。はくり、はくりと口からは何も音が出ません。駄々を捏ねる様に頭を振って、どうか、どうかよしてくれ、何も言わないで、ずっとこのままでいてくれと願いました。
「あにさま」
腕に力を入れて、ミスタをキリキリ締め付けます。もういっそ、このまま心中でもしてしまおうか。
無理矢理に添い遂げれば嫌われてしまうでしょうが、もう嫌われているのならば、大差はありません。
「、シュウ」
思わず、腕を緩めて、ミスタの顔を見上げました。
とっておきの内緒、押し入れの中でだけの、特別な呼び方。それが何を意味するかはわかりませんでしたが、シュウは、不思議と凪いた気分でした。
ミスタは、その朝焼けの瞳を、宝石の瞳をただ真っ直ぐシュウへと向けていました。
〜ミスタ視点〜
ミスタはいつも通りあにさまがお仕事をしている間たくさんの雑務を熟していました。ミスタはあにさまのまえでは綺羅綺羅と無邪気に笑いますが、あにさまが居ないときは冬のように冷たく淡々と過ごしていました。ひそひそそよそよ聞こえる陰口、詰まった空気、それらから解放されるのは春の訪れのような微笑みでミスタを呼んでくれるあにさまの前だけでした。そして、一等格別なのは、
「ふふ、くふん」
思い出すだけで、胸が暖かく、擽ったくなります。
あにさまが緊張した顔で言い出した一等特別な内緒。二人だけの秘密。あにさまの手づから与えられる猪口令糖よりも、甘くて、甘くて、とても幸せな行為。普段なら怖くて仕方がない押し入れの暗闇も、あの時ばかりは極楽への一本道に思えるのです。キシキシと重なって、体温を滲ませながら二人で過ごすあの時間。
ミスタの極楽は押入れの中でした。
「やぁやあミスタ、おまえがあの男以外の前で笑うなんぞ珍しいじゃないか、何かあったのか、おんらに聞かせとくれ」
下卑た声です。あにさまのご兄弟付きの下男でした。この男はいつもミスタに話しかけてきます。しきりに話しかけてくるくせして、主人の男や大奥様、旦那様の前ではぴゅいっと逃げて、おんなじようにサワサワ陰口を叩くのです。そのへらへらした軽薄な態度がミスタにはなんとも醜く思えました。
目の前でべらべら話す男を見ていると、あにさまが恋しくなります。早く帰ってこないかしらと何遍も何遍も思います。
「まただんまりか、可愛げのないやつ、そんな様子だから皆に嫌われるのだぞ」
「左様ですか、では失礼致します」
ミスタは下男の言うことにまるで興味がありませんでした。ミスタはあにさまさえ居てくれたらそれで良いのです。あにさまはミスタが上手く話せないときからずぅっと優しくしてくれました。頭を撫でて、ミスタの面倒を見てくれました。ミスタの世界はあにさまが居て初めて回りだすのです。
そこに下男も、本家の方々も、だれも必要ないのです。
ミスタが会釈をして立ち去ろうとすると、腕を強く掴まれました。遠慮のない掴み方に痛みが走って、思わず眉間にしわを寄せました。下男はそれを見てにたにたと気持ち悪い笑みを浮かべます。
あにさまはこんなことしないのに。それを思い出せば思い出すほど鳥肌が立ちました。下男に掴まれた腕が汚れていくように感じたからです。振り払おうとするものの、ミスタと下男はみっつほど歳が離れております。この三年の差は残酷で、全くといっていいほど歯が立ちませんでした。
「まあまて、話しをしようじゃないか、ほら、こっちだ」
下男は嫌がるミスタを無理矢理に引っ張って、奥の物置部屋に引きずり込みました。
物置部屋は薄暗く、埃くさい所で、ミスタはこの部屋が1等苦手でした。息苦しく、うまく動けなくなります。後ろ手に障子戸を閉じた時。下男の瞳は獣のように爛々と、嫌に光っていました。
「なあ、ミスタや、なんでそうも俺を邪険にするのだ。優しくしてやったろうに、おまえの主人はこの家では然程役に立ってなど居ない。おれの主人のが上だ。媚を売る相手は選んだほうがかしこいぞ」
蛇がまとわりつくように、立ち尽くすミスタに下男が語りかけます。
あにさまを馬鹿にするやつの話など聞きたくありません。ミスタは下男を強く強く睨みます。
「なあ、みすた、おれは一等お前のことを」
『ねえ、ミスタ。僕は一等ミスタのことを』
「『好いている』のだぞ」
ミスタは、目を見開きました。背中に怖気が走りました。汚らわしい、汚らわしい、なんて汚いのだろうと息を呑みました。
あにさまの言葉が上書きされるように、なんども何度も下男は繰り返し言います。爛々とした瞳で、じっとりと、湿度を持った瞳で、ミスタを見つめて、ミスタの肩を強く強く握って、何度も何度も繰り返します。
「なあみすた、わかってくれ、おれはお前を好いているんだ」
『ねえミスタ、僕はね、君のことが一等大切なんだよ』
「お前になあ、この家での居場所をやろうと言うのだ」
『ミスタ、君は僕の世話係なんだから、いつでも来ていいからね。怖い夢を見たとき、なにか失敗したとき、楽しいときも、嬉しいときも、もちろんなにもない時も。いつだっておいで』
「それに、本家の奴らはみんな呪いだのなんだの汚らわしいだろう、俺たちは普通の人間で、仲間だろう?」
『嗚呼、僕にも言祝ぎができたら良かったのになぁ。そうすれば何度でもミスタを祝福してあげられたのに』
あにさまの言葉が、泥に上塗りされていきます。下男の発する言葉があんまりにも気持ち悪くて、ミスタはただ、息をするだけで精一杯でした。背中にじっとりと汗をかいて、固まっているしか出来ませんでした。下男の顔が段々と近づいてきます。
ミスタは、ただ、肩に力を込めてギュッと耐えていました。
ぱしん、と障子戸が開いて、光が差し込みました。
「ミスタッッッ!!!」
あにさまの声でした。
くん、と襟が掴まれて、引き寄せられました。下男の手は呆気なく剥がれて、呆然としています。ミスタに見えたのはそこまでで、あにさまの細い指がミスタの目を覆いました。ぎぅ、と抱きしめられて、あの、極楽の匂いがしました。あにさまの体温が、ミスタに伝わります。ミスタは、あの押し入れの中みたいに、あにさまに腕を回したくて、ひっくり返ろうとしましたがびくともしませんでした。